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2017年12月

2017年12月30日 (土)

年の瀬や

仕事が忙しいですねえ。

昼も夜も休日も働いているのに、言われるのは文句ばかり。

イヤなことは沢山あるのに、良いことは何もない。何の決定権もない。

もう店じまい。

さて、今年一年を振り返りますと・・・。

『ひらがな盛衰記』という作品が強く印象に残った年でした。
今までは、あまりその良さが分からなかったんですよね・・・。
私は、国立の歌舞伎で通しでやった時(平成4年)に初めて見て、梅幸さんの笹引きなんかも拝見しているのですが、「また槌松を産んでみせおれ」とか「飼い犬に手をくわれた」とか、現代では決して聞くことのない前時代的なフレーズばかりがとても強く印象に残り、作品の良さが分からなかった。
そして、文楽ではこの作品をずっと見たことがなかった。あまり上演されないし、上演されてもチケットが取れなかったわけなんです。

平成ひと桁代、東京の文楽公演のチケットは本当に取れなかったでしょう。それでも私は、平成4年の『本朝廿四孝』通しとか、平成5年の『妹背山婦女庭訓』通しなど、本当に世界中のあらゆる舞台芸術の中でも頂点と言っていいくらい真に偉大な舞台を見ているので、仕事で多少イヤなことがあってもこの偉大な芸術のためなら仕方がないと思えたわけなのですが、今の若い人はそんなの知らないし、献身したりしないのも無理はない。全盛期に身内に味方をほとんど仕込めなかったのは文楽の大きな失点であったと思うのです。

歌舞伎の丸本物って、文楽の公演によって必要な知識を補う、という側面が少なからずあると思うんですよね。いきなり「逆櫓」の場面だけ見ても、理解できないでしょう。

文楽の「逆櫓」は、長く住太夫師匠の持ち場だったんですよね。ところが、先代の燕三師匠がこの演目の演奏中に倒れるという出来事があって、それだけ三味線にとっても大曲だということでもあるのでしょうが、以来あまり上演されなくなってしまった。文楽で上演されないと、「詞章を改めて活字で読む」ということはまずしないので、ずっと謎の演目となってしまうわけなのです。

文楽や歌舞伎には、「我が子の命を何かの犠牲として捧げる」という物語が多くあり、現代人には理解しがたいと言われます。しかし、自分にとって一番大切なものを捧げる、自分の命よりも大切な我が子の命を捧げる、というのは「自己犠牲の一形態」なのだと思う。「ブリュンヒルデの自己犠牲」より全然分かりやすい。自分の大切なものを犠牲にするから感動するのであり、大切じゃないものを犠牲にしても何も感動しない。
今年7月の歌舞伎座で新作(復活?)が上演され、「連れられて行ったのは実は死んでもいい悪人だった」みたいな場面があり、死んでもいい悪人が連れられて行っても何にも感動しないよね~と思ったのです。だいたい「死んでもいい」って誰が決めるのでしょう?「すし屋」だったら、連れられて行ってほしくない我が子が連れられて行くから客も泣くわけじゃないですか。

血がつながっていないけれど我が子同然に可愛い継子、その子を犠牲にするという「ひねり」、そういう複雑な心の機微というものが、私にもやっと分かる時が訪れた年でありました。そして今の吉右衛門さんはこの演目で初舞台を踏まれたわけですが、初代の吉右衛門がこの演目で養子に初舞台を踏ませようと思った歌舞伎という世界の厳しさ、その厳しさに耐えて今この最上の「逆櫓」を上演している二代目の真の偉大さ、本当に稀有な奇跡を見ているような感覚に私は捉われたのです。
もう25年も歌舞伎を見ているのに、実に不思議な年でした。

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