2017年4月11日 (火)

つぶやき

先日、シアターコクーンで「フェードル」を見てきました。
ずいぶん前に、原作の日本語訳を読んだことがあるのですが、すっかり内容を忘れていました。
なかなか面白かったです。
せりふ劇なので、視覚的な面白さは、あまりありませんでしたが・・・。
後学のためにプログラムを購入してみたのですが、ほとんどのページが出演者インタビューでした。
あとは定番の稽古場写真とか。
「ラシーヌについて」「フェードルの上演史」「フランスの演劇状況」などのページはなかった。
(書ける人が存在しないのかもしれない)

あー、仕事が忙しい。
今年も奴隷のように働くのかねえ。

国立劇場の職員が、採用されて2~3年経つと、新国立劇場にかなり出向しちゃうんですよね。常に10人くらい出向している。つまり新国立劇場は、新人採用のコスト、新人教育のコスト、退職金のコストをそのぶん国立劇場に押し付けているわけなんです。(退職金は積み立て式ではないので)
新国立劇場も開場して20年経つのですし、そろそろ自立したらどうなのでしょう?
日本の伝統芸能は消滅の危機に立っているというのに、関係者に危機感がなくて・・・。

じゃがいもが不作だそうで、セブンイレブンの「肉じゃが」が消滅してしまった。私の晩御飯の三分の一をしめるセブンイレブンの「肉じゃが」が・・・。

グルベローヴァが今秋また来日してルチアを歌うそうですね。
もう来日しないと宣言したのは何だったのだろう・・・。嬉しいけど・・・。

先日、森麻季さんのリサイタルに行ったら、予定されていた《夢遊病の女》のアリアが演奏されなかった・・・。しくしく。
アンコールで歌った「ムゼッタのワルツ」が素晴らしかった。
日本人オペラ歌手でソロ・リサイタルをコンスタントに開催できるのは、森麻季さん、村上敏明さん、錦織健さんくらいでしょうか。

日本の政治・行政の腐敗がひどすぎる。

花見の季節だからか外国人観光客が多く、電車の中の半分くらいが外国人だったりする。
世界はどんどん変わっていく。

国立劇場はちゃんと建て替わるのだろうか?
もう配管が駄目なんだそうです。
建物は配管が駄目になっちゃうそうなんですよ。
パリ・オペラ座とか、どうしているのだろう?

大阪市は文楽への助成をやめて、そのぶんのお金を何に使っているのだろう。
ストリップやサーカスに助成しているのだろうか。
社会的に話題になって、あとのフォロー記事は出ないのだろうか。
私が知らないだけだろうか。
大阪市の文化助成が話題になったら、では国の文化助成はどうなっているのだろう・・・などという発展とか、取材はないのだろうか。
日本のジャーナリズムは、どうなっているのだろう。
もっと「文楽を守ろう」という気運が高まるかと思ったのですが・・・。
国立劇場もそのうち意外と呆気なく消えてしまうのかもしれない。

2017年3月29日 (水)

『うしろ面』

3月25日(土)に、国立劇場主催の舞踊公演を見てきました。
国立劇場の小劇場は、本当に音響が良くて、邦楽の演奏に最適。うっとり。
でもホリゾント幕にシワが寄っていて、たまに風でヒラヒラ動くのが最悪・・・。

私は、尾上墨雪〔おのえ・ぼくせつ〕さんの古典が好きなので、墨雪さん目当てに行ったのですが、公演全体としても素晴らしい内容でした。特に藤間勘左〔ふじま・かんざ〕さんの『斧琴草〔よきことぐさ〕』に目を見張りました。こんなに素晴らしい人がまだいらっしゃるものなのですね・・・。
それから、市山七十世〔いちやま・なそよ〕さんの『うしろ面』が非常に面白い作品でした。頭の後ろに狐の面を付けていて、前が尼さん、後ろが狐、2つの役を1人で踊り分けるのです。後ろ側の狐をどのように踊るのか、興味津々。
宝暦12年(1762)に二代目瀬川菊之丞が初演した作品ですが、歌舞伎では伝承されず、新潟の市山流にだけ残ったという珍しい作品だそうです。
腕があり得ない角度に曲がるような、曲芸的な踊りかと想像していたのですが、実際に拝見しますと、もっと体全体を使って「後ろ側を前であるかのように見せる」踊りとなっていました。
なぜ狐と尼僧〔にそう〕を1人で踊り分けるのか?
「狂言の『釣狐〔つりぎつね〕』から想を得ているので」と説明されることが多いようです。
それは「作品成立の経緯」ですね。
技術的なことを言えば、前を踊っている時には後ろの面を隠しておかなければならないので、頭巾を被った尼さんが「設定としてちょうど良かった」ということがあるでしょう。
しかし歌詞の内容から言うと、この女狐は、畜生ながらも「成仏したい」=「苦しみから逃れて楽になりたい」と思っているのです。その願望が「尼僧」という姿になるわけです。
では、女狐は何に苦しんでいるのかと言えば、それはもちろん「恋」です。
この場面に至るストーリーは何も説明されていないのですが、歌詞を読めば分かると思います。女狐が人間に恋をして、人間の女に化けて付き合っていたのだけれど、正体がバレて故郷へ帰る道中を踊りにしたのだと思います。

長唄『うしろ面』
一念他生無量業 仏の誓い有り難や あさましや 我ながら たまたま娑婆に生まれ来て 人を偽ることをのみ 憂き業とする畜生の いつか流転を逃るべき なまうだ なまうだ 南無阿弥陀 打つや鉦鼓の殊勝さよ 聞いて仏になりたかろ 似たかのう 水鏡 映る姿も恥ずかしや
我は化けたと面影を それぞと悟る犬の声 ぞっと身に染む鳴子風 寒き夜嵐 身にしみじみと 野寺の鐘に憎や枕を驚かす いやいやの 悪戯や 里の童が石投子を 手々に擲つ強者 辛気辛苦の苦がござる
ここは待乳のな 山中なれば筆にゃ事欠く 硯墨ゃ持たず もしも忘れずなァ お尋ねあらば 森の木陰にこの身を寄せて やがて逢おうと言うてたもれさ 姿恥ずかし 懐かしや
花の縁の 仮の間にあおぞ 畦道 細道廻れ 廻れ くるくる 鳥の羽音に鳴子の縄にひらり くるりと腰をしなえて 踊り舞うて去のうよ 我が故郷へ帰らん
谷峰しどろに くるりくるり 姿見紛う草隠れ

『葛の葉』だったなら、正体がバレた時に自分の居場所を筆で書き残してくるところだけれど、今の私には筆さえもない・・・、けれどいつか私を尋ねて来てね!という、諦めの悪い女狐なのですね。ここで、後ろ向きで墨を擦って、筆で文字を書く振りが付いています。
そして、背中側で合掌するのがクライマックス。背中側で合掌。私は深く感動した。
大変洒落た作品なので、もっと頻繁に上演されればいいと思うんですけれどもね・・・。
(小さめの劇場向き)

2017年3月18日 (土)

新国立劇場《ルチア》

◆ネタバレあり◆
新国立劇場の《ルチア》を見てきました。(公演2日目)
初日に友人から「すごかった」というメールをもらっていたんです。
友人からプルミエの感想メールが届くなんて、なかなかオツなものではありませんか。
それが、歌唱がすごかったのではなく、演出がすごかったって言うんですね。
だから事前に評判や感想を読んだりしないほうがいいって。
すごい演出って、どういうことだろう?
「美しい」ということだろうか?
「奇抜で意外性がある」ということだろうか?
「お金がかかっている」ということだろうか?
これまでに私がオペラの演出で「すごい」と思ったのなんて、フランコ・ゼッフィレッリ演出の舞台くらいじゃないだろうか?ゼッフィレッリの舞台は本当にすごいと思いましたよ。心の底から熱狂しました。
あとは、少し落ちますが、ロンドンで見た《ラ・チェネレントラ》に感心したことがあるなあ。身分の高低と、それを途中で入れ替えたりする人物描写が秀逸で、さすが演劇の国だと思いました。
それから、パリで見た《ルチア》は、演劇的なんだけど抽象的な感じで、こんなやり方があるのか・・・と新鮮でした。
新国の「トーキョー・リング」は、大掛かりですごいと思いましたけど・・・。
そう新国の《リゴレット》と《ナブッコ》は、舞台装置にすごいお金をかけていて、しかしそれが全く効果的でなく、お金をかければ良いものができるというものでもないのだなあという当たり前のことを再認識しました。それも「すごい」といえば「すごい」演出だったかもしれません。

さて今回の《ルチア》。幕が開くと、波が打ち寄せる岸壁。この波の表現が「すごい」のだろうか。それとも空の雲の映像が「すごい」のだろうか?
わりと普通っぽく進行していき、私としては特別に「すごい」と思うようなことが起こらぬまま、狂乱の場へ突入。
登場したルチアが槍みたいなのを手に持っており、その先にアルトゥーロ(本作中、最も気の毒な、殺された花婿)の生首が刺さっている。
ゼッフィレッリ演出の《トゥーランドット》でも、竿の先に生首が刺さっているのが出てきますね。西洋風のさらし首でしょうか?でも人の首を切るのはずいぶん力がいると思うけれど、ルチアにできるのかなあ?
このさらし首が例の「すごい演出」なのか?まあ確かに刺激的ではあります。(アルトゥーロを歌った歌手の顔に似せて作ってあったようです・・・)
舞台を刺激的にするために、脱いだり、血みどろにしたりするのが、西洋人は本当に好きですよね。
と思っていたところが!
婚礼を祝っていた広間の後ろの壁が上にひらけて、その奥から第1幕の「泉」の舞台装置が押し出されてきたのです。
こっ、これは!!!!!
ひょっとすると、狂ったルチアが見ている幻を全て舞台上に視覚化してみせようという新演出か!?
これかっ、これが「すごい演出」なのか!!
すると、あの泉の中から血まみれ女の幽霊が貞子のように這い出してくるのか?
薔薇の花が振り撒かれるのか?
今回の公演で話題になっている「グラス・ハーモニカ」は、雲形のゴンドラに乗って登場してルチアの頭上で演奏されるのか?
松明の炎が舞台上で火柱をあげてルチアの周囲で輪を描くのか?
司祭が出てくるのか?
エドガルドも出てくるのか?
エドガルドの最後のアリア「我が先祖の墓よ」の場面に死んだルチアが登場する演出はこれまでにも見たことがあるけれど、ルチアの狂乱の場にエドガルドが出てくるのはまだ見たことがない。
一体どんなふうに絡むのだろうか?
2人の演技はどうなるのだろうか?
と一瞬で妄想を膨らませたのですが、
それは実行されなかった・・・。
いつになったら「すごい演出」が出てくるのだろう?
ついに最後の場面になってしまった。
崖。
そして崖の向こうは海。
あの波が最後に津波となって、こちら側に押し寄せてくるとか・・・?
おや?アリアを歌うエドガルドの足元に、四角く切り穴が開いている。
あの穴から、ルチアの幽霊が出てくるのだろうか?
むかし、勘三郎さんが「四の切」の狐忠信を演じた時、スッポンが下がっていて、下がっていたらあそこから出てくるって分かっちゃうじゃん、分かっちゃったら面白くないじゃん、と思ったら、予想外にまるで弾丸ロケットのようにスッポーン!と狐忠信が宙に飛び出して来たことがあって、最高に興奮した。
一体ルチアは、あの切り穴からどのように登場するのだろうか?
きっと背中から羽根が生えていて、宙乗りで天上へ向かって飛んで行って、それをエドガルドが宙乗りで追いかけていくに違いない。
・・・と思ったら、実際はその穴はルチアの死体を埋めるための墓穴であった。
なぜルチアの墓穴が事前に掘ってあるのか!?
まるで死ぬのが分かっていたようではありませんか??
エドガルドは、ルチアの遺体を抱きあげたままアリアを歌い続け、すごく元気そうで、全然死なない感じだけど、どうするんだろう・・・と思ったら、アリアを歌い終わったエドガルドが舞台奥の崖っぷちのほうに向かって走っていく。
こっ、これは!!!!!
まさかルチアの遺体を抱いたまま海へ飛び込むのか?!
サンタンジェロ城の屋上からトスカが身を翻すみたいに海へジャンプか?!
これが例の「すごい演出」なのか?!
1階席ではなく4階席を選ぶべきだったか?!
と思ったら、崖っぷちで立ち止まったままで幕が下りてしまった・・・。
?????

歌手はエンリーコを歌ったアルトゥール・ルチンスキーが良かったですね。(でも名前は覚えられなさそう)

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