1 歌舞伎あれこれ

2018年9月28日 (金)

【再掲】助六の紫

10月に歌舞伎座で「助六」が上演されますので、むかし書いた関連記事を再掲しておきます。
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紫色を、「ゆかり」「ゆかりの色」と表現することがあります。『助六由縁江戸桜』という外題〔げだい=タイトル〕にも入っていますね。なぜ紫のことを「ゆかり」と言うのか、その原因となったのが、次の和歌です。

■紫のひともとゆえに武蔵野の草はみながらあはれとぞ見る(詠み人しらず)

紫を「ゆかり」と言うのは、この歌のためであるとされています。しかし、歌の中に「ゆかり」という言葉は含まれていませんし、何が「ゆかり」なのか、いろいろ調べてみたのですが、分かりやすく説明してくれる文章は存在しないんじゃないかと思うんです。存在しないものは自分で作るしかない!ということで、僭越ながら私が分かりやすく解説させていただきます。

この歌は『古今和歌集』に収録されているのですが、その当時の武蔵野(現在の東京あたり)はたいへん辺鄙〔へんぴ〕な田舎でした。和歌を詠むのは京〔みやこ〕に住む上流階級の人々であって、田舎の人はふつう和歌なんて詠まないんです。この歌の作者も、もともとは京に住む人だったのだろうと思います。ところが、京に住む上流階級の人々には「除目〔じもく〕」と言われる人事異動があって、急に地方の役職に任命されることがあったんですね。地方に赴任することは、必ずしも左遷とは限らなくて、地方のほうが財源が潤っていたりして、田舎で財力をたくわえて京に戻ってくるというようなケースもありましたが、武蔵野がそのような土地であったかは知りません。ともかく信じられないくらいの田舎で、今で言えば海外赴任で開発途上国に行くような、心細い感覚であったろうと思います。赴任した男だか、随行した女だか分かりませんが、この歌の作者がいざ武蔵野にたどりついてみますと、気候も違うし、だだっ広い武蔵野の野原には、見たこともない・名前も知らない草がたくさん生えている。仕事とは言いながら、何だって私はこのような場所に来ることになってしまったのだろう…なんて、自分の身をつくづくはかないもののように思っておりますと、野原の中に1本(1種類)、知っている草が生えているのです。その草は「紫草〔むらさき〕」と言って、歌の作者は見たことのない草だったのですが、存在は知っていたのです。この草の根は「紫根〔しこん〕」という、紫の染料でして、まだ京にいたころ、紫根で紫に染めた布は身近に使っていたからです。紫草の花って、紫色ではなくて、白い花なんですね。根っこは紫の染料なのだけれど、なぜか花は白、どんな花なのか見てみたい…、でも誰も見たことがないんです。京には生えていない、武蔵野の草だからです。その、誰も見たことのない花をいま自分が見ていると思うと、こんなに辺鄙な田舎の風景であっても、ちょっと素敵に感じられました。そういう内容の歌だと思います。武蔵野に住むようになった作者にとって、紫だけが京との接点だった、接点すなわち「ゆかり」ということです。

この歌は、武蔵野に住んでいる人に向けて詠んだ歌ではないでしょう。いつも紫草を見ている人には、この歌の意味は分からないのです。この歌は、京に住む知り合いに向けて詠んだ歌、「よりによって武蔵野に赴任だなんて、あの人いまごろどうしてるのかしら?」なんて思っているだろう知人に送った歌だと思います。

「あはれとぞ見る」の「あはれ」は、「しみじみと趣き深い」などと現代語訳されます。プラスの評価の言葉なのだけれど、どこか淋しい、陰りのある言葉です。切ない美しさとでも言うのでしょうか。しかし、2代目團十郎が助六を演じていたころ、江戸はもう、そのような場所ではなくなった。政治の中心地となり、活気に満ちていた。道を整備したり、橋を架けたり、家を建てたり、新しい仕事がいっぱいあった。よし、江戸に出て新しい生活を始めるぜ!という人々が集まって、とてもエキサイティングな、憧れの場所となった。

その土地にしか生えない植物で染めた色なら、その色はその土地の色、イメージカラーであり、やがて「江戸紫」と呼ばれるようになった紫根染めの紫は、江戸を象徴する色となった。

「紫のひともとゆえに」の歌は、『古今和歌集』に収録された千首あまりの歌の中でも、取り分けよく知られた歌でした。『源氏物語』の主要人物である、紫の上の名前の由来となった和歌だからです。知識人は全員この歌を知っていて、武蔵野と言えば紫、紫くらいしか思い浮かばない場所、という強いイメージを持っていた。その紫も、時代とともに意味を変えていく。紫はもう淋しい色ではなく、活気のある江戸を象徴する格好いい色となった。今日も助六は、江戸の色の鉢巻をして、花道へおどり出て行くのだった。

2018年9月24日 (月)

花かつみ

私の家の家紋は「蔦〔つた〕」の紋です。子供の頃、家で仏壇を購入したのですが、その正面上部に家紋を入れるようになっていて、その時に家紋が蔦であることを私も教えられたのでした。しかし、ひと口に蔦紋と言いましても何十種類も存在し、それぞれ細かな違いがあり、正確な名称は覚えておりません。私が家の家紋を見るのは、この仏壇と、父方の墓石に刻まれたものを見る時くらいで、今日まで他に使う機会がなかったのです。私が着物を着ないせいかもしれません。いいえ、それ以上に、この「よく分からない蔦紋」を「使いたい」と思わなかった。我が家の紋がもしも「三升」であったらなら、私はその紋を事あるごとに使ったことでしょう。歌舞伎を見ていて、やはり三升は特別に格好いい紋だと思うのです。簡潔でありながら他と見間違えぬ唯一絶対の存在であるという点が格好いい。さすが老舗という感じがいたします。やはりそういうものは「早い者勝ち」と思う。

もちろん、複雑な造形であっても、菊の御紋や葵の御紋には威厳がございます。

一概には言えませんが、家紋は植物を素材としたものが多いように思います。

動物には「動物園」というものが存在しますから、珍しい動物であってもわりと実際に見たことがあるものです。昔の日本人だったら見られなかった象、虎、ライオンなど、私でも見たことがあります。
しかし、これが植物ということになりますと、この年齢になっても、まだ見たことがないものがあるのです。たとえば、猿之助さんの家紋は「澤瀉〔おもだか〕」ですが、私は澤瀉を1度も見たことがありません。(澤瀉屋の「瀉」の「つくり」は正式には「ワかんむり」)

その辺に生えているのに、名前も知らぬまま通り過ぎてしまう植物がたくさんあるものです。
また、動物であれば、「龍は架空の生き物」というように、想像上の動物と、現実に存在する動物との区別を私たちは知っていますけれども、こと植物になると、どこまでが現実でどこからが想像なのか、はっきりと知らなかったりします。
全体像を把握していない、誰にも掴みきれないほど広く豊かな世界が植物にはあると思うのです。きのこ1つ取っても、信じられないような不思議な色かたちをしたものがございます。

そうしてある日突然、こんな花が存在したのか、と驚いたり、この花は存在しなかったのか、と驚いたりするのです。

玉三郎さんの定紋が「花勝見〔はなかつみ〕」であることはずっと前から知っていたのですが、この花勝見という植物がどのようなものなのか、ずっと知らないままでした。知らないことはすぐに調べれば良いものを、ぼんやりした私は愚かにもそのままにして過ごしてきてしまったのです。
ところが、松尾芭蕉の『おくのほそ道』に「かつみ」の話が出てきて、私は初めてこれが「かつて存在し、今は誰にも分からなくなった幻の花」の名前であることを知ったのでした。

郡山〔こおりやま〕を過ぎて檜皮〔ひわだ〕の宿(現在・郡山市日和田〔ひわだ〕町)を出はずれたところに、歌枕の安積山〔あさかやま〕があります。「安積山かげさへ見ゆる山の井の浅き心をわが思はなくに」という歌が万葉集にあり、歌にまつわるエピソードも収録されています。この歌、風流の尊さ、風雅の力を象徴する歌として有名なのです。
葛城王〔かつらぎのおおきみ〕が陸奥に派遣された時、国司の対応が無礼だったので王が機嫌をそこね、せっかくの宴席がしらけてしまった。その時、かつて采女〔うねめ〕だった風流を解する娘子〔むすめご〕がこの歌を口ずさんだところ、王の心がほぐれて機嫌がなおった。そんなエピソードです。歌の力、風流の力が、かたくなになった人の心を和らげる。安積山は風流を尊んだ人たちゆかりの歌枕なのです。
さらに芭蕉は、近くの沼に「かつみ」と呼ばれる草がないかと人にたずねて歩きます。これも古今集に「・・・あさかの沼の花かつみ・・・」という歌があり、風流人として知られた平安朝の歌人・藤原実方〔さねかた〕のエピソードがあるのです。端午の節句が近づき、実方は都の風習にしたがって軒端〔のきば〕に菖蒲〔しょうぶ〕を葺〔ふ〕かせようとしたのですが、当時、土地の人たちの間にその風習はなく、菖蒲もなかった。そこで、「あさか沼」の「かつみ」を代用に葺けと命じたという話です。芭蕉は実方の故事を思って、「かつみ、かつみ」と日が暮れるまでたずね歩きます。
「かつみ」は、実方の時代は真菰〔まこも〕のことだったらしいのですが、時代が下った芭蕉のころは、その正体が分からなくなっていたらしい。正体の分からない草「かつみ」をたずねまわって一日過ごしたわけです。土地の人はもちろん知りません。当然見つかるわけもないのですが、端午の節句が近い五月はじめの一日を、「かつみ」にこだわり、「かつみ」を追い求めて過ごす、芭蕉はそんな風流に身をまかせる自分を演じているのです。
『芭蕉の言葉』佐佐木幸綱:著より


芭蕉の『おくのほそ道』はたいへん素晴らしい書物であると思いますが、原文だけを何度読み返してみても、現代人にはその素晴らしさが理解できないのではないかと感じます。
その素晴らしさを解説してくれる素晴らしい本として、
『おくのほそ道行』森本哲郎:著、笹川弘三:写真、平凡社:刊
『芭蕉の言葉』佐佐木幸綱:著、稲越功一:写真、淡交社:刊
この2冊をお勧めいたします。写真も美しい。
昔は欲しい古本を入手するのも大変でしたが、今は「Amazon」や「日本の古本屋」などで簡単に手に入る時代となりました。ぜひお手元に。

「かつて存在し、今は誰にも分からなくなった幻の花」という「花かつみ」が、玉三郎さんにとても合っていると私は思ったのです。知る前は、よく分からなかったのですけれども。

2018年9月13日 (木)

実方の続き

先日このブログで、藤中将実方の逸話を記しました。その逸話を知った時、私はたいへん衝撃を受け、気の毒な人だと思ったのですが、実際はそれほど気の毒な人ではありませんでした。百人一首に採られた「かくとだにえやはいぶきのさしも草さしも知らじな燃ゆる思ひを」の作者が実方なのだそうです。百人一首に入ったら、それだけでもずいぶんな果報者と言えるでしょう。私もこの和歌は昔から知っていましたが、作者の人生なんて気にしたこともなくて、「熊谷陣屋」と結びつかなかったんですね。

そして実方は舞の名手でもあり、上賀茂神社の臨時祭で舞人に選ばれ、御手洗川に映った自分の美貌にしばし見とれた、という伝説も残っています。美形でモテモテだったんだそうですよ。自分の美貌に見とれるなんていう経験を私もしてみたいものだなあ。

そして、実方の死後だいぶ経ってから、西行が弔いの歌を詠んでいます。
「朽ちもせぬその名ばかりをとどめおきて枯れ野の薄〔すすき〕かたみにぞ見る」
・・・あの西行に歌を詠んでもらったら、実方だって成仏するのじゃなかろうか?

実方は、死んだあと雀になって都へ帰ったと言われていますが、この雀は藤原氏の寄宿舎であった勧学院で息絶え、そこに塚が築かれたそうです。この塚は「雀塚」として、勧学院の後身である更雀寺〔きょうじゃくじ〕に今も残されているそうな。(京都市左京区)

そして実方の墓は宮城県名取市に現存しています。松尾芭蕉がこの墓に行こうとしてたどり着けず、句を残しました。
「笠島〔かさしま〕はいづこ五月〔さつき〕のぬかり道〔みち〕」

そして『実方』という能も存在し、長く上演されていなかったのですが、平成5年に復曲されました。ワキは西行で、シテの実方が賀茂の祭りの舞を再現する、という内容。『阿古屋松〔あこやのまつ〕』という能もあり、こちらも先年、およそ580年ぶりに復曲されたのですが、陸奥の歌枕を探し回る実方が塩釜明神の助けにより最後の1つ「阿古屋の松」の場所を知るという内容です。

こんなに手厚く弔われているのですから、羨ましいくらいです。

2018年9月 9日 (日)

実方の一念

歌舞伎と言いますと、松竹や国立劇場の興行のほかに、村のお祭りで村人が年に1回演じたりする「地歌舞伎〔じかぶき〕」や、大学生が部活動として演じる「学生歌舞伎」などがあります。
25年ほど前でしょうか、大学生の頃に私は『熊谷陣屋』の熊谷次郎直実を演じたことがあります。歌舞伎を見始めて2年も経っていないのに、大胆なことでした。
意味の分かっていないセリフを自分が口に出すことに抵抗があったので、戯曲についてはいろいろ調べました。しかし、大したことは分からなかった。

能の謡であれば、詞章の意味を細かく注に記した解説書が出ており、全ての現行曲を網羅していると思うのですが、浄瑠璃の場合は、『一谷軍記』のような代表作とも言える名作でさえ、全編の解説が出ていない。丸本の翻刻は出ていますが、脚注も現代語訳も記されていないと思うのです。これまで国語の分野において、近代という時代区分は研究が手薄だったのではないでしょうか。誠に残念なことです。

相模のセリフに「香の煙に姿を現し、実方は死して再び都へ帰りしも、一念の為すところ」というのがありますけれども、「実方〔さねかた〕」というのが私にとって長らく謎の人物でした。(今でしたらインターネットで検索すれば良いのですが)
それが一昨年、『おくのほそ道』を経由して、実方の人物像が私の眼前に立ち現れたのです。20年以上も謎の人物だった実方、死んだのちに都へ帰ったという摩訶不思議な伝説を持つ魅惑の男が突然、正体を現した。その時の興奮をお分かりいただけますでしょうか。
松尾芭蕉の『おくのほそ道』には、「実方の墓に行こうとして行けなかった」という件りがあるのです。
そして森本哲郎:著『おくのほそ道行』には、このような記述がありました。

桜狩〔さくらがり〕雨は降り来ぬ同じくは
           ぬるとも花のかげにかくれむ
この歌が“事件”の発端だった。藤中将実方〔とうのちゅうじょうさねかた〕が花見に東山に遊んだとき、雨が降りだした。そこで彼は桜の木の下に雨宿りをして右の歌を詠んだのだが、この一首が一條帝の前で披露されたとき、実方の傍らにいた藤原行成〔こうぜい〕が、歌は面白いが、わざわざ桜の木陰で雨に濡れるなんてバカげている、と評したのである。それをきいて実方は大いに腹を立て、のちに殿上で行成にあったとき、何がバカげているのか、と食ってかかり、口論のすえ、手にしていた笏〔しゃく〕で行成の冠をたたき落として庭に投げ捨てた。
さあ、ただではすむまいぞと、みな片唾を呑んで見守っていると、このとき行成すこしも騒がず、おだやかに主殿司〔とのもづかさ〕を呼んで冠を拾わせ、髪を直し、襟もとただして冠をかぶり、静かな口調で、「これはいったい、どうしたことか。これほどの乱暴をされるおぼえはないのに、あまりの狼藉ではないか」とさとした。こうした相手の落ちついた態度に実方はすっかり面目を失い、無言で立ち去るほかなかった。それを帝は一部始終ご覧になっていて、行成こそ勇々〔ゆゆ〕しく、おだやかな人物だと蔵人頭〔くらんどのかみ〕に取り立てられ、実方に対しては「陸奥の歌枕を調べて参れ」と命じられた。つまり、実方は陸奥へ左遷させられたのである。そこで実方は東国へくだり、陸奥の歌枕を尋ねてまわったが、阿古屋〔あこや〕の松だけがどうしても見つからず、さんざん捜したすえ、ある老翁に教えられて、やっとつきとめたという。だが、こんなに苦労をしたのに、ついに帝のおゆるしは出なかった。
(中略)
ある日のこと、彼は笠島〔かさしま〕の道祖神の前を馬に乗りながら通り過ぎようとした。すると、里人が「ここに祀られている神は霊験〔れいげん〕あらたかな神さまだから、罰が当たりますよ。馬からおりて拝んで行きなされ」と忠告した。「ほう、いったい、どんな神なのかね」と実方がきくと、里人はこう説明した。
「ここに祀られているのは、都の賀茂〔かも〕の河原の西、一條の北のあたりにいました出雲路〔いずもじ〕の道祖神の女〔むすめ〕で、父はその娘をたいへん愛〔いつく〕しんで、いい夫にめあわせようとしていたのですが、娘は父のいうことに背いてある商人〔あきんど〕に嫁〔とつ〕いでしまいました。そこで父は大いに怒って勘当〔かんどう〕し、この国へ追放したのですが、この国の人が道祖神の娘ということで崇〔あが〕め敬〔うやま〕って、ここに祀ったのです。そして何か願いごとがあると貴賤男女を問わず、この祠〔ほこら〕に陰部の形につくった懸飾〔かけかざ〕りを奉納してお祈りをすると、願いのかなわなかったことがありません。あなたさまも都からはるばるここへくだってこられたのだから、さだめし都へ帰りたいと思っておられることでしょう。ですから、そのようにして拝めば、きっと都へお帰りになることができますよ」
すると実方は、「なんだ、そんな下品〔げぼん〕の女神〔にょじん〕なのか。そんな神なら下馬するに及ばない」といって、そのまま通り過ぎようとした。と、女神が怒りを発して、「馬をも主〔ぬし〕をも罰し殺し給いけり」という始末になったのである。とつぜん馬が暴れだし、狂奔して斃〔たお〕れ、実方も馬の下敷になって絶命したのだという。そこで里人はあわれみ、この祠の傍らに葬ったのが、笠島で私が見てきた実方の墓だというのだ。
『源平盛衰記』の作者は、さらにつづけて、こう書いている。
――人臣に列〔つらなっ〕て人に礼を致さざれば流罪〔るざい〕せられ、神道を欺〔あざむ〕いて神に拝を成〔な〕さざれば横死にあへり。実〔まこと〕に奢〔おご〕る人也〔なり〕けり。
そして、死んだ実方は都恋しさのあまり、「雀といふ小鳥」になって都へ飛んで行き、いつも殿中の台盤(食膳)にとまっては、残りの米粒を食べていた――とある。

相模の「実方は死して再び都へ帰りしも」という、こんなに短いセリフの向こうに、こんなに大きな逸話が隠されていたことに、私はたいへん感動したのでした。

2018年8月28日 (火)

南無阿弥陀仏の意味

9月・10月に歌舞伎で「俊寛」が上演されますので、内容を理解するための参考として、むかし書いた記事を再掲しておきます。「俊寛」が上演されるたびに再掲しようと思っているのです。



日本人ならば、ほとんどの人が「南無阿弥陀仏」という言葉を知っているでしょう。しかし、「南無阿弥陀仏」の意味を知っている人は、意外と少ないのではないでしょうか。私も意味など知らずにいたのですが、去年はっきり分かりましたので、誠に僭越ながらここで分かりやすく解説させていただこうと思います。信仰する・しないは別にして、知識として持っていて良いと思うんですよ。

(記述が間違っていても怒らないで!)

仏教は、2千数百年前の古代インドで生まれた宗教です。ゴータマ・シッダールタという王子が、29歳で出家して、35歳で悟りを開き、80歳で死ぬまで教えを説きました。人間が悟りを開くと仏になります。「悟りを開く」「仏になる」とは、端的に言えば「もう苦しまなくて良くなった」という状態であると思います。ゴータマ・シッダールタは、悟りを開いて「釈迦如来〔しゃかにょらい〕」という仏になりました。

如来=仏

その教えをまとめたのが「お経」ですが、当時は紙も筆もなかったので、お釈迦様の直筆のお経は存在しません。「こういうふうに考えれば、もう苦しまなくていいんですよ」というお釈迦様の話を聞いていた人たち、仏の弟子たちが、教えを語り継ぎ、いつしか文字となっていきました。ですから多くのお経が「如是我聞〔にょぜがもん〕」=「私が聞いたところでは、●●だそうでございます」という言葉で始まります。

お経は、古代インドの言葉「サンスクリット語(梵語)」で書かれています。これが中国語に翻訳されて、日本に入ってきました。サンスクリット語を中国語に翻訳するとき、大きく分けて2通りの方法があります。

例えばelephantという英単語を日本語に訳すとき、
①象(意味を訳す)
②エレファント(音を写す)
という2通りの方法があります。それと同じ。

最もよく知られたお経に「般若心経〔はんにゃしんぎょう〕」がありますが、これはほとんどの言葉が①の方法で中国語に翻訳されています。ところが最後の「羯諦羯諦波羅羯諦〔ぎゃていぎゃていはらぎゃてい〕」以下の部分は、②の方法で翻訳されているんですね。サンスクリット語の音を漢字で写し取っただけ。ですから中国語を知っているだけでは理解できないんです。

音を写しただけの②の方法では、翻訳になっていないのではないか?と不思議に思う方もいるでしょう。サンスクリット語を知らないと理解できないのでは、翻訳の意味がありませんからね。This is a pen.をジス イズ ア ペンと訳したら、テストで点は取れないでしょう。

しかし、全ての言葉を外国語に翻訳するのは、なかなか難しいことです。日本語にも、他国の言語に翻訳できないものがあります。
・唐衣 きつつなれにし つましあれば はるばるきぬる 旅をしぞ思ふ(在原業平)
・花の色は 移りにけりな いたづらに 我が身世にふる ながめせしまに(小野小町)

上記の和歌は、外国語に翻訳することは出来ません。和歌には、掛詞〔かけことば〕、縁語〔えんご〕、折句〔おりく〕などの技法があります。その技法を、英語で説明することは出来るでしょうけれど、英語に翻訳することは出来ません。日本語でないと表現できないのです。そういう種類の言葉が存在するのです。

「南無阿弥陀仏」は、②の「音を写す」方法によって中国語に翻訳された言葉です。「南」は「ナ」という音を表しているだけで、southという意味はありません。「無」は「ム」という音を表しているだけで、nothingという意味はありません。

「南無阿弥陀仏」をあえて①の方法で翻訳すると、「帰命無量寿覚〔きみょうむりょうじゅかく〕」となるそうです。「帰命」は「私は●●を信仰します」「信じます」「頼ります」という意味。「無量寿」は、時間も距離も超えて、届かぬ場所のない光、遮るもののない光、という意味。「覚」は、悟りを開いた存在、仏です。

釈迦如来は実在した人物ですが、阿弥陀如来は実在の人物ではありません。観念上の、頭の中だけの存在。そうすると、「なぜ実在しないものを信仰しなければいけないのか?」と疑問に思う人がいると思います。しかし、考えてみてください。そもそも信仰とは何でしょうか?自分より優れたものの存在を信じ、仰ぎ、自分もそれに近づこうとすることでしょう。仏というのは、人間の理想形、最終形、ゴールであります。人間には目標が必要なんです。鹿の赤ちゃんは、生まれたその日に立ち上がって歩き出します。しかし人間の赤ちゃんは、食べられないものを口に入れてしまうほどのお馬鹿さんで生まれてくる。教えてあげないと何も出来ない。これは食べられます、これは食べられません。このバナナは腐っているように見えますが、実は今が1番おいしい時です。目玉焼きの焼き方には、このような種類があります。これは善いことです、これは悪いことです。何か指針が必要なのです。

目標とする人間、理想の人間とは、どのような人物か?たとえばプロゴルファーを目指している若者の中には、タイガー・ウッズを目標にしていた人もいたでしょう。けれど、「やっぱりウッズみたいな浮気ジジイは目標じゃないな」と思い直した人もいたのではないですか。つまり人間は一部分しか見えないのですし、裏側は理想的じゃないかもしれません。突然転落してしまうスターが大勢いますね。オペラ歌手を目指している若者の中には、マリア・カラスを目標にしている人もいるでしょう。けれど、同じ日のライヴ録音であっても、EMIレーベルとMYTOレーベルとでは全く音が違うでしょう。劇場で生で聞いたら、もっと違う声だったでしょう。エディンバラのキャンセルの理由は、本によって書いてあることが異なり、本当の理由はさっぱり分からない。誕生日も12月2日説と12月4日説があります。ほんの数十年前に生まれた人でさえ、もう変容している。実物のマリア・カラスは誰にも把握できない。イチローを目標にしている若者もいるでしょうが、私は芥子粒ほどもイチローに興味がありません。イチローを目標にしている人は何パーセントいるのでしょうか?選挙で公正に選んだ国会議員でさえ、支持率30パーセントくらいだったりするものでしょう。そして必ずアンチがいる。時代を超え、場所を超え、全ての人が「なるほど、それは人間の理想形に違いない」と思うような存在は、架空の存在、概念上の存在であって良い。いえ、概念上の存在でなければならぬ、とさえ思います。

仏教では、人間の成長の段階がいくつかに分けられています。
居士〔こじ〕→僧侶〔そうりょ〕→菩薩〔ぼさつ〕→如来〔にょらい〕
如来がゴールです。ゴールは1つではありません。複数の如来がいます。
まず私たちのような何も知らない者が、仏教のことを知ろうと思って勉強すると「居士」と言われる存在になります。さらに出家して修行を始めると「僧侶」になります。僧侶が「菩薩」になるためには、六波羅蜜〔ろくはらみつ〕という6つの行いをしなければなりません。六波羅蜜の行〔ぎょう〕とは、
・布施〔ふせ〕見返りを期待せず、自分のものを他人に与えること
・持戒〔じかい〕仏教の戒律を守ること
・忍辱〔にんにく〕理不尽な出来事を辛抱すること
・精進〔しょうじん〕善い行いに努め励むこと
・禅定〔ぜんじょう〕写経や座禅をして心を穏やかに保つこと
・智慧〔ちえ〕物事を正しく判断すること
禅定まで5つを行じると、おまけとして智慧がもらえるそうです。この6つの修行を積むと誰でも菩薩になれます。
さらに菩薩が「如来」になるためには、「四弘誓願〔しぐぜいがん〕」という4つの誓いを立て、それらを実行しなければなりません。
・無数の衆生を度せんとする誓願
・無辺の煩悩を断ぜんとする誓願
・無尽の法門を知らんとする誓願
・無上の菩提を証らんとする誓願

これら4つの誓願は、全ての仏に共通の誓いです。阿弥陀如来は、これら4つの誓願のほかに、48の誓願をお立てになりました。共通の4つの誓願とは別の誓いであるから「別願〔べつがん〕」とも言い、また阿弥陀如来にとってはこちらのほうが大切なので「本願〔ほんがん〕」とも言います。本願が、阿弥陀如来を阿弥陀如来たらしめている特色であり、阿弥陀如来そのものであると言って良いでしょう。48のうち、分けても18番目の誓いが重要で、特別に扱われています。歌舞伎十八番の「十八」も、ここから来ているのではないかという説を聞いたことがあります。
その18番目の誓いとは、
「たとえ、我れ仏を得たらんに、十方の衆生、至心に信楽〔しんぎょう〕して、我が国に生れんと欲して、ないし十念せんに、もし生れずんば、正覚〔しょうがく〕を取らじ。ただ五逆〔ごぎゃく〕と、正法〔しょうぼう〕を誹謗〔ひぼう〕せんとをば除く」
というものです。
これを現代語に訳すと、
「修行の末、たとえ私が、もう苦しまなくていい幸せな存在になれると言われたとしても、他の人々が苦しんでいるのであれば、私はそんな存在にはならない。他の人々と一緒でなければ、私は仏にはならない。極楽浄土に行きたいと思う人、あるいは10回でも念仏を唱える人を、私は必ず救ってみせます。ただし、人を殺したり、仏教を信じない人のことは知らないけれど」
という感じでしょうか。
阿弥陀如来は、法蔵菩薩〔ほうぞうぼさつ〕という菩薩だったころに、48の誓いをお立てになりました。
「自分だけ幸せになるんだったら、その幸せはいらない」この誓いを理想と思わない人がいるでしょうか。そのような誓いを立てる人こそ、人間の理想形、最終形と言えるのではないでしょうか。

しかれば諸仏の御誓い、いずれ勝劣なけれども、超世の悲願あまねき影、弥陀光明に如くはなし。
能『姨捨』より


悟りを開く方法はいろいろあるのですが、1番簡単なのが「南無阿弥陀仏」と唱えること。1番簡単であるがゆえに、修行をしている人々からは軽んじられている面もありました。しかし、「1番簡単であるがゆえに1番尊い」という大転換が起こります。ただ「南無阿弥陀仏」と唱えることしかできないような民衆、飢饉や疫病に苦しんでいる、字も読めないような無学な民衆こそ、真っ先に救われるべきである。なぜなら理想の存在である阿弥陀如来はそれを望んでいるに違いないからです。「南無阿弥陀仏」という言葉はインドからやって来ましたが、この価値の転換は鎌倉時代の日本で起こり、ここに法然〔ほうねん〕が浄土宗〔じょうどしゅう〕という宗派を起こします。

僧侶の修行は厳しいもので、難しいお経の研究はもちろん、食事や恋愛についても細かい戒律があり、民衆にはとても望めない。法然上人は、何とか民衆を救う方法はないかと考えました。それで、阿弥陀如来が「全員を救わぬうちは仏にならない」と誓ったわけですから、阿弥陀如来に助けてもらっちゃいましょう。仏の境地まで自分の足で歩いて行くのは大変だけれど、みんなで船に乗ってラクラク極楽浄土まで、向こう岸まで連れて行ってもらいましょう。だって阿弥陀如来様ご自身がそう仰っているのですから。

これが「他力〔たりき〕」という考え方です。阿弥陀如来様は、私たちを救うために走り回ってくださっているのです。全員で船に乗って助けてもらっちゃいましょう、ということです。

俊寛が乗るは弘誓の船、浮世の船には望みなし。
文楽『平家女護島』より


ここで注意していただきたいのですが、阿弥陀如来は、はるか昔に仏になっています。お経にそう書いてあるんです。なるほど、そのような理想の人物であれば、仏になっていないはずがありません。つまり私たちが救われるのは、生まれる前から決まっていることなのです。全ての命は救われる約束になっている。「決定往生〔けつじょうおうじょう〕」と言います。

「南無阿弥陀仏」と唱えれば極楽へ行けます、という法然上人の教えは、民衆から熱狂的に受け入れられました。しかし、旧来の宗派から「そんな自堕落な宗教があるものか」と厳しい弾圧を受けます。法然上人ご自身は、旧来の戒律を厳格に守る方だったそうです。他人には寛容だったけれど、自分には厳しい人でした。戒律に意味を見出していたわけです。戒律を捨てなかった。一方、法然の弟子の親鸞〔しんらん〕は、戒律の守れない人で、妻帯者でした。自分のことを駄目な人間だと思っていました。親鸞は法然と違って、駄目な側の人間だったのです。しかし、1番駄目な自分をこそ、阿弥陀如来は真っ先に助けてくださるに違いない。理想の存在ならば、極楽から1番遠くで苦しんでいる私を見捨てるはずがない。私こそが仏の正客〔しょうきゃく〕である。ここに親鸞が浄土真宗〔じょうどしんしゅう〕を起こします。浄土真宗では、阿弥陀如来のことを「お真向き様」と呼びます。1番駄目な私のほうを向いてくださっている仏様だからです。

時宗〔じしゅう〕を起こした一遍〔いっぺん〕は、「南無阿弥陀仏」の六字を広めるために、全国を歩き回りました。遊行〔ゆぎょう〕と言って、自分の本拠地となる寺を持たず、ずっと旅暮らし。「南無阿弥陀仏」の他には何もいらぬと、自分の書いた本も燃やしてしまったので、あまり大きな宗派にはなりませんでした。しかし、「南無阿弥陀仏」の六字は一遍上人に至って究極の南無阿弥陀仏となった、行きつくところまで昇華された、と言われています。自分で何かが出来ると思ってはいけない。絶対他力。他の修行はいらない。私が南無阿弥陀仏であり、南無阿弥陀仏が私である。

現代の日本人は、無宗教だと言われます。特に地下鉄サリン事件以降、宗教と言えば何か怪しいものなのではないかという雰囲気さえあるように思います。しかし、信仰を持っていない人のほうがよほど怖いと思いませんか?何をするか分からないではありませんか。善悪を誰に教わったのでしょう。学校では善悪を教えません。国語、算数、理科、社会、体育、音楽、美術、技術、家庭、ものの善悪を教える教科があるでしょうか?高学歴の悪人だって大勢います。毎日、迷惑メールがたくさん届くでしょう?おかしなセールスの電話がかかってきませんか?そういうことをしている人が、実際にたくさんいます。他人を騙して金を儲けようと思っている人とか。人間は、いくらでも悪人になれます。そしらぬ顔をして、身の回りにいるんですよ。

昨今の政治の混迷、マスコミの騒乱を見ておりますと、何て愚かしいのだろうと思う。身近な場所で再び戦争が起こるのかもしれない。人間は本当に賢いのだろうか?

先に「教えてあげないと人間は何も出来ない」と書きましたが、去年12月に文楽の『本朝廿四孝〔ほんちょうにじゅうしこう〕』を見ていて、そうじゃないなと思いました。人間には、誰からも教えられずとも、本来持っている美がありますよね。
お種…我が子の命を助けようとする母親の心
横蔵…生きるか死ぬかという場面になったときに、生きるほうをつかみ取り、自分の命を自分の信じる何かの役に立てようとする心
八重垣姫…好きな人と添いたい、好きな人を何とかして守りたいと思う心

『本朝廿四孝』の登場人物って、親が言っていることとは別の行動を取っていて、これのどこが孝行なんだろう?と思いますが、たとえ親の教えとは違うことをしていても、自分が本来持っている美を輝かせることが出来たなら、それで充分、孝行と言えるのではないでしょうか。

同じ羽色の鳥翼、人目にそれと分からねど、親と呼び、また夫鳥と呼ぶは生ある習いぞや。
文楽『本朝廿四孝』より


そのような、人間が本来持っている美の中の1つに、阿弥陀如来を理想と感じる心が入っているのではないかと思う。「自分だけ幸せになるんだったら、その幸せはいらない」って言葉を聞いたら、誰でも「それは人間の理想には違いないな」と思うのではないでしょうか。力及ばず自分には実行できなかったとしても、「確かに理想には違いないな」と感じるのではないでしょうか。そう感じる心こそが「南無阿弥陀仏」そのものなのだと私は思います。自分の命を、全ての命を肯定したいという、祈りの言葉です。

「末法思想〔まっぽうしそう〕」と言いまして、仏の教えは時代が下るにつれてだんだん薄れていくだろうということが、仏教誕生の時からずっと言われていました。今まさに末法の世の中となっています。しかし釈迦如来は、「自分のことは忘れ去られても、阿弥陀如来は最後まで残るだろう」と仰ったそうです。南無阿弥陀仏、南無阿弥陀仏。

2018年8月 5日 (日)

劇場の食堂

国立劇場大劇場の3階ロビーに入っていた食堂が3月末で撤退してしまいました。同じ業者さんが楽屋食堂も営業していたので、今は楽屋食堂もないのです。
昨年は2階お休み処のお茶もなくなってしまいました。

国立文楽劇場の食堂も数か月前に撤退してしまいました。コーヒーやお弁当も同じ業者さんが売っていたので、幕間にコーヒーも飲めません。

私はあまり利用したことがありませんでしたけどね・・・。

2018年5月19日 (土)

阿古屋の判決と胡弓の音色

今度Eテレで玉三郎さんが阿古屋の話をなさるそうですね。何をお話しするのでしょうか。楽しみです。

私が阿古屋の舞台を初めて生で見たのは、国立劇場開場30周年記念公演の時でした。この演目は長く6世中村歌右衛門だけが上演してきて、継承者がなく、このまま消滅してしまうのかなと思っていたところに、まるで夢のように奇跡的に玉三郎さんの初演が行われたのでした。(ご本人は長い間ずっと準備をなさっていたわけですが)
多くの歌舞伎ファンの期待も最高潮となり、チケットが完売で追加公演まで出て、それでも見られなかった人もいましたが、私は幸いにも見ることができました。その時、私はすでに働いていたものの、若くて貧乏だったので3階席で見るのが当然のことと思い込んでいて、その阿古屋も3階席から見ていました。阿古屋が花道を出てくる時の早く、一瞬でも早く阿古屋の姿を見たいという熱望と緊張感、「いっそ殺して」ときざはしに身を投げ出す時の、時間の感覚がねじ曲がったかのような信じられないくらい美しい完璧な運び、三曲の演奏を客席中が固唾を飲んで聞き入っている時のかすかな空調の雑音、3階から見下ろしていた舞台の様子を今でもはっきりと覚えています。こんなものが見られるなんて夢みたい、と思ったものでした。(今振り返ると、国立劇場の30周年は本当に豪華な公演でした)

しかしその時、私はこの作品のことをよく分かっていなかった。
芝居を観終わった後も、阿古屋は本当に景清の行方を知らなかったのかな、本当は知ってたんじゃないのかなと疑っていたのです。
玉三郎さんの阿古屋を見ていて、「景清のことをすごく愛している」ということは分かったのですが、「愛しているがゆえに知っているけれど知らないと言い張っている」「知らないと言い通すことが景清への愛」ということもあるんじゃないのかな、演じる阿古屋の愛が強いほどに、そんな疑いがずっと消えなかった。
その後、何度も何度も玉三郎さんの阿古屋を拝見し、いろいろな劇場で、そして念願の1等席でも見ましたが、その疑いはずっと消えなかった。

しかし重忠は阿古屋を可哀想と思って同情して解放してやるわけではなく、あくまで裁判官として、阿古屋が景清の行方を知らない事実を確信したから許してやるわけですよね。
私も何度も見ているうちに、阿古屋は景清の行方を本当に知らないんだって、確信したんです。重忠と同じように確信した。何年もかかって、やっとそういうことが分かるようになったんですね。そういうことが分かってから聞く胡弓の音は、玉三郎さんの演奏する胡弓の音は、もう本当にすごいですよ。宇宙とか、無常とかいうことを感じます。初役の時から何度も見て、何度も夢中になって、段階を踏んで、そのような心の状態にまで行ったというのは、本当に有り難いことでございました。

2018年4月28日 (土)

かさねジャポニスム

フランスで日本文化を紹介するジャポニスム2018という催しがあるそうです。その中の企画の1つとして歌舞伎が上演され、獅童さんと七之助さんが『かさね』を踊るのだそうな。お2人とも初役だって。初めて演じる役をいきなりパリで!!ずいぶんと剛胆ですね。
パリでは、海老蔵さんと今の猿之助さんも『かさね』を踊りましたよね。フランス人は本当に『かさね』が好きですよね。だってむかしパリでは孝玉の『かさね』が上演されたことがありましたでしょう。孝玉の『かさね』を見ちゃったら、「もう一度あれが見たい!」と思って、同じ演目を何度も呼んじゃうんでしょう。でも孝玉の『かさね』はもう二度と見られないの。

私は仁左衛門・玉三郎による『かさね』を生で見たことがあります。お金がなかった貧乏な私は、いつものように3階B席で見ていたのだけれど、あまりのすごさに幕見で3回追加した。何度でも何度でも見たかった。怪談だから怖い。けれど美しい。あんなに怖くて美しい体験は初めてで最後だった。他に比べる物は世界中どこにも存在しない。仁左衛門・玉三郎という組み合わせは歌舞伎の奇跡、その中でも『かさね』は特殊な輝きだった。劇場中が体験したこともない霊気に包まれ、見終わった後には周りの人がみんな深いため息をついてどよめいていた。思い出すだけでも鳥肌が立つ。でもそれはもう二度と起こらない奇跡。日本人でも見られない奇跡をフランス人が見られません。

でも七之助さんの『かさね』は結構いいかもね。清元はどなたなのでしょう。日本で凱旋公演があるのかな。凱旋っていうのは勝った時に行われるものですけど。

2018年3月29日 (木)

奥役という仕事

もう終了してしまいましたが、国立劇場の歌舞伎公演のプログラムに、織田紘二〔おりたこうじ〕さんの連載記事がありました。私は編集企画室でこの連載の担当でしたので、織田さんとはたびたびお会いいたしました。
織田さんは国立劇場で歌舞伎公演の制作を長く担当されていました。制作担当というのはプロデューサーのことであり、昔の言葉では「奥役〔おくやく〕」と言うそうです。松竹では「制作」ではなく「製作」と書きます。そう言えば、松竹では「芸文」と書くところを国立では「文芸」と書いたりしますが、どう違うのかよく分かりません。
さて、織田さんの書いた文章に、このようなものがありました。

「奥役という仕事」
よくプロデューサーというとやりたがる人が多いけれど、実際にやってみると、こんなわりに合わない仕事はありません。まず役者、表方、裏方の皆さんと全部時間を合わさなければならない。役者さんの舞台がはねた真夜中に打合せが始まる場合もあって、私的な時間はまったくとれません。それでいて皆に文句や苦情を言われて、隅の掃除人みたいなものです。そして目立ってはいけない。誰よりも利口に見えてもいけない。奥役の十訓というのがあるんですが、これを見ると、現代の芸能界などでいうところのプロデューサーという、格好いい仕事とは大分違います。
たとえば、同じ問題に関して、役者さんからはAと言われ、表方からはB、裏方からはCと言われたとき、そこでお手上げになってしまったら芝居は開きません。初日を開けるためには、どこかでそれを調整してDを割り出してこなくてはいけない。Aの要素もB、Cの要素も持っているDを割り出して皆が満足するように、それで皆が自分の意見が通ったと思うように配慮する仕事です。ひとつの仕事というのは平面体でも球体でもなくて、六面体、八面体と幾つもの面を持っていて、ある面では役者さんが自分の希望が叶ったと思い、ほかの面では表方も満足する、けれどそれは一面にすぎなくて統合されてひとつの仕事が成り立っていくわけです。幾面にも、ものを考えられなくてはいけないし、なおかつ考えているように見えてもいけない。芝居を成り立たせるために、必要に迫られて考えだされたのが、奥役という仕事だったのではないかと思います。

そして次の文章は、八世市川団蔵の書いた『七世市川団蔵』という本の中に書かれていた逸話です。奥役の話かどうかは分かりません(「知恵者」ということになっている)。

大坂の稽古場で、俳優の持ってくる、座布団の置く所が非常にやかましく、頭取が指図してきめるのですが、もし隣の人の座布団との間が、少しでも多いと男衆は物差しで計り、「内の親方と○○屋とは、そんなに身分が違わぬに、なんでこの間を多くあける」と立腹したり、そのまま座布団を持って男衆が帰ったりするので、稽古の流れる日が度々あり、はなはだしいのは、下駄箱に屋号を書いて張るその順が気に入らぬといって、初日が延びたこともあるくらいなので、父が「楽屋で威勢争いをせずに、舞台の芸で何故争わぬのだ」と笑っていた。(中略)
この座布団について聞いた話ですが、橘三郎、我当、時蔵などの芝居で、三人が座布団の置場所で争い、幾日も稽古ができないのです。そこで知恵者が考えた末、正面へ屏風を立て回し、我当、時蔵、橘三郎という順に、三枚の座布団を置き、松嶋屋へは「お家柄ですから一番上座に致します」、播磨屋へは「松嶋屋と伊丹屋を両端に置き、正面の真ん中に致しました」、伊丹屋へは「一番御先輩ゆえ、座頭どころに置きます」といったので直ぐ納まったのも滑稽です。
このときに「忠臣蔵」が出て、播磨屋の師直に松嶋屋の判官で、初日に三段目で、薄縁〔うすべり〕が敷いてあるのを、松嶋屋が「あの場は座敷ではない、松のお廊下だ、畳があってはいかぬ」といって二日目には薄縁をとらせたのです。すると播磨屋が「なんで敷かぬのだ」と苦情を出したので、訳を話すと「それはいかぬ、刃傷のあった所は、お廊下かは知れぬが、そこが芝居だ、第一板の間へ座るのが、よっぽどおかしい」といって三日目に敷かすと、また松嶋屋から小言なので、係の者も困じ果てて前の知恵者に相談すると、「こりゃ私にも工夫がない、殊に双方の立者をへこますこともできないから、苦情の出た方の顔を立て、翌日からその通りにしたら好かろう」といい、毎日小言の聞き役ができ、とうとうその興行中、一日置きに薄縁があったりなかったり。

織田さんは結構楽しそうに仕事をしていたという印象がある。離れた部署から見ていた分には。
しかし総じて、劇場というのは常に誰かが不満を持っているというふうにも思う。

2018年3月25日 (日)

とんだ判じ物

昨日、今日と芝居を見に行ったら、2日とも客席の私の位置に冷たい風がずっとビュービュー吹き付けてきて、すっかり風をひいてしまいました…。

安倍政権はいつになったら退陣するのでしょうか…。

さて~、私が「お染の七役」を初めて見たのは平成5年(1993)12月の歌舞伎座でした。七役は中村福助さんでした。役ごとに、衣裳や鬘だけでなく、声やしぐさもガラリと変化するのがすごい!と思いました。「おおい、こっちのうちだよ」と言う台詞の声のデカさに驚いたことを今もはっきり覚えています。(歌舞研の部室で福助さんの声のデカさが話題になるくらいデカかった)
私は福助ファンなので、当たり役の「お染の七役」はたびたび拝見しています。「通らねえ煙管だの」なんていう台詞は見た最初から理解できていたと思いますが、「とんだ判じ物だの」という台詞の意味がずっと分かりませんでした。「判じ物」というのは謎解き、クイズのようなもので、『新薄雪物語』にも出てきますから、単語の意味は分かります。でも台詞の意味が分からなかった。それが今日やっと分かったのです。それも『於染久松色読販』を見ていて分かったのではなく、その後の『滝の白糸』を見ていたら分かったのでした。『滝の白糸』にも「判じ物」という台詞が出てくるんですね。
「お染の七役」を見ていて、いつも「その判じ物の答えって何なのだろう?」と思って、クイズの答えを探していた。
そうではなく、この台詞は、「夫婦で駕籠なんか担いでいたら、見た人たちがさぞ不思議に思って、そうしなければならなくなった原因を考えるだろうねえ(でも分からないだろうねえ)」と言っているのだと分かったのでした。
24年も経ってやっと謎の台詞の意味が分かって、なかなか感慨深いものがありました…。


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