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2006年4月

2006年4月30日 (日)

フィレンツェの麦わら帽子

録画したまま見ていなかった「フィレンツェの麦わら帽子」を見ました。以前、スカパーのクラシカ・ジャパンで放送されたもの。1999年スカラ座。

(ああ「録画したまま見ていない」「買ったまま聴いていない」の山たちよ!)

ニーノ・ロータ作曲。ニーノ・ロータといえば「ゴッド・ファーザー」などの映画音楽で有名ですが、オペラも作曲していたのですね。

あまり期待していなかったのですが、まあこれが面白いのなんのって!途中でオチが分かってしまったのがナニですが、笑いのセンスが洒落ていると思います。男爵夫人の件りなんてもう最高! 舞台美術も、ヨーロッパの美意識がぎゅっと詰まっている感じです。帽子屋の場面や、パリの町に雨が降る場面なども風情がありますし、合唱の用い方が本当に工夫されている。こんな作品が1946年に作られたのかと思うと、嬉しくなってしまいます。

オペラのオケのなかに、ピアノはなぜ入っていないのか? ずっと不思議だったのですが、この「フィレンツェの麦わら帽子」では、ピアノが効果的に使われていて素敵です。現代オペラには、もっとピアノが使われていいのではないかと思います。

フローレスのコメディセンス、いいですねぇ。そのほかの配役も、ばっちり揃っています。歌と演技、容姿のバランスが取れているところ、「さすがスカラ座」と思わされます。

こんな作品、日本でも上演してほしいですね。「エナメルの靴が痛い」なんていうのが、いちいち私の笑いのツボに入って、もう笑い転げました。この辺の感覚は、人によって違うでしょうけれど、きっと日本でも受けると思いますね。

この路線で、もっとオペラが作曲されないかな。作れそうな気がしますけどね。こんな感じのオペラが日本語で作曲されたら、素敵だと思いませんか? 神話に題材を求めたりするより、いいんじゃないですかねぇ。

ニーノ・ロータのその他のオペラ作品も気になりますが、ちょっと検索してみたら「『フィレンツェの麦わら帽子』が(オペラの)代表作」となっているので、これが一番面白い作品なのでしょうかね(?)。

2006年4月26日 (水)

二期会「皇帝ティトの慈悲」3

この「皇帝ティトの慈悲」は、台本が良く出来ていると思うんです。「普通に上演したのでは退屈になりかねない」とか「ティトの人物像が薄っぺらい」などと書かれていると、ちょっとムッとしてしまいます。

「教えられない、という気持ちもまた本当の気持ちである」という、普遍的な文学のテーマが盛り込まれていて、それを死への衝動と結び付けていたところが今回の公演の山場であったと思います。もともと、とても文学的な台本なのです。

それにしても、台本を担当したメタスタージオとマッツォーラの扱いの小ささといったらありません。マッツォーラのことは、プログラムで、もう少し詳しく取り上げて欲しかった。

この作品に限らず、オペラって台本作家の扱いが小さいですよね。どうしてこんなに、ないがしろなのでしょう。「コンヴィチュニーの皇帝ティトの慈悲」なんてチラシに書いてあったりすると、ちょっとビックリしてしまいます。見たら確かに「コンヴィチュニーの」って感じでしたけどね。

2006年4月25日 (火)

ああ「演劇界」

今日、「演劇界」の最新号をパラパラと立ち読みしたのですが、カラー写真の出来があまりにひどく、驚きました。もちろん、全て駄目というわけではないのですが、特に仁左衛門さんのページなど、ちょっと信じられない酷さです。以前はこのようなことはなかったと思うのですが、デジタルカメラの進出によるものなのか、人材不足のせいなのか…?? しかし人材不足なんてことが、あるのでしょうか? 撮りたい人なんて大勢いそうですけどねぇ。

学生の頃は毎号購入していましたが、置く場所がないので今は買っていません。以前は歌舞伎の写真といえば「演劇界」以外に掲載されることなど稀でしたが(?)、最近は他の雑誌でもずいぶん見かけるようになりました。

がんばれ「演劇界」!

二期会「皇帝ティトの慈悲」2

いろいろなところで、今回の「皇帝ティトの慈悲」の批評・感想が出てきています。私もネットでいくつか読んだのですが、みんな自分なりの読み方をしていて、解釈が全然違っているところが面白いですね。

読んで「なるほど」と思うことは余りなくて、「そんな意味が込められているようには見えませんでしたけど…?」「あの舞台から、どうしてそんなことを受け取れるの??」と驚くことしきり。その人の教養とか、潜在的に考えていることが表に出てきているような気がします。「つまらなかった!!」というような感想は見かけないのですが、つまらなかった人はきっと書き込んだりしないのでしょう。私の右どなりに座っていたお二人連れは、後半しんどそうでしたが…。

「普通に上演したら退屈になりかねない作品」というような感想がいくつか見られたことはショックでした。私はそんなふうには思わなくて、ドロットニングホルム宮廷劇場のような伝統的な舞台と、コンヴィチュニー演出の舞台が同時期に上演されたりしたら最高なのに、などと考えていました。

いろいろな感想を読むにつけ、同じものを見ても受け止め方はさまざまであり、人は一人一人全く違うのだという当たり前のことを、改めて思い知らされます。

ですから、例えばその人の全てを教えてもらったとしても、それでその人のことを分かったとか、理解したとかいうことにはならないのだと、しみじみと思いました。「私が考える私」と「あなたが受け止めた私」とは別のものです。

そして、それこそが今回の「皇帝ティトの慈悲」のテーマだったのではないかと、私は感じたのでした。

実際のところ、コンヴィチュニーが何を考えていたのか、というのは誰にも分からんのです。

1度だけではなく、2度、3度と観てみたい舞台でした。

2006年4月23日 (日)

二期会「皇帝ティトの慈悲」

二期会の「皇帝ティトの慈悲」に行ってきました。直前まで全く行くつもりがなかったのですが、いつもチェックしているホームページ「オペラ御殿」の棟梁が「見ざるべからず」とお書きになっていたので、きのう急に思い立って二期会のチケットセンターに電話。残席状況を尋ねると、「土曜はS席のみ販売、日曜はS・A・B席が残っているが、ずっと問い合わせの電話が鳴り止まないので明日まで残っているか分からない」と言われ、慌てて日曜のB席(3階正面)を予約しました。

私は「予習なしで生オペラ」というのを極力避けるようにしているので、きのうは午後から東京文化会館の資料室に出かけて映像をチェック。

こんなことを書くと「私は馬鹿です」と言っているのと同じなのでナニですが、実は私はモーツァルトのオペラって苦手なんです(!)。

最初に観たモーツァルトは9年前の「フィガロの結婚」、何と日本語上演! あまりハッキリとは覚えていないのですが、とても小規模で、「学芸会のような」という形容を思い浮かべてしまう公演でした。かなり冷めた目で観た記憶があります。(今でも日本語上演って行われているのでしょうか。思えば貴重な体験でした。)

その次が8年前、新国立劇場の「魔笛」。これはハッキリ覚えているのですが、字幕に「お前の心の中は肌の色と同じで真っ黒だ」という言葉がバーンと表示され、それがトラウマとなって「モーツァルトは信用ならない人」に決まってしまったのでした。

歌舞伎にも差別的なセリフはいろいろ出てきますが、それは「その時代の、その人物が言った言葉」なので、「そういうこともあったでしょう」と受け流せます。しかし「魔笛」は、設定に普遍性があるゆえに、「作品全体が差別的な雰囲気を発している」「作者にそういう意識が強くあったのだろう」という気がしてしまいます。観ている間じゅう「このオペラを黒人の方が観たら、どのように感じるだろう」「年配の女性が観たら」などと想像して、嫌な気分でした。

その後、「ドン・ジョヴァンニ」「コジ・ファン・トゥッテ」も観ましたが、「美しい音楽に乗って、私とは関係のないドラマが進行している…」という感じでした。

それで、モーツァルトのオペラが苦手。

しかし、世の中で評価の高いオペラ作品の良さを分からないのは悔しい、という気持ちもずっと持っていて、いつかモーツァルトの良さを分かるようになりたい、と念じてきました。

東京文化会館に行くと「皇帝ティトの慈悲」は3種類の映像がありましたが、ドロットニングホルム宮廷劇場(スウェーデン)のライヴ映像を選びました。おそらく「最もオーソドックスな映像」。何といっても、オケの団員まで貴族のような出で立ちで演奏しているのですから。(どうでもいいですが、登場人物をローマ時代の表記で統一するライナーノーツは勘弁してほしい。誰が誰だか分からなくなるので!)

それで、映像を見た感想は、…今まで観たモーツァルトのオペラのなかで一番感動しました。ティトの人間性の高さに素直に感動。特に最後の場面で、神に向かって「全てを許す」と宣言する部分が良かった。

(「主従の愛情」を描いたオペラって珍しいですよね。歌舞伎や文楽では沢山ありますが、オペラでは「ドン・カルロ」とか、うーん、思い浮かばない。)

また、「この序曲ちょっとロッシーニっぽい、バルトロが歌いだしそう」「フィナーレがちょっとベートヴェンっぽい?」「このアリアの後奏ちょっと『バジャゼット』っぽい」なんて思いましたが、それでも一本モーツァルトらしさが通っているのがスゴイところです。

東京文化会館の帰りには、ハイライト版CDを購入して、家でかけっぱなし。

これで準備OK! という感じだったのですが、「コンヴィチュニーの演出は本当に楽しめるのだろうか…、オペラ・セリアで大笑いって、どういうこと??」という一抹の不安も…。なにしろ私は「オールドファッションドの」フランコ・ゼッフィレッリ・プロダクションが大好きな保守派人間なので。

そして本日。開演してみると、「あんまり笑えないギャグ」満載で、やっぱり私には楽しめなさそうな予感。登場人物も、映像で予習したときは「その時代には、そういう人もいたでしょう」という感じだったのですが、今日は「どこにもいそうにない不思議な人たち」に変貌しています。

第一幕を観終わった感想としては、

※良かった点

●レチタティーヴォが、これまで経験したことがないくらい生き生きと歌われる場面があった。

●照明が綺麗だった。

●予想していたよりも歌手の方々が高レベルだった。(ゴメンナサイ)

※疑問に思った点

●西洋人は、音楽には敬意を払うくせに、なぜ台本には敬意を払わないのか。

●そんなに変えなきゃ楽しめないなら、いっそ廃絶させちゃえばいいのに。

●いっそ、自分で別の新しい作品を作ってしまえばいいのに。

でした。

正直、「つまらない」というわけではないのですが、取り立てて「面白い!」というほどでもない、という中途半端な印象です。

きっと私にはコンヴィチュニーの演出を楽しむ才能がないのだ、と思ってガッカリしながら第二幕。

始めのうちは、第一幕と同じような感覚で観ていたのですが、ティトが突然日本語で話し出した場面あたりからググッと引きつけられ、映像で見たときには気づかなかったドラマが現われた気がしました。ティトとセストの「話してくれ」「話せない」という長いやりとりから、セストのDeh, per questo istante solo<一瞬だけでも>までの件りは、この公演の白眉とも言える素晴らしい場面だったと思います。

不思議なもので、その場面でとても感動したあとになってみると、第一幕も結構良かったような感覚になったりして…。

カーテンコールでは、熱心に拍手してしまいました。

全てを教えてもらえるかどうかというのは、その人の人間性、徳というものだと思いますね。「徳」とか「慈悲」について、いろいろ考えてしまいました。

「オリビアを聴きながら」という歌謡曲に「私の幻を愛したの」というフレーズがありますが、一体、愛したものが幻でないなんてことがあるだろうか? 「自分が思っている自分」と「相手が思っている自分」は、絶対に違うんですからね。

「全てを知って全てを許す」っていうの、いいですね。

映像で観たものとは、まるで別の作品のようでしたが、

そういうわけで初コンヴィチュニーは、めでたく充分に楽しめたのでした。ああ行って良かった!

新国立劇場のあとは銀座に行き、歌舞伎座「伊勢音頭恋寝刃」を幕見。

替わり妓がお鹿だと分かったときの貢の顔、お紺を見上げたときの貢の顔、「こんな者をよこした」と言うときの貢の顔。こんなのはもう「絶後」だなと思ったら、切ない気持ちになりました。

福助さんは、歌右衛門追善であっても歌右衛門の万野をそのままなぞったりせず、自分なりの万野像を作り出しています。海老反りが最高に美しかった。貢の見得から万野の海老反りへと見せ場が移動していく様なんて、歌舞伎ならではですね。

充実した1日でした。(ちょっと書き込み長すぎ…?)

2006年4月22日 (土)

祝!

ひっそりとブログを始めてみることにしました。

歌舞伎、オペラに接して感じたことや、日々のアレコレを

書いていきたいと思っています。よろしくお願いいたします。

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