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2017年5月

2017年5月17日 (水)

つぶやき

玉三郎さんと鼓童の『幽玄』を見てきました~。
能テイストの新舞踊といった感じで、「羽衣」「道成寺」「石橋」から成る作品でしたが、「羽衣」が特にすごかったですね~。
横一列にずらっと並んだ太鼓の一糸乱れぬ長時間連打、準備にどれだけ時間をかけたのでしょう・・・。すごい。
「羽衣」という作品は、最後に天女が空に昇っていくわけですが、浮遊感が良く出ていました。

話が飛びますが、
このあいだ新国立劇場で《オテロ》を見たのです。
カルロ・ヴェントレのオテロがもう素晴らしかった。
デズデーモナのファルノッキアは、ちらしの顔写真はおばさんっぽく見えますが、舞台では若々しく、歌も良かったです。
若々しく見えない場合ですと、「私の手はまだ何の苦労も知りませんもの」という部分で、「百も千も苦労が刻まれているくせに」などと感じてしまうのです。
いつも私が思いますには、「アヴェ・マリア」の出だしのGesù. Prega per chi adorando a te si prostra,の部分は、ノンブレスで一息に歌われなくてはなりません。
途中でブレスをすると、「駄目だこりゃ」と思ってしまうのです。
歌手は常に試されているのです。
イアーゴは何だか声が弱々しい感じでした。かと言って、演技力に長けているわけでもなかった・・・。
この作品は、台本の完成度が高いとよく言われますが、合唱が出てくるたびに物語が中断する感じがしませんか・・・?
イアーゴ主導で酒を飲む場面の繰り返しの多さには「またか!」という印象が。
そしてベバベバの部分はバリトンには高音すぎる感じ・・・。ベバベバ。(それで歌える人が限られてしまうのでしょうか?)
オテロの怒りがいきなりフルスロットルでどん引きすることがありますが、妻の浮気を妄想するシーンがあったのがいいですね。
冒頭の嵐の場面で雷の効果音を使っていてすごい迫力だったのですが、オーケストラが音楽で嵐を表現しているところにスピーカーで効果音を混ぜるのは、いただけない感じでした。最初の音量の印象が強すぎて、全体のバランスが崩れる気がしました。

2017年5月14日 (日)

眠れる森の劇場

昨日、新国立劇場でバレエ《眠れる森の美女》を見て来ました。
大勢の女性が順番に少しずつ踊る、といった趣きでした。要するに、男性の存在感が薄い感じ・・・。

「バレエダンサーはバレエの奴隷」という言葉が示すように、ダンサーは毎日ずっとレッスンをし続けなければならないでしょう。
けれど踊れるのは成功した人でもせいぜい40歳くらいまで、その後バレエ教室を開くというのもなかなか険しい道ですし、バレエを志す男性は本当に希少ですね!

ピアニストは、物心のつかぬ幼少の頃から毎日1日6~10時間練習し続けないと舞台に立てませんし、牧野邦夫という画家は「1日12時間以上、毎日描かないと歴史に名を残す画家にはなれない」と師に言われて実践していたそうですが、ほとんどの人は牧野邦夫を知らない。
美しいものを作ろうと思ったら、いくら時間があっても足りませんね。
でも普通のサラリーマンだって(休日はあるにしても)1日最低8時間は働くわけですし、他の人より輝くためには、そのくらいはするんじゃないですか。

ところで、新国立劇場バレエのホームページは、上演演目ごとに特設サイトを設けているのでしょうか?衣裳だの照明だの裏方の顔写真まで載せて、すごいお金をかけてるんですね。公演収支が赤字なのに、どこからお金が湧いて出るのでしょう?それに比べて国立能楽堂ホームページの公演情報なんか、シテ1人の名前しか書かれていなくて、顔写真もなく、残りの配役はちらしの裏側(pdf)を見てくださいという粗末な形式。(しかもpdfのデータが荒くて美しくない)
どうせ完売する公演なのだから宣伝に費用をかける必要はない、ということを言う人がいるようですが、国立能楽堂の主催公演さえ完売すればそれで良いのでしょうか?国立能楽堂のホームページが粗末だと、能楽という芸能自体のイメージが軽く見られてしまいますよ。インターネット上で横並びに常に他の芸能と比べられているわけですから、能楽はバレエより粗末なものだと思われても仕方ないでしょう。それくらいのものしか発信できない芸能だというイメージが付いてしまうでしょうよ。
出演者の顔と名前を観客に覚えていただき、今度見るのはこの人なのねとか、このあいだ見たこの人は良かったねとか、こういう場面あったねとか、観劇の前にも後にも舞台のことを想起していただく、そういう素材を提供する任務が国立の劇場にはあるのではないでしょうか?
しかし、現在いる職員に追加でその仕事をしろというのは無理な話で、片手間の兼務ではなく、そのための担当を配置しないことには実現しないでしょう。
なぜ新国立劇場でやっていることが国立能楽堂で出来ないのでしょうか?
国立能楽堂で出来ないことを新国立劇場でやる必要があるのでしょうか?

観世能楽堂の支配人が「10年後に能が存在するか分からない」と言った。
今の市川猿之助さんが「100年後に歌舞伎が存在するとは思えない」と言った。
まあ完全に消えてしまうことはないにしても、現在と同じ水準のものを上演することは確実に不可能でしょう。後世の人たちがお気の毒ですね。

シェイクスピア『ハムレット』

先月、池袋の東京芸術劇場で『ハムレット』を見て来たのです。表題役を演じるのは内野聖陽さん。ずっと喋りっぱなし、よくあんなにたくさんの台詞を覚えられますよね・・・。

『ハムレット』は、真田広之さんの映像を見たことがありますし、假名垣魯文が歌舞伎に翻案した『葉武列土倭錦絵(はむれっとやまとにしきえ)』を生で見たことがあります。トマ作曲のオペラ《ハムレット》も生で見たことがありますよ。
普通のストレート・プレイの《ハムレット》を生で1度見てみたかったのです。そして、それは1度で充分という気がしました・・・。意外とキリスト教色が濃厚なんですよね。キリスト教徒でない日本人には、あまりピンとこない感じ?

これまで「尼寺へ行け」と翻訳されることが多かった(?)、ハムレットの有名な台詞“Get thee to a nunnery !”は、今回の翻訳では「尼僧院へ行け」となっていました。
「にそーいん」・・・漢字で見れば分かるけれど、普段まず耳にする機会がない言葉だけに、観客に通じているのかなあと心配になりました。オペラを見ていると、たまに修道院が出てきますが、得体の知れない謎の施設ですよね・・・。中で何してたんでしょうかね。日本に存在しないものは翻訳も難しいですよね。オペラの字幕ではたいてい「尼僧院」ではなく「修道院」と出てきますね。
「尼僧」の「僧」は仏教用語だから抹香のにおいがしますよ。「尼寺」の「寺」という字と同じくらいに。いっそ「お前はもう尼になれ」とか「出家してくれ」と言ったほうが観客に伝わるのではないかと思いますが、分かりやすければ良いというわけでもないのでしょうか。

オフィーリアは柳の木から川に落ちて流されたっていうんですけど、私は前から不思議だったんです。あんまり柳の木に登る人っていないでしょう?でも「ポキッ」って折れちゃいそうな木だと駄目だったのでしょう。ここの場合、「事故なのか自殺なのか断定できない(はっきりさせたいのに)」ということが重要で、ポキッと折れる木だったら「事故」ということになってしまい、墓掘りがブツブツ喋る必要がなくなってしまうわけです。事故なのか自殺なのか分からせないために柳なのですね。
私は名前が「柳川」なので、柳がこのように使われていることを残念に思いますが、古来日本においては、柳は「春の爽やかさ」を想起させる素敵な木なのでございます。

世界演劇史上、もっとも有名な台詞(?)である“To be, or not to be”は、今回の上演では「あるか、あらざるか」と翻訳されていました。全然意味が分からないですね・・・。
日本における日本語訳上演でも、この台詞だけは原語のまま“To be, or not to be”とハムレットが呟く日がいつかやってくるのではないか・・・という気がする。オリンピックが近いせいか、急速に身の回りに英語が増え始め、日本はまるで植民地のようです。

2017年5月13日 (土)

親子の会話シリーズ

《眠れる森の美女》を見終えた親子の会話

子供「ねえ、お母さん」
母親「何?」
子供「オーロラ姫は、どうして倒れたの?」
母親「えっ?針が刺さっていたじゃないの」
子供「手に針が刺さると倒れるの?」
母親「ん~~、普通は少し血が出るくらいかしら?」
子供「じゃあ、どうして倒れたの?」
母親「呪いがかかってたんじゃないかしら?」
子供「呪いって何?」
母親「こいつ不幸になれ、って強く思うと本当に不幸になるのよ」
子供「なるの?」
母親「たぶん・・・」
子供「カラボスはどうしてオーロラ姫に呪いをかけるの?」
母親「自分だけ招待されなかったからじゃないの」
子供「招待されないとそんなに怒るの?」
母親「そりゃあトロイア戦争だって招待されなかった恨みから起こったし、『ぢいさんばあさん』の下嶋だってすごく恨んでたわ」
子供「それ何?」
母親「他にも例があるって話よ」
子供「でもさ、パンフレットのあらすじには、針に呪いがかかってるなんて書いてなかったよ?」
母親「これはおとぎ話だから、現実には起こらないことが起こるものなのよ。作り話なんだから。他にも変なところ、いっぱいあったでしょう」
子供「他にもあった?」
母親「みんなで百年も寝ていたら、革命や戦争で国がなくなってしまうわ」
子供「革命って何?」
母親「あんなに贅沢な暮らしをしてるのは許せないって大勢の人が怒って、あの人たちをやっつけちゃうことよ」
子供「やっつけちゃうって?」
母親「子供は知らなくていいのよ」
子供「オーロラ姫は何も悪いことしてないのに、どうして恨まれるの?」
母親「そんなこと世間にザラにあるのよ」
子供「じゃあ私も知らないうちに呪いをかけられてたりするの?」
母親「それは能の『田村』にもあるように、心配しないで堂々としていればいいのよ」
子供「『田村』って何?」
母親「(子供って、どうしてこんなに面倒くさいのかしら・・・)」
※家に帰るまで続く

2017年5月 4日 (木)

清元『保名』詞章解釈

清元『保名〔やすな〕
 (深山桜及兼樹振
〔みやまのはなとどかぬえだぶり〕

恋よ恋 われ中空
〔なかそら〕になすな恋
恋風
〔こいかぜ〕が来ては袂〔たもと〕にかい縺〔もつ〕
思う中をば吹き分くる

(両想いの二人の仲を引き裂いていく)
花に嵐の狂いてし
心そぞろにいずくとも
道行
〔みちゆ〕く人に言問〔ことと〕えど
〔いわ〕〔せ〕く水と我が胸と
砕けて落つる涙には
片敷
〔かたし〕く袖〔そで〕の片思い

姿もいつか乱れ髪
〔がみ〕
〔た〕が取り上げて言う事も
(掛詞:言う・[乱れた髪を]結う)
菜種
〔なたね〕の畑〔はた〕に狂う蝶
(掛詞:菜・ない)
つばさ交
〔か〕わして羨〔うらや〕まし
野辺
〔のべ〕の陽炎〔かげろう〕春草〔はるぐさ〕
素袍袴
〔すおうばかま〕に踏みしだき
狂い狂いて来たりける

なんじゃ 恋人がそこにいた ドレドレドレ エエまた嘘言うか
わっけもないこと 言うわやい

アレあれを今宮〔いまみや〕
(掛詞:宮・見や[=来山翁の例をごらんなさい])
来山翁
〔らいざんおう〕が筆〔ふで〕ずさみ
土人形
〔つちにんぎょう〕の色娘〔いろむすめ〕
(土の人形で作った理想の女性)
高根
〔たかね〕の花や折る事も
(それは実際には手に入れることができない女性)
泣いた顔せず腹立てず
(人形だから泣きもしないし怒りもしない)
悋気
〔りんき〕もせねばおとなしう
(嫉妬もしないおとなしい女性)
アラうつつなの妹背仲
〔いもせなか〕
(現実には存在しない夫婦仲)

〔ぬし〕は忘れて ござんしょう
しかも去年
〔きょねん〕の桜時〔さくらどき〕
植えて初日〔しょにち〕の初会〔しょかい〕から
〔お〕うての後〔のち〕は一日〔いちにち〕
便り聞かねば気も済まず
うつらうつらと夜
〔よ〕を明かし
〔ひる〕寝ぬ程に思いつめ
たまに逢
〔お〕う夜〔よ〕の嬉しさに
酒事
〔ささごと〕やめて語る夜は
いつよりも つい明けやすく
〔い〕のう 去〔い〕なさぬ 口説〔くぜつ〕さえ
月夜烏
〔つきよがらす〕に騙〔だま〕されて
(まだ夜にもかかわらず月の光に浮かされて鳴いている烏に騙されて
もう朝が来たのかと怯えてしまった)
(「帰らせない」という女の言葉にほだされて)

いっそ流して居続〔いつづ〕けは
(いっそ、もう一日延長してしまおうか)
日の出るまでもそれなりに
寝ようとすれど 寝
〔ね〕いられねば
寝ぬを恨みの旅の空
〔よ〕さの泊〔とま〕りはどこが泊りぞ
草を敷き寝の肘枕
〔ひじまくら〕肘枕
一人
〔ひとり〕明かすぞ悲しけれ悲しけれ
葉越〔はご〕しの葉越しの幕の内〔うち〕
昔恋しき面影〔おもかげ〕や 移り香〔が〕
その面影に露ばかり
似た人あらば教えてと
振りの小袖
〔こそで〕を身に添えて
狂い乱れて伏し沈む


踊りを見ているあいだに清元を聞いているだけでは、この詞章の意味を理解するのはちょっと難しいと思うんです。
特に①の部分は、知らないと何も分からない内容です。
「来山翁〔らいざんおう〕」というのは(舞台の清元では「らいざんのう」と発音されると思いますが)、日本舞踊社の『日本舞踊全集』で次のように説明されています。

来山翁
大坂の俳人。小西来山のことである。十万堂、湛々翁と称した。始めは平野町に住んでいたが、晩年は今宮村に移ったので、今宮の来山翁といった。享保元年(一七一六年)に六十三歳で没している。家は貧しかったが、大変な酒好きであったので、よく飲んでいたと伝えられる。土の女人形を愛玩(あいがん)して、常にそばにおき、一生を無妻で過ごした奇人である。

また、詞章の中に出てくる「筆ずさみ」というのは、同じく『日本舞踊全集』に、

来山翁の書いた「女人形の記」をいう。

と書かれています。
小西来山〔こにしらいざん〕の書いた『女人形の記』は、下記のアドレスで読むことができます。
(短いです)

http://www.kyosendo.co.jp/essay/106_konishi_1/

現代で言えば、漫画・アニメのオタクや、フィギュアのコレクターのようなものでしょうか?

私が子供の頃、イギリスにカルチャー・クラブという名のバンドがあり、『君は完璧さ』という歌を歌っていました。まあ西洋人というものは、何と直球の表現をするものであろうか、「そのまんま」というか、こういうのを「曲がない」と言うのではないだろうか。同じことを、別の素敵な言い方で表現するのが詩というものなのではないか。・・・などとずっと思っていたのですが、この度ちょっと検索してみたところ、この邦題はオリジナルのタイトルとは全然関係ないものを日本人が勝手に付けたものなのだそうな。原題は“Do You Really Want To Hurt Me”、旧邦題は「冷たくしないで」だって。(おお・・・)
この「完璧」という中には、「向こうもこちらを愛している」という点が含まれていると思うのです。そういう人ってなかなか存在しないから、フィギュアとか、アニメとか、アイドルとか、完璧を求めると架空の存在に傾斜してしまうのでしょう。架空でならば、完璧な人はいますよ。現実にはなかなか見つからないでしょう。見つかった人は運が良かったのでしょう。
『日本舞踊全集』には「一生を無妻で過ごした奇人」と書かれていますが、現在の日本では、およそ5人に1人は生涯独身と言われています。さらにパンダなんか、ほとんど番わないって聞きますよ。完璧な相手じゃないと嫌なんじゃないですか。みんな同じ顔に見えますけどね・・・。

同じ毛色の白と黒 人目にそれと分からねど 親と呼び また夫パンダと 呼ぶは生ある習いぞや

モーツァルトのオペラでは、「相手は誰だっていい」というような人物が多く出てきますが、誰でもいいと思えるのなら保名も狂いはしないでしょう。
『旅情』という大昔の映画の中に、「肉がなければラビオリを食うんだ」という忘れ得ぬ名ぜりふがありましたが・・・。
一度、強力な不細工キャストで《コジ・ファン・トゥッテ》を上演したらどうなるか、試してみたらどうでしょうか?

「ピグマリオン」や「コッペリア」を知っていて、「小西来山」を知らないなんて、全く馬鹿馬鹿しいことでございます。
『マイ・フェア・レディ』というミュージカル映画がありますが、「自分の理想の女性を、自分で作り出してしまう」というお話ですね。漫画やフィギュアではなく、現実の女性を自分の理想に合わせて変形させていく。「それは女性蔑視です!」と言われないために、後半は「イライザ(理想の女性)の悩み、反抗」が描かれ、ちょっと暗い感じになっています。(後半、いらなくないですか・・・?)

保名は「完璧」を手に入れて、それをすぐに失ってしまったのですね。(これを「愛別離苦〔あいべつりく〕」と言う。反対語は「怨憎会苦〔おんぞうえく〕」)

ここで素晴らしい和歌を一首ご紹介いたします。
光なき 谷には春も よそなれば 咲きてとく散る 物思ひもなし
清原深養父(古今967


ともかく、「来山翁」のくだりは、「理想の相手はなかなか得られるものではない」ということを表現した部分であると思います。

保名は関西人であるにも関わらず、②の部分で吉原の恋人同士の描写となります。初演が江戸・都座、浄瑠璃が清元と来れば、ここの飛躍は「いつものこと」で、何の不思議もありません。

③「夜さの泊りはどこが泊りぞ」という詞章が、私は長いこと理解できないままでした。
「夜さ(よさ)」というのは、
よる。よ。夜さり。
「夜さり(よさり)」というのは、
 
《「さり」は来る、近づくの意を表す動詞「去る」の連用形から》
1 夜になるころ。夜。ようさり。
2 今夜。今晩。

だそうです。
ですから「今夜は、一体どこに泊ることになるだろう」という意味でしょう。
昔は、知り合いの家に泊るのでもなければ、どこに泊ることになるのか事前に分からない。夜になったら、その場で自分で必死になって宿を確保しなくてはならない。わりと良い宿に泊まれるかもしれないし、すごく酷い宿かもしれないし、最悪の場合は誰も泊めてくれずに野宿する可能性もある。夜になって、まだ宿が決まっていなくて、この先どうなるのか分からない、そのような非常に不安定な心理状態を、保名の心と重ね合わせているのでしょう。これは、旅先で何軒も宿を断られて途方に暮れた経験がないと、実感として理解できない詞章なのではないかと思います。その不安な心が保名とリンクするのです。
松尾芭蕉は次のように言っています。
東海道の一すじもしらぬ人、風雅におぼつかなし。 『三冊子』
(東海道の旅さえ知らない人は、俳諧に関わる資格がない。)
佐佐木幸綱著『芭蕉の言葉』p128
お芝居は架空の話、想像の世界ではありますが、年を取って、自分で経験してみて初めて分かる、ということがあるものです。何事も経験ですね・・・。

さて、ここで注目すべきは、完璧な恋人に会うことが出来ていた昔でさえも、保名は彼女に会えない時間を耐えることが出来なかった、という点です。恋人に会っていた過去の話から、そのまま、野辺をさまよう現在の保名に繋がっていくという時間処理の見事さ、素晴らしさ、この不思議な時間の感覚は、他の作品には見られないものです。

そして、
「主
〔ぬし〕は忘れて ござんしょう」は女のせりふ、
「いっそ流して居続
〔いつづ〕けは」は男の行動、
「去
〔い〕のう」は男、
「去
〔い〕なさぬ」は女、
そういうふうに、男と女がくるくると入れ替わったり、溶け合ってどちらなのか分からなくなったりする。
このような感覚も、海外の踊りには見られないものではないかと思います。

④「葉越しの葉越しの幕の内」の部分は、『日本舞踊全集』に次のように説明されています。
これは、原作の「芦屋道満大内鑑」の第二段で、榊の前の妹である葛の葉姫が、心に深い立願があって、腰元どもを引き連れ、産土神(うぶすな神)に参詣をし、父の信田の庄司や母を待ち合わせるために、道のほとりに幕を張らせて、散り残る花を見ることがある。葉越の幕とはこれをいう。そして、榊の前の妹であるから、幕の内から漏れるその声もほの見えるその姿も、保名にとっては榊の前の思い出になる。したがって「昔恋しき面影や 移り香や」であって、昔恋しさの保名の気持ちを叙したもの。
この部分は、「どこへ行っても、つい榊
〔さかき〕の前の姿を追い求めてしまう」ということが分かれば充分ですね。

「恋よ恋 われ中空
〔なかそら〕になすな恋」「夜〔よ〕さの泊〔とま〕りはどこが泊りぞ」は、中世歌謡から持ってきたものだそうです。
「恋よ恋 われ中空
〔なかそら〕になすな恋」というフレーズは、「わ中空に」という形で能『恋の重荷〔おもに〕』にも出てきますが、「1文字違うだけで、こんなに意味が変わるのか」と驚きます。『恋の重荷』は、ぜひ見ておくべき作品だと思います。

保名は、榊の前の着ていた小袖を持っていますが、平安時代、恋人同士は別れの朝にお互いの衣類を交換したのだそうで、次に会う時まで、その衣を恋人だと思って過ごしたのでしょう。別れの朝を「後朝〔きぬぎぬ〕」と呼ぶのも、衣を交換する「衣衣」から来ているのだとか・・・。
保名にとっての「榊の前の小袖」が、来山翁の「土人形」に相当するわけですね。

「その面影に露ばかり似た人あらば教えて」と保名は言いますが、「完璧」がもう二度と手に入らないことくらい、保名には分かっているでしょう。だから狂ってしまうのでしょう。
しかし!!その「完璧」が、葛の葉姫という形でもう一度保名の前に現れてしまうのです。
しかも!!知らないうちに狐に入れ替わってしまう・・・。
そんなことってあるのでしょうか・・・。
安倍晴明の持っていた不思議な力を解明しようとすると、こんな不思議な話が出来上がるんですね・・・。
不思議の原因は、さらに不思議。
その夜は、一体どんなふうだっただろう?

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