竹本住太夫師匠がお亡くなりになりましたね。
私はむかし国立文楽劇場で宣伝編集の仕事を3年間しておりましたので、住太夫師匠のインタビューには何度となく同席させていただきました。本当にお話が面白く上手な方でした。
それはやはり、薬師寺の高田好胤さんとご親交が深かったという影響も大きいのではないでしょうか。高田管長というのは、説法、法話の面白さで人気を呼んで薬師寺の伽藍を再建しちゃた人ですから、私は聞いたことがありませんが、よほど話に魅力のある人だったのでしょう。
関係ありませんが、つねづね私が思いますには、文楽はやはり仏教のことを知らないと分からない部分があると思います。
住太夫師匠の思い出は、以前このブログでも書いたことがあります。
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住太夫師匠のお話
私が初めて見た文楽は、平成4年の『本朝廿四孝』通し上演で、住太夫師匠は「勘助住家」を語っていられました。お種が極寒の中の我が子を助けようとする場面で私はグズグズに泣き、そしてそのあとの場面の急展開に興奮したものでした。
若い観客は『本朝廿四孝』を通しで見ることができず可哀想だと思っております。
住太夫師匠の語りで一番感動したのは、やはり「沼津」ですね。あんなに素晴らしいものが日本にあるということをほとんどの日本人が知らなくて日本は一体どうなっているんだろうと私は思うのです。
それから「山の段」の定高には本当に泣きました。体ぢゅうの水分が全て涙になって流れ出るのではないかというくらい泣きました。平成5年の『妹背山婦女庭訓』を通しで見られたことは、幸薄き私の人生で数少ない僥倖でございました。本当に有り難い体験でした。「カタルシス」という言葉は知っていたけれど、何のことだか分からなかった、それを自分自身で実体験した観劇でした。
私は若い頃「佐多村」の良さがよく分からなかったのですが、住太夫師匠の引退公演の時にしみじみとその浄瑠璃の良さがやっと分かったのです。師匠はこの「佐多村」がお好きでした。「こんないい浄瑠璃を語らせてもらっていて、お客さんが泣かなんだら、よっぽど太夫が悪い」とよく仰っていました。私はそのお話を伺っていて、自分が「佐多村」に感動しないのはどうしてなのかなとずっと思っていたのですが、年とともに分かるってこともあるんですね。
下っ端の職員だった私のような者にまで気さくに話しかけてきてくださり、日本の最高の宝である人間国宝と話をするなんて不思議な気持ちでした。
「大阪はもっと綺麗な街だったのに、銀座が羨ましい」と仰っていたことがありました。大阪と文楽の現状に不満で常に怒りに燃えていらっしゃいました。
あの太夫はここが駄目、この太夫はこうだから駄目、という話を私にも何度かされました。
「自分は幸運な星のもとに生れた」とよく仰っていました。実際には召集、敗戦、興行の不振、文楽の分裂、宿や交通手段の手配も荷物の持ち運びも全て自分たちでやっての全国巡業と、苦労続きだったはずなのに、「わしはそれを苦労と思わなかった」と仰っていました。苦労を苦労と思わぬほど文楽を愛していられました。
生前の偉大なご功績を改めて偲びたいと思います。
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