« つぶやき | トップページ | 親子の会話シリーズ »

2017年5月 4日 (木)

清元『保名』詞章解釈

清元『保名〔やすな〕
 (深山桜及兼樹振
〔みやまのはなとどかぬえだぶり〕

恋よ恋 われ中空
〔なかそら〕になすな恋
恋風
〔こいかぜ〕が来ては袂〔たもと〕にかい縺〔もつ〕
思う中をば吹き分くる

(両想いの二人の仲を引き裂いていく)
花に嵐の狂いてし
心そぞろにいずくとも
道行
〔みちゆ〕く人に言問〔ことと〕えど
〔いわ〕〔せ〕く水と我が胸と
砕けて落つる涙には
片敷
〔かたし〕く袖〔そで〕の片思い

姿もいつか乱れ髪
〔がみ〕
〔た〕が取り上げて言う事も
(掛詞:言う・[乱れた髪を]結う)
菜種
〔なたね〕の畑〔はた〕に狂う蝶
(掛詞:菜・ない)
つばさ交
〔か〕わして羨〔うらや〕まし
野辺
〔のべ〕の陽炎〔かげろう〕春草〔はるぐさ〕
素袍袴
〔すおうばかま〕に踏みしだき
狂い狂いて来たりける

なんじゃ 恋人がそこにいた ドレドレドレ エエまた嘘言うか
わっけもないこと 言うわやい

アレあれを今宮〔いまみや〕
(掛詞:宮・見や[=来山翁の例をごらんなさい])
来山翁
〔らいざんおう〕が筆〔ふで〕ずさみ
土人形
〔つちにんぎょう〕の色娘〔いろむすめ〕
(土の人形で作った理想の女性)
高根
〔たかね〕の花や折る事も
(それは実際には手に入れることができない女性)
泣いた顔せず腹立てず
(人形だから泣きもしないし怒りもしない)
悋気
〔りんき〕もせねばおとなしう
(嫉妬もしないおとなしい女性)
アラうつつなの妹背仲
〔いもせなか〕
(現実には存在しない夫婦仲)

〔ぬし〕は忘れて ござんしょう
しかも去年
〔きょねん〕の桜時〔さくらどき〕
植えて初日〔しょにち〕の初会〔しょかい〕から
〔お〕うての後〔のち〕は一日〔いちにち〕
便り聞かねば気も済まず
うつらうつらと夜
〔よ〕を明かし
〔ひる〕寝ぬ程に思いつめ
たまに逢
〔お〕う夜〔よ〕の嬉しさに
酒事
〔ささごと〕やめて語る夜は
いつよりも つい明けやすく
〔い〕のう 去〔い〕なさぬ 口説〔くぜつ〕さえ
月夜烏
〔つきよがらす〕に騙〔だま〕されて
(まだ夜にもかかわらず月の光に浮かされて鳴いている烏に騙されて
もう朝が来たのかと怯えてしまった)
(「帰らせない」という女の言葉にほだされて)

いっそ流して居続〔いつづ〕けは
(いっそ、もう一日延長してしまおうか)
日の出るまでもそれなりに
寝ようとすれど 寝
〔ね〕いられねば
寝ぬを恨みの旅の空
〔よ〕さの泊〔とま〕りはどこが泊りぞ
草を敷き寝の肘枕
〔ひじまくら〕肘枕
一人
〔ひとり〕明かすぞ悲しけれ悲しけれ
葉越〔はご〕しの葉越しの幕の内〔うち〕
昔恋しき面影〔おもかげ〕や 移り香〔が〕
その面影に露ばかり
似た人あらば教えてと
振りの小袖
〔こそで〕を身に添えて
狂い乱れて伏し沈む


踊りを見ているあいだに清元を聞いているだけでは、この詞章の意味を理解するのはちょっと難しいと思うんです。
特に①の部分は、知らないと何も分からない内容です。
「来山翁〔らいざんおう〕」というのは(舞台の清元では「らいざんのう」と発音されると思いますが)、日本舞踊社の『日本舞踊全集』で次のように説明されています。

来山翁
大坂の俳人。小西来山のことである。十万堂、湛々翁と称した。始めは平野町に住んでいたが、晩年は今宮村に移ったので、今宮の来山翁といった。享保元年(一七一六年)に六十三歳で没している。家は貧しかったが、大変な酒好きであったので、よく飲んでいたと伝えられる。土の女人形を愛玩(あいがん)して、常にそばにおき、一生を無妻で過ごした奇人である。

また、詞章の中に出てくる「筆ずさみ」というのは、同じく『日本舞踊全集』に、

来山翁の書いた「女人形の記」をいう。

と書かれています。
小西来山〔こにしらいざん〕の書いた『女人形の記』は、下記のアドレスで読むことができます。
(短いです)

http://www.kyosendo.co.jp/essay/106_konishi_1/

現代で言えば、漫画・アニメのオタクや、フィギュアのコレクターのようなものでしょうか?

私が子供の頃、イギリスにカルチャー・クラブという名のバンドがあり、『君は完璧さ』という歌を歌っていました。まあ西洋人というものは、何と直球の表現をするものであろうか、「そのまんま」というか、こういうのを「曲がない」と言うのではないだろうか。同じことを、別の素敵な言い方で表現するのが詩というものなのではないか。・・・などとずっと思っていたのですが、この度ちょっと検索してみたところ、この邦題はオリジナルのタイトルとは全然関係ないものを日本人が勝手に付けたものなのだそうな。原題は“Do You Really Want To Hurt Me”、旧邦題は「冷たくしないで」だって。(おお・・・)
この「完璧」という中には、「向こうもこちらを愛している」という点が含まれていると思うのです。そういう人ってなかなか存在しないから、フィギュアとか、アニメとか、アイドルとか、完璧を求めると架空の存在に傾斜してしまうのでしょう。架空でならば、完璧な人はいますよ。現実にはなかなか見つからないでしょう。見つかった人は運が良かったのでしょう。
『日本舞踊全集』には「一生を無妻で過ごした奇人」と書かれていますが、現在の日本では、およそ5人に1人は生涯独身と言われています。さらにパンダなんか、ほとんど番わないって聞きますよ。完璧な相手じゃないと嫌なんじゃないですか。みんな同じ顔に見えますけどね・・・。

同じ毛色の白と黒 人目にそれと分からねど 親と呼び また夫パンダと 呼ぶは生ある習いぞや

モーツァルトのオペラでは、「相手は誰だっていい」というような人物が多く出てきますが、誰でもいいと思えるのなら保名も狂いはしないでしょう。
『旅情』という大昔の映画の中に、「肉がなければラビオリを食うんだ」という忘れ得ぬ名ぜりふがありましたが・・・。
一度、強力な不細工キャストで《コジ・ファン・トゥッテ》を上演したらどうなるか、試してみたらどうでしょうか?

「ピグマリオン」や「コッペリア」を知っていて、「小西来山」を知らないなんて、全く馬鹿馬鹿しいことでございます。
『マイ・フェア・レディ』というミュージカル映画がありますが、「自分の理想の女性を、自分で作り出してしまう」というお話ですね。漫画やフィギュアではなく、現実の女性を自分の理想に合わせて変形させていく。「それは女性蔑視です!」と言われないために、後半は「イライザ(理想の女性)の悩み、反抗」が描かれ、ちょっと暗い感じになっています。(後半、いらなくないですか・・・?)

保名は「完璧」を手に入れて、それをすぐに失ってしまったのですね。(これを「愛別離苦〔あいべつりく〕」と言う。反対語は「怨憎会苦〔おんぞうえく〕」)

ここで素晴らしい和歌を一首ご紹介いたします。
光なき 谷には春も よそなれば 咲きてとく散る 物思ひもなし
清原深養父(古今967


ともかく、「来山翁」のくだりは、「理想の相手はなかなか得られるものではない」ということを表現した部分であると思います。

保名は関西人であるにも関わらず、②の部分で吉原の恋人同士の描写となります。初演が江戸・都座、浄瑠璃が清元と来れば、ここの飛躍は「いつものこと」で、何の不思議もありません。

③「夜さの泊りはどこが泊りぞ」という詞章が、私は長いこと理解できないままでした。
「夜さ(よさ)」というのは、
よる。よ。夜さり。
「夜さり(よさり)」というのは、
 
《「さり」は来る、近づくの意を表す動詞「去る」の連用形から》
1 夜になるころ。夜。ようさり。
2 今夜。今晩。

だそうです。
ですから「今夜は、一体どこに泊ることになるだろう」という意味でしょう。
昔は、知り合いの家に泊るのでもなければ、どこに泊ることになるのか事前に分からない。夜になったら、その場で自分で必死になって宿を確保しなくてはならない。わりと良い宿に泊まれるかもしれないし、すごく酷い宿かもしれないし、最悪の場合は誰も泊めてくれずに野宿する可能性もある。夜になって、まだ宿が決まっていなくて、この先どうなるのか分からない、そのような非常に不安定な心理状態を、保名の心と重ね合わせているのでしょう。これは、旅先で何軒も宿を断られて途方に暮れた経験がないと、実感として理解できない詞章なのではないかと思います。その不安な心が保名とリンクするのです。
松尾芭蕉は次のように言っています。
東海道の一すじもしらぬ人、風雅におぼつかなし。 『三冊子』
(東海道の旅さえ知らない人は、俳諧に関わる資格がない。)
佐佐木幸綱著『芭蕉の言葉』p128
お芝居は架空の話、想像の世界ではありますが、年を取って、自分で経験してみて初めて分かる、ということがあるものです。何事も経験ですね・・・。

さて、ここで注目すべきは、完璧な恋人に会うことが出来ていた昔でさえも、保名は彼女に会えない時間を耐えることが出来なかった、という点です。恋人に会っていた過去の話から、そのまま、野辺をさまよう現在の保名に繋がっていくという時間処理の見事さ、素晴らしさ、この不思議な時間の感覚は、他の作品には見られないものです。

そして、
「主
〔ぬし〕は忘れて ござんしょう」は女のせりふ、
「いっそ流して居続
〔いつづ〕けは」は男の行動、
「去
〔い〕のう」は男、
「去
〔い〕なさぬ」は女、
そういうふうに、男と女がくるくると入れ替わったり、溶け合ってどちらなのか分からなくなったりする。
このような感覚も、海外の踊りには見られないものではないかと思います。

④「葉越しの葉越しの幕の内」の部分は、『日本舞踊全集』に次のように説明されています。
これは、原作の「芦屋道満大内鑑」の第二段で、榊の前の妹である葛の葉姫が、心に深い立願があって、腰元どもを引き連れ、産土神(うぶすな神)に参詣をし、父の信田の庄司や母を待ち合わせるために、道のほとりに幕を張らせて、散り残る花を見ることがある。葉越の幕とはこれをいう。そして、榊の前の妹であるから、幕の内から漏れるその声もほの見えるその姿も、保名にとっては榊の前の思い出になる。したがって「昔恋しき面影や 移り香や」であって、昔恋しさの保名の気持ちを叙したもの。
この部分は、「どこへ行っても、つい榊
〔さかき〕の前の姿を追い求めてしまう」ということが分かれば充分ですね。

「恋よ恋 われ中空
〔なかそら〕になすな恋」「夜〔よ〕さの泊〔とま〕りはどこが泊りぞ」は、中世歌謡から持ってきたものだそうです。
「恋よ恋 われ中空
〔なかそら〕になすな恋」というフレーズは、「わ中空に」という形で能『恋の重荷〔おもに〕』にも出てきますが、「1文字違うだけで、こんなに意味が変わるのか」と驚きます。『恋の重荷』は、ぜひ見ておくべき作品だと思います。

保名は、榊の前の着ていた小袖を持っていますが、平安時代、恋人同士は別れの朝にお互いの衣類を交換したのだそうで、次に会う時まで、その衣を恋人だと思って過ごしたのでしょう。別れの朝を「後朝〔きぬぎぬ〕」と呼ぶのも、衣を交換する「衣衣」から来ているのだとか・・・。
保名にとっての「榊の前の小袖」が、来山翁の「土人形」に相当するわけですね。

「その面影に露ばかり似た人あらば教えて」と保名は言いますが、「完璧」がもう二度と手に入らないことくらい、保名には分かっているでしょう。だから狂ってしまうのでしょう。
しかし!!その「完璧」が、葛の葉姫という形でもう一度保名の前に現れてしまうのです。
しかも!!知らないうちに狐に入れ替わってしまう・・・。
そんなことってあるのでしょうか・・・。
安倍晴明の持っていた不思議な力を解明しようとすると、こんな不思議な話が出来上がるんですね・・・。
不思議の原因は、さらに不思議。
その夜は、一体どんなふうだっただろう?

« つぶやき | トップページ | 親子の会話シリーズ »

1 歌舞伎あれこれ」カテゴリの記事

コメント

コメントを書く

コメントは記事投稿者が公開するまで表示されません。

(ウェブ上には掲載しません)

« つぶやき | トップページ | 親子の会話シリーズ »

2017年10月
1 2 3 4 5 6 7
8 9 10 11 12 13 14
15 16 17 18 19 20 21
22 23 24 25 26 27 28
29 30 31        
無料ブログはココログ