« 悲しい美術館 | トップページ | 新国立劇場の不思議 »

2017年6月29日 (木)

能『船弁慶』あれこれ2

能『船弁慶』で、前シテの静は、義経の前で別れの舞を披露します。
その始まりの部分で詠じられるのが、小野篁の次の漢詩です。

渡口の郵船は風静まって出づ
波頭の謫所は日晴れて見ゆ

隠岐に流されていた小野篁が許されて召還された時の船出の詩。篁は、京に戻ってから、かなり出世したようです。だからこの場に相応しいのですね。

ところで、その小野篁が隠岐に「流される時」に詠んだ和歌が、百人一首に採られて有名な

わたの原 八十島かけて 漕ぎ出でぬと 人には告げよ 海人の釣り舟

なのだそうです。
小野篁がなぜ隠岐に島流しにされたのか、インターネットで調べるとすぐに分かる、便利な世の中になりました。

さらにインターネットで調べると、頼朝がなぜ義経と仲違いしたのか、理由が書かれていました。

義経が頼朝の怒りを買った原因は、『吾妻鏡』によると許可なく官位を受けたことのほか、平氏追討にあたって軍監として頼朝に使わされていた梶原景時の意見を聞かず、独断専行で事を進めたこと、壇ノ浦の合戦後に義経が範頼の管轄である九州へ越権行為をして仕事を奪い、配下の東国武士達に対してもわずかな過ちでも見逃さずこれを咎め立てするばかりか、頼朝を通さず勝手に成敗し武士達の恨みを買うなど、自専の振る舞いが目立ったことによるとしている。主に西国武士を率いて平氏を滅亡させた義経の多大な戦功は、恩賞を求めて頼朝に従っている東国武士達の戦功の機会を奪う結果になり、鎌倉政権の基盤となる東国御家人達の不満を噴出させた。

特に前者の許可無く官位を受けたことは重大で、まだ官位を与えることが出来る地位にない頼朝の存在を根本から揺るがすものだった。また義経の性急な壇ノ浦での攻撃で、安徳天皇や二位尼を自害に追い込み、朝廷との取引材料と成り得た宝剣を紛失したことは頼朝の戦後構想を破壊するものであった。

そして義経の兵略と声望が法皇の信用を高め、武士達の人心を集めることは、武家政権の確立を目指す頼朝にとって脅威となるものであった。義経は壇ノ浦からの凱旋後、かつて平氏が院政の軍事的支柱として独占してきた院御厩司に補任され、平氏の捕虜である平時忠の娘(蕨姫)を娶った。かつての平氏の伝統的地位を、義経が継承しようとした、あるいは後白河院が継承させようとした動きは、頼朝が容認出来るものではなかったのである。
ウィキペディア「源義経」より


こう聞けば、なるほどとも思うのでございます。(頼朝が酷いことには変わりませんが・・・)

義経は陸奥へ逃げ延びたわけですが、都から妻子を呼び寄せていたのだそうです。
(前に「新しい妻子」と書いてしまいましたが、正妻だそうですスミマセン)

人生って、どうなるのか分からないものですね。

« 悲しい美術館 | トップページ | 新国立劇場の不思議 »

9 能楽」カテゴリの記事

コメント

コメントを書く

コメントは記事投稿者が公開するまで表示されません。

(ウェブ上には掲載しません)

« 悲しい美術館 | トップページ | 新国立劇場の不思議 »

2017年10月
1 2 3 4 5 6 7
8 9 10 11 12 13 14
15 16 17 18 19 20 21
22 23 24 25 26 27 28
29 30 31        
無料ブログはココログ