2 文楽

2018年4月30日 (月)

住太夫師匠

竹本住太夫師匠がお亡くなりになりましたね。
私はむかし国立文楽劇場で宣伝編集の仕事を3年間しておりましたので、住太夫師匠のインタビューには何度となく同席させていただきました。本当にお話が面白く上手な方でした。
それはやはり、薬師寺の高田好胤さんとご親交が深かったという影響も大きいのではないでしょうか。高田管長というのは、説法、法話の面白さで人気を呼んで薬師寺の伽藍を再建しちゃた人ですから、私は聞いたことがありませんが、よほど話に魅力のある人だったのでしょう。

関係ありませんが、つねづね私が思いますには、文楽はやはり仏教のことを知らないと分からない部分があると思います。

住太夫師匠の思い出は、以前このブログでも書いたことがあります。
 ↓
住太夫師匠のお話

私が初めて見た文楽は、平成4年の『本朝廿四孝』通し上演で、住太夫師匠は「勘助住家」を語っていられました。お種が極寒の中の我が子を助けようとする場面で私はグズグズに泣き、そしてそのあとの場面の急展開に興奮したものでした。
若い観客は『本朝廿四孝』を通しで見ることができず可哀想だと思っております。

住太夫師匠の語りで一番感動したのは、やはり「沼津」ですね。あんなに素晴らしいものが日本にあるということをほとんどの日本人が知らなくて日本は一体どうなっているんだろうと私は思うのです。
それから「山の段」の定高には本当に泣きました。体ぢゅうの水分が全て涙になって流れ出るのではないかというくらい泣きました。平成5年の『妹背山婦女庭訓』を通しで見られたことは、幸薄き私の人生で数少ない僥倖でございました。本当に有り難い体験でした。「カタルシス」という言葉は知っていたけれど、何のことだか分からなかった、それを自分自身で実体験した観劇でした。

私は若い頃「佐多村」の良さがよく分からなかったのですが、住太夫師匠の引退公演の時にしみじみとその浄瑠璃の良さがやっと分かったのです。師匠はこの「佐多村」がお好きでした。「こんないい浄瑠璃を語らせてもらっていて、お客さんが泣かなんだら、よっぽど太夫が悪い」とよく仰っていました。私はそのお話を伺っていて、自分が「佐多村」に感動しないのはどうしてなのかなとずっと思っていたのですが、年とともに分かるってこともあるんですね。

下っ端の職員だった私のような者にまで気さくに話しかけてきてくださり、日本の最高の宝である人間国宝と話をするなんて不思議な気持ちでした。

「大阪はもっと綺麗な街だったのに、銀座が羨ましい」と仰っていたことがありました。大阪と文楽の現状に不満で常に怒りに燃えていらっしゃいました。
あの太夫はここが駄目、この太夫はこうだから駄目、という話を私にも何度かされました。

「自分は幸運な星のもとに生れた」とよく仰っていました。実際には召集、敗戦、興行の不振、文楽の分裂、宿や交通手段の手配も荷物の持ち運びも全て自分たちでやっての全国巡業と、苦労続きだったはずなのに、「わしはそれを苦労と思わなかった」と仰っていました。苦労を苦労と思わぬほど文楽を愛していられました。

生前の偉大なご功績を改めて偲びたいと思います。

2018年2月26日 (月)

2月文楽

もう終わってしまったのですが、今月の文楽公演『摂州合邦辻』、素晴らしかったですね。語りの力で芝居の途中に客席から拍手が起こる、というのがすごく久しぶりの出来事のように感じられて、昔は普通に拍手が起こっていたところで最近は起こらないことが多かったので、何だか本当に目出度く、そして嬉しい公演でしたよ。咲甫さんは昔からスターだったとは思いますが、織太夫という大きな名前を継いで、それに相応しい力を示したということで、大輪の花がパッと開いたような、まさに見ものの公演でした。本当に目出度いですね。勘十郎さんの遣う玉手御前もゾクゾクするほどの面白さでした。良かった良かった。

2018年2月15日 (木)

心中宵庚申

現在、国立劇場の2月文楽公演で『心中宵庚申』が上演されています。
「庚申」というのは、歌舞伎の『三人吉三』にも出てきますので、昔から少しは知っていました。庚申は「年」にもあるし「日」にもあるのですね。60日に1回、つまり年に6回くらい「庚申の日」があるわけですが、江戸時代の人々はそんなに頻繁に庚申待ちで徹夜していたのでしょうか?

ところで私はずっと、『心中宵庚申』は庚申の日の宵の話、すなわち庚申の日の日暮れ頃に心中に出発する物語だと思っていたのです。ところが実は「宵庚申」は「庚申の日の日暮れ頃」ではなく、「庚申の前日の夜」のことなのだそうです。お祭りの前夜を「宵宮」と呼ぶのと同じ「宵」なんですね。「宵庚申」は、「庚申の前夜祭」ということなのでしょう。前夜祭が付くほどのビッグイベントだとは思いませんでした。庚申の夜にはみんなで飲んだり食べたりして徹夜するのでしょうけれど、庚申の前夜には一体何をするのでしょうか?庚申待ちの準備でしょうか。名前が付いているからには、何か特別な日なのでしょうが・・・。
詞章では、申(さる)の前の日は未(ひつじ)で、屠所に向かう羊のように人間は少しずつ死に向かって歩いている、というような描写がありますね。

人々が庚申待ちで徹夜して騒いで(?)いる中、夫婦で心中する二人・・・という話だと思っていたのですが、そうではないんですね。徹夜する前の日だから、みんなたっぷり寝ておくわけでしょう。翌日、庚申の長い夜の、噂話の種になった、という感じでしょうか?

2018年1月13日 (土)

太夫の目

私が初めて歌舞伎を見たのは平成4年4月、大学2年の時でした。2年の時に友人に誘われて歌舞伎研究会(通称かぶけん)に入ったのでした。当時、いろいろな大学に歌舞伎研究会がありました。しかし、私が入っていた法政大学の歌舞伎研究会は、人が集まらなくて数年前に廃部となってしまいました。今の歌舞伎座の切符は高額すぎて、学生は歌舞伎を見られないのでしょう。3階B席は私が学生の頃の倍の価格になっています。なぜ値上がりしたのかというと、
・歌舞伎座は建て替えによって3階の席数が大幅に減った
という以外に、出演者や裏方の待遇が変わってきた、ということがあるでしょう。昔は楽屋に寝泊まりしていた人もいたそうですが、今はそういうことはありませんし、宿泊となれば1人1部屋。昔は大勢で相部屋だったのですから。地方巡業の時は地位に関係なくバスで集団移動していたそうですが、今は個別。
(1度変わったものが、再び昔のように戻せるのかどうか私には分かりませんが、今後どうするのでしょうね・・・)

私の在籍時、歌舞伎研究会は、4学年で20人弱いましたかねえ。
その中には、「本当は歌舞伎よりも文楽のほうが好き」という人も数人いましたよ。
(文楽研究会は存在しなかった)
そして、「人形は見ないで床だけ見てる」という人もいました。
私も、文楽を見始めてしばらくは、舞台より床のほうを見ることが多かった。
文楽の様々な要素の中で、私を最も魅了したのは断然、太夫だったのです。
太夫は神様みたいだった。だって神業を見せてくれたから。

私は不思議なんですけれども、最近の若い太夫さんは、ずっと下を向いて語っている人が多いですね。(多いというか、全員?)
昔は絶対にそんなことはなかったのです。特に住太夫師匠なんて「客は自分を見に来ている」と思っていたに違いありません。文楽を撮影するカメラマンは、住太夫師匠の写真をたくさん撮っていたと思います。住太夫師匠は、カメラマンを魅了する人だった。
床本なんて見なくても、詞章は全部暗記しているわけでしょう。なぜずっと床本を見ているのか分からない・・・。
太夫の写真を撮影しても、使えない写真ばかりですよ。
浪曲師だって講談師だって、もっと見栄えがすると思いますけど・・・。

四代目の越路太夫さんが、こんなことを語っておられます。
古靭太夫〔ルビ:うちのししょう〕と同じ位好きでよう聞かしてもろたん土佐太夫〔てんがちゃやの〕師匠でね。これが物凄い目でね、鷹のような鋭さの。古靭太夫〔うちのししょう〕の目もよく利いていたが、近眼ですから、大きい目の割には正面切ってにらむようなことはあまりなかった。そこへいくと土佐太夫師匠は、こわい目遣いでした。
子供の僕がそう感じていた、それだけのことです。ただこれを、古靭太夫〔うちのししょう〕や駒太夫師匠との違いとしてはとらえていた。
昭和三年六月、『忠臣蔵』が建った時も、土佐太夫師匠の『勘平切腹〔かんぺいせっぷく〕』を、聞くというより、小幕〔こまく〕へまわって目を見てたんですね。人形が出入りする下手〔しもて〕の小幕。御簾内〔みすうち〕だと頭のてっぺんしか見えんから。
そしたらね、えらいこと聞いた。人形の先代栄三〔えいざ〕さんが、勘平を遣ってるんだが、これがね、「南さんやと腹切らざるを得ん」と言われたんですよ。南さんというたら土佐太夫師匠の本名ね。
郷右衛門〔ごうえもん〕の「左程〔さほど〕の事のわきまへなき汝〔なんじ〕にてはなかりしが、いかなる天魔が見入〔みいれ〕し」の言い方で、これね、一言も勘平に腹切れとは言ってませんよ、だけど、この言い方でね、たまりかねて勘平は腹を切るんですね。勘平を持っている栄三さんが、そういう思いになると話してはるのを聞いた。
次の日からも毎日じっと見てると、これを目でも表現してはるんですよ、土佐太夫師匠。このあとの文句は「するどき眼〔まなこ〕に涙をうかめ」、ね、あとからこういう文句があるが、この説明になってから鋭い目をしても遅い、先に鋭い目をしといたのが、ここで利いてくる、結果たまりかねて勘平が腹を切る、口で言うてしもたらこんだけやが、これをしからば、目で演出して、鋭い目で言うて、そう聞こえるかというと、そうではない。栄三さんとて、太夫の目見て遣うわけやなし。お客さんも。そうじゃなく、
すぐれた言い方は、自然に目にも出てくるということで、目だけで芝居なんか出来ませんよ。素浄瑠璃〔すじょうるり〕なんかの時には、ある程度、顔や目で芸することもありますけどね。
(高木浩志:著『文楽に親しむ』より)


「顔で見せる」というような側面が、今はごっそり消滅してしまった感じがするのです。

私はわりと、技芸員のインタビューに同席させていただく機会があるのですが、咲太夫師匠は、詞章のこの箇所で視線をここに持って行け、ということを若い時に教わった、と仰っていました。そういう口伝は、どこへ行ってしまったのでしょう・・・?

2016年8月22日 (月)

時をかける香り

インターネットというものが現れて、一番変わったのは「調べ物」ではないでしょうか。「あれ?あの和歌、何だっけ?」「このオペラ歌手、誰?」などという場合に威力を発揮する。

『一谷嫩軍記』二段目「林住家の段」の中に、
「これもその人の形見と思へども なほ懐しき袖の移り香」という和歌が出てくるのですが、この和歌は出どころが不明なのだそうです。(いくら検索しても出てきませんよ)
この和歌の出典を見つけた人は、特別なご褒美がもらえるらしいです。(ウソ)

『一谷嫩軍記』の中には、「形見」がいくつか登場しますね。
・忠度の片袖
・敦盛の青葉の笛
・忘れ形見の姫君


生き残ってしまった敦盛の台詞に、こんなのがあります。
「ただ儘ならぬは世の習い、はかなき物は人の身の、一生は皆夢と思えば、さのみ迷いもあるまじ。さりながら、今を限りの別れといえば、誰しも名残惜しいもの。もしも恋しき折からは、心のいさめともならん、いでいで形見を参らせん」
しみじみと味わい深い台詞ですね。
人は死んだ後に何が残りますかねえ・・・。

「これもその人の形見と思へども なほ懐しき袖の移り香」
この歌の意味が分かりますでしょうか?
「これ」が何を指すのか示されていませんが、「もう会えないのであれば、形見にもいろいろあるけれど、この形見ではなく、あの人の香りのする袖が一番ほしい」という意味でしょうか。
匂いが一番「あの人」を思い出させるものですかねえ。

国立劇場の絨毯が20年ぶりに張り替えられたのですが、20年も張り替えなかったなんて、日本もずいぶん貧乏な国ですね。
ロビーへ出る廊下を歩いていると、ずいぶん手前から絨毯の匂いがしてきて、私は突然20年前を思い出した。

あれこれ

桃や葡萄が美味しい季節ですねえ。

NTTは、儲けた金を何に使っているのでしょうかねえ。
何のために民営化したのだろう?
みんなが必ず利用するもので何の苦労もなく自動的に儲けて一部の人だけがウハウハ?
昔、3分10円だった通話料が、
今、1分10円で、
携帯からだと20秒で10円?
全然競争してないみたいですけど・・・?
(NTTに早く天罰が下りますように)

読み人知らず
読み人知れず
詠み人知らず
詠み人知れず
読み人しらず
よみ人しらず
読人知らず
etc
『一谷嫩軍記』に登場するこの言葉、どう表記するのが良いのでしょうかねえ?
床本の中に2回出てくると思いますが、調べると、同じ書き方をしていないのね。
作者がわざと変えたのか、意図せずに何となく変わってしまったのか・・・。
(義経が言ったことを六弥太が勝手に言い変えるなんてことが、あるのだろうか)
「知らず」のほうは、「誰が詠んだ歌なのか不明」という事実だけを表しているのに対して、「知れず」のほうは、「知りたいと思っていろいろ調べてみたけれど、どうしても分からなかった」というような悔しさが加わっているような気がする。

今度の国立劇場の9月文楽公演では、おそらく、2回とも「よみひとしれず」と語られるのではないでしょうか。(予測)

ちなみに、文楽の語りというものは、いつも必ず同じというわけではなく、太夫によっても変わりますし、公演によっても変わります。どの場面をカットするか、など、太夫だけが決定権を持っているとは限らず、公演直前に決まることもある。

床本の原稿は、国立劇場の公演制作担当者が用意して、編集係へ渡す
(台本の決定は制作の仕事であって編集の仕事ではない)
公演制作担当者と太夫は連絡を取り合っている
公演制作担当者と編集係は連絡を取り合っている
編集係と太夫は連絡を取り合っていない
床本の編集は編集係が行っている
床本は公演制作担当者も校正する
太夫の床本を劇場の職員が見るということは一切ないし、不可能

公演プログラム(番付)に付いている床本は、翻刻ではありません。
底本はないです。
編集方針も明確には決まっていません。
過去の例にならって、編集しています。
すなわち、
地の文とセリフは区別する、
登場人物が切り替わったら改行する、
ルビは現代仮名づかい、
平仮名は漢字になおす、
など。
送り仮名の送り方は、10年前に比べて、ずいぶん現代的になってきましたね。
編集する人が若くなったからではないでしょうか。
送り仮名は、60代と40代とで全く感覚が異なりますから。
私は個人的に、もう「ゑ」「ゐ」の文字を使うのは絶対にやめたほうが良いと思っているのですが、そこまでの決定権は持っていない。
繰り返し記号もやめたほうが良いと思う。
表記はなるべく現代的なものにしたほうが良いと思う。
(私には決定権がなく、決定する権力を持っている人はそういうことを欲しない)
国立劇場の邦楽公演、舞踊公演のプログラムは、すでに詞章が現代的表記になっています。
NHK
で伝統芸能を放送する際の字幕も、ずいぶん前から現代的表記になっていますね。

実際の舞台となるべく同じになるように床本を編集しています。
例えば千歳太夫さんが語る場合は、過去の千歳太夫さんの録音を聞き、
千歳太夫さんが初役で勤める場合は、越路太夫さんの録音を聞き、
舞台と床本が同じになるように編集。
そこに、番付の付録としての意義があると思うわけです。

(ちなみに舞台に出る字幕は、編集係は関与していません)

私は現在、編集係の係長なのですが、9月公演の床本の校正は一切しなかった。
その前の公演まではしていました。かなり熱心に。
時間が捻出できなかったのね。他のことで精一杯だったのです。
もう3人で校正すれば充分じゃないかと思う。
私が大阪で編集をしていたときは、1人で床本の校正をしていた時期もありました。
いいでしょう編集係3人で。制作担当者2人も校正しているし。
私が大阪で編集をしていたときは、制作担当者は校正していなかったし。
時間がなさすぎですね。
何もかも時間がなさすぎ。

2016年6月13日 (月)

写真で覚えている

写真の存在によって昔の物事を記憶している、というケースがあります。
子供の頃の旅行など、写真があるから覚えている(写真がなかったら覚えていないかもしれない)ということがあるものです。
舞台写真にも、そういう効果があるのではないかと思うのです。
写真があることによって覚えている、ということが。

文楽公演のプログラムに、なるべく多くの舞台写真を掲載したいと思っているのですが、5月公演プログラムの最後のページに「さつきと夕顔の鉢」の写真を掲載したところ、実際の舞台にその場面がなくってビックリでした。
普通は、鉢に夕顔の花、そして夕顔棚のほうには花が咲いていなくて実だけがなっている、という上演が多いと思います。
5月公演では、夕顔棚に花と実が同時に付いていました。
これは、さつきを遣う人形遣いによってやり方が異なり、舞台稽古になるまで周囲の人々には分からない、ということのようでした。

棚に付いた実は、「久吉の印である瓢箪を切り落とすことによって光秀が久吉を倒す決意を見せる」という場面がありますから、どうしても必要なものですが、そこに花があるかないかというのは公演によって違うんですね・・・。
うり科の植物は、花が咲いてから実がなるまで期間が短いので、こちらでは花が咲き、その隣で実がなる、という状態でも不自然ではないと思いますが・・・。
(私は5月公演のやり方のほうが詞章に合っているのではないかと思いました)

去年の9月公演で『鎌倉三代記』が上演されましたが、プログラム8ページ上段右の写真は、9月公演では演じられませんでした。この写真に相当する場面はなかった。
そして8ページ下段のあらすじに「藤三郎は慌てて庭先の井戸の中へ逃げ込みました」とありますが、9月公演では藤三郎は井戸の中に逃げず、下手へ消えていきました。これも、人によってやり方が変わるそうです。

2月公演では、表紙のおとわの衣裳が舞台と違っていて驚きました。第2部で、同じような話が続くので、いつもと違う衣裳に変更したそうです。

文楽も、その公演ごとにやり方がずいぶん違うので、過去の写真と異なる場合があるものなんですね・・・。

2016年5月16日 (月)

よもやま

先月、清介師匠のインタビューを担当させていただいたのです。
大阪弁で1時間半のマシンガントーク。
私は関東育ちで、大坂弁で原稿を書くことはできませんでしたが・・・。

インタビューの中で四柱推命の話が出てきましたけれども、清介師匠の占い好きは私のような下っ端職員も聞き及んでおりまして、占いによって清介師匠のお弟子さんの名前は「2文字目が4画」と決まっているのだとか・・・。

清介師匠にゲラをご確認いただいた時に、「駄目」とか「寂しい」とか、何気なく入っているマイナスの言葉を、同じ内容を表すプラスの言葉に全て置き換えていらしたのが印象的でした。
そういう工夫が幸運を呼び込むのかもしれませんね。
私には真似できませんが・・・。
(私の心の中には綺麗な花だけが咲くわけではありませんから)

インタビューページに掲載した床の舞台写真は、奇跡の1枚で、あんなに素晴らしい三味線の写真は滅多にお目にかかれません。
文楽のカメラマンは、どうしたって人形を中心に撮影するので、床の写真は少ないのです。今回のインタビュー用にカメラマンにお願いして特別に撮っていただいたのです。
本当は去年の12月にインタビュー記事を掲載しようと思っていたのが、清介師匠は鑑賞教室のほうに出演されたので延期になり、2月に載せようと思ったら嶋太夫師匠の引退記事が入って延期になり、やっと今月掲載できた。その間も写真撮影は続けていたので、あの写真が撮れたト。あの写真、最高でしょう?すごくないですか?高貴な有徳の僧みたいに、後光が射しているもの。どうしちゃったんだろう・・・。

国立劇場の文楽公演プログラムに出演者インタビューが載るのはたぶん今回で最後になると思うので、あんな写真が掲載できて本当に幸運でした。

清介さんの直接の師匠ではないので記事には書きませんでしたが、弥七師匠のお話が面白かったですね。弥七さんは、8代目の綱太夫師匠の相三味線だったのですが、先に綱太夫さんが亡くなり、そのあと気を病んで入水なすった人です。亡くなる前しばらくは、出番前に楽屋でずっと「弾けまへん~、弾けまへん~」ってブツブツ言っていて、今の寛治師匠が肩衣を着けていつでも代われる状態にしてあったそうです。(実際に代わったこともあったらしい)
しかし、いったん床に出たらすごい名演で、終わって床が廻った時、「背中から火が出ているように見えた」と清介師匠は仰っていました。

あとは「太夫の息」の話が面白かった。
太夫というものは、「音〔おん〕」と「息〔いき〕」と「間〔ま〕」が使えなければならない、という話を住太夫師匠から伺ったことがあるのですが、清介師匠の仰る「息」は、住太夫師匠の「息」とは違うようでした。
住太夫師匠の「息」は、声を客席の後ろまで届かせるための手段、というようなお話だったと思うのですが、清介師匠の「息」は、語りのテンションと言いますか、感情の激しさを表現するための手段、という意味のようでした。
太夫は語っているうちに息が下がってきてしまう、息は上げていかなければいけない、と仰って、息が上がっている語りと、下がっている語りを実演してくださったのですが、それはどうやってもインタビュー記事に盛り込むことができず、せっかく面白い話だったのに、申し訳ないことでした。
音楽を構成する要素には、
・音の高い・低い
・音の大きい・小さい
・音の長い・短い
という3つがあると思うのですが、
それ以外にも、いろいろな要素を盛り込むことが可能なのだなあと、
清介師匠のお話を伺いながら考えたところでありました。

インタビューのあとは、ご一緒に法善寺まで歩いていき、写真撮影。
贅沢な時間でした。

2016年4月29日 (金)

『菅原伝授手習鑑』あれこれ

玉虫厨子〔たまむしのずし〕をご覧になったことがありますか。日本史で必ず習いますでしょう。厨子と言うのですから、中に仏像か何か入っていたのでしょうけれど、その肝心の礼拝物が話題となることはなく、入れ物のほうが残って国宝になっているのですね。私は実物も複製も見たことがあります。
玉虫厨子の扉や側面には、いくつかの絵が描かれており、そのうちの1つに「捨身飼虎図
〔しゃしんしこず〕」がございます。お釈迦様の前世を描いたもので、飢えた虎の親子に自分の体を投げ出して食べさせるという絵です。

仏教では、自分を犠牲にする美徳が説かれることがありますね。沈みかかった船に救命ボートが近づいてくる、けれど全員は乗れない、その時に「私はいいから、あなた乗りなさい」と言えるのが仏の教えではないのですか。救命ボートに乗れるのが愛しい我が子であったなら、沈む船に残る母親はいるのじゃないだろうか。しかし、それが愛しい我が子ではなく、他人の子供だったらどうだろうか。あるいは、子供でさえなく、見知らぬおじさんだったらどうだろうか。見知らぬ婆さんだったら、どうだろうか。

「捨身飼虎図」は、馬鹿馬鹿しい絵だろうか。美しい絵だろうか。前世のお釈迦様が虎に我が身を差し出したのと同じような心で小太郎は源蔵に首を差し出したのではないか、と、私はその絵を見ながら思ったのです。にっこりと笑うて。

「寺子屋」が理解しがたい、という話をよく聞きます。「現代では全く理解できない話ですが」などとインタビューで話す歌舞伎俳優さんもいるくらいです。
亡くなった落語家の立川談志さんが、次のような文章を書いていました。

師匠、先輩に教わった落語をそれぞれの演者が自己流にアレンジして演じるのは当たり前のことだが、なかには教わった演者の芸風に惚
〔ほ〕れ、そのままに演ずる人もいる。一言半句〔いちごんはんく〕違わない演者もなかにはいるし、また教わった落語を自分でアレンジ、構成する技術を持たない落語家もいる。
ひと口にいえば、そんなのは落語家失格なのであるが、趣味人の対象にはなり得る場合も出てくるし、私もそのスタイルの芸人を追いかけたこともある。
ただその場合、私が見ず知らずの名人の面影を追う時は、懐かしきその演者、師匠の芸をオーバーラップさせてくれた時である。
それはそれでいい。
「伝統を現代に」のスローガンで落語を演じてきた私の具体的な話をする。

私は出来るかぎり、昔の「落語」から、現代に通用するテーマを引き出して、「伝統を現代に」という旗印で今日
〔こんにち〕までやってきた。歌舞伎と違って、落語は伝統芸に現代を主題に導入することが可能である。歌舞伎には現代に通用するテーマが少ない。例えば「寺子屋〔てらこや〕」のなかからあえてテーマを探すとすれば、“自分の主人のために我が子の首を斬〔き〕って差し出す忠義”ということになる。これを主題にし、客に訴えたら、大衆は怒るだろうし、主婦連はシャモジを持って歌舞伎座を取りまくかも知れない。
「我が子の首を主人のために斬るとは何ごとだ」
といきり立つだろう。または、バカバカしくて誰も相手にしないだろう。もし「寺子屋」から現代に共感を得られるテーマを求められたら、どうしよう。こんなくだらないテーマの芝居を、いい年をして演
〔や〕らねば食えない、歌舞伎が成り立たないというバカバカしさを演ったら、むしろ、この方が現代に通じる。つまり、上司の前で、我が女房に見せられないような、バカバカしいことを演じなければならない平社員の哀しさに通じるものがあるだろう。この歌舞伎役者のバカバカしさ、これなら充分現代に通用するかも知れない。
「寺子屋」で我が子を喪
〔うしな〕う悲しみは理解出来ても、その子を主人の子どもの身代わりにすることに共感はない。ないどころか、グロテスクであり、話題にもしたくない。仮にグロでもアナクロでも、それを見せ、感動させるのが芸だというなら私は感動しないからそれを芸とは認めない。なら仕方なくテーマは別として様式美でも見せるしか方法はあるまい。つまりファンタジーの世界である。幸いに、歌舞伎には広い舞台と音楽と花道に廻〔まわ〕り舞台、セリ上がり、屋台くずしに、宙吊〔ちゅうづ〕りと、派手な見せ場をつくる仕掛けがある。加えて、豪華な会場は、一流人たちの社交の場所であり、そこに集うきらびやかさは、客それぞれの生活の豊かさの証明でもあり、池袋演芸場とはまるで違う。
落語にも歌舞伎のように様式美があればいいのだが、残念ながら、それはない。何にもない。演者にもなければ、舞台や客席にもない。
現円歌
〔えんか〕のネタではないが、
「落語の方は、舞台に何もない。座布団
〔ざぶとん〕が一つだけ、ワキに戒名〔かいみょう〕がぶら下がってやがる。楽屋の方ではテケテンテンなんて太鼓が鳴ると出てくる、猿廻〔さるまわ〕しのエテ公とおんなじで……」
であり、故三平
〔さんぺい〕の、
「歌舞伎は凄いですヨ。舞台が廻るんですからァ、落語は廻らないんですヨォ。鈴本
〔すずもと〕の舞台を廻すと、福神漬屋が出ちゃうんですから……」
と隣の「酒悦
〔しゅえつ〕」という福神漬屋をギャグにしていたが、落語には歌舞伎ほど具体的な様式美がないから、芸もその語る内容に依存し、テーマも人間に絞り、「伝統を現代に」と演〔や〕ってこられたわけある。
『立川談志遺言大全集11 落語論二 立川流落語論』よりp5658

「様式美がある」ということは、すなわち「変化させにくい」ということであり、「様式美がない」ということは、すなわち「自分でいくらでも工夫できる」ということでありましょう。(ちなみに「酒悦」の福神漬は、6歌右衛門が好んで召し上がっていたそうですが、お醤油の味が濃い、他と一風違う福神漬です。)

さて談志にこき下ろされた「寺子屋」ですが、私は初めて見た時から感動しましたし、嫌な話だとは思わなかったのです。談志はアレでしょう、常々「落語とは人間の業
〔ごう〕の肯定である」と言い、色紙にも書いていました。(談志の書いた色紙に「死ね下衆野郎」というのがあるらしく、私はその色紙が最高レベルで欲しくて欲しくてたまらないのですが、どこかで手に入らないだろうか。)
「人間の業の肯定」というのは、「やりたいから、やっちゃいました」「やりたくないので、やりませんでした」という人間の煩悩を、笑って肯定できるのが落語である、ト。
『菅原伝授手習鑑』というのは正にその逆で、「やりたいけれど、やってはいけないことなので、やりません」「やりたくないけれど、やるべきなので、やります」という話です。どちらを理想とするか、どちらに憧れるか、それは人によって違うでしょう。江戸時代でも現代でも同じ、人によって違うでしょう。

そもそも「寺子屋」は、床本に「ここぞご恩を報ずる時」とあるように、「忠義の話」というよりも、「恩返しの話」であると思うのです。そして、三つ子が恩を返す場面はいろいろ描かれているけれど、恩を受けた場面は過去の出来事としてあまり描写がない。「返した恩」に対して、その大きさに見合うような「受けた恩」が描かれていないので、変な話だと思われるのではないでしょうか。

三つ子の恩人の菅原道真は、天神様、学問の神様ですから、知らない人はいないでしょう。しかし、「何をした人か」と問われると、「讒訴によって左遷させられた」という出来事と、2、3の和歌が思い浮かぶくらいではないでしょうか。
道真が「学問の神様」と言われるのは、漢学に精通していたからではないかと思うのです。道真は、和歌よりも漢詩で有名な人です。しかし、漢詩を楽しむという習慣が日本から消滅し、道真の作った漢詩も顧みられることがなくなりました。神様も、拝む人がいなくなったら力を失うのでしょう・・・。

菅原道真は優れた政治家でしたが、その業績で最も有名なのは、遣唐使の廃止を進言したことでありましょう。日本には古来より独自の話し言葉がありましたが、文字がなかったので、中国から文字を取り入れ、そこから平仮名が生まれます。漢学のできない人は政治家にはなれません。仏教、学問、音楽、舞踊、中国大陸からたくさんの文化を輸入していました。それに終止符を打ったのが道真です。遣唐使を廃止して、ほどなく唐は滅亡してしまいました。中国の情勢と日本の情勢と、非常に高い視点で物事を捉えることができる人物だったのでしょう。こののち、「ガラパゴス」とも言われる日本独特の文化が発展していくことになります。日本というのは不思議な国で、島国として、異国の文化に対する強い憧憬と、異国の文化に対する強い拒絶、昔からその振幅の激しい国なのではないかと思います。

『菅原伝授手習鑑』には、2つの時代が混ざっていますね。
・菅原道真の生きていた時代・・・平安時代(物語の時代設定はここ)
・日本で初めて三つ子が生まれたと話題になった時代・・・江戸時代(作者が生きていた時代)

平安時代には、芝居に出てくるような寺子屋は存在しませんでした。「時代考証」という考え方はなかったのでしょう。
この芝居では、「三つ子」が重要な題材となっています。作者がこの芝居を書いた時に、実際に日本初の三つ子が生まれて話題になっていたのを取り込んだト。

床本に、
「顔と心は変わっても着る物は三人一緒、ひょんな者産んだと親父が気の毒に思うた」
とあります。
「親父」とは三つ子の父親である四郎九郎
〔しろくろう〕、のちの白太夫のことです。この「ひょんな者」「気の毒」という表現は、一体どういう言い草なんだろうかと、ずっと不思議に思っておりました。「ひょんな者」「気の毒」という言葉には、「生まれてくれて嬉しい」という感情がありません。
当時、出産は母子ともに死亡率の高い一大事で、この芝居には母親の話題が出てきませんけれど、三人も産んだらそこで死んでしまったのかもしれない。
また当時は、貧しいながら7人も8人も兄弟がいるという家も多かったでしょうが、年が違えば「お古」「お下がり」という手がある。しかし三つ子だと、三人を同時に平等に育てなければならず、育てにくい、どうやって育てたらいいのか分からない、ということもあったでしょうか。

しかし、私も若い頃は気が付かなかったのですが、ここで一番重要なのは、「双子は縁起が悪いものとされていた」という事実です。現代ではそのようなことを言う人はいませんし、すっかり忘れられていますが、『三人吉三廓初買』の中にはっきりと描かれていますので、歌舞伎ファンならみんな知っているはずです。日本の悪い風習として消え去った考え方が、名作の中にだけ残ってしまったのですね。どのくらい縁起が悪いのかと言えば、『三人吉三』の中では片方の子を捨ててしまうくらい縁起が悪かったわけですから、よほど強く根深い因習だったのでしょう。
「ひょんな者」という言葉には、「双子が縁起の悪いものなら、三つ子も縁起が悪いのではないか」という父親の暗い心配が込められていると思うのです。しかし三つ子は日本では初めてのことだったけれど、中国に先例があり、縁起の良いものとされていた。そして、中国の事情に精通していた道真だけが、その先例を知っていたのですね。つまり、三つ子の誕生に祝福を与えてくれたわけでしょう。「生まれてくれて、ありがとう」と言ってくれた、それが、菅原道真が三つ子に与えた最大の恩なのではないかと私は思っているのです。その後の人生が全然別なものになるわけですから。自分で自分の命を肯定できるかということは、自分の力だけでは決められないでしょう。分かりますか。

床本の中には、道真が三つ子を烏帽子子
〔えぼしご〕にした、とも書かれています。烏帽子親になるということは、保証人になるということでしょう。
私は大学生のころ歌舞伎研究会というサークルに所属して、歌舞伎の実演をしていました。(今年、そのサークルは部員が集まらず廃部になってしまったそうですが・・・。)
歌舞伎俳優になったサークルの先輩がいて、私たちの学生芝居の稽古を何回か見てくださいました。小道具の扱い方や、後見のこと、衣裳のこと、ビデオを見ているだけでは分からないことをいろいろ教えていただきました。それで、指導ということでプログラムにお名前をお載せしましょうかという話になった時、「私に教わったなんて絶対に誰にも言わないで」と釘をさされました。教えるのなら、もっと最初の段階から本格的に教えないと駄目で、本番前に数回教えたくらいでは名前は出せない、とのことでした。

『菅原伝授手習鑑』の三つ子は、誰が長男で次男で三男か、という話題がよく出てきます。私は、この芝居は「三人同時に生れた」というところにこそ重点が置かれており、「誰が先か」ということは問題でないと考えています。
梅王丸の台詞に「おれを兄のお心でか、梅王丸とお呼びなされて」とあるところから、梅王丸長男説がありますが、それは梅王丸が道真の心を推量しただけなので、根拠にはならないと思います。
梅が桜より早く咲く「花の兄」だから梅王丸が長男だと言われますが、その基準だと常緑の松が早いのか遅いのか分かりません。
仕えた主人の格の順番で言えば、人間の胤ならぬ竹の園生の御所奉公をしていた桜丸が長男となるのでしょうか?
三人の生まれた順番を知っているだろう父親の台詞には、「一時に生れた倅
〔せがれ〕」とあります。
そして、三人の名前が出てくる場面が何回かありますが、名前の順番は同じにならないようランダムに仕組まれていると思います。

「現代には通じない物語」と言われますが、初演当時でも、分からない人はたくさんいたでしょう。理想は人によって違います。
子供は、親や先生の思うようには育たぬもの。けれど、ちゃんと育てたら三人ちゃんと育ちましたという、『菅原伝授手習鑑』は教育讃歌の物語なのではないかと私は思うのです。
同じ理想を同じように教えられたからこそ、松王丸は桜丸のために泣くのでしょう。

2016年4月 7日 (木)

『妹背山婦女庭訓』国立文楽劇場

国立文楽劇場で『妹背山婦女庭訓』(通し上演)を見てきました~。
私がこの演目を初めて見たのは平成6年5月の国立劇場で、こんなすごいものがあるのかと驚くくらい非常に感動したのです。
その公演の時には、「妹山背山の段(通称山の段)」の両床で、
心ばかりが、い




と一文字ずつ交互に語るあたりから泣き始め、もうずっと泣きっぱなし。
濡れタオルをきつく絞るみたいに、体中の水分が涙になって目から流れ出るのではないかというくらい泣いたものでした。

でも、この演目が上演されれば必ず感動するというわけではなく・・・、見ても感動しない公演もあったので、太夫の顔ぶれが新しくなった今回の公演で感動できるものなのか、ちょっと半信半疑なところもあったのです。
ところが、ここからまた新しい文楽が始まるのではないかと思うほど、私も新たに感動してしまいました。もちろん見た全員が感動すると決まったわけではない。現に私の隣の席のおじさんは半分くらい寝ていました。しかし私は針が振り切れるくらい心の限界まで感動して、ああ何て美しいのだろう、何て美しいのだろう、こんな美しいものは世界中を探してもなかなかあるものではない、この美しさをあと100年存続させるためなら私の命を人柱に立ててもいいのに、と思ったのです。
しかし、どうですかねえ、簑助師匠が雛鳥を勤めるのは今回が最後なのかなあと思いますし、何と言っても優れた太夫が4人いなければ上演することのできない「山の段」、しかもこの場面だけやるわけではありませんから、なかなか難しいと思いますねえ。(2人で掛け合うこともありますけど・・・)
そういうわけで、期間限定で日本に出現した美の奇跡を絶対に絶対に見逃さないでいただきたいのです。交通費や宿泊費に4万5万かかったとしても、それは巨大な感動を得るための必要経費というもの。日本人に生れて『妹背山』を見たことがないなんて、そんな勿体ないことがあるでしょうか。ズル休みをしてでも、親類に借金をしてでも、何としてでもご覧いただきたい。それが私からのお願いでございます。

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