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2017年7月

2017年7月12日 (水)

『一條大蔵譚』あれこれ

私は国立劇場に勤めていますので、仕事の都合上、文楽の床本を読む機会が多いのです。ところが『一條大蔵譚』は、歌舞伎では頻繁に上演されるのに、文楽では全く上演されないので、台詞を活字で読む機会がない。その点で、他の義太夫狂言と異なる特別な演目です。いつも見ていて不思議な感じがするのです。

文楽太夫の豊竹咲太夫師匠は、50年前の国立劇場開場記念公演で咲太夫の名跡を継がれました。その時の披露狂言が「菊畑」でした。(復活上演)
昨年、国立劇場開場50周年記念として咲太夫師匠にインタビューする機会があったので、なぜ文楽では一條大蔵卿のくだりが上演されないのか質問してみたのです。
師匠曰く、あの場面は歌舞伎で工夫され、歌舞伎で上演されてこそ面白いと聞いている、文楽で上演しても面白くない、文楽で『鬼一法眼』を上演する時は「菊畑」を最後まで出すから、そこまでの時間がない、と仰っていました。

今月、国立劇場の歌舞伎鑑賞教室で『一條大蔵譚』が上演されています。
台本を読んでみますと、こんなことを言っていたんだなあと改めて新鮮に感じますね。

常盤御前の台詞の中に、和歌が出てきます。
世の中の 人の心の 竹なれば 割りてや君に 見せましものを

出典は不明ですが、意味は「私の心が竹だったならば、割って中をお見せするところですのに」「もしも心の中が目に見えたならば、私の心が竹のように真っ直ぐで中に何のやましさもないことがお分かりいただけますのに」「あなたに疑われて悔しい、けれど私は潔白です」ということでしょう。
おそらく「世」には「節〔よ〕」という言葉が掛けられています。「節〔よ〕」というのは竹の「ふし」のことで、竹の縁語ですね。

また、大蔵卿の台詞の中に、次の和歌が出てきます。
子〔ね〕の日する 野辺〔のべ〕に小松〔こまつ〕のなかりせば 千代〔ちよ〕のためしに 何〔なに〕を引かまし

こちらは『拾遺集』に採られた壬生忠岑〔みぶのただみね〕の歌です。
その昔、正月の最初の子〔ね〕の日に、若い松を根から引き抜く雅な遊びがあったのだそうです。松というのは大変に長命で、私の生まれるずっと前から生えている松が、私の死んだずっと後にも生き続けるという、羨ましい長寿の代表のようなものです。若い小さな松の中にも、すでにそれだけの生命力が予め備わっている。「子の日の遊び」は、小松を引き抜いて飾ることによって、約束された長命にあやかっていたのではないでしょうか。「予祝」というものですね。
「何を引かまし」というのは、「松と肩を並べるくらい長命な生物はいない」「松の代わりは存在しない」「松が一番、松が最高(他はまるで比較にならない)」という、松の長寿を賞讃する言葉ですね。
ところで、平清盛の長男である平重盛〔たいらのしげもり〕は、小松谷〔こまつだに〕というところに住んでいたので、「小松内府〔こまつのないふ〕」とか「小松殿〔こまつどの〕」と呼ばれていました。
壬生忠岑の和歌の「小松」の部分を「平重盛」に置き換えると、「平家の中で優れた人物は重盛しかいない、他は取るに足らない」という意味になります。
大蔵卿はこの和歌を鬼次郎に託して、源氏の公達(頼朝や義経)に伝えてほしいと言います。つまり伝言というのは、途中で誰か別の人の手に渡ってしまう危険があるので、暗号でなければならない。何も知らない人が読むとただの古歌に見えるけれども、その奥に隠れたメッセージが潜んでいるわけですね。「重盛以外は取るに足らない」「いくら兵力を整えても、重盛が健在のうちは戦ったら駄目」、それは誰にでも分かる情報ではなく、大蔵卿の地位でこそ見える状況であり、「兵法の極意の伝授」という本作の作意にも関わることなのでしょう。
和歌の意味が分からないと、なぜ一條大蔵卿がこの場に出てきて本性を表すのか、分からなくなってしまいます。

さて、高校生に和歌が聞き取れているでしょうか・・・?

2017年7月10日 (月)

KABUKI by KISHIN

先日、篠山紀信さんのトークショーに行ってきたのです。
KABUKI by KISHIN』という歌舞伎の写真集(5万円)を出版した記念の会でした。
紀信さんは、これまでにも玉三郎さんや仁左衛門さんの写真集を出していますが、今回は50数名の歌舞伎俳優の写真をまとめたもので、出版の規模からしても、これだけの写真集は今後出せないだろうということでした。
写真の点数は、もちろん玉三郎さんの写真が一番多く掲載されています。
『演劇界』や『和楽』などで見たことのある写真も多いですが、とにかく本が大きいので迫力があります。

私は5年ほど前に、木之下晃さんの講演会に行ったことがあります。
舞台の写真撮影は、まず「撮りたい」と思った人が全員撮れるわけではない。
そして、上演中にシャッター音がしてはマズいので、必然的に遠くからの撮影となる。
たくさんの制約があります。
木之下さんは、駆け出しのころマリア・カラスの来日コンサートの公式カメラマンに抜擢され、当時開発されたばかりの高価な望遠レンズを特別に借りることが出来たのだそうです。他の人と条件が違ったわけです。なぜ、そのような特殊な立場になれたのかというと、ご本人の話によれば「ギャラが安かったから」とのことでした。(本当かどうか知りませんが)

ところが!
紀信さんは、自分は他の人と同じ条件で撮影している、ということを強調されていました。カメラの機材も普通に市販されているものだし、撮影も舞台の本番を普通に撮影したもので、特別な扱いはされていないそうです。
では、なぜ篠山紀信の写真が特別なのか?
それは、ご本人の話によれば、未だに「やっぱりカメラはライカじゃないとね」とか、「デジタルの写真は味わいがない」などと言う人がやたら多くて、その古い固定観念が駄目なんだとのことでした。紀信さんはその逆で、「今の写真は今の機材で撮る」という主義(?)だそうです。

しかし、私がかつて平成中村座で勘三郎さんの『お祭り』を拝見していた時、最前列で見ていた私の隣に紀信さんが突然やって来てパシャパシャ音をさせながら写真を撮り始めたことがあり、かなり特別扱いされている感じでしたけどね・・・。
そして、売れている人ほど機材を更新しやすいとか、名前の出ている人ほど取材しやすいという特権は、やっぱりあると思いますよ。まあ自分でその地位を築き上げてきたのですから、立派ですけれども。

5万円の写真集を買おうかどうしようか迷っていたのですが、結局買ってしまいました。サイン、握手もしていただきました。もう重くって重くって、帰りの道が大変でした・・・。

2017年7月 1日 (土)

つぼやき

インターネット上の記事を見ていると、「続きを読む」「記事全文を読む」などのボタンがあって、何度もクリックしないと記事が読めない、ページが表示されるまで更に時間がかかってイライラ、ということがあるわけですが、あれは何のために何段階にも分けて表示しているのでしょうかねえ。一体どういう仕組みなのでしょう。

明日は都議選ですね。昨今の政治家の腐敗があまりに見苦しいので、何とかならないものかと常々思っているのですが、私が持つ力は一票の力だけ。
だ・れ・に・と・う・ひょ・う・し・よ・う・か・な~と思って候補者のポスターを見てみたのですが、ほとんどの人が政策や意思を書き込んでおらず、顔写真と名前と経歴くらいしか載っていない。政策が分からなくて、どうやって投票すればよいのだろう?
そうして「有名だけれど無能な声のでかい人」が選ばれ、石原慎太郎氏みたいな厚顔無恥の爺さんが出てくるわけだろうか。
電力にしても豊洲にしてもオリンピックにしても、日本ってこんなに駄目な国だったのね・・・と思い知らされる失策でありました。

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