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2018年5月

2018年5月29日 (火)

国立劇場のホームページは駄目

私はもう何年も前から「国立劇場のホームページはなっていない」といろいろな機会に発言しているのですが、「国立劇場HPのアクセス件数は、なぜ新国立劇場HPのアクセス件数よりも大幅に少ないのか」ということが社内で問題になっているようです。
アクセスの解析の仕方が悪いんじゃないかとか、流入を呼び込む工夫が足りないのではないかとか、そういう側面も確かにあるのかもしれませんが、それは二次的なことにすぎず、理由は明らかに「内容が駄目だから」です。

たとえば公演情報に「この公演はイヤホンガイドがあるのか?いくらなのか?」「英語版イヤホンガイドはあるのか?」「託児所は開設されるのか?」「食事はどうすればいいのか?」といった基本的な情報が出ていない。

演目のあらすじ・みどころが書かれていない。出演者の顔写真・プロフィールがない。写真がなくて文字ばっかり。文字が小さくて字が潰れていて読めない。1つのページに情報が密集していてゴチャゴチャしている。

配役が書かれていない。ちらし画像がpdfで張り付けられているだけで読みづらい。というかちらし画像が荒すぎて判読できない。美しくない。美しくないものは見たくない。

最も重要な公演情報が「本日の公演」「今月の公演」「来月の公演」「再来月以降の公演」の4つに分類されているわけですが、なぜ「5月公演」「6月公演」「7月公演」「8月公演」というように月ごとに表示しないのか。手間惜しみですよね。手間を惜しんでアクセス件数は増やせないですよね。

貸し劇場の公演情報は「来月の公演」までしか載っていない。つまり今日の時点で6月公演までしか掲載されていない。こんなに掲載が遅い劇場は他に存在しないです。掲載期間が短ければ、その分アクセス件数は少なくなります。

たとえば新国立劇場のホームページだったら、「●●●にフィデリオの記事が掲載されました」というようなメディア掲載情報が載っていますでしょう。でも国立劇場のホームページにはないでしょう。
「国立劇場でもやりましょう」というふうにならないところが不思議なんですよね。
評議員会とか専門委員会とかすごいいっぱい会議をやっているのに全然変わらなくて、「新国立劇場で出来ていることが国立劇場で全然出来ていない」ということがたくさんあって誠に不思議です。

それで私の意見なんか全然聞いてくれないので、ブログで愚痴を書くことになるわけなのです。本当のことですから悪口ではありません。

《湖上の美人》セレンディピティ・オペラ

5月20日(日)、汐留ホールで、ロッシーニ作曲《湖上の美人》を見てきました~。
天井が配管むき出しの小さなレンタルスペースで、客席は80席ほどでしたでしょうか。珍しい演目で宣伝もほとんどしていなかったわりに、満席でした。もうちょっと広いホールだったら嬉しかったのですが、小さな空間だけに声の迫力がありました。
合唱なし、ピアノ伴奏、衣裳付きの演奏会形式という小規模な公演ながら、個性的な歌手が揃い、素晴らしい演奏でした。滅多に聞かない作品ですが、改めて曲の良さを感じました。お金をかけた大規模な公演でも感動しないこともあれば、小規模な公演でもすごく感動することもあります。やっぱり好きな作品だと聞いていて血が騒ぐ感じがしますね。
来年はベッリーニ作曲の《清教徒》が上演されるそうです。

2018年5月27日 (日)

5月文楽

国立劇場で上演されている文楽公演を見て来ました~。
「毛谷村」がすごく充実していました。千歳太夫さんが大当たりですね。こんなにいいとは思わなかった。千歳さんって予想がつかない人なんですよね。
藤蔵さんもすごく良かったですね~。盛り上がりました。「そのうちこっちのほうの人が語り始めるのでは」というくらい気合が入っていた。藤蔵さんカッコよかった!
こんなに素晴らしいなら、もっと売れていいのに!

日本では昔から、仏壇の蝋燭に火を灯すとか、精霊流しとか、死者に明かりを供えるということがあるわけですけれども、今回「須磨浦の段」を見ていて、その理由が分かったと言いますか、死後の世界の闇の中で迷っているだろう人に対して明かりを捧げるという形の想像力があるんだなあと、感じ入りました。

そして、9月文楽公演は昼夜とも絶対に多くの方に見ていただきたい。
特に勘十郎さんの団七は絶対に絶対に見逃さないでくださいね。

2018年5月26日 (土)

これでは座れない

私はオペラやバレエが好きなので、よく東京文化会館へ行くのです。オーチャードホールに比べると、舞台の見やすさも音響も格段に優れていると思いますけれども、2階から上の客席は横幅があまりに狭くて、私はちょっと座れない。両隣が小柄な女性だったら大丈夫だと思いますが、普通の体格の男性だったらもう肩も腕もピッタリくっついたまま終演まで固定されてしまいます。(ちなみに私は身長174センチです)
東京文化会館の公演はほとんどが貸し劇場で、劇場使用料が入ってくるばかりなのに、そのお金は何に使ってしまうのでしょうか?もう少し劇場を快適にするために使えばいいのにと思う。10年ごとに大規模なリニューアル工事を行っているのに、何も良くなっていないように感じる。

能楽堂は全国にたくさんありますけれども、客席が小さすぎて体が入らないことがよくあります。昔の日本人は本当に小柄だったんですね。
でも時代は変わりました。
「客席が狭いから行かない」という人も多いと思うんです。

よく劇場やホールが1~2年のあいだ休館して改修工事を行いますが、国立劇場は50年間1度もそのような改修をしたことがない。大劇場3階の最後列の椅子は私は狭くて座れない。

2018年5月23日 (水)

真夏の夜の美女が見る眠れる森の夢

オペラは音楽だから世界中に通じて誰でも楽しめる、ということがよく言われるわけですが、私は《フィデリオ》という話が分からない。
レオノーレはなぜ男装しなければならなかったのか?
監獄というものは、抜け出るのが難しいのと同時に、入り込むのも難しい。男の監獄に女は入れないのだろう。
しかし、その監獄の内部に若い娘マルツェリーネがいるというのは、どうしたわけだろう?看守の娘は監獄に住んでいるものなのだろうか?(それは嫌だ)
フィデリオに対するマルツェリーネの恋心というのは、「夫の救出の際に訪れた主人公の困難」としてはたして本当に必要なプロットなのだろうか?レオノーレは「これは困ったわ」でもなければ「ごめんなさいね」でもなく、ただ彼女に無関心なだけのように見えるけれど、どういう必然性があるのだろう?やりっぱなし?

バレエは言葉のない世界だから誰でも楽しめる、ということがよく言われるわけですが、本当なのでしょうか?
先日、親子向けのバレエ公演で《真夏の夜の夢》を見たのですが、無料配布されたあらすじを読んでさえも、物語がよく分からない。あのストーリーは子供でも分かったのだろうか?
そして、このあいだ《眠れる森の美女》を見ていて、「姫が寝ている間に100年が経ってしまった」という事実は、あらすじを読んだ人にしか分からないのではないかと思ったのです。舞台上に「100年後」を表すようなものは何もなかった。その公演では、姫が眠った後、目覚めるまでの間に休憩時間も設けられず、まるで翌朝にでも目覚めたかのようだった。これが浦島太郎だったら、海から戻って激変した世の中に驚くところなのに。
100年後に目が覚めたら知っている人が誰もおらず、周りは高層ビル群だった、なんていう「眠り」新演出はどこかで行われていないものでしょうか?

2018年5月22日 (火)

フィデリ夫

ベートーヴェン作曲の唯一のオペラ《フィデリオ》は、人妻が男性に変装して監獄に入り込み、政治犯として投獄されている夫を救い出す、という物語。その人妻というのが、スカートをはくと女で、ズボンをはくと男。カツラをかぶると男で、カツラを取ると女。その2種類しか変化がない。
という話をしたら、「オペラとはそういうもの」と諭されてしまいました。
もう少し男らしい仕草をするとか、男っぽい声を出すとか、しないものなのでしょうか?
オペラ歌手は何も演技をしていない・・・。

男装した人妻に恋をしてしまった若い女性の恋心の行方がいつも気になるのであった。彼女の恋が成就する演出はどこかで上演されていないものだろうか?

ブスッと腹を刺されて、「あっ、死んだ」と思ったら、死んでいなかった。「腹の肉が厚くて急所まで届かなかったのかな」と思ったのだけれど、そのまま死んだような、生きたような?

2018年5月21日 (月)

最近の驚き

税金の使い道は秘密ではなく、むしろ積極的に開示しなければならないと教えられてきましたので、これは書いてもいいと思うのですが、国立劇場の裏方さんの費用が公演のチケット代や貸し劇場の収入でまかなわれているのに対し、新国立劇場の裏方さんの人件費に税金があてられているのを知ってビックリしました・・・。
・・・・・・。

2018年5月20日 (日)

愚痴シリーズ

4月に人事異動があって、私の働く場所が変わったのです。
前のデスクは狭くてうるさくて暑くて寒くて汚くて、とても劣悪な環境だったので、今度は広くなって良かった~と思ったのです。
ところが、使う男性用トイレの小の水が流れない。ずっと壊れたままなのです。
まあ観劇のお客様が使うトイレではなく、事務所のトイレですから、小の水が流れなくても、仕方ないのかもしれない。個人的にはすごくイヤだけれど・・・。(転職を検討するレベル)

このあいだ東京国立博物館に行ったら、トイレの個室が1つ故障中だったのです。しばらくしてまた行ったら、また故障中だった。

新しいものばかり作りたがり、その一方ですでにある基本的な施設の維持が留守になり、全体を見渡せる人がおらず、日本の文化行政はもう終了しているのではないかと思う今日この頃です。

2018年5月19日 (土)

阿古屋の判決と胡弓の音色

今度Eテレで玉三郎さんが阿古屋の話をなさるそうですね。何をお話しするのでしょうか。楽しみです。

私が阿古屋の舞台を初めて生で見たのは、国立劇場開場30周年記念公演の時でした。この演目は長く6世中村歌右衛門だけが上演してきて、継承者がなく、このまま消滅してしまうのかなと思っていたところに、まるで夢のように奇跡的に玉三郎さんの初演が行われたのでした。(ご本人は長い間ずっと準備をなさっていたわけですが)
多くの歌舞伎ファンの期待も最高潮となり、チケットが完売で追加公演まで出て、それでも見られなかった人もいましたが、私は幸いにも見ることができました。その時、私はすでに働いていたものの、若くて貧乏だったので3階席で見るのが当然のことと思い込んでいて、その阿古屋も3階席から見ていました。阿古屋が花道を出てくる時の早く、一瞬でも早く阿古屋の姿を見たいという熱望と緊張感、「いっそ殺して」ときざはしに身を投げ出す時の、時間の感覚がねじ曲がったかのような信じられないくらい美しい完璧な運び、三曲の演奏を客席中が固唾を飲んで聞き入っている時のかすかな空調の雑音、3階から見下ろしていた舞台の様子を今でもはっきりと覚えています。こんなものが見られるなんて夢みたい、と思ったものでした。(今振り返ると、国立劇場の30周年は本当に豪華な公演でした)

しかしその時、私はこの作品のことをよく分かっていなかった。
芝居を観終わった後も、阿古屋は本当に景清の行方を知らなかったのかな、本当は知ってたんじゃないのかなと疑っていたのです。
玉三郎さんの阿古屋を見ていて、「景清のことをすごく愛している」ということは分かったのですが、「愛しているがゆえに知っているけれど知らないと言い張っている」「知らないと言い通すことが景清への愛」ということもあるんじゃないのかな、演じる阿古屋の愛が強いほどに、そんな疑いがずっと消えなかった。
その後、何度も何度も玉三郎さんの阿古屋を拝見し、いろいろな劇場で、そして念願の1等席でも見ましたが、その疑いはずっと消えなかった。

しかし重忠は阿古屋を可哀想と思って同情して解放してやるわけではなく、あくまで裁判官として、阿古屋が景清の行方を知らない事実を確信したから許してやるわけですよね。
私も何度も見ているうちに、阿古屋は景清の行方を本当に知らないんだって、確信したんです。重忠と同じように確信した。何年もかかって、やっとそういうことが分かるようになったんですね。そういうことが分かってから聞く胡弓の音は、玉三郎さんの演奏する胡弓の音は、もう本当にすごいですよ。宇宙とか、無常とかいうことを感じます。初役の時から何度も見て、何度も夢中になって、段階を踏んで、そのような心の状態にまで行ったというのは、本当に有り難いことでございました。

2018年5月17日 (木)

人事異動

4月1日付の人事異動で、別の部署へ移りました。
その前は国立劇場の編集企画室というところで4年間働いておりました。
国立劇場の主催公演のプログラムを編集する部署でした。
他に、国立劇場オリジナルグッズ作成などの仕事もありました。
自分で希望して配属された部署でした。
配属されたら絶対やりたいことがあったのです。
国立劇場の文楽公演のプログラムに出演者インタビューを導入したかった。
大阪のプログラムでは毎公演、出演者インタビューが掲載されているのに、東京のプログラムに掲載されないのが不思議でした。
でもやったら大変でした。技芸員が東京にいる期間はとても短く、そして東京にいる間に次回公演の配役がなかなか決まらない。
技芸員に取材できるインタビュアーもいない。
まあ何回か掲載できたので夢が叶いました。
それから文楽公演のプログラムにカラーページを導入したかった。さらに、詳しい作品解説を入れたかった。それも実現できました。

歌舞伎のプログラムは制約が多くて難しいですね。1人の出演者にだけ注目が集まるようなことはできませんし。文楽は基本的に毎回全員出演しますから、誰かが不満だったら「次はお願いします」って言えばいいんだもの。

でも好きな仕事でも、あんまり量が多いと嫌になっちゃいますよね。国立劇場開場50周年記念公演の時は本当に惨めな生活でした。もう退職しようかなと思いました。
それからやっぱり人間関係が煮詰まりますよね。全く仕事しない人とか、すごく威張ってる人と一緒に仕事をするのはとても嫌なことだもの。

嫌になってしまっても、「この仕事が永遠に続くわけでなし」と思えば耐えられる、ということはありますよね。これまでも2~3年に1度は異動がありましたから、もうすぐ異動かなと思うわけですからね。

でも、短期間で異動を繰り返すと、あまり専門的な仕事はできませんね。
私が編集の仕事をするのは2度目だったのですが、また編集の仕事をすると分かっていれば、もっと編集の専門的なことも勉強しておきたかったし、InDesignとかPhotoshopとか使えたらいいなと思いますが、使うんだか使わないんだか分からない技術の習得のために時間とお金を割けないですし、いざ編集に配属になったらそういうことを勉強する時間はなかった。新しい部署に配属されたらこれまでの全てがご破算になり、泥縄で必死に生きていく、という感じです。

歌舞伎、文楽など日本の伝統芸能は、平成時代は興行的にわりと成功していたのではないかと思います。でも、これから先は本当に厳しいですね。

2018年5月16日 (水)

《チェネレントラ》フェスティバルホール

このあいだの土曜日、大阪のフェスティバルホールで《チェネレントラ》を見てきました。
好きな演目なのです。
この演目は東京でも上演されたばかりですが、大阪では主役のチェネレントラがスカラ座に同役で出たことのある脇園彩さんで、オーケストラもプロのオーケストラなので、行くことにしたのでした。

「スカラ座に出たことがある日本人オペラ歌手」というのは、何人くらいいるものなのでしょうか。有名なのは林康子さんで、蝶々夫人役を筆頭に何度も出演していると思いますが、中島康晴さんが出演したのはスカラ座の公演だけれど劇場はアルチンボルディ劇場だった?そして若手公演だった?脇園彩さんが出たのは若手公演の短縮版だった?
よく分からない。
スカラ座の上演記録をネットで調べれば分かるのかもしれない。
スカラ座に出たら、日本でももっと話題になっていいような気がしますが・・・。

フェスティバルホールは、去年グルベローヴァのルチアを聞いて「いい音響だなあ」と思ったのですが、今回《チェネレントラ》を聞いたらオケの音がこもっている感じでイマイチでした。歌手の声もあまり響いていないようでした。オケピットがすごく深く掘られていました。今回、私はかなり前のほうの席で見たので、座席の位置が《ルチア》の時と違っていて、聞こえ方が異なっていたのかもしれません。

脇園さんはちょっと不調だったようですが、テノールの小堀さんは絶好調で、喝采を浴びていました!

よもやま

テレビ番組で以前、坂東玉三郎さんと松任谷由実さんが対談していたのです。
お2人はバブル時代の舞台というものを自身で体現し、また世界的に好景気だった頃の優れた興行というものもいろいろご存じなのです。玉三郎さんが、世界的に経済が低迷してきていて昔のような華やかな舞台はもう2度と見られないと思って寂しい、というようなことを仰いますと、ユーミンは、

例えば大震災の後には、牛乳パックに活けたタンポポの花でも美しいと思ったりすることがあった。何気ないものをキラキラ輝く美しいものに変えるのが私たち芸術家の仕事だと思う、

というような話をされていました。
そのように言われますと、私たち日本人は「簡素な美しさ」とか「お金がなくても美しく」ということがもともと得意なのではないかという気もするのです。

最近、さまざまな場所で、池や噴水の水が止められているのを目にします。造った時には維持できると思ったものが、時代を経て維持できなくなってしまったのですね。
それは読みが甘かったわけですが、仕方のないことですから諦めなくてはいけません。水が止まっても見た目に不自然でないような手を早急に打つことが大事。
貧しいのは別に恥ずかしいことではありません。
逆に、貧しいのに借金して金を使ってしまうのは恥ずかしいことです。

政治がこのような状況になっても、まだ安倍内閣を支持する人が3~4割いると言われます。あのようなみっともない不正内閣を支持する人がなぜそれほど多く存在するのか?
私の職場のことで言えば、民主党政権時代は「事業仕分け」によって他団体と合併しそうになったり、現実に人員を削られたりしました。ところが自民党に戻ったら職場にすごく人が増えました。高齢者採用とか有期の事務員とかアルバイトの人々が。でもそれは国の借金によって雇われているのだと思うのです。かと言ってその人々を削られると事業が回らないのです。

お金はないけれど今までと同じ水準の仕事を維持しろ、というのは無理な話です。
「お金があるからこそ始めたこと」を削っていけばいいと思うのです。
「バブルだったから始めたこと」をやめればいいと思います。
「一旦始めたものはやめられない」というのでは今後の社会が成り立ちません。
やめる順番を適切に判断できる人というのが現在求められているリーダーなのではないでしょうか?

2018年5月14日 (月)

狂言「釣狐」

先週11日(金)に、大阪の大槻能楽堂で、狂言「釣狐」を見ることができました。
長い間ずっと見たいと思っていたのですが、上演頻度が極端に低く、これまで見る機会がありませんでした。私が能楽を見始めてから野村太一郎さんが1度なさったと思いますが、その時は見られませんでした。く、悔しい、しょぼん・・・。
しかし、ついに!「釣狐」を見る機会が私にもやっと訪れたのです。しかもすごい良い席でした。ちゃんと生きてこの日を迎えられるのかなと思ってドキドキしてしまいました。

「釣狐」にしても「花子」にしても、有名な人気曲なのに見る機会がなくて、もっと頻繁に上演すればいいのにと思っていたのですが、今回にしても稀曲なればこそ遠くまで見に行ったわけですし、長い人生の後ろのほうに、そのような新鮮なときめきがまだ残されているのも悪くないと考え直しました。
そして茂山逸平さんの「釣狐」は本当に素晴らしかった。感激しました。

能舞台って、座席の位置によって舞台の見え方が全然違ってくると思いますが、今回私が見た席は、目の前に狐の罠が仕掛けられ、餌を取ろうか迷う狐の向こうに猟師の顔が見えるという、最高の位置でした。他の席の人はちゃんと見えていたのかな?私はこういう種類の幸運のために他の種類の幸運を全て使ってしまっているのではないかと思うくらい絶好の席でした。でもやっぱり今回も隣の席のおじさんは気持ち悪かったけれど・・・。

能楽師や狂言師は、演じながら、どの席から見ると自分がどう見えるのか、180度くらい把握しているのでしょうかねえ?
私が能楽を見るのは、ほとんどいつも正面席からなのですが、「鵺」とか「殺生石」が脇正面から見るとどう見えるのか、ちょっと分からないんですよね。1度見たいと思っているんですけれども。
「離見の見」って、どういう状態を言うのだろう?

花道に立った歌舞伎俳優は360度全方位に向けて美しくないといけない、そういうことを考えて形を組み立てないといけない、というようなことを前の芝翫さんが何かの本に書いていらっしゃいました。

来月は逸平さんの「花子」が見られる予定。無事であれば。

2018年5月 9日 (水)

つぶやき

●前回のマリア・カラス《メデア》の話の続きですが、歌手が歌う「メデア」の「メ」にオケの和音を合わせるのだったら難しいだろうけれど、「メデア」の「デ」に合わせるのだったらすぐにできそうに思えますけどねえ。指揮者が棒を振らないと楽団員は演奏できないものなのでしょうか?ちょっと不思議ですね。

●チケット予約のサイトで「カンフェティ」ってあるじゃないですか。何語なのだろう?アクセントが分からなくて。人によって全然違うふうに発音されますね。
カンフェティのトップページを見ていたら、上のほうに「一生分のチケットが当たる」と書かれていました。何!?そんなすごいことが本当にあるの?と思ってよく見てみたら、カンフェティカードの新規入会キャンペーンとして10万円相当のポイントがつくということらしい。なぜ10万円が一生分なのか、積算の根拠も出ていましたが、10万円では私の観劇の1年分にもなりゃしない、1か月で使ってしまうこともありますよ。
自分がこれから先に見る舞台のチケットが全てタダになる素敵な夢を一瞬だけ見てしまいました。

2018年5月 7日 (月)

わたし?メデアよ!

長年ほしいと思い続けていた念願の本をついに先ごろ手に入れたのです。
面白いエピソードが書かれていたのでご紹介いたします。マリア・カラスがケルビーニ作曲の《メデア》を再演した時の逸話です。

『カラス、その人と芸術』(主婦の友社)より
指揮者は新たにトマス・シッパースがケルビーニのスコアに対した。メデアの神秘的な第一幕登場のリハーサルで、カラスとシッパースに問題が持ち上がった。「メデアが顔をヴェールでおおって到着するとき、コリント人たちは混乱に陥っています」とシッパースは説明する。「彼女が顔を見せて『わたし?メデアよ!』と言うまで誰も分かりません。指揮台からそのカラスが立っていた舞台奥まで距離がありすぎて、私たちの最初の二拍は合いそうもなかったのです。オーケストラは”メデア”の”デ”に一つの和音を演奏しなければなりませんでした。そのほかにはなにもなくて。しかしそれがいつでもずれました。マリアは『それは簡単です。私が”わたし?”と歌って、私の顔を見せる間あなたは二、三、四と数えてその和音を出せばいいのよ』と言いました。しかしテンポが記されていない、その休符の間、私の二、三、四と彼女のが同じになることはありません。彼女のタイミングは劇的で、彼女が感じたものでした。結局、私は、彼女が入るとき私にその気配を示すか、私の拍子から彼女がヴェールをとるか、どちらかにしませんかと提案をしました。それからもう何回かやってみて、彼女は私に従うのが一番いいと決めました。」
p186

なかなか興味深い話ですね。
ところでカラスがメデア役を初めて歌った時の指揮者ヴィットリオ・グイ(1953年5月フィレンツェ)や、この演目でカラスと初共演したレナード・バーンスタイン(1953年12月ミラノ)は、どうやって”メデア”の”デ”を合わせたのだろう?それは簡単です??

観世会定期能5月

観世会の定期能を見てきました~。

観世の定期能はむかし3番だったのが2番になってしまいましたが、3番上演するとあいだに昼食を挟むことになり、新しい観世能楽堂は食事をする空間がないので、物理的に無理な感じですね。思い返せば松濤は良き時代でありました。

『朝長』が名演でした!出演者が揃っていて素晴らしかった。やはり能というものは名作を名演として上演する責務があるわけですが、こんなのがいつまで見られるのかなと思って切なくなりました。

朝長は実在の人物ですが、膝を矢で射貫かれたというくらいしか逸話がなく、他の英雄豪傑に比べて個性が弱いと感じますが、それにもかかわらず人の心を引き寄せるのは、彼の最期の言葉、「ただ返す返す御先途をも見届け申さで、かやうになりゆき候ふ事、さこそ言いかひなき者とおぼしめされ候はんずれども、路次にて敵に逢ふならば、雑兵の手にかからん事、あまりに口惜しう候へば、これにてお暇賜はらん」、この健気さによるものではないでしょうか。
前シテの青墓の長者が、この朝長最期の言葉を口にする時、にわかに朝長が長者に乗り移ったかのような、はたまた長者の心が朝長に乗り移ったかのような、得も言われぬ不思議な声の変化が起こり、舞台の緊張が頂点に達しようとしたところ、私の隣の席の婆さんが急に飴玉のビニール袋をビリビリと破り始め、咳が出始めたら飴を食べても良いと思っているらしいけれど、私は許しません。咳が出てしまうのは仕方がないから許すけれど飴は仕方なくないから許さないです。見所は飲食禁止です。

今回、『朝長』を拝見していて、「死の縁」という言葉が特に心に残りました。朝長の死があったから出会ったシテとワキ。そして私たち観客。
この『朝長』という名作は作者不詳だそうですが、成立してから今日までのあいだに、一体何人の人が父や母のような気持ちになって朝長の死を悼んだことでしょうか。
私が死んでも誰も気に留めないと思いますが、朝長は大勢に弔ってもらえて、すごいですねえ。
いいなあ本当の観音懺法。

2018年5月 6日 (日)

つぶやき

先日、バレエの公演を見に行ったのです。
隣の席に、見るからにバレエを習っているっぽい少女が座っていたのですね。
その少女が客席で何と靴を脱いで、かかとを椅子の上に乗せたりしてバレエを見ていたのです。
この子はまあ、バレエは習うのに行儀は習わないのかと思って、むかし歌舞伎座の客席で靴を脱いでしまう田舎のおばあさんとかいましたけども、そういうのはだいぶ少なくなったので、ちょっとビックリでした。

2018年5月 5日 (土)

親子の会話シリーズ

《白鳥の湖》を見終えた親子の会話

子供「ねえ、お母さん」
母親「何?」
子供「オデットとオディールって、同じ人が踊ってた?」
母親「そうよ」
子供「衣裳が違うだけ?」
母親「まあ、そうね」
子供「オデットとオディールは全く同じ顔なの?」
母親「そうなんじゃないの?」
子供「オディールは黒鳥がオデットに化けたものなの?」
母親「そうね」
子供「オデットに化けているのにどうして鳥みたいに踊るの?オデットは鳥なの?」
母親「オデットは人間よ」
子供「オディールは鳥なの?」
母親「オディールは鳥なんじゃないの?」
子供「王子は人間を愛したの?鳥を愛したの?」
母親「もちろん人間よ」
子供「王子はオディールをオデットだと思って愛したの?それともオデットに似た別の人だけどいいやと思って愛したの?」
母親「オデットだと思い込んでたんじゃないの?」
子供「オデットだと思っていたんならオデットが好きなんだから2人にとって何も問題ないんじゃないかと思うんだけど」
母親「でも別の人に永遠の愛を誓ってしまったのよ?」
子供「別の人じゃなかったわけでしょう?」
母親「でも目の前の別な人に誓っちゃったのよ」
子供「それは間違いだったってこと?」
母親「そうね」
子供「先のことは誰にも分からないのにどうしていま永遠の愛を誓ってしまうの?」
母親「その時は永遠だって思ったのよ」
子供「永遠の愛を誓うと何かいいことがあるの?」
母親「(子供って、どうしてこんなに面倒くさいのかしら・・・)」

※家に帰るまで続く

すぐに右クリック!

新国立劇場のホームページって、どうして右クリックができないようになっているのでしょうかねえ。画像は著作権の都合でコピーできないのだろうと理解するのですが、テキストは関係ないのでは?
たとえば「この歌手どんな人だろう?」という時、自分でその名前を打ち直して検索しなくちゃいけないなんて、どうしてなのでしょう?
せっかくインターネットなのに、広がりがないと言うか、意味が分からない。

三代能

咲いた桜に雨が降るのは、雨に心がないせいでしょうか。それとも雨に心があるせいでしょうか。

今年1月・2月の歌舞伎座で白鸚、幸四郎、染五郎の三代同時襲名がありましたが、能楽の世界では5月3日に「三代能」という公演があり、喜之、喜正、和歌という親、子、孫が出演して、襲名ではありませんが、孫の和歌さん(7歳)の初シテでした。
昭和50年4月に、1つ前の「三代能」で喜正さんが初シテを同じ曲(『合浦』)で勤めたのだそうです(4歳)。
私は1つ前は見ておらず、また次があったとしても見られないと思いますが、今回たいへん珍しいものを拝見し、ご同慶の至りでございます。

43年前の「三代能」で上演した3曲、すなわち『鷺』『熊野』『合浦』が今回も上演されました。
最近は観世の定期も2番になってしまいましたが、昔の定期は3番の能が上演されていました。3番だからこそ分かること、組み合わせの妙というものがありました。その曲の詞章だけを何回読んでいても分からない事柄が、他の曲を見ているうちに分かる、というような不思議な体験がたびたびあったのです。
今回、『鷺』と『合浦』は、「捕まえた動物を放してやる」という内容だったわけですが、『熊野』だって「自分が拘束していた女を自由にしてやる」という点で共通性があるなあと思ったのです。
『熊野』ってどこか物悲しい話だと思っていましたが、けっこう晴れやかな能なのかもしれないと新鮮に感じました。それも、このような番組だったからこそ感じたことでした。

ところで『鷺』という曲は、「鷺を五位に叙してやる」という内容だと思い込んでいたのですが、それはあくまでもオマケで、「六位の蔵人を五位に叙す」という話だったんですね。
鷺は人間が近づいていったら100%飛んで逃げますよね。それを捕まえた蔵人はすごい人ですね。
って言うかそんな無理な注文をよく部下に命令しますよね・・・。
「誰にても取りて参れ(誰でもいいから取ってこい)」
それを言われたのは大臣なのだけれど、大臣は自分ではやらない。
ワキツレがやたら大勢出ているのだけれど、一番下っ端の六位の蔵人がやる羽目になるんですね。誰でもいいことは蔵人が。
「様々の御咸のあまり爵を賜び」
王はそれを見て何を感じたのだろう?
鷺を取ってこなければならない蔵人の悲哀を感じただろうか?

『合浦』を見ていて、この曲に登場する鮫人は、もともと女の子という設定なのかなと思いました。「我妹子が」「龍女は如意の宝珠を」という詞章からも、そう感じられます。和歌さんの初シテにぴったりの曲でしたね。

なぜ王は鷺を捕まえようと思ったのか。
なぜ人は生き物を捕まえようと思うのか。
その執着と権力について、思いをめぐらす公演でした。

2018年5月 4日 (金)

歌手はA、オケはB

ここ数年、国内オペラの上演で、歌手の歌とオケの演奏のテンポが激しくズレる、という事象が見受けられます。私がオペラを見始めたのは平成9年からですが、前はそういうことはなかったと思うのです。歌手はAというテンポでしか歌えない、オケはBというテンポでしか演奏できない、歌い出した途端に「あっ、AとBが噛み合わない!」と分かり、曲が進むにつれてズレが激しくなっていく。オケの音が舞台上の歌手に聞こえていないのでは?といぶかるくらいにズレていく。でもそれは一部の歌手だけで、ほとんどの歌手はオケと同じテンポで歌えている。
歌手はずっと大声で歌っているから、年を取ると耳が他の人より遠くなるのでしょうか・・・?
ポップス歌手だと、コンサートの時に舞台上で、イヤホンを使ってバンド演奏(と言うかドンカマ?)を聞いている人も多いようですが・・・。
劇場の音響というものは、客席の観客にどう聞こえるかという視点で設計されているわけですが、舞台上の出演者に聞こえるように公演ごとに工夫することを「返し」などと呼ぶ。
「私だけオケの音が聞こえていないんです」なんて歌手のほうからは言えないわけですし、「返し」の設計は指揮者の責任なのではないかと私は思うのです。そしてイヤホンを使う方法でも全然かまわないと思う。

2018年5月 2日 (水)

つぶやき

4月に国立劇場の理事長が新しい方に変わられたのですが、52年目にして初めて?女性の理事長なんです。新国立劇場では女性が理事長だったことがありましたが・・・。

私が就職した平成7年は、同期6人が全員男性だったのですが、その後すぐに男女半々くらいの採用になり、今では女性のほうが多く採用されていますね。女性のほうが受験者が多いんですよね。そりゃそうですよね。歌舞伎も観客は女性のほうが圧倒的に多いですもんね。やってるのは男性ですけどね。

国立劇場ホームページの英語版サイトは全くなっていないとか、
国立劇場のチケット売場の出入口は客の導線が混乱しているので早く改めなくてはいけないとか、
国立劇場大劇場の3階最後列は成人男性が座れないほど狭いので改修が必要とか、
国立劇場客席内の椅子・絨毯は経年劣化が激しすぎるとか、
国立劇場の食堂の内装・調度品は前時代的で今に通用しないとか、
国立劇場の会報にカラーページが1ページもないのはおかしいとか、
国立劇場ホームページの公演予定は主催公演も貸し劇場公演も発表があまりに遅すぎるとか、
国立劇場の公演ちらしの配布方法には一考を要するとか、
国立劇場は研修生募集の告知が遅すぎるとか、
細やかな神経でいろいろと細かいことにもお気づきになってどんどん改革してくださるといいですね。

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