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2013年6月

2013年6月30日 (日)

つれづれ

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くどいようですが、富士通のパソコンはとても使いづらいです。

このあいだ、とある美術館に行ったのです。美術館の前に公園があって、小さな池の跡がありました。水が入っていない。きっと予算がなくて、管理できなくて、水を抜いたままになっているのですね。枯葉が落ちていて。
池とか庭とか噴水とか、作ったときにお金がかかるだけでなく、その後もずっと維持費がかかるんですよねえ。維持できなくて、残骸がそのままになっているのって、わびしいものですね。それでいて、別の新しい施設を建てちゃったりして・・・。

ヴァチカン博物館の絵

ヴァチカン博物館は広いところで、有名なシスティーナ礼拝堂や、名作絵画揃いの絵画館など複数の見どころがあります。
ルネサンス期までの作品ばかりだろうと思っていましたが、意外や、比較的新しい画家の作品も・・・。

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↑ ゴッホのピエタ(?)。ゴッホにこんな絵があったのかとビックリ。

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↑ マティスの聖母子。かなり大きい絵でした。

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↑ シャガールですね。

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↑ これは確かレオナール・フジタかな~。

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↑ これはダリでしょう?

もちろんキリスト教絵画ばかりですが、こんな絵もあるのでした。他にもありましたよ。

2013年6月29日 (土)

歌舞伎座千秋楽の第1部

歌舞伎座6月千秋楽の第1部を見てきました~。
素晴らしかった~~。

「俊寛」はもう本当にすごくて最高の舞台でした。
そう、
この人のところには、救いの船がやってくるに違いない、
だって西方極楽浄土は、こういう人のためにこそある国だから。
そう思いました。
こんなすごい舞台を拝見できて幸せでした。

でも、幕切れで「おーい」と手を振る俊寛に向かって、客席の婆さんが手を振っていて、激萎えでした。1階6列中央に座っていた私の、2列前くらいの婆さん・・・。痛すぎです。私もこれまで様々な痛い客を見てきましたが、この人がチャンピオンです。

「喜撰」も素晴らしかった。
長唄も良かった。
清元の山台の左から2人目の方は素晴らしいと思います。

歌劇場と私

2006年にヨーロッパに行ったときの写真です。

↓ ウィーン国立歌劇場

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↓ パリ・オペラ座(バスティーユ)

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↓ パリ・オペラ座(ガルニエ宮)

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↓ ベルリン州立歌劇場

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ペーザロ写真

もうずいぶん昔のことになってしまいましたが、2007年にペーザロのロッシーニ・オペラ・フェスティバルに行ったときの写真です。読んでいる方には興味のない写真ですみません。写真の整理(データの消去)をしたいので・・・。

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↑ ロッシーニ劇場の前で。とても小さな劇場でした。こんな小さな歌劇場があるのか・・・とビックリ。

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↑ ロッシーニ劇場の内部。舞台が近い・・・。

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↑ こちらは広めの会場、アドリアティック・アレーナ。普段は体育館で、フェスティバルの間はオペラ会場となる。フローレスが出演するオペラなどは、こちらの会場。ホテルからちょっと離れていて、バスで行き来する。近くにショッピングモールがありました。

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↑ ペーザロの町から近いウルビーノにも行きました(ペーザロからバスで往復)。壁に囲まれた小さな町でした。ラファエロの生家がある町です。ラファエロの生家は閉まっていて見られませんでしたが・・・。

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↑ 坂が多い。この町で食べたポルチーニのパスタが激ウマでした。美術館もあって、面白い町でした。

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2013年6月28日 (金)

イタリアで必見の天井画

去年の9月に、イタリア旅行へ行ったのです。
たくさんの天井画を見ました。本当にたくさん。
イタリアで天井画と言いますと、システィーナ礼拝堂が有名で、それはもちろん素晴らしいのですが、他にも絶対に見ておいてほしいものがありますので、ご紹介します。
意識して見に行かないと、なかなか見られませんから、ここで強くおすすめしておきます。

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↑ 私が最も感動したのは、ヴェネツィアのジェズアーティ聖堂の天井画。
ティエポロ画「ロザリオの制定」です。
ロザリオの真下に行ってみようとするのだけれど、ロザリオの真下には行けないの。
(なぜなら絵だから)

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↑ 続いて、ヴェネツィアのサンティ・ジョヴァンニ・エ・パオロ聖堂。
ジョヴァンニ・バッティスタ・ピアツェッタ画「聖ドミニクスの栄光」。
聖堂の中の、小さな礼拝堂の天井画。

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↑ これはローマのサンティニャツィオ教会。
アンドレア・ポッツォ画「聖イグナティウスの栄光」です。
前述の2つに比べて、格段に大きい天井画で、迫力があります。

 16世紀初頭に始まった宗教改革は、ローマ教皇を中心とするカトリック世界に大打撃を与えた。プロテスタントに信徒の半分を奪われてしまったのである。
 1537年、スペインの修道士がローマにやって来て、教皇に面会を求めた。イグナティウス・デ・ロヨラと名乗るこの男は、ローマ教皇にこう訴えた。
 「私どもは、信仰のためには何ものをも恐れません。どうか、未開の地への布教という崇高なる使命をお与えください」
 教皇の許可を得、イエズス会を創設したロヨラやフランシスコ・ザビエルの厳格な指導の下、すべてを布教にかけるというイエズス会の献身的情熱は、カトリックをアジアの地に根づかせ、数十万人のカトリック教徒を、日本を含む”異国”の地に誕生させた。この功績により、ロヨラやザビエルは死後、聖人に祀られるようになった。
 サンティニャツィオ教会は、イエズス会の創始者であるイグナティウス・デ・ロヨラを讃えるため、1626~50年に建設される。この教会は、完璧に造られていた。荘厳に飾られたファザード(正面)の彫刻。両側に大理石の柱を配した広々とした空間内部。だが唯一の欠点は、内陣の主祭壇の上にクーポラ(円蓋)がないことであった。そこで、天井にクーポラを思わせる絵を描くことになり、画家が公募された。その結果、当時のバロック美術の巨匠ベルニーニの一門を差し置き、気鋭の建築装飾画家ポッツォが抜擢された。あるはずのないクーポラを、絵という手段で”造り上げた”ポッツォは、この教会身廊の天井画も依頼される。それがバロック天井画の最高傑作『聖イグナティウスの栄光』である。
『週刊世界の美術館No.3』(講談社)より


そういう訳で、絵の中に、いろんな人種が混じっています。

その他のおすすめは、ローマのバルベリーニ美術館(国立絵画館)。
ピエトロ・ダ・コルトーナ画「神の摂理の勝利」です。
ここは部屋の中央にソファが置いてあるので、寝転がって、好きなだけ天井画を眺めることができました。
(ちょっと行儀が悪かったか)

あとは、それほど強くおすすめはしませんが、ヴェネツィアのサン・ポーロ教会。
とても低い天井に、ティエポロが絵を描いていました。面白い。

普通は絵画と言えば、壁に展示されていて、近づいて見たり、離れて見たり、自分の好みの距離で見ることができる。でも天井画は、距離がもう決まっていて、自分で変えることができない。距離も作品の一部。そのことが新鮮でした。
また、建物に差し込む光の量や向きが変化するわけで、行ったタイミングで印象が変わるかもしれません。
とにかくイタリアに行ったら必見です。
 

写真UP

持っているデジカメのメディアが生産中止になってしまい・・・。
本当に、デジタルな機器というものは、はかないものですね。
購入時に付いていた1枚のメディアだけが頼り。
すぐ一杯になってしまう。

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グッゲンハイム美術館の写真を載せておきます。
ちなみに、空中に下がっているカラフルな液体は、今回の企画展の展示の1つで、普段はありません。

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↑ これが時たまチカチカ光って、子どもが大喜び

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↑ これは大阪万博の映像ですよね?

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↑ 変な光るロボット

METの写真ふたたび

ニューヨーク・メトロポリタン歌劇場の地下1階には、有名歌手の写真がズラリと並んでいるのですが、別の場所には、歌手の油絵も展示されていました。

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↑ ↓ さすがに、もう生で見た客もいないだろうけれど・・・。(伝説の人)

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私はパヴァロッティの生声を聞いたことがありますよ。フフ。
いえね、そんな人は今もたくさんいるでしょうけれども、若い人はもう聞けないんですからね。

当然のことながら、写真の数に比べて、油絵の展示はぐっと少数精鋭。ドミンゴもありましたが、カメラの容量が足りず、消去してしまいました。ドミンゴの絵は、あまり写実的でない感じでした。

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うつむくヴェルディの胸像。
もっと高いところに展示する作品じゃないかな~と思いますが・・・。
ま、作曲家が一番偉いのですね。

2013年6月27日 (木)

フランコ・コレッリ コンサート1971

・ヴェルディ:『リゴレット』より「あれか、これか」
 
・ジョルダーノ:『アンドレア・シェニエ』より「ある日、青空を眺めて」
 
・マイヤベーア:『アフリカの女』より「おお、パラダイス」
 
・プッチーニ:『ラ・ボエーム』より「冷たい手を」
 
・プッチーニ:『西部の娘』より「やがて来る自由の日」
 
・マスネ:『ル・シッド』より「おお、父なる主よ」

-アンコール(ピアノ伴奏)-
 
・エドアルド・ディ・カプア:「オ・ソレ・ミオ」
 
・カルディッロ:「つれない心」
 
・デ・クルティス:「泣かないお前」
 
・トスティ:「かわいい口元」

フランコ・コレッリ(テノール)

NHK交響楽団
 
アルベルト・ヴェントゥーラ(指揮)

収録:1971年11月8日 東京厚生年金会館


私の住む町・武蔵小金井。
駅の北側が急速に汚い感じになっていく~~。
もうすぐ引っ越すから、いいのだけれど。

引っ越す前に~~、
たまっているVHSテープを~~、
見て→捨てる
見て→捨てる
見て→捨てる
という作業をしなければ!!!

買ったまま見ていなかった、フランコ・コレッリのコンサートの映像を見ました。
すごい~。
なんじゃこりゃ~~。
(コレッリのライヴ映像は、あまり見たことがない気がする)

観客の熱狂ぶりも凄まじい。
と思ったら、そこは日本であった(途中で気がついた)。
こんなのを生で見た人は羨ましい・・・。

私の持っているベル・カント・ソサエティ社のビデオは51分の収録。
コンサートとしては、ちょっと短い気もするけれど、
あいだにオケの演奏でも入ったのでしょうか。
まあ、これだけ歌えば満足ですね。

(注:歌曲は部分的に歌っています)

特に「冷たい手を」と「かわいい口元」が素晴らしい。
「冷たい手を」は、ちょっとイメージと違う気がするけれど、すごいですよ。
すごいんですよ。
「かわいい口元」で声量をデクレッシェンドさせていくところなんて、
生で聞いていたら失神してしまうかもね~。

ちなみに私は1971年10月29日生まれです。10日後のコンサートなのね。

こんなテノール、また出てこないかな~~。

2013年6月26日 (水)

5分間の天国

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朝、目覚まし時計の音で目覚める
死ぬほど眠い地獄
そういう名前の地獄
時計のアラームを5分ずらせば
そこからは5分間の天国
毎日くり返す天国と地獄

天国とは場所のことだろうか
天国とは時間のことだろうか
たどり着きたいと思っていても

2013年6月25日 (火)

同じ船が見えるか?

吉右衛門演じる俊寛が幕切れに見た船、
救いの船、
それと同じ船を観客も見られるだろうか。

「同床異夢〔どうしょういむ〕」なんて言葉もありますが・・・。

またまた過去記事の再録↓ (このブログは昔のほうが面白かった・・・)


「永遠の一瞬」

●私の勤務先は創立40年ほどなのですが、その間3回、敷地内に別棟が増築され、現在4つの建物が渡り廊下でつながっています。渡り廊下のドアを開けると、建物のにおいが変わるのが分かります。建物ごとににおいが違うんです。ところが、その話をしたら同僚が「自分は感じたことがない」って言うんです。あんなにハッキリ違うのに、と驚きました。

●色盲の方って、赤と緑の区別がつきにくいのだそうですね。人によって、色の見え方って違うんですよね。紫の見え方が西洋人とアジア人とで違うと聞いたことがあるのですが、どうしてそれが分かったのだろう?私の見ている赤と、あなたの見ている赤は、同じ赤色なのだろうか?あなたにとっての赤色が、私にとっての黄色だったりすることはないのだろうか?2人の見ている赤が、全く同じ赤だと証明することはできるのだろうか?できないのだろうか?

●先日、いただいた名刺に点字が入っていた。点字に触ってみるのは久しぶりだった。目を閉じて触ってみる。何度も何度もなぞってみる。しかし、その細かい点の配列を指先の触覚で判別するのは私には無理だった。こんなことが訓練するとできるようになるなんて、すごいことだと思った。

●よく考えるのだけれど、お酒が好きな人と、飲めない人は、別の種類の人間なのではないかと思う。それから、煙草を吸う人と、吸わない人。

●よく考えるのだけれど、「イエス・キリストは処女から生まれた」と信じられる人と、信じられない人は、別の種類の人間なのではないかと思う。信じるとか信じないとかっていうのは、その人そのものであると思う。

●いま、何か分からないことがあったら取りあえずインターネットで検索してみる時代になりました。しかし、インターネットに書かれていることを何でも信じるというわけにはいきません。どんな馬鹿でも、どんな嘘つきでも、どんなオッチョコチョイでも、誰でも制限なしに書き込めるのです。何を基準に信じるのか?「この文章は信じられる」って、直感で分かるのか?あるいは、新聞に書かれていることだったら信じていいのか?教科書だったら信じるのか?先生の言うことだったら信じるのか?家族の言うことだったら?恋人だったら?好きな人の言うことだったら、何でも素直に信じればいいのだろうか、蝶々夫人みたいに?

●松任谷由実が『天国のドア』というCDを発売したときのインタビュー記事

月刊カドカワ(1991年1月号)より引用

今度のアルバムでは、もうずーっと使いたかったフレーズですけど、「永遠の一瞬」という言葉。たとえ決して伝達不可能でも、到達不可能でも、その「永遠の一瞬」には人は同じ光を見ると思うんです。それがすべてでいいんじゃないかな。それは、本当にどんな精巧な時計でもあらわせないぐらいの文字通りの一瞬であっても、その人にとっては永遠にフラッシュバックすれば、ずっと味わっていけるわけでしょう。「あのとき同じ花を見て/美しいと言った心が今は…」って歌があるでしょ(笑)、あれはやっぱり名言だと思う。その一瞬はほんとに同じ花を見て、たとえば中森さんがこれはきれいだなと思う気持ちと、私がきれいだなと思う気持ちは違うわけですよね。違う感性なんだけれど、でも、同じ瞬間に同じ花を見て美しいと思ったことはたしかで、その「永遠の一瞬」を信じることはできます。

■言ってること分かります?

2013年6月24日 (月)

船に乗る人・乗らぬ人

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寝ても寝ても眠い団(通称NNN団)の団長・ふくきちです。こんばんは。

「俊寛」のことを考えていて、ふと、宮沢賢治の『銀河鉄道の夜』を思い出しました。
読みましたか。
読んでいない方は、ぜひ読むと良いでしょう。

船が沈みかけて救命ボートが出るのですが、全員は乗れない。
他人を押しのけて、救命ボートに乗る?
乗らない?
乗らなかった人が、銀河鉄道に乗っている。
そうして主人公と出会う。

『銀河鉄道の夜』は、途中で讃美歌が流れてきたりして、
キリスト教色の強い作品ですが、
一方で仏教の影響も強く感じます。

芥川龍之介の『蜘蛛の糸』も、
「俊寛」に共通する部分のある話だと思う。

『蜘蛛の糸』全文

↑こんなに短い話でしたかねえ・・・。

むかしビートたけしさんが話していたのですが、
(かなりうろ覚え・・・)
4人の兄弟がいて、饅頭が3個しかなかった時、
「俺はいいよ」って言えた者が勝ちだって、
母親から言われて育ったそうな。たけしさん。

何が「勝ち」なのかサッパリ分かりませんが、
それは勝ってみたいものですよ。
勝てますかねえ?
その場になってみないと分からないですね。

2013年6月23日 (日)

MET美の写真

ニューヨークには、メトロポリタン歌劇場とメトロポリタン美術館があり、どちらもMET(メト)と呼ばれている。(すぐ近くなのに同じ名前で、不便でないのだらうか?)

私はニューヨークに5回行ったことがあります。過去4回は、フェルメールを見たという記憶が残っていない。その頃はまだ、フェルメールを知らなかったのかも。しえ~
フェルメールの現存作品は三十数点しかありませんが、そのうちの8点がニューヨークにあります。

メトロポリタン美術館に5点
フリック・コレクションに3点

1度の旅で8点も見られるんですよ!ムヒョ~

フリック・コレクションは撮影禁止だったのですが、メトロポリタン美術館では写真を撮ってきましたよ。

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↑あまり美人じゃない

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↑フェルメールの絵は、この構図が多い(左の窓から光が差し込む人物画)

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↑うたた寝してます

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↑アップにすると分かりますが、透明な玉みたいなのが置いてあります。ガラス玉?

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↑頭は帽子か何かかぶっているのでしょうか?

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↑楽器はリュートですか

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↑不思議なポーズの女(フェルメールの宗教画は珍しい・・・?)

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↑下のほうで蛇が死んでます(死んでますって言うか、この女が殺しました?)

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↑この絵にも、透明な玉が登場・・・(当時の流行?)

せっかくなので、フェルメール以外の絵も載せまする。

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↑なかなかエロい感じ・・・。なぜ、からかったりしちゃうんだろう

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↑おなじみレンブラントの自画像

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↑三菱一号館美術館で「奇跡のクラーク・コレクション展」をやったときにジェロームという画家が話題になりましたが、これもジェローム。オリエンタル趣味というやつ。イスラム圏を描いた油絵って、ちょっと新鮮。

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↑これもジェローム。ヴェールの表現がすごい。どうやって描いたのでしょうか。こんなエロい恰好・・・。

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↑マティスの金魚ほど心がなごむものはないでござる

メトロポリタン美術館は、古典作品、近代作品、現代作品のエリアが離れており、古典のエリアはあまり人がいない(ガラガラ)。近代のエリアが人気でした。

METの写真

今年の3月にニューヨークに行ってきたんです。
(ニューヨークの話はまだ続きますよ、ええ)

前回ニューヨークに行ったのは2006年12月。
久しぶりにメトロポリタン歌劇場へ行ったら、地下1階の壁が、写真だらけになっていた。
前回行ったときは、なかったと思う。

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↑これで全部ではありません

壁一面にびっしり。
上のほうは、高すぎてもう誰だか分からない。
下のほうしか見えない。
故人も現役も混じっている。
どうやって選んだのだろう。
「俺が入っていないじゃないか!」
「私を入れて!」
なんて言って来たら、どうするのだろう。

日本人を探してみたのですが、
小澤征爾さんと大野和士さんの写真がありました。
日本人歌手の写真は見つからなかったですね。
市原太朗さんの写真なんか、あるかな~と思ったけれど、なさそうでした。
まあ、全ての写真をチェックすることは物理的に不可能なのですが・・・。
(高い位置の写真は見えないから)

1人1枚ずつなのですが、
ジェイムズ・レヴァインの写真だけは2枚ありました~。(横に並んで2枚)

私の好きな演出家フランコ・ゼッフィレッリの写真は見つかりませんでした。
演出家の写真は1枚だけ見つけたけれど、誰だか忘れてしまいました。しえ~
ん~、単に私が演出家の顔を知らないだけかも?
その日に上演するプロダクションの演出家の写真を出してるのかな~~?

もう、写真を増やすスペースはなさそうだったけれど、
絶対に入れなければいけない歌手が出てきたら、
誰かの写真を外すのかな・・・。

どうやって決めているのか知りたい。

ロンドンのロイヤル・オペラ・ハウスも、ロビーに歌手の写真を飾っているけれど、もっと数が少ない。(超有名な歌手しか出していない)

これだけの歌手が出たことがあるんだから、METはすごい劇場なんだよなあと、改めて思った次第。

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一応、当たり役の写真が選ばれているようです。パヴァロッティはマントヴァ公。
ちなみにロドルフォの写真は4~5枚ありましたかね~。
(下のほうに飾られている写真はキャプションで名前と役が確認できる)
しかしオペラは衣装から役を割り出すのが難しいですね。歌舞伎はすぐ分かるのに。

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ドミンゴとフローレスの並びは豪華。

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カラスもありました。
カバリエは舞台写真ではなくポートレイト。本人が選んだのでしょうか?

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2013年6月22日 (土)

本日の助六

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こんばんは、いただき升兵衛です!
今度っからオイラを見かけたら「升兵衛さん!」って声をかけてくださいね。
(ウソ)

助六を見てきました~。
今日の河東節は男性でした。(唄が男性、三味線は女性)
男性か女性か、事前に分からないんですよね~。
女性のほうが人数が多いから、女性の確立が高い。
でも土日はわりと男性に当たるかな~。
やっぱり男性は土日しか出られない人が多いのでしょう。
男性の河東節は、長唄に比べると、かなり低い音域ですね。
女性だと、言うまでもなく、かなり高い音域。
出演する人も変わるから、日によってずいぶん雰囲気が違うのでしょうね。

海老蔵さんの助六は最高ですね!
福助さんも良かった。打掛は中島千波さんが描いたほうでした。
三津五郎さんの引っ込みが素晴らしい。
助六はいいなあ。

2013年6月21日 (金)

吉右衛門の俊寛

今月の歌舞伎座の「俊寛」は、もうご覧になりましたか。
松竹歌舞伎会の会報で、吉右衛門さんが、こんなことを仰っていました。

「赦免船が遠ざかり、ふっと見上げた俊寛の目に救世の船が映る。天女がその周りを舞いながら迎えに来てくれる。私の目にも見えています。死ぬまでに、お客様にもその光景をお見せできたらと思いますが、至難の業でしょう」
松竹歌舞伎会会報「ほうおう」2013年7月号
中村吉右衛門インタビューより


見えました?
見えました?
船が見えました?

「俊寛」は3階席から見るのが好きです。
もちろん1階席もいいのですが、上から見ると、最後の海の景色が一層きれいで。
今回、赦免船を見送った俊寛の視線が、上のほうへとのぼっていく。
救いの船が見えているのだなあと思った。

しかしそれは、事前にインタビューを読んでいたからなので、
読んでいなかったらどう思ったのか、自分でも分からない。

珍しいですよね。
歌舞伎俳優が自ら「ここはこういうつもり」と言葉にすることは。
それは舞台上で自分ですればいいわけですから。

記者「こんどのLPは、どんな内容ですか?」
歌手「あのう。あなたは聴いてくださいました?
でしたら、あの。お好きなように解釈していただいて、もう。いいと思ってるんですよね、私は。
一旦、発表しちゃったものをね、あとになって実はこういうつもりだったんですけど、とか言って言い訳しても、ねえ。今さら直せるもんじゃないでしょ。
それに、歌ン中で『角のポストが・・・』って言ったとしますでしょ、それ聴いた人は、自分の家の近くのタバコ屋の前の四角いポストをイメージしたかもしれないですよね。
でも、それを私が出ていって『いいえ、あなたの解釈は間違っています。それはどこそこの町の、なんたら通りの、丸いポストです』とか否定してもね。そういうもんじゃないと思うんですよね・・・」
記者「すると、内容は、聴いてみるまで内緒、と?」
歌手「内緒?・・・っていうのかなあ? おまかせってことじゃないですか? ずさん、でしょうかね。うーん、そう言われちゃうかなあ」
◇ ◇ ◇
百人いれば百通りに。人は誰かを語り、人は己れを語り。
そのどれもが、一つとして当たってもいず、また、一つとしてはずれてもいないのだろう。
◇ ◇ ◇
『伝われ、愛』中島みゆき:著より

解釈って、正解とか間違いとか、ないと思いませんか?
自分がそう思ったんなら、そうなんじゃないですか?

でも、自分で「こうだ」と思っていたことも、時とともに変わっていくものですし、
人の考えを聞いて「そうだったのか」と思い当たることもある。
俳優自身も、作品を解釈しているわけなんですよね。
意味が分からなかったら演じられないもの。
吉右衛門さんのインタビューを読んで、私はすごいと思った。
そういう解釈に至ったことが。
「俊寛」という作品の解釈が、そこまで至ったことが。
その船をぜひ私も見てみたいと思った。

その船を見るためには、俊寛のセリフにも出てきますが、「弘誓〔ぐぜい〕の船」という言葉を知っている必要があると思います。
ひろく誓った船、全員を乗せてあげると誓った船、という意味でしょう。
誰が誓ったのかと言うと、阿弥陀如来が誓ったのですね。

阿弥陀如来については、以前このブログで解説させていただいたことがあります。
ここに再録しておきます。(長いけど)

◎ ◎ ◎

日本人ならば、ほとんどの人が「南無阿弥陀仏」という言葉を知っているでしょう。しかし、「南無阿弥陀仏」の意味を知っている人は、意外と少ないのではないでしょうか。私も意味など知らずにいたのですが、去年はっきり分かりましたので、誠に僭越ながらここで分かりやすく解説させていただこうと思います。信仰する・しないは別にして、知識として持っていて良いと思うんですよ。

(記述が間違っていても怒らないで!)

仏教は、2千数百年前の古代インドで生まれた宗教です。ゴータマ・シッダールタという王子が、29歳で出家して、35歳で悟りを開き、80歳で死ぬまで教えを説きました。人間が悟りを開くと仏になります。「悟りを開く」「仏になる」とは、端的に言えば「もう苦しまなくて良くなった」という状態であると思います。ゴータマ・シッダールタは、悟りを開いて「釈迦如来〔しゃかにょらい〕」という仏になりました。

如来=仏

その教えをまとめたのが「お経」ですが、当時は紙も筆もなかったので、お釈迦様の直筆のお経は存在しません。「こういうふうに考えれば、もう苦しまなくていいんですよ」というお釈迦様の話を聞いていた人たち、仏の弟子たちが、教えを語り継ぎ、いつしか文字となっていきました。ですから多くのお経が「如是我聞〔にょぜがもん〕」=「私が聞いたところでは、●●だそうでございます」という言葉で始まります。

お経は、古代インドの言葉「サンスクリット語(梵語)」で書かれています。これが中国語に翻訳されて、日本に入ってきました。サンスクリット語を中国語に翻訳するとき、大きく分けて2通りの方法があります。

例えばelephantという英単語を日本語に訳すとき、
①象(意味を訳す)
②エレファント(音を写す)
という2通りの方法があります。それと同じ。

最もよく知られたお経に「般若心経〔はんにゃしんぎょう〕」がありますが、これはほとんどの言葉が①の方法で中国語に翻訳されています。ところが最後の「羯諦羯諦波羅羯諦〔ぎゃていぎゃていはらぎゃてい〕」以下の部分は、②の方法で翻訳されているんですね。サンスクリット語の音を漢字で写し取っただけ。ですから中国語を知っているだけでは理解できないんです。

音を写しただけの②の方法では、翻訳になっていないのではないか?と不思議に思う方もいるでしょう。サンスクリット語を知らないと理解できないのでは、翻訳の意味がありませんからね。This is a pen.をジス イズ ア ペンと訳したら、テストで点は取れないでしょう。

しかし、全ての言葉を外国語に翻訳するのは、なかなか難しいことです。日本語にも、他国の言語に翻訳できないものがあります。
・唐衣 きつつなれにし つましあれば はるばるきぬる 旅をしぞ思ふ(在原業平)
・花の色は 移りにけりな いたづらに 我が身世にふる ながめせしまに(小野小町)

上記の和歌は、外国語に翻訳することは出来ません。和歌には、掛詞〔かけことば〕、縁語〔えんご〕、折句〔おりく〕などの技法があります。その技法を、英語で説明することは出来るでしょうけれど、英語に翻訳することは出来ません。日本語でないと表現できないのです。そういう種類の言葉が存在するのです。

「南無阿弥陀仏」は、②の「音を写す」方法によって中国語に翻訳された言葉です。「南」は「ナ」という音を表しているだけで、southという意味はありません。「無」は「ム」という音を表しているだけで、nothingという意味はありません。

「南無阿弥陀仏」をあえて①の方法で翻訳すると、「帰命無量寿覚〔きみょうむりょうじゅかく〕」となるそうです。「帰命」は「私は●●を信仰します」「信じます」「頼ります」という意味。「無量寿」は、時間も距離も超えて、届かぬ場所のない光、遮るもののない光、という意味。「覚」は、悟りを開いた存在、仏です。

釈迦如来は実在した人物ですが、阿弥陀如来は実在の人物ではありません。観念上の、頭の中だけの存在。そうすると、「なぜ実在しないものを信仰しなければいけないのか?」と疑問に思う人がいると思います。しかし、考えてみてください。そもそも信仰とは何でしょうか?自分より優れたものの存在を信じ、仰ぎ、自分もそれに近づこうとすることでしょう。仏というのは、人間の理想形、最終形、ゴールであります。人間には目標が必要なんです。鹿の赤ちゃんは、生まれたその日に立ち上がって歩き出します。しかし人間の赤ちゃんは、食べられないものを口に入れてしまうほどのお馬鹿さんで生まれてくる。教えてあげないと何も出来ない。これは食べられます、これは食べられません。このバナナは腐っているように見えますが、実は今が1番おいしい時です。目玉焼きの焼き方には、このような種類があります。これは善いことです、これは悪いことです。何か指針が必要なのです。

目標とする人間、理想の人間とは、どのような人物か?たとえばプロゴルファーを目指している若者の中には、タイガー・ウッズを目標にしていた人もいたでしょう。けれど、「やっぱりウッズみたいな浮気ジジイは目標じゃないな」と思い直した人もいたのではないですか。つまり人間は一部分しか見えないのですし、裏側は理想的じゃないかもしれません。突然転落してしまうスターが大勢いますね。オペラ歌手を目指している若者の中には、マリア・カラスを目標にしている人もいるでしょう。けれど、同じ日のライヴ録音であっても、EMIレーベルとMYTOレーベルとでは全く音が違うでしょう。劇場で生で聞いたら、もっと違う声だったでしょう。エディンバラのキャンセルの理由は、本によって書いてあることが異なり、本当の理由はさっぱり分からない。誕生日も12月2日説と12月4日説があります。ほんの数十年前に生まれた人でさえ、もう変容している。実物のマリア・カラスは誰にも把握できない。イチローを目標にしている若者もいるでしょうが、私は芥子粒ほどもイチローに興味がありません。イチローを目標にしている人は何パーセントいるのでしょうか?選挙で公正に選んだ国会議員でさえ、支持率30パーセントくらいだったりするものでしょう。そして必ずアンチがいる。時代を超え、場所を超え、全ての人が「なるほど、それは人間の理想形に違いない」と思うような存在は、架空の存在、概念上の存在であって良い。いえ、概念上の存在でなければならぬ、とさえ思います。

仏教では、人間の成長の段階がいくつかに分けられています。
居士〔こじ〕→僧侶〔そうりょ〕→菩薩〔ぼさつ〕→如来〔にょらい〕
如来がゴールです。ゴールは1つではありません。複数の如来がいます。
まず私たちのような何も知らない者が、仏教のことを知ろうと思って勉強すると「居士」と言われる存在になります。さらに出家して修行を始めると「僧侶」になります。僧侶が「菩薩」になるためには、六波羅蜜〔ろくはらみつ〕という6つの行いをしなければなりません。六波羅蜜の行〔ぎょう〕とは、
・布施〔ふせ〕見返りを期待せず、自分のものを他人に与えること
・持戒〔じかい〕仏教の戒律を守ること
・忍辱〔にんにく〕理不尽な出来事を辛抱すること
・精進〔しょうじん〕善い行いに努め励むこと
・禅定〔ぜんじょう〕写経や座禅をして心を穏やかに保つこと
・智慧〔ちえ〕物事を正しく判断すること
禅定まで5つを行じると、おまけとして智慧がもらえるそうです。この6つの修行を積むと誰でも菩薩になれます。
さらに菩薩が「如来」になるためには、「四弘誓願〔しぐぜいがん〕」という4つの誓いを立て、それらを実行しなければなりません。
・無数の衆生を度せんとする誓願
・無辺の煩悩を断ぜんとする誓願
・無尽の法門を知らんとする誓願
・無上の菩提を証らんとする誓願

これら4つの誓願は、全ての仏に共通の誓いです。阿弥陀如来は、これら4つの誓願のほかに、48の誓願をお立てになりました。共通の4つの誓願とは別の誓いであるから「別願〔べつがん〕」とも言い、また阿弥陀如来にとってはこちらのほうが大切なので「本願〔ほんがん〕」とも言います。本願が、阿弥陀如来を阿弥陀如来たらしめている特色であり、阿弥陀如来そのものであると言って良いでしょう。48のうち、分けても18番目の誓いが重要で、特別に扱われています。歌舞伎十八番の「十八」も、ここから来ているのではないかという説を聞いたことがあります。
その18番目の誓いとは、
「たとえ、我れ仏を得たらんに、十方の衆生、至心に信楽〔しんぎょう〕して、我が国に生れんと欲して、ないし十念せんに、もし生れずんば、正覚〔しょうがく〕を取らじ。ただ五逆〔ごぎゃく〕と、正法〔しょうぼう〕を誹謗〔ひぼう〕せんとをば除く」
というものです。
これを現代語に訳すと、
「修行の末、たとえ私が、もう苦しまなくていい幸せな存在になれると言われたとしても、他の人々が苦しんでいるのであれば、私はそんな存在にはならない。他の人々と一緒でなければ、私は仏にはならない。極楽浄土に行きたいと思う人、あるいは10回でも念仏を唱える人を、私は必ず救ってみせます。ただし、人を殺したり、仏教を信じない人のことは知らないけれど」
という感じでしょうか。
阿弥陀如来は、法蔵菩薩〔ほうぞうぼさつ〕という菩薩だったころに、48の誓いをお立てになりました。
「自分だけ幸せになるんだったら、その幸せはいらない」この誓いを理想と思わない人がいるでしょうか。そのような誓いを立てる人こそ、人間の理想形、最終形と言えるのではないでしょうか。

しかれば諸仏の御誓い、いずれ勝劣なけれども、超世の悲願あまねき影、弥陀光明に如くはなし。
能『姨捨』より


悟りを開く方法はいろいろあるのですが、1番簡単なのが「南無阿弥陀仏」と唱えること。1番簡単であるがゆえに、修行をしている人々からは軽んじられている面もありました。しかし、「1番簡単であるがゆえに1番尊い」という大転換が起こります。ただ「南無阿弥陀仏」と唱えることしかできないような民衆、飢饉や疫病に苦しんでいる、字も読めないような無学な民衆こそ、真っ先に救われるべきである。なぜなら理想の存在である阿弥陀如来はそれを望んでいるに違いないからです。「南無阿弥陀仏」という言葉はインドからやって来ましたが、この価値の転換は鎌倉時代の日本で起こり、ここに法然〔ほうねん〕が浄土宗〔じょうどしゅう〕という宗派を起こします。

僧侶の修行は厳しいもので、難しいお経の研究はもちろん、食事や恋愛についても細かい戒律があり、民衆にはとても望めない。法然上人は、何とか民衆を救う方法はないかと考えました。それで、阿弥陀如来が「全員を救わぬうちは仏にならない」と誓ったわけですから、阿弥陀如来に助けてもらっちゃいましょう。仏の境地まで自分の足で歩いて行くのは大変だけれど、みんなで船に乗ってラクラク極楽浄土まで、向こう岸まで連れて行ってもらいましょう。だって阿弥陀如来様ご自身がそう仰っているのですから。

これが「他力〔たりき〕」という考え方です。阿弥陀如来様は、私たちを救うために走り回ってくださっているのです。全員で船に乗って助けてもらっちゃいましょう、ということです。

俊寛が乗るは弘誓の船、浮世の船には望みなし。
文楽『平家女護島』より


ここで注意していただきたいのですが、阿弥陀如来は、はるか昔に仏になっています。お経にそう書いてあるんです。なるほど、そのような理想の人物であれば、仏になっていないはずがありません。つまり私たちが救われるのは、生まれる前から決まっていることなのです。全ての命は救われる約束になっている。「決定往生〔けつじょうおうじょう〕」と言います。

「南無阿弥陀仏」と唱えれば極楽へ行けます、という法然上人の教えは、民衆から熱狂的に受け入れられました。しかし、旧来の宗派から「そんな自堕落な宗教があるものか」と厳しい弾圧を受けます。法然上人ご自身は、旧来の戒律を厳格に守る方だったそうです。他人には寛容だったけれど、自分には厳しい人でした。戒律に意味を見出していたわけです。戒律を捨てなかった。一方、法然の弟子の親鸞〔しんらん〕は、戒律の守れない人で、妻帯者でした。自分のことを駄目な人間だと思っていました。親鸞は法然と違って、駄目な側の人間だったのです。しかし、1番駄目な自分をこそ、阿弥陀如来は真っ先に助けてくださるに違いない。理想の存在ならば、極楽から1番遠くで苦しんでいる私を見捨てるはずがない。私こそが仏の正客〔しょうきゃく〕である。ここに親鸞が浄土真宗〔じょうどしんしゅう〕を起こします。浄土真宗では、阿弥陀如来のことを「お真向き様」と呼びます。1番駄目な私のほうを向いてくださっている仏様だからです。

時宗〔じしゅう〕を起こした一遍〔いっぺん〕は、「南無阿弥陀仏」の六字を広めるために、全国を歩き回りました。遊行〔ゆぎょう〕と言って、自分の本拠地となる寺を持たず、ずっと旅暮らし。「南無阿弥陀仏」の他には何もいらぬと、自分の書いた本も燃やしてしまったので、あまり大きな宗派にはなりませんでした。しかし、「南無阿弥陀仏」の六字は一遍上人に至って究極の南無阿弥陀仏となった、行きつくところまで昇華された、と言われています。自分で何かが出来ると思ってはいけない。絶対他力。他の修行はいらない。私が南無阿弥陀仏であり、南無阿弥陀仏が私である。

現代の日本人は、無宗教だと言われます。特に地下鉄サリン事件以降、宗教と言えば何か怪しいものなのではないかという雰囲気さえあるように思います。しかし、信仰を持っていない人のほうがよほど怖いと思いませんか?何をするか分からないではありませんか。善悪を誰に教わったのでしょう。学校では善悪を教えません。国語、算数、理科、社会、体育、音楽、美術、技術、家庭、ものの善悪を教える教科があるでしょうか?高学歴の悪人だって大勢います。毎日、迷惑メールがたくさん届くでしょう?おかしなセールスの電話がかかってきませんか?そういうことをしている人が、実際にたくさんいます。他人を騙して金を儲けようと思っている人とか。人間は、いくらでも悪人になれます。そしらぬ顔をして、身の回りにいるんですよ。

昨今の政治の混迷、マスコミの騒乱を見ておりますと、何て愚かしいのだろうと思う。身近な場所で再び戦争が起こるのかもしれない。人間は本当に賢いのだろうか?

先に「教えてあげないと人間は何も出来ない」と書きましたが、去年12月に文楽の『本朝廿四孝〔ほんちょうにじゅうしこう〕』を見ていて、そうじゃないなと思いました。人間には、誰からも教えられずとも、本来持っている美がありますよね。
お種…我が子の命を助けようとする母親の心
横蔵…生きるか死ぬかという場面になったときに、生きるほうをつかみ取り、自分の命を自分の信じる何かの役に立てようとする心
八重垣姫…好きな人と添いたい、好きな人を何とかして守りたいと思う心

『本朝廿四孝』の登場人物って、親が言っていることとは別の行動を取っていて、これのどこが孝行なんだろう?と思いますが、たとえ親の教えとは違うことをしていても、自分が本来持っている美を輝かせることが出来たなら、それで充分、孝行と言えるのではないでしょうか。

同じ羽色の鳥翼、人目にそれと分からねど、親と呼び、また夫鳥と呼ぶは生ある習いぞや。
文楽『本朝廿四孝』より


そのような、人間が本来持っている美の中の1つに、阿弥陀如来を理想と感じる心が入っているのではないかと思う。「自分だけ幸せになるんだったら、その幸せはいらない」って言葉を聞いたら、誰でも「それは人間の理想には違いないな」と思うのではないでしょうか。力及ばず自分には実行できなかったとしても、「確かに理想には違いないな」と感じるのではないでしょうか。そう感じる心こそが「南無阿弥陀仏」そのものなのだと私は思います。自分の命を、全ての命を肯定したいという、祈りの言葉です。

「末法思想〔まっぽうしそう〕」と言いまして、仏の教えは時代が下るにつれてだんだん薄れていくだろうということが、仏教誕生の時からずっと言われていました。今まさに末法の世の中となっています。しかし釈迦如来は、「自分のことは忘れ去られても、阿弥陀如来は最後まで残るだろう」と仰ったそうです。南無阿弥陀仏、南無阿弥陀仏。

つれづれ

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きのう(20日)、歌舞伎座の第1部と第2部を見てきました。
文五郎さんは、いい声ですねえ。もっと活躍すればいいのに!
「喜撰」の清元で、山台の左から2人目の方が、いい喉でした。嬉しいですね。
(お名前が分からない、清元の名前は分からない、調べようがない)
映像収録が入っていたようで、全体的に緊張感のある舞台でした。

第2部の終演後に、日本橋高島屋で開催中のユトリロ展へ。
ユトリロは好きですねえ。
むかしは「同じような絵ばかり描く人」というイメージでしたが、
新宿の東郷青児美術館でユトリロ展をやったときに拝見して、素晴らしいと思いました。
建物の壁のマチエールが素晴らしい。
マチエール・・・、絵の表面の質感、絵肌のことですね。
今回は、絶筆が展示されていました。
生涯に6千点以上の作品を描いたそうですが、その最期の絵。
しげしげと眺めてしまいました。
6千点って、すごいですね。

日本橋高島屋と言えば、ひとつ前の展示「神坂雪佳展」は絶対に行きたかったのですが、急な仕事で行けませんでした。しょぼん・・・。
絵画というものは、舞台芸術と違って、ずっとあとまで残るものではあるけれど、チャンスを逃すともう見られないという点で、一期一会に変わりない。

このブログも、書いても書いてもアクセス件数は減っていくばかり。
もうそろそろ潮時かな~と思います。

2013年6月19日 (水)

油・断・快適!

先日、江戸東京博物館の「ファインバーグ・コレクション展」を見に行って来たのです。たいへん素晴らしい展示だったのですが、江戸博のエントランスが美しくなくてゲンナリ。
いえ、江戸博に行くのは初めてではありません。
知ってました。
知っていたけれど、行くたびにゲンナリ。
どうしてあんなに美しくないのだろう。
暗い駐車場の中を通って博物館へ。
よくもまあ、あそこまで美しくない建物を造ることができたものですね。

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「殺風景」という形のない言葉にあえて形を与えたらこんな風景になるのじゃないかしらん。

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せっかく美しいものを見ても、お帰りの道がこれでは・・・。
心の切り替えが難しいですね。

「不満に思っている」ということをアピールしておかないと、
これで満足だと勘違いされるのじゃないかと心配で。

2013年6月18日 (火)

『京鹿子娘道成寺』詞章解釈「乱拍子」

 

道成〔みちなり〕の卿〔きょう〕 うけたまわり はじめて伽藍〔がらん〕 たちばなの 道成〔みちなり〕興行〔こうぎょう〕の寺なればとて 道成寺とは名づけたり
 
上に記したのは、長唄の詞章ではありません。花子が謡
〔うた〕う謡〔うたい〕の詞章です。能の「道成寺」から取ってきたものです。

『京鹿子娘道成寺』は長い踊りなので、部分的にカットが入ることがあります。
「桜々とうたわれて」のくだりは、まず踊らない。(5富十郎、4雀右衛門は踊っていたと思います)
あとは、道行とか、「ただ頼め」のくだりがカットされることが多い。削ろうと思えば、いくらでも削れるらしいです。道行を出せるかどうかで、その役者の格が決まると言えるでしょう。
「押し戻し」は初演時にはなかったもので、あとから加えた場面です。ないのが普通です。なくてもカットとは言いません。

「道成の卿うけたまわり」の謡は、滅多にやりません。7芝翫が一世一代と銘打った「娘道成寺」で、千秋楽だけやりました。(私はこれを見たのが自慢) 2~3回なすったそうです。
6菊五郎も、生涯最後の「娘道成寺」でやったそうです。

昭和二十三年一月、東劇に出演中の大川橋蔵から電話があった。
 
「お父さん(六代目)が今度の『娘道成寺』はもう踊れないかもしれないから、すべて丁寧に踊るからよく見ておくように」と言われたのでお知らせするという内容であった。千秋楽なので私も行くつもりであったのでしっかりと拝見した。この日は時蔵(三世)や男女蔵(三世左團次)も所化に狩り出されての大舞台。六代目の白拍子花子ははじめから気が入り、“道成の卿承わり”の最初からていねいに踊り、すべて全力をふりしぼっての熱演で観客を圧倒した、すばらしい“道成寺”であった。
 
萩原雪夫
 
(演劇界別冊「名優アルバム六代目尾上菊五郎」より)
 
襲名や追善などの特別な時、よほど気合が入った時にしか上演しないくだりだと思います。

詞章の意味は、「橘道成
〔たちばなのみちなり〕という公卿〔くぎょう〕が、勅命〔ちょくめい〕を承って建立〔こんりゅう〕した寺なので、道成寺と名づけられた」となるでしょう。
公卿とは、朝廷に仕えるお公家
〔くげ〕さんのこと。
勅命とは、天皇の命令のこと。
伽藍
〔がらん〕とは、寺の建物のことです。
仏教はインド発祥で中国を経由して日本に渡ってきたので、始めのうちは漢文の読める上流階級だけのものでした。時代がくだるにつれ、庶民にも広がっていった。そうして寺も、装飾の多い豪華な建物から、飾り気のない簡素な建物になっていった。私が思いますには、簡素な寺は「伽藍」とは言いません。ゴージャスな寺の建物が「伽藍」。
寺というものは、「建てたい」という気持ちと、財力があれば、建ってしまうものなんですね。「二月堂」「摂州合邦辻」などの芝居でも、「寺を建てよう」と言い出す。そうして日本には実に多くの寺が存在しますが、寺にはそれぞれの格があります。天皇の発願
〔ほつがん〕によって建立された寺は「勅願寺〔ちょくがんじ〕」と言って、特別に格が高いのでした。

つまりこの謡の詞章は、道成寺建立の由来を語り、なおかつ、格の高さを讃える内容となっています。

ところで、6歌右衛門の「娘道成寺」を見たことがありますか。私は舞台映像を見たことがあります。他の俳優と異なる部分がいくつかありますが、1番驚いたのは、紅白の段幕が2枚使われていたことです。「花のほかには松ばかり」で紅白の段幕があがると、その向こうにまた紅白の段幕が出てくる。なんとシュールな光景だろうと思ったものです。たとえて言うならば、「浅葱幕が落ちたら奥からまた浅葱幕が出てきた」みたいな感覚。何の必要があってそんなことをするのか、とても不思議でした。

最近になって、紅白の段幕が2枚使われた理由が分かりました。2枚目の幕は、長唄を隠しているんですね。そうすると、舞台に囃子だけが現れる。つまり能の舞台を模しているのだと思います。能と同じ楽器構成にしている。そこは能舞台のつもり。長唄の三味線が鳴るまで、本気で能をやっているのだと思う。「娘道成寺」の初演時は、能に対する強い憧れがあって、それをやっている。

ついでに・・・。
『京鹿子娘道成寺』の「鐘の供養」は、新しい鐘が出来たお祝いをしているのだと思う。昔は壁時計も腕時計もないし、寺の鐘で時間を知らされていた。鐘がないのは不便。新しい鐘が出来たのは嬉しい。お祝いだから紅白の段幕を張っているのでしょう。
しかし、能の「道成寺」には、お祝いの雰囲気はないと思う。「鐘の供養」というのはお祝いではなく仏事
〔ぶつじ〕、仏教の行事でしょう。

私はずっと「鐘の供養」という言葉の意味が分からなかった。でももう分かりました。
「供養」とは、亡くなった人に何かを捧げることでしょう。
ここでは、「亡くなった人」というのは「先代の鐘」のことなのでしょう。先代の鐘は、清姫に焼かれてしまった。先代の鐘に、新しい鐘を捧げているんですね。

能「半蔀
〔はじとみ〕」の詞章を読んでいたら、「立花供養〔りっかくよう〕」という言葉が出てきました。

◎立花供養
 
・花の供養。花を立てて、花に回向する。(中央公論社『解註・謡曲全集』より)
 
・切り取られた花々のために花を生けて、供養を行う仏事。(小学館『日本古典文学全集』謡曲集より)
 
「花」を「鐘」に置き換えて考えると、「鐘の供養」の意味が分かると思います。

 

2013年6月17日 (月)

逆さ屏風(虞美人草図屏風)

芸大美術館で開催中の「夏目漱石の美術世界展」に行ってきたんですけどね。

芸大美術館って、正式名称は「東京藝術大学大学美術館」と言うらしい。(入場券にそう書かれている)
長い名前ですねえ。
藝大は「藝」の字にこだわりがあって、
芸という字は藝という字が難しすぎるってんで無理矢理つかっている別の文字であり、芸という字に藝という意味はないらしい。
そのむかし文部省は、難しい漢字を簡単なものに変形させて流布させたのですよね。
しかし、藝大は文部科学省の監督下に置かれた国立大学なので、勝手に藝の字をつかうことは許されず(?)、正式名称では芸のほうをつかっている。
さ・す・れ・ば、芸大美術館の正式名称は、実は「東京芸術大学大学美術館」なのかもしれません。

あっ、どうでもいい話でした。

狙って行ったというわけでもないのですが、私が行った日は、ちょっと特別な展示の日でした。

本展では、漱石の小説に登場するものの、実際には存在しない美術作品を、東京藝術大学監修のもと再現制作を行い、会場で展示しています。そのうちの1点が《虞美人草図屏風》です。日本画家で東京藝術大学大学院准教授の荒井経氏がこの屏風を推定試作しました。漱石が『虞美人草』のラストシーンで酒井抱一の屏風として登場させたこの屏風。今回、一日に限り、小説の描写通りに逆さにして展示します。

というわけで、逆さに展示された屏風を見てきました。

逆さに展示されていると、雰囲気が全然違うものですね~~。
(股の下から覗いて「逆さでなかったら、どう見えるのか」もチェックしてきました)

こんな展示方法は、普通の絵画だったら出来ないかもしれないですね。
今回の企画のために特別に制作した絵だからこそ、出来たんじゃないですかねえ。

あっ、こんな屏風、今でも、現代でも、依頼すれば作ってもらえるものなのですね・・・、
というのが、新鮮な発見であった。
私もほしい、あんな屏風。

逆さの屏風というと、歌舞伎でそんな場面がありますね。
「鏡山旧錦絵〔かがみやまこきょうのにしきえ〕」というお芝居で、屏風を逆さに置くシーンがあります。
ご主人様が死んでしまったので、召使いが屏風を逆さにする。
召使いは、ご主人様が死んでいるのを見つけて半狂乱になるのだけれど、そのような混乱した精神状態の中で、屏風を逆さに置き、鞘を払った長刀をその屏風の上に置き、何やら儀式めいたことをテキパキ行っていく。そのうちに、かたき討ちの決意を固めていくのでした。
私なんか、「ああ~、人が死んだときは、こうするものなのか~」と眺めていて、「こんな作法、私は誰からも教わっていないな」と思い、「おっと、ウチには屏風も長刀もないんだった」と気がついた。

屏風のあるウチに生まれてみたかった・・・。
(うそ)

夏目漱石はエリートだったから、屏風のある暮らしをしていたのでせう。

「鏡山旧錦絵」、もうずっと上演されていないですね。
役者が揃わないんじゃないですかね。
芝翫さんのお初も良かったし、
勘九郎さんのお初も良かったですねえ。
勘九郎さんなんて、絶叫してましたもん。
私がもっと早く帰ってきていれば、ご主人様は死ななかったのに、
「遅かった、遅かった」というところで、渾身のフルヴォイス。
「筒一杯〔つついっぱい〕」というやつですね。
こんな声の出し方をしていて、明日の公演はどうするんだろう・・・と思った。
もう、あんな役者は出てこないと思う。

2013年6月16日 (日)

伊豆の魅力

このあいだ、伊豆へ行ってきたのです。
私は神奈川県西部の育ちなもので、伊豆旅行と聞いても、何だかそれほど魅力を感じなかったのですが、行ってみたら素晴らしかった。
海あり山あり。

名所と名所の間が離れているので、車の旅でないと厳しいですけど。

西伊豆堂ヶ島の洞くつめぐり遊覧船に乗ったのですが、カプリ島の「青の洞窟」も真っ青というくらい綺麗でした(←ちょっと大袈裟)

※ちなみに私はカプリ島には行ったことがありまっせん。

洞くつめぐり遊覧船からの写真↓

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洞窟の上に丸い穴が開いていて、光が降り注ぐ↓

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↑海が丸く光っている。神秘的~~~。

ゾウの形をしたゾウ島も見られます↓

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パオーン。

それに、伊豆には「象牙美術宝庫」がございます。
牙彫を集めた美術館。
ここは是非とも行っておくべき美術館です。
(なるべく早く)

複製の展示

芸大美術館で開催中の「夏目漱石の美術世界展」に行ってきました。

えっ?この絵、来てたの?!すごい!!
・・・と思ったら、それは複製であった。
(しょぼ~ん)

企画の性質上、
「この絵は絶対に紹介したいけれど、借りられなかった」
という絵があって、
本物の代わりに、複製が展示してありました。

それは仕方のないことなので、いいんですけれども、
この複製が、わりと精密に出来ていて、
本物だと思ったまま帰っちゃう婆さんとかもいそうな感じ・・・。
(それは幸せな人生)

ところで、東京国立博物館の総合文化展でも、
たまに複製が展示されていることがありますよ。
なんで複製が展示されているのか分からないんです。
どうしても紹介しなくてはいけない作品というわけではない、
ように思える。
けれど複製。
なんで複製なんか展示してるのだろう、
いい絵いっぱい持ってるくせに。
誠に不可解な事象であります。

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あまりに不可解なので写真を撮っておいた。
(ちなみに、複製のレベルもかなりお粗末だった)

つまり、私が言いたいのは、
美術館に足を運ぶ大前提として、
展示作品は本物であると思っているわけでしょう。
偽物だったら、自宅のパソコンとか、近所の図書館でいくらでも見られるわけですから。
展示作品の中に1点複製品が混じっていることで、
絵を見る心構えが変わってきてしまうんですよね。
絵の前に立つたびに、「本物か・偽物か」と考える時間が生じる。
それはおそらく、東博にとって、良いことではない。

私はですね、
美術展の展示室の中で、「この絵、本物なの?」とつぶやくおばさんに出くわしたことが数回あります。
何しに来たんだろうと思ったものですが・・・。
複製技術が格段に進歩した現在にあっては、
正鵠を射たつぶやきであるかも知れぬ。

2013年6月12日 (水)

つれづれ

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先日、「グリダーレ」って公演の感想を書いたわけですが~~、
これは第3回だったのだそうで、知ってたら第1回から行ってたと思うんですね。
第1回、第2回を知らなかったことがショック・・・。
(情弱?)

それで、「グリダーレ」という単語でネット検索していて思ったのですが、
GoogleとYahoo!の検索機能が劣化しているような気がする。
ブログなんか全然引っかからないですし。
gooのほうが引っかかる。
それとも、もうブログというジャンル自体が衰退しているのでしょうかね~。

グリダーレの感想を書いている人なんて、私くらいじゃないですかね?
客が爺さん婆さんばかりだったということもあると思いますが、
昔はもうちょっとインターネットでいろいろ話題になってたって言うか・・・。

第1回と第2回で何を歌ったのかなんて、ネットで調べても分からないのですよ。

インターネットというメディアも、いろいろ形を変えていくのでしょうねえ・・・。

と・こ・ろ・で、
「グリダーレ」の公演制作をしているのが、柴田さんという方で、
私は知り合いではありませんが、
司会として舞台に登場するので一方的に知っています。
この方が、八王子でオペラ公演のプロデュースをしている。
すごい頻度で公演を打っていてビックリです。
(ピアノ伴奏)

日本って、小規模なオペラ公演がたくさんありますね。
日本人オペラ歌手のコンサートは少ないけれど。
もっと増えればいいのに。

2013年6月11日 (火)

グッゲンハイム美術館

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3月にニューヨークに行った際、グッゲンハイム美術館を見てきました。
この美術館はちょっと形状が変わっていて、らせん状のスロープを上りながら、片側の壁に展示された作品を見ていく。下りながらでもいいけれど・・・。
企画展とコレクション展を同時にやっています。
行ったときの運で、見られる作品が全然違う。

私が行ったときの企画展は「GUTAI」というタイトルでした。
GUTAIとは何かと言うと、「具体」のことです。
1970年代あたりの日本の美術運動ですかね。
つまり日本人の作品ばかりが展示されている!!
どんな作品だったか、ちょっと説明できない。
偶発性を重視する美術、なのかな??

砂浜に幾何学模様を描き続ける映像が流れていました。
カラフルに色を塗ったたくさんのランプが人の形をしていて、付いたり消えたりとか・・・。
(説明できない)

興味深かったのは、大阪万博(1970年)のイベントの映像(たぶん)。
全身スパンコールの布をかぶったオバQみたいのがウニョウニョ歩いてたりとか・・・。
毛糸のワンピースを着た女が毛糸をツーっとほどかれていってクルクル回ってたりとか・・・。
(最後どうなったのか不明)
光る変なロボットとか、光る変な車とか登場していた。

美術雑誌なんかも展示してあって、周りの人々は読めないけれど自分は読めるという不思議な優越感を味わったり。

しかし、
日本人の私でさえ知らない一過性のムーブメントがニューヨークで紹介されているのは、ちょっと不可解であった。

ニューヨーク近代美術館では、日本人画家の絵は見つからなかったのですが、日本人の映像作品が流れていました。それもちょっと、残念な感じの映像でした。

日本の美術作品には、もっと強力で絶対的な美がいくらもあると思うのですが、なかなか海外では紹介されないのでしょうね。
だって日本人でさえ、なかなか見る機会がないですから。
「皇室の名宝展」で若冲の動植採絵30幅を見たときの驚き。
速水御舟展、田中一村展、
横山大観の海十題、山十題、
そういう巨大な美をもう一度見たいと思っても、
なかなか見られない。
日本の美は、日本に住んでいないと、なかなか見られないと思う。

日本のありがたさを、しみじみ感じたグッゲンハイム美術館。

2013年6月10日 (月)

うらみ葛の葉

「葛の葉」には、和歌が出てきます。

恋しくば 尋ね来てみよ 和泉なる 信田の森の うらみ葛の葉

文楽や歌舞伎のお客さんは、この和歌の意味を分かって舞台を見ているのでしょうか?
分かっていない人が意外と多いのではないかと思う。
この和歌の意味を説明してくれる本を見たことがない。
狐ごときが詠んだ歌を人間様が理解できないのでは沽券にかかわりますし、僭越ながら私が少し解説させていただきます。

私のことを恋しいと思うならば、和泉にある信田の森まで、私を探しに来てください

と、ここまでは誰でも分かると思います。
(「和泉」は大阪の地名)
分からないのは「うらみ葛の葉」です。

葛というのは、秋の七草の1つに数えられる草です。葛切りの材料となる葛粉が取れます。
葛の葉っぱの色は、表は緑なのですが、裏が白なんですね。白と言っても、真っ白ではなく、白っぽいという程度ですけれども、とにかく表と裏で色が違うんです。ペラッとめくると、表の色から想像したのとは異なる色が出てくる。意外な色。
(低いところに生える草なので、普段は葉っぱの表しか見えない)

【あなたが想像したことのない私】

〇うらみ
裏見・・・裏側に、誰も知らない本性を隠している(実は白狐)
恨み・・・その本性ゆえに夫・子と別れなければならないのが恨めしい
という掛詞になっています。

【本当の私でお会いしましょう】

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酒井抱一『夏秋草図屏風(部分)』
(風のせいで葛の葉の裏側が見えている)

グリダーレ(叫ぶ!!)

テノール上本訓久さんとバリトン今井俊輔さんのユニット「グリダーレ」の公演に行ってきました。

グリダーレ(叫ぶ!!)第3回コンサート
2013年6月6日(木)19時開演
北沢タウンホール(自由席)
主催:グリダーレ実行委員会

◎出演
上本 訓久(テノール)
今井 俊輔(バリトン)
遠藤 紗千(ソプラノ)
井向 結(ピアノ)

◎プログラム

Ⅰ部

オペラ「ドン・カルロ」より
友情の2重唱(上本・今井)客席の後ろから通路を通って登場

〈ナポレターナ〉より
泣かないお前(上本)
熱情(今井)

〈日本歌曲〉より
死んだ男の残したものは(上本)日本歌曲を自然に歌っていて秀逸だった
平城山(今井)

〈イタリア・オペラ〉から
オペラ「椿姫」より
そは彼の人か~花から花へ(遠藤)
オペラ「トスカ」より
星は光りぬ(上本)
オペラ「アンドレア・シェニエ」より
祖国の敵だと(今井)たいへん素晴らしい

-休憩20分-

Ⅱ部

鉄腕アトムの替え歌(上本・今井)

コーレングラート(上本)

オペラ「道化師」より
プロローグ(今井)
衣装をつけろ(上本)

グラナダ(今井)

オペラ「トロヴァトーレ」より
第1幕の3重唱(上本・今井・遠藤)

オペラ「ボエーム」より
第4幕の2重唱(上本・今井)

オペラ「アンドレア・シェニエ」より
終幕の2重唱(上本・今井・遠藤)テノールのパートを部分的に今井さんが歌った

オー・ソレ・ミオ(上本・今井)客席めぐり

ゴッドファーザー愛のテーマ(上本・今井)グリダーレのテーマ曲らしい

終演9時10分ごろ


公演日の3日くらい前に知って、チケットがまだあるか主催者に電話で問い合わせたところ、「当日券で大丈夫だから来てください」と言われ、当日券で見てきました。
第3回だそうで、知っていたら第1回から行ったのに・・・。
こんな公演が3千円で見られるなんて素晴らしい。
こういう公演がもっと増えればいいな~と、いつも思うんです。

オペラ好き好きの私も知らないような公演を、どういう人が見に来るのだろうかと思ったら、爺さん婆さんがほとんどでしたね。どこで情報を得たのだろう・・・。オペラの客は爺さん婆さんが中心。
後ろのほうは少し空席がありました。

配られたプログラムには、Ⅱ部の曲目が書かれておらず、空白になっていました。2人でしゃべりながら進行。お客さんのリクエストにも応え、時間配分も考え、喉のスタミナも気にしつつ。

客からのリクエストは「コーレングラート」と「グラナダ」。
「コーレングラート」って何??もう15年もオペラを見ている私も知らない曲をリクエストする人がいるなんて!!と思ったら、それは「カタリ・カタリ」であった。
コーレ=心
イングラート=ひどい
コーレングラート=つれない心

オペラ歌手に歌曲をリクエストする心が理解しがたい。
私はもう少しで「花の歌」「悪魔め鬼め」とリクエストするところだった。
その場でリクエストを受け付けるのって、どうなんでしょうか。
「グラナダ」は今井さんのレパートリーではない。歌えていなかった。

Ⅱ部も曲はあらかじめ用意してあったようですが、成り行きまかせの部分もあり、結構グダグダな感じでした。
「オペラに親しんでほしい」という会だそうですから、別にいいんですけどね。お客さんには受けていましたし。(かなりお笑い路線だった)

この日私が1番感動したのは、今井さんの「祖国の敵」。良かったですねえ。

上本さんの誕生日だったので、最後にみんなでハッピーバースデーを歌いました。

2013年6月 6日 (木)

わざと難しく

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3月にニューヨークに行ってきたんですけれども、ブロードウェイでミュージカルを見に行くと、客席案内係の人が”PLAYBILL”という小冊子をくれて、客席に案内してくれるんですね。
国立能楽堂なんて、客席内を案内する係員なんて1人もいないのに・・・。
それで、ブロードウェイの劇場というのは、それほど大きくないのですが、客席の席番が複雑なケースが多いと思う。1列の1,2,3,4,5・・・って順番に並んでいるのではなくて、102,104,106・・・のような、初めて行った人は自分の席を自分で探せないような席番になっている。それは、わざと複雑な番号にしているんだと思うんですよ。自分で自分の席が分かると、客席案内係の仕事が必要なくなってしまうから。

そういうふうに、わざと難しくしていることって、他にもあると思う。例えば会計基準なんて、必要以上に難しくなっていると思うんです。それで毎年ちょっとずつ変更したりして。簡単だと、全員に分かってしまって、公認会計士の仕事が必要なくなってしまうでしょう。

本当に、仕事を得るということは、大変なことでございますね・・・。

2013年6月 5日 (水)

新国立劇場《ナブッコ》

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最近、体調が優れず、動悸や高血圧などこれまで経験したことがない種類の不調で、私ももうお迎えが近いのかな・・・などと思っております。

《ナブッコ》はサントリーホールのホールオペラで初めて見て、何て変な話だろうと思いました。その後、新国立劇場の公演も見ましたし、映像もいくつか見ました。だんだんと、分からなかった部分が分かるようになってきましたが、相変わらず謎の部分もある。
なぜナブッコは改宗したのか、その心の推移が理解できない。
アビガイッレが突然死ぬのも理解できない。
しかし、分からない部分は分からないまま、音楽を楽しんでおりました。

今回の新国の公演では、予備知識がなくても楽しめるように演出し直しましたという前触れだったので、期待して出かけました。

それでまあ、ショッピングモールという読み替え演出だったわけですが・・・。
読み替え演出もいいんですけれども、「読み替え残し」があるのはイヤだなといつも思う。
読み替えるなら全部読み替えてほしいんです。

今回の演出で言えば、
ショッピングモールの中で「私は奴隷の子だったのね」と歌われても、何のことだか分かりません。「王」というのは「リーダー」であるとしても、「奴隷」が何に読み替えられたのか、全然分からない。変換できない。「運命の書」というのが何なのか分からない。
それから、
「行け、我が想いよ、金色の翼に乗って」という合唱にしても、
「行け」というのはどこへ行けと言っているのか、
ショッピングモールから出たいと言っているのか、
このような物質社会になる前の時代に行きたいと言っているのか、
三丁目の夕日を見たいと言っているのか、
行き先が分からない。
そういうふうに、読み替え残した事柄がボロボロ出てきて、ザル演出な感じでした。

なぜナブッコが「私は神だ」と言い出すのか、
なぜ雷は、物欲に取りつかれた買物客に落ちないで、アナーキストに落ちるのか、
もう疑問だらけ。

この作品を初めて見た人は、作品が理解できたのでしょうか・・・?

ほとんど別の作品になっていたと思うんですよね~。
もとの台本が酷くて使えないってことですかね~。
いっそ、全然違う歌詞を、新しく作っちゃったらいいんじゃないかな~と思いました。

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