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2015年10月

2015年10月31日 (土)

愛か死

あやしい不定期連載
~詩の時間~


「愛か死」

眠りましょう、眠りましょう
寝ている間は死んでるのと同じ
どんな悲しみも入り込めぬ聖域
眠りましょう、眠りましょう
朝はまだ遠い

明るい歌は役に立たない
悲しみの歌を繰り返して

眠りましょう、眠りましょう
朝はまだ遠い

好きな人から好かれないなら何だって同じ

涙、涙、涙、
夜は泣くための時間
集めた涙は川になって、海になって
雲になって、鳥になって

これずっと続くんですか

眠りましょう、眠りましょう
朝はまだ遠い

2015年10月29日 (木)

お祝い

今日は中村福助さんのお誕生日。
おめでとうございます。

「ふくきち」というハンドルネームは、中村福助さんの「ふく」と、中村吉右衛門さんの「きち」から勝手に取ってきたものです。ファンなので。
(福沢諭吉の略ではありません)

2015年10月27日 (火)

観世音菩薩

この間、文楽の地方巡業公演を見に行ってきたのです。
昼の部・夜の部と両方見るつもりだったのですが、仕事のため昼の部は見られませんでした。私は芝居を見るために仕事をしているのに、仕事のために芝居が見られないとはどうしたことだろうと思ったのですが、見ているだけならこの世にいないくても同じ、上演する側の端っこにいさせていただいているのを有り難いと思わなくては、と考え直しました。

さて、夜の部は見られることになり、府中の森へと向かいました。
何度も行ったことがあるので大丈夫だろうと思っていたら、全然大丈夫じゃなかった。
最寄り駅は東府中なのに、府中で降りてしまったのです。
しかもその時点では、ここが最寄り駅だと思い込んでいたのです。
駅にあった地図を見たら、結構遠いみたいなので、おかしいなと思ったのですが、とりあえずバスで近くまで行くことにしました。
バスの運転手さんに、どこで降りればいいですか、などと聞いて、最寄りのバス停まで行ったト。
そこに何か案内表示があるだろうと思ったら、なかったト。
通りかかった子供に場所を聞いたら、案内してくれたんですね。
そうしたら、予想外にえらい遠くて、
すぐ近くかと思っていたのに、2人で黙って延々と歩き続けて、
こんなに遠いのに、乗っていた自転車を引きながら歩いて連れて行ってくれて、
なんて親切な子なんだろうと思った。
こういう時に、どうやってお礼をしたらいいのだろう、
ジュースを買ってあげるとか、おこずかいをあげるとかいうのも
何だか嫌らしい感じがするし、
などと考えていたら、劇場に着いた。
結局、ただお礼とお詫びを言って、別れてしまった。
彼は、「はい」「はい」とうなずくだけだった。

あとでそのことを人に話したら、その子はきっと神様とか仏様だったんじゃないかという話になり、そう言えば観音様は三十三の別の姿になって人を導くとやら。
私にはもう、その子が観音様としか思われなくなった。

その子がいなかったら、あの複雑な道は絶対に劇場までたどり着けなかったと思うんです。
このお礼は、何か別な形でお返ししたいと思ったのでした。

2015年10月26日 (月)

改修支援

矢来能楽堂の改修支援が、もうすぐ締め切りですよ。
私は3万円ほど支援しましたよ。わっはっは。
喜正さんのCDがもらえるみたい。
(CDにはサインしてくれないのか何故なんだろう・・・)

 

そこのお金持ちのあなた、
あなたも支援してみてはいかがでしょうか。
(ちなみに私は金持ちではありません)

 

矢来能楽堂の改修支援

関連情報

「文楽素浄瑠璃の会」が終わりました。
演目が発表された時、稀曲〔ききょく〕ばかりで驚きました。
素浄瑠璃の会にいらっしゃるお客様は文楽のコアなファン層だと言っても、これらの作品を見たことがある人は少ないだろうし、予備知識なしでいきなり聞いても話が理解できないのではないかなあと思いました。数ある文楽作品の中でも、最も難解な部類ですよね。だから稀曲になってしまったのでしょうが・・・。
(演目を一度発表したあとに「鰻谷」が「四の切」に差し替えとなり、公演全体のバランスは良くなったかなとは思いましたが・・・)

先日、とある美術展の関連講座を聴講してきたのです。入場無料でした。若くて頭の良い研究者がテキパキと解説していて感心しました。
美術館は、このような講座を頻繁に開催しています。どこの美術館でも。
そのような研究者が、文楽や歌舞伎などの近世文学には存在しない。
いえ、少数ならばいるのでしょうけれども、できそうな人は忙しすぎて時間がない。

国立劇場の歌舞伎のプログラムって、昔はもっと豪華だったと思うんですよね。対談のページがあって、すごい作家、研究者、舞台人がガンガン登場していました。
昔の作家は歌舞伎について何かしら語ることがあったのでしょう。
今の作家にはありません。
もうお願いする人がなかなか見つからないの。

私は文学部の出なのですが、近世って人気がなかった。
未開の分野だから面白いと思うんですけどね。
でも、きっと枠がないんですね。

劇場側も、ただ作品を上演するだけでなく、関連情報とか、作品を楽しむために必要な予備知識を一緒に(事前に)提供できないと、どんどん先細りになっていくように思いますけどね。

国立劇場は、11月の雅楽公演で大曲を上演するのですが、完売していないんですよね~。知らない曲で客を集めるのは大変ですよね。雅楽の公演としてはとても規模の大きい意欲的な企画だと思うんですけど、それが客(あぜくら会員とか)に伝わっていないと思うわけなんです。
この曲はこんなにすごいぞ、というのが。
そのための人もいないし、お金もないし。
どうなんでしょう?

2015年10月24日 (土)

「林住家の段」(流しの枝)

「素浄瑠璃の会」で「林住家の段」が上演されますでしょう。主人公は平忠度。
日本史の教科書には出てこない人なのではないでしょうか。だから子供は忠度を知らない。

昔の人はみんな忠度を知っていたでしょう。能に「忠度」という曲があるわけですし、『平家物語』の主要登場人物でもあります。
忠度は平家の武将であり、歌人でもありました。武将で歌人、かっこいいではありませんか。

平家が都落ちした時に、忠度は一門を離れて京都に引き返し、歌の師である藤原俊成を訪ねる。そして、自作の和歌を勅撰和歌集(『千載和歌集』)に入れてほしいと懇願する。1人きりで『千載和歌集』の選者を務めていた俊成は、忠度の多くの歌の中から1首だけ、『千載和歌集』に掲載することに決めた。ただし、忠度はその時点で朝敵という扱いになっていたので、勅撰和歌集に名前を載せることが叶わず、「読み人知らず」とされた。
本来ならば入選させてはいけない人の和歌を、こっそり入選させた。
それは、忠度の和歌があまりに素晴らしかったからでありましょう。

さて、その素晴らしい和歌というのが、次の和歌です。

・さざなみや 志賀の都は 荒れにしを 昔ながらの 山桜かな

この和歌の良さが分かりますでしょうか。
「さざなみや」は、「滋賀」にかかる枕詞です。滋賀には琵琶湖があり、湖は海と違って大きな波は立たないのでしょう。なので「さざなみや」。
「滋賀の都」は、672年に壬申の乱で廃墟となった近江京のことだそうです。ちなみに一ノ谷の合戦で忠度が落命したのが1184年。
「昔ながらの山桜」の部分には、「長等山〔ながらやま〕」が読み込まれています。
「都は荒れてしまったけれど、桜は変わらずに咲いている」という内容で、「国破れて山河あり」を和歌にしたようなものだと言われます。

『一谷嫩軍記』で熊谷の陣屋に咲いている「若木の桜」は、『源氏物語』で光源氏が須磨に退いた時に植えた桜だそうで、敦盛助命の暗号に使われます。
一方、忠度の和歌も「昔ながらの桜」→「桜は無事」というのですから、『一谷嫩軍記』においては誰かの助命を願う暗号になっているのではないかと思いますが、作者の並木宗輔が四段目を書く前に死んでしまったので、今となっては誰にも分かりません。
忠度の和歌は、史実では俊成が勅撰集に入選させているのに対し、『一谷嫩軍記』で俊成は義経にその判断を委ねています。つまり、歌の優劣とは関係のない別の判断基準が働いているわけで、「流しの枝」は「その人の命は助けてあげます」という義経から忠度への知らせなのではないかと思うのです。

ちなみに「流しの枝」というのは、生け花の技法の名前です。たいてい花は垂直に立てるものですが、水平方向に生ける花を「流しの枝」と呼ぶのだそうです。しかし、義経が桜の枝を手にした時の詞章は「床の間の筒に生けたる薄桜に、件の短冊結び付け」とあるので、水平方向ではない(筒に挿してあれば垂直に決まっています)。義経から忠度へ知らせを流す「流しの枝」という程度の意味なのでしょうね。

さて、
滋賀の都が荒れたのは、もう何百年も前のこと。
それに対し、つい最近荒れた都が「福原京」です。清盛が遷都したのですが、うまくいかず、半年で京都に戻ったそうです。『方丈記』では、飢饉、地震、大火と並ぶ災難として福原遷都が語られています。遷都の失敗なんて、考えただけで恐ろしいことです。

忠度が、つい最近荒れたばかりの福原京を詠まずに近江京を詠んだのは、なぜでしょうか。
  近江京(過去)・・・それを眺める私(現在)
  福原京(現在)・・・それを眺める私(未来)
数百年後の未来の私が現在の福原京を眺める視点が、この和歌の中に込められていると思うわけなのです。意味分かりますか。近江京のことを詠んでいるように見えるけれども、実は福原京のことを詠んでいると思う。その視点に風情があるので、勅撰和歌集に入ったのではないでしょうか。(本当は駄目なのに)

※このブログの半分は私のうろ覚え、半分は私の思い付きで書かれておりますので、間違っていても怒らないでくださいね。


福原京

福原遷都

方丈記

上から2首目

2015年10月21日 (水)

あれこれ

日に日に気温が下がっていきますね。お元気ですか。

国立劇場は秋冬に公演が集中しているので、これから本当に忙しくなります。すでに仕事が追い付いていない感じ・・・。もうブログなんて更新している場合ではないのです。
(プログラムが発行できないという恐怖が・・・)

もうすぐ「文楽素浄瑠璃の会」が行われます。この会にいらっしゃるお客様は、コアな文楽ファンの方だと思いますけれども、「市若初陣」「林住家」を聞いたことがある方はあまりいないでしょう。予習をしておかないと理解できないと思います。早めに行って、プログラムのあらすじだけでも読んでおくことを強くお勧めします。


何度も同じことを書いて恐縮ですが、新国立劇場の会報「ジ・アトレ」って、どうしてあんなに豪華なのでしょうか。紙の厚さといい、フルカラー仕様といい、国立劇場の会報「あぜくら」との差が大きすぎると思うのです。それはホームページも同じです。新国立劇場のホームページは何度もリニューアルするのに、国立劇場のホームページは旧態依然。一体どうなっているのでしょう。

国立劇場のチケットをインターネットで買おうとすると、すごく使いづらい・・・。チケットweb松竹と同じ感じにしてくれれば良かったのに・・・。

2015年10月20日 (火)

阿古屋の懐胎について

阿古屋は景清の子を身籠っていて、そのことが三曲の演奏にも深みを与えていると思うのですが、「なぜそれが景清の子供だって分かるのか?」という話題になったわけなのです。
(どういう話題なんだか?)

景清が阿古屋に会いに来るのは、毎月25日という約束だったそうですから、月イチくらいだった。しかも阿古屋の親方は厳しい人だったそうだから、景清の相手だけして、お茶を引いているわけにもいかない。

しかし「十六夜清心」の十六夜のセリフに「勤めする身に恥ずかしい、わたしゃお前の」とあるように、遊女は妊娠しないように常に気を付けていたのではないでしょうか?そうでないと、勤めが出来なくなってしまいます。けれど、景清のことは本当に愛していたので、気を許しちゃったんですね。愛する景清にだけ。
(どういう話題なんだか???)

2015年10月19日 (月)

おじさんは悩んでいる

9月でクールビズが終了したので、ずっと着ていなかったスーツを出してきたら、あれ?ウエスト入らないよ?しかも「ちょっときつい」というレベルではなく、全然入らないのだ。おかしいなあ。今までずっと同じウエストサイズだったはずなのに、これはアレかね?私の寝ている間に小人さんが仕立て直しちゃった?
寒くなってきたので、ずっとサボっていた腹筋運動でも始めようかと思っているのだか、この全然ウエストが入らないスーツは、取っておくべきなのか、捨てるべきなのか、悩むところだ。

プラハ国立歌劇場《椿姫》

プラハ国立歌劇場の《椿姫》を見てきました。ヴィオレッタはデジレ・ランカトーレ。
演出に既視感があるなあと思ったら、プラハの《椿姫》のプロダクションは、2007年の来日公演で見たことがあったのでした。(その時はテオドッシュウのヴィオレッタ)

ランカトーレのヴィオレッタは、非常にゆったりとしたテンポで、たっぷりと感情を込めて歌っていました。とても良かった。

最初の「Sempre liberaセンプレ・リベラ」の直前に、真珠のネックレスをひきちぎって、真珠が床にパラパラと散らばり、その小さな音がやむのを待ってから歌い始めました。すごく新鮮な演出でした。古い《椿姫》の録音を聞くと、アリアの最中にグラスの割れる音がしたりするケースがありますが、「音がする演出」というのも、上手くいけばお洒落な感じですね。(ネックレスをちぎるリハーサルは行われたのでしょうか?)
「花から花へ」を歌い終えた時、間髪入れずに爆裂拍手が発生して、おお、さすがイタリア・オペラだなあ、これぞイタオペ!って感じで興奮しました。第1幕のランカトーレのソロ・カーテンコールが、とてもカッコよかったです。

「そは彼の人か」の繰り返しはカット。三点変ホ音(Es)は出していました。
「花から花へ」の間のアルフレードは、高いほうで歌っていました。(「Croceクローチェ」の部分)
第2幕第1場のアルフレードのカバレッタはカット。ジョルジョのカバレッタもカット。
第3幕「さようなら、過ぎ去った日の思い出よ」の繰り返しもカット。第3幕のヴィオレッタとアルフレードの2重唱も、マリア・カラスの録音と同様にカットが入っていました。

アルフレード役のアレシュ・ブリスツェインは、わりとベルカントなテノールでした。(1つ1つの音が粒立っていた)
第2幕第2場のアルフレードが酒に酔っていたのが面白かったですね。

阿古屋

今日は、歌舞伎座の夜の部を拝見いたしました。
もう何度も見ているのに、玉三郎さんの阿古屋に新たに感動しました。
同じ作品を見ていているのでも、自分の心の状態が変わっていくと、別の作品のように感動できるものですね。まあ、年をとっただけかもしれませんが。
玉三郎さんの阿古屋の美しさ、何か宇宙的と言うか、異次元的と言うか、神秘的と言うか、この世のものでないような・・・。
それにしても、岩永のセリフは、何を言っているのかよく分からない。
ちょちょげ、ってどういう意味なのか誰か教えてほしい・・・。
(でも知ってはいけない気もする)

2015年10月18日 (日)

阿古屋の三曲について

改めて、阿古屋の三曲の詞章を確認しておきましょう。

●琴のくだり
【詞章】
〔かげ〕というも月〔つき〕の縁〔えん〕 清〔きよし〕というも月の縁 影清き名〔な〕のみにて 映せど袖に宿らず
【解説】
この琴のくだりは、箏組歌〔ことくみうた〕の「菜蕗組〔ふきぐみ〕」の替え歌だそうです。箏〔こと〕の演奏と一緒に歌うのが「箏歌〔ことうた〕」、短い箏歌をいくつか組み合わせて1つの組曲としたものが「箏組歌」です。
阿古屋では通常「琴」と表記しますが、「琴」と「箏」は本来別の楽器であり、昔は混同されていたものが、現在はくっきり区別されるようになりました。「箏」は「こと」とも読みますし、「そう」とも読みます。「箏曲」と書いたら「そうきょく」と読み、「こときょく」とは読みません。
「菜蕗組」は、最初は9つの歌を1組にしたものでしたが、のちに7つに編曲され、現在は7つしか歌われないと思います。
阿古屋の琴のくだりは、「菜蕗組」の1つ目の歌の替え歌です。
「菜蕗組」(一)
菜蕗
〔ふき〕というも草〔くさ〕の名〔な〕 茗荷〔みようが〕というも草の名
富貴
〔ふき〕自在〔じざい〕〔とく〕ありて 冥加〔みようが〕あらせ給〔たま〕えや
この歌の意味が解説されている本は存在しないのではないでしょうか。菜蕗と富貴、茗荷と冥加、「意味は違うけれど音が同じ言葉」を2組使った、言葉遊び的な歌です。「冥加」というのは、神仏のご加護、ご利益のことですね。現在はほとんど使われませんが、歌舞伎や文楽の中では頻出する単語です。
(「冥加ない」とか「冥加に余る」という表現がありますが、それは「幸せすぎて怖い」「この状況はあまりにも私の分を過ぎていて、もったいない」ということではないでしょうか。つまり、仏様というのは、私が苦しんでいるからこそ救ってくださるのであり、幸せだったら救ってくれないので、冥加がないわけです)
「菜蕗組」のこの1つ目の歌は、「冥加」という仏教用語が出てくることからも分かるように、仏教の徳について歌っているものと思います。菜蕗も茗荷も香りの強い食べ物で、年に数回食べるくらいなら美味しいけれど、毎日食べていたら飽きて嫌になってしまいます。しかし、他に食べるものがなかったら、毎日でも食べるでしょう。仏教徒はベジタリアンなので、食べ物の選択肢に制約があります。「戒律を守って精進したなら、何かいいことがあるかしら」という内容の歌ではないかと私は思っています。
阿古屋が歌う歌は、この「菜蕗組(一)」の詞の形式「~というも~、~というも~」を借りているだけで、内容は元歌とリンクしていないと思います。しかし、「菜蕗組」の2~7つ目の歌を見てみると、不思議と月に関する詞が多いのです。興味のある方は一度読んでみるとよいでせう。
「影というも月の縁 清というも月の縁」
「縁」とは、「言葉で言い表せない繋がり」「何かと何かを結びつける力」といった意味でしょう。中島みゆき様の歌の歌詞に「この縁はありやなしや」というのがありますが、どんなに求めても縁がなければ離れていきますし、どんなに嫌でも縁があれば巡り会います。和歌には「縁語」というのがありますし、縁を分からない日本人はいませんね。
「影」という字は月と縁がありますし、「清」という字も月と縁があります。
「月影」と言ったら、「月の光によって出来た影」ではなく、「月の姿」「月の形」すなわち「月の光」のことです。シャドウではなくライトです。「星影」も「星の光」です。
月は、欠けたり曇ったりするものですから、そうでない月を「清」という文字で表わすこともあります。歌劇《ノルマ》には、「清らかな女神よ」という、月の女神に祈りを捧げるアリアが出てきます。
「映せど袖に宿らず」
「袖に月が宿る」というのは、「融
〔とおる〕」という能に出てきます。能「松風〔まつかぜ〕」には「月さえ濡らす袂〔たもと〕かな」とありますし、わりと定番の表現なのではないでしょうか。濡れた袖には月が映ることがある。阿古屋の歌は、「私はこんなに泣いて、こんなに袖が濡れているのに(映せど)、月さえ袖に宿らない」→「景清との縁は切れてしまった」という内容だと思います。

●三味線のくだり
【詞章】
翠帳紅閨
〔すいちょうこうけい〕に枕〔まくら〕並ぶる床〔とこ〕の内〔うち〕、馴れし衾〔ふすま〕の夜〔よ〕すがらも、四〔よ〕つ門〔もん〕のあと夢もなし。さるにても我〔わ〕が夫〔つま〕の、秋より先に必ずと、仇〔あだ〕し言葉の人心〔ひとごころ〕、そなたの空よと眺むれど、それぞと問いし人もなし
【語釈】
「翠帳」というのは、緑色の帳〔とばり〕。帳というのは、室内に掛ける大きめの布。目隠しや、装飾のための布です。「屏風の布ヴァージョン」といったところでしょうか。
「閨
〔けい〕」というのは、寝室のこと。すなわち「翠帳紅閨」というのは、「飾り立てたベッドルーム」ということでしょう。色づかいが中国風ですね。
「枕並ぶる」というのは、「2人で一所に寝た」ということです。「床」は「寝床、寝るための場所」、「衾
〔ふすま〕」は「布団」。
「夜すがら」は「夜のあいだずっと愛し合った美しい思い出」ということでしょう。
「四つ門」というのは、廓
〔くるわ〕の関連用語で、夜の四つ(午後10時ごろ)に廓の門が閉じられること。「四つ門のあと」というのは、「夜になって、愛し合う時間がやってきた」ということでしょうか。
「夢もなし」は、「あとかたもなく消えてしまった」。2人が愛し合った痕跡は消えてしまった、ということです。
「秋より先に必ず」
別れ際に「次はいつ会えるかしら」と尋ねたとき、「秋になる前には必ず会いに来るよ」とあの人は言ったけれど。
「そなたの空よと眺むれど、それぞと問いし人もなし」
今あの人がいるのは、あちらの方角かしらと空を眺めてみるけれど、「そうだよ」って言って、その方角からやって来てはくれなかった。
【解説】
この三味線のくだりは、重忠のセリフにもあるとおり、能の「班女
〔はんじょ〕」から取ってきたものです。ですから、熱烈なる歌舞伎ファンは、何としても能の「班女」を見ておかねばなりません。
能「班女」の主人公の花子
〔はなこ〕は、遊女なのですが、1人の男を熱烈に愛してしまい、来ないその男のことばかりを考えて、宴席に出なくなり(遊女としての仕事がおろそかになり)、解雇されてしまいます。愛した男の残していった扇を大切にしている。ところで「扇」というものは、秋になって涼しくなると必要がなくなってしまうもので、「秋が来て忘れられてしまう」→「飽きが来て忘れられてしまう」、すなわち「男に飽きられて捨てられた女」の象徴、アトリビュートなのですね。
この「秋の扇」については、中国の有名な故事があります。前漢の成帝
〔せいてい〕には、班婕妤〔はんしょうよ〕という愛する女がいました。この女がやがて成帝に捨てられて、我が身を「秋になって捨てられた扇」にたとえた詩を作って有名になります。(漢詩ですから日本と違って「秋」と「飽き」が掛詞になったりはしていないと思われます)
班婕妤のことを「班女
〔はんじょ〕」とも呼びます。落語の「たらちね」に「鶴女〔つるじょ〕、鶴女と申せしが」と出てきますね。文楽の『和田合戦女舞鶴〔わだかっせんおんなまいづる〕』には「板額女〔はんがくじょ〕」と出てきます。波乃久里子さんは、子供のころ、親(17勘三郎)から溺愛されて「鯛女〔たいじょ〕」と呼ばれていたそうです。女性の名前を呼ぶときに、「ナニナニ女〔じょ〕」と呼ぶ形式があるのです。班婕妤は日本で「班女」と呼ばれることがあり、そして能「班女」の主人公「花子」は、班婕妤にならって、「班女」というあだ名で呼ばれていました。
つまり「班女」という名前は、
  A:中国の班婕妤(実在した人物)
  B:能「班女」の主人公「花子」(おそらく架空の人物)
2人につかわれているわけです。
Aの班婕妤は、皇帝の寵姫
〔ちょうき〕であり、Bの花子は遊女。身分が異なります。
能の「班女」では、Bの花子をAの班婕妤になぞらえています。
阿古屋は、我が身をBの花子になぞらえています。重層的になっているのです。阿古屋が我が身をAではなくBになぞらえているのは、「四つ門」という廓の用語から分かります。
ちなみにBの花子さんは、愛する男に会えなくなって、恋に狂って野をさまよい歩きますが、最後に愛する男と再び巡り会い、この能はハッピーエンドを迎えます。(それで重忠は「言い訳は暗し暗し」と言うのではないかと思いますが・・・)

●胡弓のくだり
【詞章】
吉野
〔よしの〕龍田〔たつた〕の花〔はな〕紅葉〔もみじ〕、更科〔さらしな〕越路〔こしじ〕の月〔つき〕〔ゆき〕も、夢〔ゆめ〕と覚めては跡〔あと〕もなし
〔あだ〕し野〔の〕の露〔つゆ〕、鳥辺野〔とりべの〕の煙〔けむり〕は、絶〔た〕ゆる時〔とき〕しなき、これが浮〔う〕き世〔よ〕の真〔まこと〕なる
【語釈】
花、紅葉、月、雪は、どこで見ても美しいものですが、「ここで見ると最高に美しい」とされる定番スポットがあり、
  ・吉野山
〔よしのやま〕の花(桜)
  ・龍田川
〔たつたがわ〕の紅葉
  ・更科の姨捨山
〔おばすてやま〕から見る秋の月
  ・越路の雪
が有名です。
794年に桓武天皇が京都に平安京を開いたときに、東の鳥辺野と西の仇し野(あだしの)を火葬場に定めたのだそうです。鳥辺野のほうはわりとお馴染みですが、仇し野はあまり聞かないですね。
「鳥辺野の煙は、絶ゆる時しなき」
火葬の煙が上がっていない時はない、という意味です。世の無常を表しています。「時しなき」の「し」は意味を強めているだけです。(強意の副助詞)
【解説】
胡弓が始まる前に、「時
〔とき〕の調子も相〔あい〕の山〔やま〕」という詞章があります。
「時の調子」というのは、「季節に合った調子」のことで、
  ・春は双調
〔そうぢょう〕
  ・夏は黄鐘調〔おうしきちょう〕
  ・秋は平調〔ひょうぢょう〕
  ・冬は盤渉調〔ばんしきちょう〕
と決まっています。曲を選ぶ時には、季節に合った調子を選ぶことが重要とされていました。
伊勢神宮の外宮
〔げくう〕から内宮〔ないくう〕へ向かう山道のことを「相の山(あいのやま)」と言います。そこで尼さんが歌を歌って、参拝者から銭をもらっていたのだそうです。三味線や胡弓を演奏しながら、仏教的な歌を歌っていました。その「相の山節」を阿古屋が取り入れています。
阿古屋は、ただ単に「恋人の行方が分からなくなった」というだけではなく、「いくさに行った恋人の行方が分からなくなった」というわけですから、もし本当に景清の消息を知らないのであれば、とても苦しい思いをしただろうと思います。「ひょっとしたら景清は死んでしまったかもしれない(平家は破れ、その可能性は高い)」という強い不安と、「絶対に生きていてほしい」という強い希望との間で、つらい日々を過ごしたことでしょう。しかし、時が経つにつれて、心に変化が起こってくる。美しい思い出は消え去り、全ての人に死が訪れる、ということに気づく。それは子供でも知っていることだけれども、大人になって改めて気づく。仏教の真理の1つでしょう。いくさでも平和でも、幸福でも不幸でも、どんなに世の中が変わろうとも変わることのない真理、こちらが本当だった、苦しんでいたほうは仮初めだった、と気づく。全ての物事は終わるのが真理、それが当たり前。もし景清が死んでいたとしても、それは当たり前のこと。阿古屋のその諦観を見届けたからこそ、重忠は阿古屋を釈放するのではないでしょうか。
阿古屋の胡弓の音の向こうには、苦しい日々を通り過ぎて真理にたどり着いた法悦と、それでもなお残る寂しさのようなものが聞こえなければならないと思う。
阿古屋の芸談として、「楽器の演奏にばかり気を取られていては、阿古屋の心が留守になってしまい本末転倒」というような話を聞きますけれども、それは観客にとっても同じことだと思います。
「いくさに旅立って行った恋人を見送った女の苦しみ」なんて、他人の悲しみであって、関係ないと言えば関係ない。けれど、想像は出来るでしょう。想像するかどうかというのは、その人の人間性によると思います。
考えてみれば重忠というのは大したお役で、「菜蕗組」を知っていて、「班女」を知っていて、「相の山節」を知っていて、阿古屋の諦観を見抜く。なかなか勤めおおせるものではありません。

◇ ◇ ◇ ◇ ◇

こうして詞章を見てみると、琴、三味線、胡弓と、だんだん言葉の重みが増していくように思います。

阿古屋は、長らく歌右衛門さんの当たり役で、他に演じる俳優もなく、このまま廃絶してしまうのかと思ったところ、奇跡のように玉三郎さんが引き継いだ特別なお役です。
私も、玉三郎さんの国立劇場での初演からたびたび拝見してきて、最初はただ玉三郎さんの美しさや楽器の演奏の素晴らしさに夢中になっていたものが、だんだん阿古屋の心が分かるようになって参りました。
あした歌舞伎座で、もう一度その奇跡に立ち会わせていただく予定です。

2015年10月16日 (金)

ブルガリア国立歌劇場《イーゴリ公》

先日、ブルガリア国立歌劇場の来日公演の、アレクサンドル・ボロディン作曲《イーゴリ公》を見てきました。
このオペラは、未完成のまま作曲者が亡くなってしまい、後から他者により補筆されているために、様々な版が存在するそうです。(作曲者はあまり完成させる気がなかったらしい)
今回の上演では、有名な「ダッタン人の踊り」を最後の場面に持ってきていました。そのほうが派手に盛り上がって終われます。しかし、歌詞の内容から言って、ちょっと不自然な印象でした。私は、マリインスキー劇場の映像で予習していたのですが、そちらのほうが作品の完成度ははるかに上だと思いました。しかし、来日公演で盛り上がりたい、という気持ちも分からなくはない。実際に盛り上がりました。すごかったのです。あの値段であんなにスペクタクルなものが見られて大満足な公演でした。それに、この版は、ロシアでは上演できないのではないでしょうか?

もっと頻繁に上演されていい作品だと思うのですが、ロシア語であるという点と、作品の規模が大きいという点で、日本での上演は困難なのかもしれません。

イーゴリ公を歌ったスタニスラフ・トリフォノフが良かったですね。名前からして演技力がありそうですが、なかなかのものでした。他の歌手はローカルな感じでした。舞台美術は今ひとつでした・・・。

このオペラは戦争の話なのですが、イーゴリ公の出陣したあとを任されていた男が、大変いい加減な男で、マントヴァ公みたいな感じです。女をさらってきて、遊興に浸ります。
内憂外患と言うのでしょうか、英雄のいぬ間に悪徳がはびこる、という場面がありました。

私は前から思っていたのですけれども、日本の上流階級というものは、みんな第二次世界大戦で出征して死んでしまったのではないでしょうか?
以前、特別な能の公演があり、きっと日本の上流階級が集結するに違いないと思っていたら、全然上品でなくてガッカリしてしまいました。むしろ下品な客と言っていいくらいでした。昔の見所は絶対にそんなことはなかったはずなんです。(残っている絵を見ても)
日本の知を支えていた士族階級の男たちは、みんな戦争で死んでしまったのではないかと思ったのでした。
これまで「私の先祖は侍です」という人にあまり会ったことがないのですが、それは私が田舎の出身だからでしょうか?

2015年10月14日 (水)

永青文庫「春画展」

文京区の永青文庫で日本初の本格的な「春画展」が開催され、話題となっております。
私もきのう見てきました。ちなみに1人で行きました。
もともと私は芝居に行くのも美術館に行くのも1人で行くことが多いです。
一緒に行ってくれる人を探すのは難しいです。
夜だったので、思っていたよりはすいていましたが、それでもやはり混雑しています。

ちらしの裏側に紹介されていた「狐忠信と初音図」も出ていました。
鎧の草摺の部分がめくれるようになっていて、中がセックス描写になっていました。
ちなみにこの展示会の解説パネルでは、セックスのことを交合と書いていた?
(すでに記憶が曖昧に・・・)
この「狐忠信と初音図」の解説パネルで、女性のほうは佐藤忠信の妻の初音が想定されるとか何とか書かれていて、ちょっとメモを取るわけにいかないので正確な記述は覚えていませんけれども、そんな『義経千本桜』に出てこない人物が狐忠信と一緒に描かれるのは不自然ですし、しかもその名前が「初音」だなんてことがあるのかなあ・・・と疑問に思いました。大体、佐藤忠信の妻であったなら、あんな表情をするのはおかしくないでしょうか?私はあの女性は静御前だと思うのです。理由は「そのほうが面白いから」です。

春画自体は、生で見るのは初めてだと言っても、出版物はたくさん出ていますし、何となくパラパラと見たことはありました。蛸が女性にからみつく絵も先に知っていました。オペラ《イーゴリ公》の「ダッタン人の踊り」だって、知らないうちに知っていましたし、いつの間にか知っていることというのは意外と多いものです。
ところがこの展示では、奥に私の知らなかった世界が開けていて、強いショックを受けました。
例えば、おかると勘平の春画があるのは分かるんですけど、戸無瀬と本蔵の春画とか(お石が覗いている)、力弥と師直の?春画とか、ちょっと人智を超越した世界が広がっていたのです。「そういうことを思いつく」ということが衝撃的でした。

最もショックだったのは、『義経専犯枕〔よしつねせんぼんまくら〕』です。角書は「大物船饅頭/吉野腹矢倉〔だいもつのふなまんじゅう/よしののはらやぐら〕」でした。あまりに下品で、本当にビックリでした。
永青文庫は18禁でしたが、『義経専犯枕』はインターネット上で公開されています。
最近の若者は、こんなものをインターネットで見ているのだらうか・・・?
絵もすごいのですが、文章もすごいんです。私はどちらかと言えば文字のほうにより強い衝撃を受けました。あの静御前が伏見稲荷で言う「死ぬる、死ぬる」というセリフが、別のシチュエーションで使われていたりとか、次に芝居を見る時にこの春画を思い出してしまうのではないだろうか、それは嫌だなあ。

私は「変体がなを読めるようになりたい」と思ってから数年がたち、いま少しは読めるようになりました。高野切とか、藤原行成とか。
新たに「春画を読んでみたい」という欲望が芽生えて、困りました。

帰りにポストカードを数枚買ってみた。

2015年10月 7日 (水)

梅玉さん

私が初めて歌舞伎を見たのは平成4年4月の歌舞伎座、梅玉襲名披露『伊勢音頭恋寝刃』の幕見でした。
今月の国立劇場は、その時以来の梅玉さんの「伊勢音頭」。
襲名の時にまわりに出ていた強烈な個性を持った俳優たちは今回ごっそりと別の配役に変わり、そうして梅玉さんは昔と全然変わらない。
永遠に若い。
時間は流れているのか。
時間は止まっているのか。
不思議な感覚にとらわれました。

そのほか~~、
何だか分かりませんが、下座音楽がとても充実していたように感じました。
それから~~、
由次郎さんの岩次と、幸雀さんの千野が、出てきただけで面白かったです。
最高のはまり具合。
役にはまるって、すごいことですね。

2015年10月 6日 (火)

水の流れと人の身は

水の流れと人の末(みずのながれとひとのすえ)・・・ことわざ
水の流れて行く先と、人の将来は、測り知ることができないということ。人生の定め難いこと。

●年の瀬や 水の流れと 人の身は あした待たるる その宝船

●行く水の 流れと人の簑作が

水の流れと人の身の末、知るべからず

2015年10月 5日 (月)

忍びの緒

国立劇場では年に1回「文楽素浄瑠璃の会」を開催しております。
今年は珍しく『和田合戦女舞鶴』の「市若初陣の段」が演奏されるわけですが、行く人は予習をしておかないと、訳が分からないと思います。

「市若初陣の段」で、兜の忍びの緒〔お〕が切れる場面があります。
『鎌倉三代記』でも、討死覚悟のしるしとして出てきました。

討死の門出には、忍びの緒を切ると聞く。殊更兜に名香の香るはかねてのお物語、思い切った最期のお覚悟。
「三浦之助母別れの段」


忍びの緒は兜の緒、あごにてむすぶ。昔武士が討死を覚悟の門出には、再びかむらぬしるしに、其を結び餘りを断ちしといふ、兜に香を焚く事も、同じく討死を覚悟の時せしにて、死後に芳名を留むるといふ意にてもあるべし、又首実検などの時、臭気のもるるを厭いての事にてもあらん、やさしきならはしといふべし、名香は後に「蘭奢のかほり」とあるこれなり、木村重成が斯くして討死せしといふより書く、忍びの緒と名香とにて、討死と見極めたるは、流石武士の妻
山本信吉:著『浄瑠璃通解第四編』(博文館)より


兜についている紐で、顎にかけてしばるもの。討死の覚悟の時は、二度と結び直さぬ心で、結んだ紐の余りを切って出陣した。
鶴見誠:校注『日本古典文学大系 浄瑠璃集 下』(岩波書店)より


ところで、
『鎌倉三代記』の舞台に出てくる兜をよく観察しておりますと、紐が2本、だらりと下がっており、2本とも先に小さい房が付いている。つまり、切り落とした痕跡がないわけなんです。
この詞章との食い違いはどういうことなんだろう、と疑問に思っておりました。

ところで、
私は国立劇場の職員なのですが、国立劇場の職員って、過去の公演記録映像を好きなだけ見られるんです。ただし、大阪の国立文楽劇場とか初台の新国立劇場の記録は見られないです。相互のやりとりはしていないので。
図書資料も借りられます。(半蔵門の蔵書だけ)
国立劇場の図書室なら、文楽関係の資料は全部揃っているだろうと思ったら大間違い。
早稲田大学の演劇博物館で「市若初陣の段」が上演された時の資料は収集されていない。
名古屋公演とか内子座公演の番付もない。
ついでにコクーン歌舞伎の筋書とかも置いていません。

私は、そういうものをずっと見続けている職員になるつもりだったのに、私にはそんな時間はない。
編集の仕事は忙しい。
でも今度の「文楽素浄瑠璃の会」で「市若初陣の段」が出るので、過去に国立劇場で1度だけ上演した時の映像をチェックしていたのです。語りは十九大夫さん。これがもう大変素晴らしい。私は十九さんの浄瑠璃が好きだった・・・。
それはいいとしまして、
母親の板額〔はんがく〕が、息子の市若の「忍びの緒」を結んでやろうとする場面があるのですが、それが何と!顎紐〔あごひも〕ではなかったのであった・・・。
後ろに回って、錣〔しころ〕のあたりを結ぼうとしていました。
考えてみれば、顎紐は表から丸見えで、全然「忍んで」いない。顎紐は忍びの緒ではなかった。別物だったのだ!!たぶん!!
謎が1つ氷解・・・。

ついでに、
「市若初陣の段」には、「兜を猪首〔いくび〕に着せる」という表現が出てきます。「猪首」というのは、「首が太くて短い」という意味なのですが、
《首が短く見えるところから》兜(かぶと)を後ろにずらして、少しあみだにかぶること。敵の矢も刀も恐れない、勇ましいかぶり方という。(『デジタル大辞泉』より)
ということだそうです。

兜は、かぶり方によって、武士同士でしか分からない様々な意味を発するものなんですね・・・。

2015年10月 4日 (日)

二期会《ダナエの愛》贅沢な選択

この土日に、二期会の《ダナエの愛》を見てきました。
特にユピテル役の大沼さん、ダナエ役の林さんが素晴らしい歌唱でした。

この作品は、戦争のために初演の計画が流れたそうで、招待客のみのゲネプロの場でシュトラウスは「次はもっと良い世界でお会いしましょう」とウィーン・フィルの楽団員に言った。(ドン・カルロの終幕のセリフのようだ)
しかし、シュトラウスの人生は、全体として充分に幸せだったのではないだろうかと思う。
ヴェルディやベートーヴェンやチャイコフスキーなどと比べてみても。

「金か愛か」ってことなんですけれども、どちらか選べる人は良かったですねえ。
私のように、もともと金持ちでもなく、愛にも恵まれない人間は、地震や戦争で瓦礫となったあとの東京で、どうやって生きていくのかなあと暗い気持ちになりました。
まあ、今とあまり変わらないのかもしれないし・・・?
『方丈記』みたいに生きていくかなあ。

黄金の雨が降る場面では、金の紙吹雪?が丸い天井窓からハラハラと降ってきました(少なめ)。
ミダスに口づけされたダナエが金に変わってしまう場面では、ダナエが急に同じポーズのまま動かなくなり、黄色い照明が当たっていました。
ミダスが触ったベッドが黄金に変わる場面では、白いシーツを引くと下が金色になっていました。
部屋の中が黄金に変わる場面では、壁に黄色い光が当たっていました。
ミダスの触ったバラが金のバラに変わる場面では、手品師のような手つきで、赤い花弁をパッと取ると下から金色の花弁が出てきました。

《ダナエの愛》があまり上演されない理由として、
・黄金に変わるシーンの演出が難しい
・ギリシャ神話の予備知識が要求される
・ダナエ役はもちろん、4人の娘もとびきりの美人であってほしい

などのハードルが考えられますが、
・ダナエと同じような選択(=金か愛か)に迫られる人は実はあまり存在しない(ので話が遠い)
という理由が大きいのではないかと思いました。

DVDで少し予習しておいたのですが、生の音はやはり美しいですねえ。
シュトラウスは生がいいですね。

黄金の雨が降る場面というのは、セックス描写にあたるわけですかねえ?えっ、違う??
もっとセクスィーなオペラなのかと思っていましたが、衣裳も演出も全然セクスィーじゃなかった・・・。

2015年10月 3日 (土)

本日のわたくし

今日は二期会《ダナエの愛》と、日本ヴェルディ協会「ヴェルディマラソンコンサート」に行ってきました。
掛け持ちは無理なんじゃないかと思っていましたが、心の友Yさんがタクシーに乗せてくだすって、間に合いました。感謝感謝。

《ダナエの愛》は、明日も行きます。

「ヴェルディマラソンコンサート」は、昔はその名のとおり1日中演奏し続けていたような気がしますが、今日は休憩15分を挟んで全体で1時間半くらいのコンパクトな公演でした。しかし歌手が充実していて満足満足。
何と言っても妻屋秀和さんのフィリッポ2世「ひとり寂しく眠ろう」がもう素晴らしかった。今まで生で聞いた中ではベストかな~と思うくらいの名唱でした。すごい肺活量・・・。演技も的確。(浅野菜生子さんのピアノも実に深い表現力でした)
妻屋さんのプロフィールによりますと、「国内外の歌劇場でこれまでに演じた役は80役を超え、公演数は800回を優に超えている。」ということです。日本人オペラ歌手で一番活躍しているのは妻屋さんなんじゃないかな~。
あと笛田博昭さんは、「往年の名歌手」を思わせる懐かしい歌いぶりが面白かった。歌い回し、手振りなどが1950年代な感じ。熱い興奮を誘う。久しぶりに聞いたけれど、調子が良さそうでした。もっといろいろ聞きたい。
藤山仁志さんはヤーゴの信条(最後に笑い声あり)など歌っていましたが、いい声ですね。

オペラシーズンで、見たい公演が重なってますねえ。

2015年10月 1日 (木)

誤植

印刷物の文字の間違いを今でも「誤植」と呼ぶのかどうか、
よく分からない。

かなり昔の『演劇界』で、
六代目の『年増』と『羽根の禿』の写真が並べてあって、
キャプションが逆になっていたことがあった。
(『年増』の写真に「羽根の禿」と書いてあり、
『羽根の禿』の写真に「年増」と書いてあった)
どう見てもギャグである。目を疑った。
よほど編集者が疲れていたのか、
時間がなかったのか、
あるいは現状の編集体制に対する不満をアピールするために
わざと間違えたという可能性も消しきれない。
私が過去に見たことがある誤植の中で、ぜひ一等賞を贈りたい。

そして今日、私がシコシコと校正作業をしておりますと、
『熊野』に「わや」とルビが振られておりました。
一瞬、そのままにしといたろかと思ったけれど、
・・・訂正しておいた。

「道行初音旅」の変遷

『義経千本桜』の道行は、詞章が初演時のものから変化しています。
どのように変化していったのか、興味のあるところです。
それについて書かれた本を見つけたので、該当部分を引用しておきます。

『浄瑠璃史考説』井野辺 潔:著(風間書房)より
 かくして、享保末には、両座ともそろって共通の、道行の形式が完成をみたのである。享保一〇年代というと、義太夫にとって大きな転換期に当り、今日行われているものの基本的な形が出来上がっていった時期である。前半は井上播磨や宇治加賀掾ら古浄瑠璃のそれを継承した竹本筑後掾が改革をおこない、後半は豊竹座中心に調絃に変化を求めた道行の形式の完成であったが、その一環として、相前後して出来上がったのである。
 しかし、こうして道行の音楽形式がひとたび完成してしまうと、以後、その一部が欠落していたり、余計な部分があると、再演以後においてそれを修正して、完成された形式に整えようとする動きが起こってくる。この見事なまでに整備した形式にぴったり当てはまったものでないと、もはや気分が落ち着かなくなったのであろう。
 例えば、『忠臣蔵』についてみてみよう。初演の時と比べて、現在は(11)の一部を省略改変すると同時に、小浪が力弥への恋心をたっぷり語るように増補した。こうすることによって冗長な部分を刈り込む一方、口説を充実させ、形式の完備した道行となったのである。同様に、『千本桜』の場合は、初演時になかった二上り歌の√雁と燕は」を踊り地様のものとして新たに作り、(15)のかわりに(13)へ置くことにした。今でも巡業で時間が足りなくなるとここを割愛するが、実はこの方が原作に近いわけである。その上、物語に原作になかった錣引きを加えて充実させ、貧弱な口説を補ってそれに代えたのである。
 一方、冗漫な部分や、完成した道行の形式からはみだした部分は思い切って削除していく。例えば、『千本桜』では冗漫な(7)(8)(9)を省略して演ずるのが通例になっているし、『妹背山』は端役が登場する(4)を割愛し、(8)(9)(10)も省略するのが普通になっている。
 歌舞伎にくらべて原作を遵守すると一般に理解されている人形浄瑠璃だが、詳しくみると必ずしもそうではなく、特に道行はかなり改変して上演する場合が多い。
 しかし、何時ごろ誰によって改変したのか、というと、明確に答えるのは難しい。方法としては床本や朱入り稽古本を丹念にたどって調べるほかないが、それらの本が十分保存、整理されていない現状では、なかなか思うにまかせない。丸本こそかなり整理されて、研究の便に供せられるようになったが、人形浄瑠璃の音楽や演出を調べる資料として、床本や朱入り本の整備は、今後の極めて重要な課題となってくる。
 この問題はさておき、まず版本として発刊された道行の五行稽古本についていえば、ほとんど原作の丸本の通りの詞章となっている。わずかに加嶋屋清助と、京の平野屋茂兵衛から出された『忠臣蔵』の増補版が現行の詞章になっていて、後半、『忠臣蔵』の上演でよくやる入れ事を加えている。また、豊竹君太夫筆になる明治四三年発行の久栄堂書店からの『千本桜』が、現行どおりの詞章になっている。明治末ともなると、もはや現行の増補改訂の演出に統一されていたからに違いない。
 これに対して、朱章の角度から見ると、次のようになる。まず『千本桜』はどうか。最も年代が古い朱章は、松屋清七のものを名庭絃阿弥から借用して、二世鶴沢清八が大正五年に移した大阪音楽大学民族音楽研究室本である。この本の詞章は丸本どおりであるが、それに加えて増補部分の(15)√雁と燕」と、錣引きを、〈松屋清七師手朱〉と注記した書き本を別綴じではさみ込んでいる。従って、この両方を合わせると、(7)√ほろろけんけん」を含む割愛なしの原作に増補部分を併せもった、最も丁寧な形の演奏ということになる。清七の自筆朱章本を確認していないので疑問なしとはしないが、清七の手だとすると、清七没年の
文政九年(一八二六)以前に増補がおこなわれていたということになる。幕末期になると、〈弘化二年六月上旬書之〉とある鶴沢広吉の書き本(文楽協会蔵・大阪市立図書館寄託の鶴沢綱造旧蔵本)がある。これも同様に(7)√ほろろけんけん」を含み、増補部分も入ったものである。また現鶴沢燕三から文楽協会へおさめられた四世竹沢権右衛門の書き本は、表紙裏に〈千本桜道行入事 鶴沢燕三〉と記されていて、(15)√雁と燕と」、(14)物語の詞章とが入っている。原作にこれらを併せて演奏したのであろう。これと反対に、大阪音楽大学民族音楽研究室と大阪市立図書館寄託三世清六旧蔵の、どちらも二世鶴沢鶴太郎の手になる朱章は、(15)(14)の増補部分もなければ、(7)√ほろろけんけん」も欠いている。これらの諸事実から推測すると、幕末から明治初頭にかけては、まだまだ完全に現行の形にはなりきれないで、原作どおりと増補を加えた演り方とが、その時その時によって、併行して演じられていたということになる。
 『千本桜』の道行が完全に現在の形になったのは、二世団平以後ではないかと考えられる。正五年に二世清八が六世広助の本を借りて写した朱章本がやはり大阪音楽大学民族音楽研究室にあるが、明治一八年三月彦六座上演時のもので、団平がシンを弾き、当時広作と名乗っていた六世広助が二枚目を弾いていた信頼できる朱である。これは(7)を割愛して、増補の(15)(14)を演奏している。すなわち、現在もっとも一般に演じている形になっている。その後は昭和二二年六月の天覧文楽を含み、この団平が演じたものが繰り返しおこなわれていて、決定版となっていったようである。

また、『上方文化講座 義経千本桜』(和泉書院)には、歌舞伎における『義経千本桜』道行の変遷に関する記述があります。それによれば、文化5年5月、江戸中村座における富本『幾菊蝶初音道行〔いつもきくてふはつねのみちゆき〕』の中に錣引きが入っているそうです。(現行の錣引きとは違う詞章ですが)

結局、はっきりしたことは分からないようです・・・。

はっきりしていることは、初演時の詞章が「初春」の時期を描いたものだということ。つまり、まだ冬です。それを春の桜の時期という設定に変えるために、詞章に変更が施され、冬らしい部分が削除されたト。

初演時の詞章を読んでおりますと、たいへん風情のある、味わい深い内容だと感じます。人形浄瑠璃では明治初頭まで上演されていたらしいと書かれていますが、いま素浄瑠璃の会で上演したなら、きっと素晴らしいに違いない。

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