« 2016年2月 | トップページ | 2016年4月 »

2016年3月

2016年3月29日 (火)

フローレンス・フォスター・ジェンキンス

実在した歌手フローレンス・フォスター・ジェンキンスを題材とした映画『偉大なるマルグリット』を見たのです。音痴なのに大舞台で歌ってしまって、録音も残しているジェンキンス。かなり創作が入っていて、登場人物の名前も架空のものになっていましたが・・・。(フィクション)

軽いコメディタッチの映画を予想していたのですが、それは出だしだけで、わりと暗い映画だった。ひたすら長くて、あまり面白くなかった。
「アメリカは信用ならない、なんでも商売にするから」というセリフは、短いながらアメリカというものを的確に表現した言葉であるように思われた。
巨大な目玉が燃える場面が印象的だった。

・愛されないから歌う
・歌うから愛されない
どちらだっただろう?
あの音痴の歌は、この映画のために録音されたのだろうか?
わざと下手に歌ったのだとしたら、すごい才能だ。
あれを意図的に歌うのは難しいような気がする。
楽譜があったのだろうか?
この通りに歌ってくれという楽譜が。

その映画を見たのが3月6日で、
そのあとに見た様々な舞台の中に、
「出すべき音が出せていない人」というのが結構いることに気づき、
偉大なるマルグリットと大して違わないことよと思った。
事実は小説よりも奇なり。

ジェンキンスおばさんを題材にしたミュージカルも
ついこの間まで上演されていたそうですが、
歌が下手なミュージカルを見て楽しめたのでしょうか・・・。
(気づいたら終了していた)

メリル・ストリープ&ヒュー・グラント主演で、
かなり実話に即した「フローレンス・フォスター・ジェンキンス」の映画が公開されるらしい。

実話と、
実話に基づいた創作と、
どちらに軍配があがるか、興味をそそられるところではある。
(メリル&ヒューなら笑かして泣かせてくれるだろうか?)

下手でも歌っていいだろう歌いたいなら
しかし自分が下手だと気づいていないなら
それは喜劇だろうか悲劇だろうか
自分を何か良いものであると勘違いするなら
それは羨ましい才能だ
私にも分けてくれたまえ
みんなに分けてあげたまえ

2016年3月22日 (火)

『絵本太功記』あれこれ

国立劇場の5月文楽公演で、『絵本太功記』が上演されます。

読本
〔よみほん〕の『絵本太閤記』の初編が寛政9年(1797)に刊行されて、大評判となり、寛政11年(1799)に人形浄瑠璃『絵本太功記』が初演されたト。
「太閤記」と言ったら、太閤=秀吉の一代記のことでしょう。
「太功記」と言ったら、秀吉の一代記ではないのでしょう。
「太功記」の「功」は「功績」の「功」、すなわち「多大なる功績の物語」ということではないでしょうか。
では「多大なる功績」とは何なのか、
それは「光秀が信長を討ったこと」でしょう。(信長は物語の中では春長)

光秀は春長の家臣なので、家臣が主人を殺すことが「功績」と言えるのかどうか・・・?
物語の中で、光秀本人も悩んでいたようです。


光秀の辞世
順逆無二門
じゅんぎゃくにもんなし
大道徹心源 だいどうしんげんにてっす
五十五年夢 ごじゅうごねんのゆめ
覚来帰一元 さめきたっていちげんにきす

吉川英治の『新書太閤記』第8巻には、次のように解釈されているそうです。
たとえ信長は討つとも、順逆に問われるいわれはない。彼も我もひとしき武門。
武門の上に仰ぎかしこむはただ一方のほかあろうや。
その大道は我が心源にあること。知るものはやがて知ろう。
とはいえ五十五年の夢、醒むれば我も世俗の毀誉褒貶に洩れるものではなかった。
しかしその毀誉褒貶をなす者もまた一元に帰せざるを得まい。


吉川英治の解釈自体が難しい・・・。
吉川英治の解釈に解釈が必要・・・。

もう自分で考えることにします。
 ↓

順逆無二門
大道徹心源
「順逆」の「順」は「従順」、主人に付き従うこと。
「逆」は「反逆」、主人に逆らうこと。
「無二門」は「入口は2つはない」「入口は1つである」「選択することはできない」。
家臣の行動が「順」であるか「逆」であるかを、一体誰が決めるのか。
主人が気に入れば「順」で、気に入らなければ「逆」なのか。
家臣の行動を決めるのは主人なのか。
自分が取るべき行動は、自分で決められます。(=大道徹心源)
私は私の考えで行動しますから、
その行動が「順」であるか「逆」であるかは自分では選べない、
知ったことではないト。

五十五年夢
覚来帰一元
の部分は、仏教的な要素が感じられます。
つまり、いま生きている世界は「夢の世界」「仮の世界」なのでしょう。
「仮の世界」に対して、もっとはるかに長い「本来の世界」「元の世界」があります。
死んだ魂はみな「元の世界」へ帰っていく。
その「元の世界」で春長にもう一度出会っても、
私は何も恥じることはないト。
歌劇《トスカ》で歌姫トスカが最後に言い放つ「スカルピア、神の御前で」と同じようなことを述べているのではないかと思うのです。
すなわち、審判は下る、
私には自信がある、
他の人々にとやかく言われたくないト。

信長は、仏教を弾圧していたので、仏教徒である江戸時代の人々からは嫌われていたのかもしれませんね(?)。

辞世のある人生は、いいですねえ。憧れますね。
この光秀の辞世は本人が詠んだものではなく、のちの世の人の創作であるらしいのですが、格好良ければ、本人でなくても良いのではないかと思います。
光秀に相応しい辞世を考えついた才能に乾杯!

« 2016年2月 | トップページ | 2016年4月 »

2017年10月
1 2 3 4 5 6 7
8 9 10 11 12 13 14
15 16 17 18 19 20 21
22 23 24 25 26 27 28
29 30 31        
無料ブログはココログ