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2010年8月

2010年8月31日 (火)

美術あれこれ

ここ2年ばかり、頻繁に美術館に足を運んでいます。ひと月に何ヶ所も行きます。たいていは1人で行って、好みの絵をジーッと穴の開くほど眺めてきます。

いま、『日本美術のことば案内』という本を読んでいます(日高薫:著)。美術用語の解説本です。序文に、こんなことが書いてありました。

生まれ育った家に屏風や掛軸があったという人が、どのくらいいるだろうか。現代を生きる私たちにとって、日本美術は、もはや縁遠いといわざるをえない。そうした日本美術を、いっそう、とっつきにくくしているもう一つの原因が、日本美術をめぐる言葉である。漢字を羅列したような作品の名前や、奇妙な耳慣れない専門用語、堅苦しい独特の言い回し…。

私は、これは逆ではないかと思う。むかしは、その絵を持っている人と、知人しか見られなかった。いまは素晴らしい美術作品があれもこれも美術館に集まり、誰でも気軽に見ることができる。天皇の宸翰〔しんかん〕を目にする機会など、庶民には絶対になかったはずです。仏像にしても、寺まで何十km・何百kmも歩いて行かなければ見られなかった。日本美術だけはありません。白樺派の人々が喉から手が出るほど渇望した印象派の絵画も、どんなに強く望んでも、むかしは見られなかった。いま日本は印象派の絵画展が年にいくつも開催されています。東京は美術天国になったのです。いくらでも美しいものが見られます。この恩恵を享受せずにおこうか。私たちはいま、美術天国に生きているのです。

こんなに美しいものが見られるなんて、なんて素晴らしいのだろうと思って、夢中であれこれ見て回っているのですが、いくつか不満に思うこともあります。美術館の建物が美しくない、…これはもう我慢するしかありません。

絵画の前に、柵があるんですよねえ。これ以上は近づかないでください、という柵が。海外の美術館にはないと思うんです。パリ、ロンドン、ニューヨーク、ベルリン、私の記憶が正しければ、絵の前に柵がある美術館は存在しない。しかし新美、西美、近美、世田美、どこも柵があって、ないほうが珍しいくらい(?)。私は、絵画をなるべく近くで見たいわけなんです。近づいたり離れたり、いろんな距離から見たい。どうして近くで見させてもらえないのでしょう。日本の美術展は海外では考えられないほど混雑しますし、絵を守るためなのでしょうか?でも額にガラスが入っているなら大丈夫なのでは?絵を見るときのマナーを人々に教育するのも公立美術館の役目の1つなのでは?柵をもうける、なんていうのは、楽をしているだけなのでは?監視員がいるのは何のためなのでしょう。

日本美術は繊細なため、ガラスケース内に展示してあることが多い。ガラスから作品までの距離が遠くて不満に思うことが多いのです。きっと、床の間に飾るような感覚で、畳1枚ぶんほど距離をあけているのでしょうが、それでは遠すぎると思います。横浜美術館で「源氏物語展」をやったときも、まわりぢゅうの人々が「見えない、見えない」の大合唱でした。私が双眼鏡で見ていたら、「あら、いいわねえ、私も持ってくれば良かった」って何人もの婆さんから話しかけられました。日本美術の細やかさ、それをぜひ近くで見たい。ガラスケースの、なるべく手前寄りに展示していただくだけでいいのです。

東郷青児美術館が持っているゴッホの「ひまわり」、あの展示方法は本当に残念です。ガラスから絵までの距離が遠すぎます。筆運びの迫力、信じられないほどの絵の具の盛り上がり具合、そういうゴッホの魅力が伝わってこない。あの「ひまわり」を、若き少年少女が間近で見たなら、強い衝撃を受けること間違いなしなのに…。あの絵をずーっと眺めている人、あまり見かけないでしょう。あれだけの名画なのに、展示方法に魅力がないせいだと思うんです。ガラスの近くに展示するだけで全然違うのです。魅力が何億倍もパワーアップするのです。(照明も暗すぎるけれど…)

山種美術館は、絵を間近で見られるから好きです。要するに、ひとえに学芸員の熱意によるのではないかと思うのです。どうでしょう。

2010年8月30日 (月)

レア公演情報

何だか、あまり宣伝していないようですが、2010年10月3日(日)15時より市川市文化会館小ホールにて《ランメルモールのルチア》が上演されるそうです。全自由席5,000円。ピアノ+小編成オーケストラ+合唱、原語上演、字幕つき、という形式のようです。

指揮:苫米地英一
ルチア:西正子
エドガルド:村上敏明
エンリーコ:須藤慎吾
ライモンド:田中大揮
アルトゥーロ:澤崎一了
アリーザ:田中佳子
ノルマンノ:海道弘昭

私は残念ながら別の予定があって行けないのですが…。見たかった悔しい~。村上敏明さんのエドガルドは絶対に素晴らしいに違いない。村上さんは、もっと話題になっていい人のはずです。ルチアずきなあなたにオススメします。

2010年8月29日 (日)

つれづれ

暑いと何もする気が起きないですねえ…。

最近ちょっと、『和漢朗詠集』に凝ってみようかな~などと思っているのですが…。

松陰の 岩井の水を むすびあげて 夏なき年と 思ひけるかな
(松陰の岩から出てくる冷たい水をすくいあげて、今年の夏の暑さを帳消しにした)
「むすぶ」というのは、両手ですくうことだそうです。

朝顔を 何はかなしと 思ひけむ 人をも花は さこそ見るらめ
(朝顔のことを、なぜ、はかないものと思っていたのだろう。朝顔から見たら、人も、はかなく見えることだろう)

ああ、和歌はいいですねえ。

2010年8月27日 (金)

『義経千本桜』あれこれ

春立つと/いふばかりにや/み吉野の/山も霞みて/今朝は見ゆらん

 

「道行初音旅(吉野山)」で静御前と佐藤忠信が口にするこの和歌は、『拾遺和歌集〔しゅういわかしゅう〕』や『和漢朗詠集〔わかんろうえいしゅう〕』に収録されています。『拾遺和歌集』は3番目の勅撰〔ちょくせん〕和歌集。日本中の和歌から、特別に優れたものばかりを、国家事業として選びぬいた和歌集です。『和漢朗詠集』は、藤原公任〔ふじわらのきんとう〕が、自分の好きな和歌と漢詩を選んだもの。

この和歌が挿入されるのは、歌舞伎の入れ事で、原作の浄瑠璃にはありません。

歌を私なりに解釈してみますと、

春立つといふばかりにや=立春になったけれど、春というのはまだ暦の上のことだけだろうか?それとも…。

み吉野の山も霞みて今朝は見ゆらん=「み吉野→みよしの→見良しの→視界良好の/clear」という名前を持っている吉野山も、今朝は霞んでいるのだろうか

この和歌は、立春を詠んだ歌です。つまり桜の季節ではありませんが、「道行初音旅」も本当は桜の季節ではなく、もっと前の立春のころの設定ですから、ぴったり同じ。

「み吉野」というのは、「吉野」の雅語〔がご〕、美称です。雅語というのは、日常会話ではつかわない、詩を作るときだけにつかわれる言葉。フランス語やイタリア語にも、そのような言葉があるとか聞いております。文化の成熟の結晶、宝石のような言葉です。そのような美しくも不思議な言葉を、1人の人が偶発的にポッとつかうのではなく、みなで共有しているところが、すごいことだと思います。

春になると、山が霞んで見えるものだそうです。春の霞は和歌によく登場します。春が来たしるし。

「見ゆらん」の「らん」は現在推量です。つまり、この歌の作者は、いま実際に吉野山を見ているわけではなく、「あの吉野山にも春はやってきたのだろうか」と推量している。

いま私たちは、奈良でも京都でも大阪でも出雲でも気軽に出かけていきますが、むかしは歩いていくしかないわけですから、それほどたくさんの名所が見られたわけではないでしょう。1度も海を見ぬまま死んでしまう人もいたかもしれません。しかし平安貴族は、自分が行ったことのない場所でも、どんどん歌に詠み込んだものなのです。名所には、その場所にまつわる和歌が既にたくさんあって、場所のイメージができあがっています。風景写真を見るみたいに和歌を楽しむ。そして自分でも詠んでしまうのです。日本人は和歌によって日本中を旅していた。和歌によく詠み込まれる名所のことを「歌枕〔うたまくら〕」と言います。

静御前と佐藤忠信は、「春立つと」の和歌を以前から知っていたのですが、春の吉野山を訪れるのは初めてだったのでしょう。こんなことでもないと、吉野山までくることはなかった。

春立つといふばかりにやみ吉野の(=ご覧なさい、あの有名な和歌に詠まれたそのままの景色が目の前に!)

山も霞みて(=ああ、本当ですねえ)

という、裏の会話が交わされる場面だと思います。和歌を知っている人同士のやりとり。もちろん、観客もこの和歌を知っているという前提になっています。有名な歌なので。

 

※何か間違ったことを書いている気がしますが、まあ良いとしましょう…。(このブログの記事の半分は私の思いつき)

2010年8月25日 (水)

浮世絵専門美術館の不思議

先日、平木浮世絵美術館UKIYO-E TOKYOに行ってきました。豊洲の、ららぽーと1階にある浮世絵専門美術館。商業施設のなかにポツンと、…不思議な雰囲気でした。小さな空間で展示作品数は少なめでしたが、テーマを絞って作品を選んでいて、楽しめました。

ところで、この美術館の順路が、左から右へ進む形式となっていて驚きました。同じく浮世絵を専門としている太田記念美術館も、左から右へ進むようになっている。しかし私の考えでは、浮世絵は右から左へ見ていくものであり、その逆はあり得ぬことです。「浮世絵を美術館で見る」ということ自体、それほど歴史があるものではないのでしょうけれども、日本の絵画はすべからく右から左に見ていくものと相場が決まっています。その理由は、画中に文章が書かれるケースがあるからであり、絵巻も、屏風絵も、絶対的に右から左です。それとも、私などが及ばぬ深い理由あってのことなのでしょうか。どなたかご教示いただけましたら有り難く存じます。

2010年8月23日 (月)

《イル・トロヴァトーレ》あれこれ

先日、《イル・トロヴァトーレ》を見てきたんです。フルオーケストラではなく、ピアノ+弦楽器+打楽器という編成。トロヴァトーレを見るのは何年ぶりだったろう?ごめんなさいアラーニャが歌った時は行きませんでした。高価でしたし…。もう《椿姫》《カルメン》《魔笛》《蝶々夫人》同じ演目ばかり毎年上演されて、トロヴァトーレほどのポピュラー演目でさえ滅多に見る機会がない。そういうわけで、久しぶりにトロヴァトーレが見られて本当に嬉しかった。

 

「それでも私は生きている!」「母さん、かたきは取ったよ!」って、すごい終わり方だよね~と友人と話していて、

 

「あれ?それでも私は生きている!と、母さん、かたきは取ったよ!って、どっちが最後のセリフだっけ?」

友人「知らない、私にとってのトロヴァトーレは、レオノーラが死んだところで終了だから」

 

「私にとっての○○は××で終了」って、よくある気がする…。ボエームはミミが死んだら終了、トゥーランドットはリューが死んだら終了、蝶々夫人はピンカートンが去ったら終了、などなど…。

 

結局、最後のセリフはルーナ伯爵の「それでも私は生きている!」だった。すごいセリフだ。

 

先日、METライブビューイングで、ロッシーニ作曲《アルミーダ》を見ていたら、主人公アルミーダが「それでも私は生きている!」と歌っていてビックリだった。何にでも先例があるものでございます。

 

先日見たトロヴァトーレは、巖淵真理さんという方がアズチェーナを歌っていました。彼女は新国オペラ研修の第1期生で、私の記憶が正しければ、研修発表公演のときレオノーラのアリアを歌っていたはず…。レオノーラからアズチェーナへ…。人生いろいろ…。

 

アズチェーナという役が分からない。このオペラ、もう少しで《アズチェーナ》というタイトルになるところだったのですって?アズチェーナの、どういうところが魅力なのでしょう?

 

修道院へ行ったマンリーコを探していて、捕まってしまうアズチェーナ。実はわざと捕まったのでは…。マンリーコを捕らえさせるために。お前は私を置いてレオノーラのもとへ行ったけれど、私からは逃れられないんだよマンリーコ…。(いや、そんな深いことは考えていない気もする。)

 

マンリーコのアリア「見よ、あの恐ろしい炎を」では、慣習的に、楽譜に書かれていないハイCを出すわけですが、その高い音を出すために、楽譜に書かれているフレーズを省略して合唱にまかせて、喉を休めることが多いようです。と言いますか、休んでないテノールは見たことがない!こんなにたくさん休んで、一体どんなスゴイ音を出す気なのだらう…などと期待していると、大したことなかったりとか…。

 

日本人男性は、ハイCが出る人、たくさんいると思うんです。私は絶対音感はありませんが、ゆず、ミルチル、B’z、スピッツ、アルフィー、ウルフルズ、みんなハイCくらい普通に出してるような気が…。気のせい?

 

清元、常磐津、長唄、ハイCくらいバンバン出てくるでしょう。

 

走り高跳びの自己記録に挑戦でもするかのように、出るんだか出ないんだかフィフティ・フィフティの音に舞台本番で猛烈アタック!というような度胸は、私にはないなあ…。客席から見てる分には楽しいけれど…。

 

…狂乱の場の最後に到達したマリア(注;マリア・カラス)が、終わりに有名な高音Eに挑戦したが、出なかったのだ――何の音も出ず、ただぞっとするしゃがれた声が聞こえただけだった。完全な役者である彼女は、そのしゃがれ声を倒れて息を引き取るときの悲鳴に変えた。ダラスの聴衆は、それを演技の一部と受け取って、熱烈な喝采が湧いた。しかし私たちにはわかったし、マリアにも、リハーサル・プロデューサーやヴォイス・トレーナーなど、わかる者にはすべてわかってしまった。舞台を終えたあと、彼女は副監督、プロンプターのヴァスコ・ナルディーニ、そしてレッシーニョを楽屋に集めた。

「声は出るのよ」彼女は言った。「今夜のことは原因があるの。すべてあの癪にさわる記者たちのせい。あの人たちのせいでいらいらしちゃうの。殺してやりたい」彼女は叫んだ。「あの音は出せるんだから」

彼女はピアノのところに行き、いくつか音を出してからアリアを歌い始め、恐ろしいことに、高音Eのところでまたはずしたのだ。さらにもう一度やってみたが、やはりはずれた。長い沈黙があった。私たちは全員何を言ったらいいか、どこを見たらいいかわからなかった。ついにマリアがピアノの蓋を閉めた。レッシーニョの先導で他の人たちは出て行った。私はあまりに胸にこたえ、彼女に近寄ってキスしようとした。彼女は私を押し止め、言いたいことは分かっている、誰の同情も要らないとでも言いたげに首を振った。そして私もまた、その部屋を出た。

(『ゼッフィレッリ自伝』フランコ・ゼッフィレッリ:著、木村博江:訳より)

 

私は高音フェチだから期待してますが、歌手のみなさんは本当に大変ですね…。お役目ご苦労に存じます。

 

持っていたけれどあまり聞いていなかったマリア・カラスの《イル・トロヴァトーレ》全曲録音を聞いたのですが、もう~素晴らしい。人間の声にこんなことが出来るの?という驚きの録音。またカラヤンの指揮がすごい。オペラのオーケストラにこんなに感動することって、私の場合はあまりない。共演者も強力。ヴェルディって、音符を間引いて(音符の数を勝手に減らして)歌う人が多いですよね。この録音は、全員がきっちり歌っていて、ヴェルディはベルカントであるということがはっきり分かります。ご一聴あれ。

劇場あれこれ

毎度、愚痴ばかりで恐縮ですが。

今日、国立劇場小劇場で、「歌舞伎会・稚魚の会 合同公演」A班を見てきました。公演名が長すぎて誰も覚えてくれないと思いますが…。出演者がかなり若返った印象でしたけれど、演技は充実していて心強い。まあ、それは置いて、「道行旅路の嫁入」でホリゾント幕が使われていたのです。書割は下半分だけで、空の部分はホリゾントだった。歌舞伎の本公演では見ないけれど、舞踊会ではよくホリゾントが使われます。そのホリゾント幕が、継ぎ目だらけで、風にペラペラ揺れてたんです…。もうショック。国立のホリゾントは継ぎ目だらけで風に揺られていた…。ショックで今夜は眠れない。

昨日、久しぶりに彩の国さいたま芸術劇場に行ってきたのですが、トイレが少なくて驚きました。男性用は2階に1ヶ所だけ…。わりと新しい劇場なのに…。決して敷地が狭いわけではないのに…。なぜなのでしょう。
えっ?この回廊、出られないの?では何のために作ったの?みたいな…。

来年1月、神奈川芸術劇場という新しい劇場が建つのだそうですが、

演劇、ミュージカル、ダンスなどに適した最大約1,300席のホール。高度な演出プランに対応できるフレキシブルな可動客席を有し、舞台から客席までの視線距離を最大25m程度と抑え、快適な鑑賞環境でお楽しみいただけます。

フレキシブルな可動客席って、要らないと思いませんか?新国の中劇場の可動客席って使ってるのでしょうか?そういうところにお金をかけるより、外観を美しくするとか、内装を美しくするとかしたほうが、客が呼べると思うんですよね。劇場って美しくないと存在意義が薄くなると思いませんか?パリ・オペラ座ガルニエ宮なんて、公演がなくても、ホワイエだけでも見せてください、天井画だけでも見られないでしょうか、って人が集まってくるわけじゃない?フェニーチェ座とか。そのような美しい劇場、美しさで人が集まってくる劇場が、日本には金丸座とか八千代座とか古い劇場しかない。他にありますか。

毎度、愚痴っぽくて、すみませんねえ…。(このブログには定期的にこのような愚痴が掲載されます。)

2010年8月22日 (日)

ガラスの仮面

彩の国さいたま芸術劇場にて音楽劇「ガラスの仮面-二人のヘレン-」を見てきました。夏木マリさんの月影千草が、まるで漫画の中から抜け出てきたようなハマリ役で、ビックリでした。容姿も仕草もセリフも、これ以上は望めない!というくらいハマっていた。楽しかったです。

音楽劇ということで、歌とセリフが半々くらい?

演出は、わりと見たことある感じ…。

オペラも、漫画を原作にして製作したら、面白い作品ができそうなのに…。日本の神話とか民話とか、オペラ向きじゃない感じがしませんか?なぜ日本語のオペラって名作が出てこないのでしょう…?何度も再演されるのって《夕鶴》1作だけですよね?おかしすぎる…。

2010年8月21日 (土)

亀治郎の会・雑感

『金幣猿島都』だの『加賀見山再岩藤』だのを本公演で出せる人が、べつに自主公演なんてしなくてもいいのでは?と見る前は思っていたのですが、『上州土産百両首』は自主公演でもないと、なかなか上演できないかも…。また「四の切」にしても、そのうち上演するのでしょうけれども、いま猿之助さんから教わっておきたかったのでしょう。歌舞伎の世界って、「そのうち上演するだろうから、いま教えてください」ってわけにはいかないらしいですよね。「この度やることになりましたから」っていうのでないと。6代目菊五郎が、上演予定もないのに芝翫さんに「娘道成寺」を1ヶ月間にわたって教えた、なんていうのは本当に異例のことだったのでしょう。
なんにしても、これだけ意欲があるのは、すごいことです。この演目をいま絶対に上演したい!というパワーが素晴らしい。しかも大劇場での6回公演が即日完売というのだから驚きます。今日は2回公演!で私は夜の回を見てきました。

最近は、宙乗りをしても拍手が途中で途絶えてしまう…ということがよくありますが、今日はずっと拍手が鳴っていて、盛り上がっていたみたいです。

「道行初音旅」は全編清元でした。はまぐりはまぐり~って踊ってました。むかし猿之助さんで見たときは、「なぜ山の中にはまぐりが登場!?」と思いましたが、地唄の「萬歳」から取ってきたみたいですね(?)。

プログラムは高かったので買いませんでした。でも、あれだけの内容ならファンは高くても買うでしょう。よく作りますよね…。

「上州土産」は、平成6年に見たのですが、すっかりストーリーを忘れていた…。平成6年に上演されたときは、珍しい配役だというので、かなり話題になった気がします。テレビでも放送された気がします。録画したけれど見ていない気がします…。

ちょっと最後の展開がビックリな感じだった…。なぜ牙次郎が縛られる場面があるのか、全く理解不能だった…。でも、なかなか面白かったかな。亀鶴さんが秀逸でした。福士さんはスチール写真で見るより二枚目だった。いや~勝新と寛美でも見てみたかった。

1階から声をかけている女性がいてゲンナリだった。私は女性が声をかけるのが嫌い。

芝雀さんの化粧が綺麗でした。紅の色が鮮やかで。

亀治郎さん、ちょっと痩せてた?暑いのでご自愛ください。

『義経千本桜』あれこれ

恋と忠義はいずれが重い

かけて思いははかりなや

 

「道行初音旅〔みちゆきはつねのたび〕」の冒頭部分ですけれども、まだ客席はザワザワしていて、集中していない人が多いのではないかと思います(歌舞伎の場合)。せっかく素敵な詞章なのに、もったいない。

この詞章の意味、考えたことがありますか。義経は、「鳥居前」の場面で、都に留まれと静御前に命令したわけですよね。義経の言葉を守れば、すなわち忠義を重んじれば、静御前は都に留まっていなければならない。けれど恋しいので追いかけて来てしまった。義経に会えたとして、そのことを義経が喜んでくれるのか、それとも叱られるのか、分からない。義経の心が分からないので、相手の心次第である自分の心も分からない。恋と忠義、はかりにかけて重いのはどちらなのか、自分にも分からない。そのような意味であると私は思っています。恋の逡巡、名文ですよね。

2010年8月13日 (金)

見よ、あの恐ろしい炎を

オペラアリア歌詞翻訳シリーズ

ヴェルディ《イル・トロヴァトーレ》より

マンリーコのアリア「見よ、あの恐ろしい炎を」

 

マンリーコ:
Di quella pira l'orrendo foco

ディ クエッラ ピーラ ロレンド フォーコ
Tutte le fibre m'arse avvampò

トゥッテ レ フィーブレ マルセ アッヴァンポ
Empi spegnetela, o ch'io tra poco

エンピ スペンニェテラ オ キオ トラ ポーコ
Col sangue vostro la spegnerò

コル サングエ ヴォストロ ラ スペンニェロ
Era già figlio prima d'amarti

エラ ジャ フィーリオ プリマ ダマルティ
Non può frenarmi il tuo martir.

ノン プオ フレナルミ イル トゥオ マルティル
Madre infelice, corro a salvarti,

マードレ インフェリーチェ コッロ ア サルヴァルティ
O teco almeno corro a morir

オ テーコ アルメーノ コッロ ア モリール

 

レオノーラ:
Non reggo a colpi tanto funesti

ノン レッゴ ア コルピ タント フネスティ
Oh quanto meglio sarìa morir

オ クワント メリオ サリア モリール

 

マンリーコ、ルイス、手下たち:
All'armi, all'armi
eccone presti

アラルミ アラルミ エッコーネ プレスティ
A pugnar teco, teco a morir.

ア プニャール テーコ テーコ ア モリール

 

マンリーコ:

火刑台〔かけいだい〕に恐ろしい炎が燃える

俺の全血管まで燃え上がるぜ

下衆野郎ども今すぐ火を消せ、さもなくば

お前らの血しぶきで消してやるぜ

あなたを愛する前から私は母さんの息子だった

あなたの嘆きも私を引き止めることはできない

可哀想な母さん、今すぐ助けに行くよ

無理なら、せめて一緒に死ぬ気さ!

 

レオノーラ:

こんな苦しみは耐えられません

いっそ死んだほうがましです!

 

マンリーコ、ルイス、手下たち:

武器を取れ、武器を取れ、今すぐに

共に戦い、共に死のう!

 

●かなりテキトーに訳してみました。共に歌おう!

 

●この歌、1行おきに脚韻を踏んでいますね。さすが吟遊詩人…。でも、そんなことをしているヒマはないハズでは?

 

●そのような(韻を踏んだりなどの)詩のテクニックが、《カヴァレリア・ルスティカーナ》には使われていない気がする。

 

Tutte le fibre m'arse avvampòって、どう訳せばいいのか、よく分からない(←語学力なし…)。火刑台が燃えると言っているのだろうか?俺の体が燃えるようだと言っているのだろうか?その両方だろうか?「その両方」を1行で表す詩のテクニックが、イタリア語にも存在するだろうか?日本語だったら、普通にできることだろうけれど。

 

●私の友人が、このアリアのことを「ピーラ」と呼んでいてビックリだった。何か、とてもマニアックな感じ…。ちなみに私自身は「マンリーコのアリア」と呼ぶ。

 

●私はこのアリアを初めて聞いた時、歌詞の意味を知らないまま、先入観なしでCDを聞いたんです(輸入盤アリア集、対訳なし)。どんな歌詞かな~と頭のなかで想像して、「船が出るぞ、帆を上げろ、出船だ!出船だ!」という歌に違いない!と思いました。あとで日本語訳を呼んで、メロディーから想像する雰囲気と全然違っていて、驚きました。歌詞とメロディーの関係について考えさせられるアリアですね。

 

●数秒前まで愛の誓いをささやいていた女に対して「あなたを愛する前から私は母さんの息子だった」とは、一体どういう言い草なのでしょうか。しかも実は息子じゃないのだ!意味が分からない…。(そこがいい?)

2010年8月 9日 (月)

あれこれ

暑いですねえ。パソコンが止まってしまいます。次ぎの画面に移らない。一気に壊れるのではなく、だんだん壊れていく感じ?でも、この暑さでは無理もありません。むしろ今日までよく働いてくれたと思う。

常磐津小文太夫さんは元気にしていらっしゃるのでしょうか。ブログが止まったりすると、心配ですねえ。パソコンが壊れた…のではありませんよね。私は小文太夫さんにとても期待しています。期待しても、いいのでしょう?

演舞場の第2部を見たのですが、歌女之丞さんが素晴らしい。あの役(お米の母)、これまで「ただの嫌なオバサン」だと思っていたのが、一理あると言うか、お米よりも私のほうが説得されてしまいそうだった(笑)。あと橘太郎さんが良かった。あんなに素晴らしいと、嬉しくなってしまいますね。

THE LAST SHOW、ひょっとして私も写っているのでは!?と思ってドキドキしたが、写っていなかった(笑)

2010年8月 5日 (木)

『京鹿子娘道成寺』所化について

ここで、所化〔しょけ〕についても、ちょとばかり説明しておきます。所化とは、教化〔きょうけ〕される者、仏の教えを受ける者という意味。逆に教えを授ける者を能化〔のうけ〕と言います。俗に「聞いたか坊主」と言われる娘道成寺の所化は、修行中の僧侶だと思えばいいでしょう。


「また師〔し〕の坊〔ぼう〕がボンサイでも抱えられたのかと思った」盆栽ではありません、梵妻です。僧侶の妻を梵妻とか大黒〔だいこく〕とか言うのです。僧侶は普通、結婚はしないものですが、宗旨にもよります。浄土真宗の開祖である親鸞〔しんらん〕は妻帯者でしたし、浄土系の宗派はあまり厳しくありません。そもそも、仏教徒とは何なのか?「五戒〔ごかい〕」という、仏教徒が守るべき5つの戒めも有名ですが、別に守らなかったからといって仏教徒でなくなるわけではないでしょう。「仏〔ほとけ〕」という人間の理想形、完成形、ゴールを目指している人は、全員が仏教徒と言えます。現在の立ち位置が上か下か、それは仏教徒の要件ではないと思うのです。


それにしても、この舞踊に出てくるお坊さんは、何かいい加減そうな雰囲気が漂っています。「蛸〔たこ〕を食べる」「酒を飲む」いずれも五戒によって戒められている行為です。


日本人なら、たとえ五戒を知らなくても、「やってはいけないことをやっているのだな」と分かるでしょうが、外国人には分からないのでは?


道行のあと、所化と花子の問答となりますが、道行がカットされると、問答もカットされてしまいます。自分が白拍子だと名乗るセリフがなくなってしまい、作品の意味が通らなくなります。


問答にはどのような意味合いがあるかといいますと、「女人禁制のところを無理に入れてくれと言うのだから、仏教について少しは知っているのだろうな?」というテストを受けているわけなのです。


「提婆〔だいば〕が悪〔あく〕は」「観音の慈悲」これは8巻ある「法華経」のうち巻第5の巻頭「提婆品〔だいばほん〕」を知らなければ答えられない問答です。「提婆品」は大変人気のあるお経でした。観客は知らなくてもいいのです。知っているところだけ楽しめばいい。しかし、花子を勤める俳優は知らなくては勤まらないでしょう。セリフを丸暗記しているだけで意味を考えない俳優は、これから消えていきます。

「提婆が悪は(=お前は提婆品を知っているのか?)」

「観音の慈悲(=もちろん知っています)」


「柳は緑」「花は紅」これは有名な禅語ですね。


「踊り子とは」「舞子〔まいこ〕なり」この問答の意味が分からない。分かる方がいたらご教示ください。


「天蓋〔てんがい〕とは」「編み笠なり」「いや生蛸〔なまだこ〕じゃ」これは符丁、仲間内だけに通じる隠語、「そこまで知ってる人じゃないと入れてあげないよ」というイジワル問答です。


「色即是空、空即是色」これは「般若心経」です。いないものと思って入れてください、私はこんなに仏教のことを知っています、という花子のアピール。


これだけの問答、現代の日本人には答えられませんね。花子はわりと「仏教に詳しい女」、しかし全く悟っていないのです。そこが面白いところだと思います。

2010年8月 3日 (火)

美術館あれこれ

おととい、六本木一丁目にある美術館、泉屋博古館〔せんおくはくこかん〕に行ってきたんです。富岡鉄斎〔とみおか・てっさい〕の「静居対話図」という作品が展示されていました。私はこれまで、鉄斎の作品が、それほど好きではなかった。今回展示されていたその絵も、パッと見ると、何だかよく分からない絵だなあ…という印象でした。ところが解説パネルに、絵の右上に書かれた漢詩の説明があって、メモしなかったので正確には分かりませんが、「書を読まない人は、ともに画を語るに値しない」という内容の漢詩だと分かりました。それで、ああ、私は漢詩が読めないから鉄斎の絵が分からないのだということが判明し、解説パネルで漢詩の意味が分かった今、まさに今、私にも鉄斎の絵の良さが突然、分かるようになったのである。本当である。すごい。同じ絵を見ているのに、解説パネルを読む前と後とで見え方が違う。絵は同じ、私が違うのである。

泉屋博古館に行くと、展示作品の見せ方に、学芸員の熱意が感じられる。解説パネルという短い文字数の中で、その絵を見る見方、楽しみが簡潔に説明されている。素晴らしい、まことに尊敬に値する仕事です。

泉屋博古館のほか、山種美術館、出光美術館も、私の大好きな美術館です。

根津美術館は、所蔵作品は素晴らしいのに、その見せ方に不満があります。

東京国立博物館は、企画展に注がれる力はもちろん素晴らしいのですが、平常展には不満があります。「あのユルさが好きだ」という方もいるかもしれませんが、あれだけ優れた作品を展示しているのに、解説類がほとんどない。混雑していない平常展こそ、解説を充実させ、じっくりと作品を見てもらうチャンスなのでは?特に漢詩や経典、古筆、仏教美術などは、解説の腕のふるいどころのはずです。
それから、チラつく蛍光灯の光や、室内の殺風景な雰囲気。刀剣や甲冑を展示しているスペースなど、薄暗く霊気が充満していて、「早く通り抜けたい!!」と思うくらいです。(わざとやっているのでしょうか?)
もう1度、室内を点検し、美しいものを拝見するのに相応しい、美しい環境を整えていただきたいのです。作品の照明と、室内の照明が鍵になると思います。

やっぱり人手が足りないのでしょうか…?

2010年8月 2日 (月)

N響アワワ…

最近、テレビって、あんまり真面目に見ない。何となく点けてはいるけれど、あまり面白いと思わない。気が付くと、誰かが何かを食べている。食べる番組がとても多い気がする。

時間を埋めるには、才能が必要なのだと、しみじみ感じる。

私が歌舞伎を見始めた頃、BSでしか放送されない歌舞伎の番組が見たくて見たくて、でも貧乏だったから見られなかった。友達にビデオを借りて見たり、諦めたりしていた。そして今、次はBS-hiだ。別に、そんなに画面が綺麗でなくてもいいように思うのね。

そんなにたくさん、チャンネルいらないって気がしない?

きのう、たまたまテレビを点けたら、N響アワーを放送しているところだったのですが、「新世界より」の演奏に、大阪の新世界の映像が重ねられていた!!驚愕の映像…。あまりに驚いて言葉もない。

N響アワーって、演奏者の映像をずっと流すものだと思っていたから、大阪の新世界の映像は本当に衝撃的だった。じゃあ、これが名曲アルバムだったらどうだろうか…と考えると、それはそれで衝撃的だ。

ところで、オーケストラが好きな人って、オペラが好きな人よりも大勢いらっしゃると思うのですが、上演中、視覚的にはどうしているものなのでしょうか?ずっと指揮者の背中を見ているの?特定の演奏者を見ているの?顔の表情を見ているの?演奏する手元を見ているの?目を閉じて何も見ないの?主催者側としては、目で楽しむものを提供する…ってことは考えないものなの?かえって邪魔?色付きの変な照明とかは絶対邪魔ですよね。お洒落な映像とかなら大丈夫?かえってオーディエンスの想像力を限定してしまうから不評?ではなぜ大阪の新世界の映像がN響アワーで流れたの??誰か教えて。

2010年8月 1日 (日)

トリノ王立歌劇場《ラ・ボエーム》

土曜日31日に見てきました《ラ・ボエーム》。数日前の《椿姫》で全然感動できなくて、もう私の感受性も磨耗したに違いない、年なのだと思ってガックリだったのですが、昨日の《ラ・ボエーム》では激しく感動してしまいました。フォーエバーヤングふくきち…。今度から「えばやん」と呼んでね!いや呼ばないでね!

1番好きなオペラは?と訊かれたら、私の場合は《椿姫》、《ラ・ボエーム》。ミーハーすぎて意外性がない…。音楽も美しいけれど、やっぱり詞やストーリーが好きなのですね。トリノ王立歌劇場は《ラ・ボエーム》が初演された劇場だそうで、その演奏が聞けるなんて、何と誇らしく素晴らしいことなのでしょう。この生きづらい世の中の、一体どこからあのような美しいものが生まれてくるのか?私はもう第1幕から泣いた。そして2幕でも泣き、3幕でも泣き、4幕ではズルズルに泣いてしまった。こんなに美しくて切ないものが地上にあるなんて…。フリットリ、アルバレス、オーケストラ、本当に素晴らしかった。これだけのキャストが揃うことは、世界的にもなかなかないのでは?アルバレスは、予想していたほどは太っていなかった。しかし、予想外に日焼けしていて、まるきり夏男、冬の話の主人公としてはどうなの?と思ったけれど、声を聞いていたら、そんなことはどうでもよくなりました。

私は一時期、「冷たい手を」が収録されているCDを手当たり次第に購入していたことがあるのですが、テノールのアリアで1番好きですね~。もちろんイタリア語の歌詞も暗記しています。

昨日の客席は大いに盛り上がっていて、私も黒いシャツが漆黒に変わるくらい汗だくになりながら一生懸命に拍手してしまいました。素晴らしい体験でした。

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