2 文楽

2018年9月27日 (木)

寺子屋

森下文化センターで、靖太夫さんと錦糸さんの「寺子屋」を聞いてきました。
どうでもいいですが、森下文化センターの公式サイトに掲載されている地図では森下文化センターにはたどり着けないと思う・・・。

「寺子屋」を一段まるまる語るのではなく、合間に解説を入れながら、いくつかに区切って演奏されました。かなりカットが入っていて、松王丸の泣き笑いが省略されてビックリでした・・・。
演奏後に質問を受け付けていたので、なぜ泣き笑いがカットなのか訊こうかと思ったのですが、国立劇場の職員がそんなことを質問しては悪いかと思って黙っていました。何か言うに言われぬ切ない事情があったのかもしれませんし・・・。誰か代わりに質問してくれる人はいないかと思いましたが、いませんでした。ひょとして質問があったら演奏してくれるのではないかと期待したのですが・・・。

やっさんが「寺子屋」を一段語るのは、いつのことになるのやら・・・。

それで、今日の会とは直接関係のない話ですが、
太夫だったら「寺子屋」だの「太十」なんて語れて当たり前だと思うじゃないですか。
でも若い太夫がそのような名作を語る機会は少ない。
人前で語りたいという欲望がないのかと不思議に思うわけなのですが、師匠から教わらないと語れないのだそうですよ。だから本人の意思より師匠の意向が大きいのだそうです。
それから、どんなに意欲があっても、自分で素浄瑠璃の会を主催することはなかなか難しいと聞きます。上演に向けて稽古すること以外に、会場を押さえたり、宣伝したり、切符をさばいたり、なかなか出来ないのだそうです。
逆に言えば、そういうことをやってくれる人がいれば、語ってくれるみたいですけどね。

2018年9月 6日 (木)

増補忠臣蔵

鶴澤寛治師匠がお亡くなりになりました。
寛治師匠と言えば、鶴澤寛治という大きな名跡を襲名する際の披露狂言が『増補忠臣蔵』でした。増補物で大名跡の襲名披露というのが私には不思議に思えたのですが、この時、孫の寛太郎さんが13歳で初舞台を踏まれています。初舞台が三千歳姫の琴だったんですね。琴で初舞台というのがすごいと思ったのです。三味線弾きですから三味線が弾けるのは当たり前、「それ以外に」これだけのことをすでに教えてあります、という特別なお披露目でした。ですから、お孫さんの初舞台という点に重きを置いて選ばれた演目なのかなと思っておりました。(私はこの舞台は拝見していませんが・・・)

しかし、講談や浪曲では外伝だの銘々伝だのたくさんの忠臣蔵物がありますけれども、文楽では『仮名手本忠臣蔵』という絶対的な名作がある状況で、1つだけ話を補うとすれば、やはりこの場面になるのかなあと思うのです。
『忠臣蔵』の九段目「山科閑居」で、加古川本蔵が「忠義にならでは捨てぬ命、子ゆえに捨つる親心、推量あれ由良助殿」と言います。これは、「自分の命は忠義のためだけに捨てるつもりだった、しかしそれはやめて、娘のために命を捨てることにした」という意味だと思いますが、そうしたら当然、「忠義のほうは一体どうなったのか?」ということが気になるはずです。それに答えを与えたのが『増補忠臣蔵』なのでしょう。

人間は、やりたいことがあったとして、その全てを実行に移すわけではないでしょう。たとえば、「それをすると死んでしまう」ということには手を付けません。ところが武士というものは、死ぬことで出来る夢があるなら、やってしまう人々なのだと思います。死ぬのが怖いと戦えませんしね。

自分の命を何に使うか、それは誰にとっても大きな問題ですし、出来ることなら自分で選び取りたいものですね・・・。

2018年4月30日 (月)

住太夫師匠

竹本住太夫師匠がお亡くなりになりましたね。
私はむかし国立文楽劇場で宣伝編集の仕事を3年間しておりましたので、住太夫師匠のインタビューには何度となく同席させていただきました。本当にお話が面白く上手な方でした。
それはやはり、薬師寺の高田好胤さんとご親交が深かったという影響も大きいのではないでしょうか。高田管長というのは、説法、法話の面白さで人気を呼んで薬師寺の伽藍を再建しちゃた人ですから、私は聞いたことがありませんが、よほど話に魅力のある人だったのでしょう。

関係ありませんが、つねづね私が思いますには、文楽はやはり仏教のことを知らないと分からない部分があると思います。

住太夫師匠の思い出は、以前このブログでも書いたことがあります。
 ↓
住太夫師匠のお話

私が初めて見た文楽は、平成4年の『本朝廿四孝』通し上演で、住太夫師匠は「勘助住家」を語っていられました。お種が極寒の中の我が子を助けようとする場面で私はグズグズに泣き、そしてそのあとの場面の急展開に興奮したものでした。
若い観客は『本朝廿四孝』を通しで見ることができず可哀想だと思っております。

住太夫師匠の語りで一番感動したのは、やはり「沼津」ですね。あんなに素晴らしいものが日本にあるということをほとんどの日本人が知らなくて日本は一体どうなっているんだろうと私は思うのです。
それから「山の段」の定高には本当に泣きました。体ぢゅうの水分が全て涙になって流れ出るのではないかというくらい泣きました。平成5年の『妹背山婦女庭訓』を通しで見られたことは、幸薄き私の人生で数少ない僥倖でございました。本当に有り難い体験でした。「カタルシス」という言葉は知っていたけれど、何のことだか分からなかった、それを自分自身で実体験した観劇でした。

私は若い頃「佐多村」の良さがよく分からなかったのですが、住太夫師匠の引退公演の時にしみじみとその浄瑠璃の良さがやっと分かったのです。師匠はこの「佐多村」がお好きでした。「こんないい浄瑠璃を語らせてもらっていて、お客さんが泣かなんだら、よっぽど太夫が悪い」とよく仰っていました。私はそのお話を伺っていて、自分が「佐多村」に感動しないのはどうしてなのかなとずっと思っていたのですが、年とともに分かるってこともあるんですね。

下っ端の職員だった私のような者にまで気さくに話しかけてきてくださり、日本の最高の宝である人間国宝と話をするなんて不思議な気持ちでした。

「大阪はもっと綺麗な街だったのに、銀座が羨ましい」と仰っていたことがありました。大阪と文楽の現状に不満で常に怒りに燃えていらっしゃいました。
あの太夫はここが駄目、この太夫はこうだから駄目、という話を私にも何度かされました。

「自分は幸運な星のもとに生れた」とよく仰っていました。実際には召集、敗戦、興行の不振、文楽の分裂、宿や交通手段の手配も荷物の持ち運びも全て自分たちでやっての全国巡業と、苦労続きだったはずなのに、「わしはそれを苦労と思わなかった」と仰っていました。苦労を苦労と思わぬほど文楽を愛していられました。

生前の偉大なご功績を改めて偲びたいと思います。

2018年2月26日 (月)

2月文楽

もう終わってしまったのですが、今月の文楽公演『摂州合邦辻』、素晴らしかったですね。語りの力で芝居の途中に客席から拍手が起こる、というのがすごく久しぶりの出来事のように感じられて、昔は普通に拍手が起こっていたところで最近は起こらないことが多かったので、何だか本当に目出度く、そして嬉しい公演でしたよ。咲甫さんは昔からスターだったとは思いますが、織太夫という大きな名前を継いで、それに相応しい力を示したということで、大輪の花がパッと開いたような、まさに見ものの公演でした。本当に目出度いですね。勘十郎さんの遣う玉手御前もゾクゾクするほどの面白さでした。良かった良かった。

2018年2月15日 (木)

心中宵庚申

現在、国立劇場の2月文楽公演で『心中宵庚申』が上演されています。
「庚申」というのは、歌舞伎の『三人吉三』にも出てきますので、昔から少しは知っていました。庚申は「年」にもあるし「日」にもあるのですね。60日に1回、つまり年に6回くらい「庚申の日」があるわけですが、江戸時代の人々はそんなに頻繁に庚申待ちで徹夜していたのでしょうか?

ところで私はずっと、『心中宵庚申』は庚申の日の宵の話、すなわち庚申の日の日暮れ頃に心中に出発する物語だと思っていたのです。ところが実は「宵庚申」は「庚申の日の日暮れ頃」ではなく、「庚申の前日の夜」のことなのだそうです。お祭りの前夜を「宵宮」と呼ぶのと同じ「宵」なんですね。「宵庚申」は、「庚申の前夜祭」ということなのでしょう。前夜祭が付くほどのビッグイベントだとは思いませんでした。庚申の夜にはみんなで飲んだり食べたりして徹夜するのでしょうけれど、庚申の前夜には一体何をするのでしょうか?庚申待ちの準備でしょうか。名前が付いているからには、何か特別な日なのでしょうが・・・。
詞章では、申(さる)の前の日は未(ひつじ)で、屠所に向かう羊のように人間は少しずつ死に向かって歩いている、というような描写がありますね。

人々が庚申待ちで徹夜して騒いで(?)いる中、夫婦で心中する二人・・・という話だと思っていたのですが、そうではないんですね。徹夜する前の日だから、みんなたっぷり寝ておくわけでしょう。翌日、庚申の長い夜の、噂話の種になった、という感じでしょうか?

2018年1月13日 (土)

太夫の目

私が初めて歌舞伎を見たのは平成4年4月、大学2年の時でした。2年の時に友人に誘われて歌舞伎研究会(通称かぶけん)に入ったのでした。当時、いろいろな大学に歌舞伎研究会がありました。しかし、私が入っていた法政大学の歌舞伎研究会は、人が集まらなくて数年前に廃部となってしまいました。今の歌舞伎座の切符は高額すぎて、学生は歌舞伎を見られないのでしょう。3階B席は私が学生の頃の倍の価格になっています。なぜ値上がりしたのかというと、
・歌舞伎座は建て替えによって3階の席数が大幅に減った
という以外に、出演者や裏方の待遇が変わってきた、ということがあるでしょう。昔は楽屋に寝泊まりしていた人もいたそうですが、今はそういうことはありませんし、宿泊となれば1人1部屋。昔は大勢で相部屋だったのですから。地方巡業の時は地位に関係なくバスで集団移動していたそうですが、今は個別。
(1度変わったものが、再び昔のように戻せるのかどうか私には分かりませんが、今後どうするのでしょうね・・・)

私の在籍時、歌舞伎研究会は、4学年で20人弱いましたかねえ。
その中には、「本当は歌舞伎よりも文楽のほうが好き」という人も数人いましたよ。
(文楽研究会は存在しなかった)
そして、「人形は見ないで床だけ見てる」という人もいました。
私も、文楽を見始めてしばらくは、舞台より床のほうを見ることが多かった。
文楽の様々な要素の中で、私を最も魅了したのは断然、太夫だったのです。
太夫は神様みたいだった。だって神業を見せてくれたから。

私は不思議なんですけれども、最近の若い太夫さんは、ずっと下を向いて語っている人が多いですね。(多いというか、全員?)
昔は絶対にそんなことはなかったのです。特に住太夫師匠なんて「客は自分を見に来ている」と思っていたに違いありません。文楽を撮影するカメラマンは、住太夫師匠の写真をたくさん撮っていたと思います。住太夫師匠は、カメラマンを魅了する人だった。
床本なんて見なくても、詞章は全部暗記しているわけでしょう。なぜずっと床本を見ているのか分からない・・・。
太夫の写真を撮影しても、使えない写真ばかりですよ。
浪曲師だって講談師だって、もっと見栄えがすると思いますけど・・・。

四代目の越路太夫さんが、こんなことを語っておられます。
古靭太夫〔ルビ:うちのししょう〕と同じ位好きでよう聞かしてもろたん土佐太夫〔てんがちゃやの〕師匠でね。これが物凄い目でね、鷹のような鋭さの。古靭太夫〔うちのししょう〕の目もよく利いていたが、近眼ですから、大きい目の割には正面切ってにらむようなことはあまりなかった。そこへいくと土佐太夫師匠は、こわい目遣いでした。
子供の僕がそう感じていた、それだけのことです。ただこれを、古靭太夫〔うちのししょう〕や駒太夫師匠との違いとしてはとらえていた。
昭和三年六月、『忠臣蔵』が建った時も、土佐太夫師匠の『勘平切腹〔かんぺいせっぷく〕』を、聞くというより、小幕〔こまく〕へまわって目を見てたんですね。人形が出入りする下手〔しもて〕の小幕。御簾内〔みすうち〕だと頭のてっぺんしか見えんから。
そしたらね、えらいこと聞いた。人形の先代栄三〔えいざ〕さんが、勘平を遣ってるんだが、これがね、「南さんやと腹切らざるを得ん」と言われたんですよ。南さんというたら土佐太夫師匠の本名ね。
郷右衛門〔ごうえもん〕の「左程〔さほど〕の事のわきまへなき汝〔なんじ〕にてはなかりしが、いかなる天魔が見入〔みいれ〕し」の言い方で、これね、一言も勘平に腹切れとは言ってませんよ、だけど、この言い方でね、たまりかねて勘平は腹を切るんですね。勘平を持っている栄三さんが、そういう思いになると話してはるのを聞いた。
次の日からも毎日じっと見てると、これを目でも表現してはるんですよ、土佐太夫師匠。このあとの文句は「するどき眼〔まなこ〕に涙をうかめ」、ね、あとからこういう文句があるが、この説明になってから鋭い目をしても遅い、先に鋭い目をしといたのが、ここで利いてくる、結果たまりかねて勘平が腹を切る、口で言うてしもたらこんだけやが、これをしからば、目で演出して、鋭い目で言うて、そう聞こえるかというと、そうではない。栄三さんとて、太夫の目見て遣うわけやなし。お客さんも。そうじゃなく、
すぐれた言い方は、自然に目にも出てくるということで、目だけで芝居なんか出来ませんよ。素浄瑠璃〔すじょうるり〕なんかの時には、ある程度、顔や目で芸することもありますけどね。
(高木浩志:著『文楽に親しむ』より)


「顔で見せる」というような側面が、今はごっそり消滅してしまった感じがするのです。

私はわりと、技芸員のインタビューに同席させていただく機会があるのですが、咲太夫師匠は、詞章のこの箇所で視線をここに持って行け、ということを若い時に教わった、と仰っていました。そういう口伝は、どこへ行ってしまったのでしょう・・・?

2016年8月22日 (月)

時をかける香り

インターネットというものが現れて、一番変わったのは「調べ物」ではないでしょうか。「あれ?あの和歌、何だっけ?」「このオペラ歌手、誰?」などという場合に威力を発揮する。

『一谷嫩軍記』二段目「林住家の段」の中に、
「これもその人の形見と思へども なほ懐しき袖の移り香」という和歌が出てくるのですが、この和歌は出どころが不明なのだそうです。(いくら検索しても出てきませんよ)
この和歌の出典を見つけた人は、特別なご褒美がもらえるらしいです。(ウソ)

『一谷嫩軍記』の中には、「形見」がいくつか登場しますね。
・忠度の片袖
・敦盛の青葉の笛
・忘れ形見の姫君


生き残ってしまった敦盛の台詞に、こんなのがあります。
「ただ儘ならぬは世の習い、はかなき物は人の身の、一生は皆夢と思えば、さのみ迷いもあるまじ。さりながら、今を限りの別れといえば、誰しも名残惜しいもの。もしも恋しき折からは、心のいさめともならん、いでいで形見を参らせん」
しみじみと味わい深い台詞ですね。
人は死んだ後に何が残りますかねえ・・・。

「これもその人の形見と思へども なほ懐しき袖の移り香」
この歌の意味が分かりますでしょうか?
「これ」が何を指すのか示されていませんが、「もう会えないのであれば、形見にもいろいろあるけれど、この形見ではなく、あの人の香りのする袖が一番ほしい」という意味でしょうか。
匂いが一番「あの人」を思い出させるものですかねえ。

国立劇場の絨毯が20年ぶりに張り替えられたのですが、20年も張り替えなかったなんて、日本もずいぶん貧乏な国ですね。
ロビーへ出る廊下を歩いていると、ずいぶん手前から絨毯の匂いがしてきて、私は突然20年前を思い出した。

あれこれ

桃や葡萄が美味しい季節ですねえ。

NTTは、儲けた金を何に使っているのでしょうかねえ。
何のために民営化したのだろう?
みんなが必ず利用するもので何の苦労もなく自動的に儲けて一部の人だけがウハウハ?
昔、3分10円だった通話料が、
今、1分10円で、
携帯からだと20秒で10円?
全然競争してないみたいですけど・・・?
(NTTに早く天罰が下りますように)

読み人知らず
読み人知れず
詠み人知らず
詠み人知れず
読み人しらず
よみ人しらず
読人知らず
etc
『一谷嫩軍記』に登場するこの言葉、どう表記するのが良いのでしょうかねえ?
床本の中に2回出てくると思いますが、調べると、同じ書き方をしていないのね。
作者がわざと変えたのか、意図せずに何となく変わってしまったのか・・・。
(義経が言ったことを六弥太が勝手に言い変えるなんてことが、あるのだろうか)
「知らず」のほうは、「誰が詠んだ歌なのか不明」という事実だけを表しているのに対して、「知れず」のほうは、「知りたいと思っていろいろ調べてみたけれど、どうしても分からなかった」というような悔しさが加わっているような気がする。

今度の国立劇場の9月文楽公演では、おそらく、2回とも「よみひとしれず」と語られるのではないでしょうか。(予測)

ちなみに、文楽の語りというものは、いつも必ず同じというわけではなく、太夫によっても変わりますし、公演によっても変わります。どの場面をカットするか、など、太夫だけが決定権を持っているとは限らず、公演直前に決まることもある。

床本の原稿は、国立劇場の公演制作担当者が用意して、編集係へ渡す
(台本の決定は制作の仕事であって編集の仕事ではない)
公演制作担当者と太夫は連絡を取り合っている
公演制作担当者と編集係は連絡を取り合っている
編集係と太夫は連絡を取り合っていない
床本の編集は編集係が行っている
床本は公演制作担当者も校正する
太夫の床本を劇場の職員が見るということは一切ないし、不可能

公演プログラム(番付)に付いている床本は、翻刻ではありません。
底本はないです。
編集方針も明確には決まっていません。
過去の例にならって、編集しています。
すなわち、
地の文とセリフは区別する、
登場人物が切り替わったら改行する、
ルビは現代仮名づかい、
平仮名は漢字になおす、
など。
送り仮名の送り方は、10年前に比べて、ずいぶん現代的になってきましたね。
編集する人が若くなったからではないでしょうか。
送り仮名は、60代と40代とで全く感覚が異なりますから。
私は個人的に、もう「ゑ」「ゐ」の文字を使うのは絶対にやめたほうが良いと思っているのですが、そこまでの決定権は持っていない。
繰り返し記号もやめたほうが良いと思う。
表記はなるべく現代的なものにしたほうが良いと思う。
(私には決定権がなく、決定する権力を持っている人はそういうことを欲しない)
国立劇場の邦楽公演、舞踊公演のプログラムは、すでに詞章が現代的表記になっています。
NHK
で伝統芸能を放送する際の字幕も、ずいぶん前から現代的表記になっていますね。

実際の舞台となるべく同じになるように床本を編集しています。
例えば千歳太夫さんが語る場合は、過去の千歳太夫さんの録音を聞き、
千歳太夫さんが初役で勤める場合は、越路太夫さんの録音を聞き、
舞台と床本が同じになるように編集。
そこに、番付の付録としての意義があると思うわけです。

(ちなみに舞台に出る字幕は、編集係は関与していません)

私は現在、編集係の係長なのですが、9月公演の床本の校正は一切しなかった。
その前の公演まではしていました。かなり熱心に。
時間が捻出できなかったのね。他のことで精一杯だったのです。
もう3人で校正すれば充分じゃないかと思う。
私が大阪で編集をしていたときは、1人で床本の校正をしていた時期もありました。
いいでしょう編集係3人で。制作担当者2人も校正しているし。
私が大阪で編集をしていたときは、制作担当者は校正していなかったし。
時間がなさすぎですね。
何もかも時間がなさすぎ。

2016年6月13日 (月)

写真で覚えている

写真の存在によって昔の物事を記憶している、というケースがあります。
子供の頃の旅行など、写真があるから覚えている(写真がなかったら覚えていないかもしれない)ということがあるものです。
舞台写真にも、そういう効果があるのではないかと思うのです。
写真があることによって覚えている、ということが。

文楽公演のプログラムに、なるべく多くの舞台写真を掲載したいと思っているのですが、5月公演プログラムの最後のページに「さつきと夕顔の鉢」の写真を掲載したところ、実際の舞台にその場面がなくってビックリでした。
普通は、鉢に夕顔の花、そして夕顔棚のほうには花が咲いていなくて実だけがなっている、という上演が多いと思います。
5月公演では、夕顔棚に花と実が同時に付いていました。
これは、さつきを遣う人形遣いによってやり方が異なり、舞台稽古になるまで周囲の人々には分からない、ということのようでした。

棚に付いた実は、「久吉の印である瓢箪を切り落とすことによって光秀が久吉を倒す決意を見せる」という場面がありますから、どうしても必要なものですが、そこに花があるかないかというのは公演によって違うんですね・・・。
うり科の植物は、花が咲いてから実がなるまで期間が短いので、こちらでは花が咲き、その隣で実がなる、という状態でも不自然ではないと思いますが・・・。
(私は5月公演のやり方のほうが詞章に合っているのではないかと思いました)

去年の9月公演で『鎌倉三代記』が上演されましたが、プログラム8ページ上段右の写真は、9月公演では演じられませんでした。この写真に相当する場面はなかった。
そして8ページ下段のあらすじに「藤三郎は慌てて庭先の井戸の中へ逃げ込みました」とありますが、9月公演では藤三郎は井戸の中に逃げず、下手へ消えていきました。これも、人によってやり方が変わるそうです。

2月公演では、表紙のおとわの衣裳が舞台と違っていて驚きました。第2部で、同じような話が続くので、いつもと違う衣裳に変更したそうです。

文楽も、その公演ごとにやり方がずいぶん違うので、過去の写真と異なる場合があるものなんですね・・・。

2016年5月16日 (月)

よもやま

先月、清介師匠のインタビューを担当させていただいたのです。
大阪弁で1時間半のマシンガントーク。
私は関東育ちで、大坂弁で原稿を書くことはできませんでしたが・・・。

インタビューの中で四柱推命の話が出てきましたけれども、清介師匠の占い好きは私のような下っ端職員も聞き及んでおりまして、占いによって清介師匠のお弟子さんの名前は「2文字目が4画」と決まっているのだとか・・・。

清介師匠にゲラをご確認いただいた時に、「駄目」とか「寂しい」とか、何気なく入っているマイナスの言葉を、同じ内容を表すプラスの言葉に全て置き換えていらしたのが印象的でした。
そういう工夫が幸運を呼び込むのかもしれませんね。
私には真似できませんが・・・。
(私の心の中には綺麗な花だけが咲くわけではありませんから)

インタビューページに掲載した床の舞台写真は、奇跡の1枚で、あんなに素晴らしい三味線の写真は滅多にお目にかかれません。
文楽のカメラマンは、どうしたって人形を中心に撮影するので、床の写真は少ないのです。今回のインタビュー用にカメラマンにお願いして特別に撮っていただいたのです。
本当は去年の12月にインタビュー記事を掲載しようと思っていたのが、清介師匠は鑑賞教室のほうに出演されたので延期になり、2月に載せようと思ったら嶋太夫師匠の引退記事が入って延期になり、やっと今月掲載できた。その間も写真撮影は続けていたので、あの写真が撮れたト。あの写真、最高でしょう?すごくないですか?高貴な有徳の僧みたいに、後光が射しているもの。どうしちゃったんだろう・・・。

国立劇場の文楽公演プログラムに出演者インタビューが載るのはたぶん今回で最後になると思うので、あんな写真が掲載できて本当に幸運でした。

清介さんの直接の師匠ではないので記事には書きませんでしたが、弥七師匠のお話が面白かったですね。弥七さんは、8代目の綱太夫師匠の相三味線だったのですが、先に綱太夫さんが亡くなり、そのあと気を病んで入水なすった人です。亡くなる前しばらくは、出番前に楽屋でずっと「弾けまへん~、弾けまへん~」ってブツブツ言っていて、今の寛治師匠が肩衣を着けていつでも代われる状態にしてあったそうです。(実際に代わったこともあったらしい)
しかし、いったん床に出たらすごい名演で、終わって床が廻った時、「背中から火が出ているように見えた」と清介師匠は仰っていました。

あとは「太夫の息」の話が面白かった。
太夫というものは、「音〔おん〕」と「息〔いき〕」と「間〔ま〕」が使えなければならない、という話を住太夫師匠から伺ったことがあるのですが、清介師匠の仰る「息」は、住太夫師匠の「息」とは違うようでした。
住太夫師匠の「息」は、声を客席の後ろまで届かせるための手段、というようなお話だったと思うのですが、清介師匠の「息」は、語りのテンションと言いますか、感情の激しさを表現するための手段、という意味のようでした。
太夫は語っているうちに息が下がってきてしまう、息は上げていかなければいけない、と仰って、息が上がっている語りと、下がっている語りを実演してくださったのですが、それはどうやってもインタビュー記事に盛り込むことができず、せっかく面白い話だったのに、申し訳ないことでした。
音楽を構成する要素には、
・音の高い・低い
・音の大きい・小さい
・音の長い・短い
という3つがあると思うのですが、
それ以外にも、いろいろな要素を盛り込むことが可能なのだなあと、
清介師匠のお話を伺いながら考えたところでありました。

インタビューのあとは、ご一緒に法善寺まで歩いていき、写真撮影。
贅沢な時間でした。

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