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2018年8月

2018年8月30日 (木)

オペラの映像

私がオペラに興味を持ったのは、平成9年(1997)のことでした。新国立劇場が開場した年です。意識的にオペラに接してみようと心がけていたのですが、先に歌舞伎にハマっていてそちらのほうが優先でしたし、落語は格段に安価で確実に楽しめることがすでに分かっている。オペラなんて面白いのかどうかも分からないような舞台に何千円も払うことには躊躇いがありました、ええ。
そこで重要となってくるのが「オペラの映像」です。当時は、ビデオカセット(VHS)、レーザーディスク(LD)、DVDの3つが同時に各家庭で使われており、LDからVHSへはダビングも可能、という状態でした。オペラの映像もこの3つが同時に売られていて、VHSは新譜も出るバリバリの現役、DVDは世間に浸透し始めた走りの時期でした。
そうして《蝶々夫人》が見たい場合はカラヤン指揮フレーニ&ドミンゴ、
《リゴレット》が見たい場合はパヴァロッティ&グルベローヴァ、
《トゥーランドット》ならゼッフィレッリ演出マルトン&ドミンゴ、
《フィガロの結婚》ならフレーニ&プライ、
というように、各演目に絶対に見ておくべき定番が1つあり(全員・必ず見ていた)、
《椿姫》《カルメン》《ラ・ボエーム》《トスカ》のような超人気演目には定番のほかに「次に見るならこれ」というセカンドチョイスがあり、
「最近ゲオルギューという新星が現れたんだってさ」というような最新の話題作があった。
新しいオペラ映像が発売されることは1つの事件なのであった。
そして「今度、この演目が見たいんだけれど」とお願いするとその映像を貸してくれるオペラの先達が周りにいたり、
オペラ映像はたいてい1本3000円だったから絶対に欲しい映像は貧乏ながらも自分で購入したり、
というような感じでした。
つまり、それほどお金をかけなくても、有名な演目を一通り見ることができたのです。
そして私はマリア・カラスのファンでしたから、カラスのCD何十枚セットというのを購入し、それには珍しい演目も含まれていましたが、珍しい演目というのは少しずつ段階を経て時間をかけて全貌が判明していき、その過程もまた楽しく味わい深い経験でありました。

ところが今、皆さまご存じのように、そういった環境は激変しています。
インターネットでいくらでもオペラの映像を見られるようになってはいますが、それらにはたいてい日本語字幕が付いていない。何度も見た演目ならば字幕がなくても見るけれど、初めて見る人は日本語字幕がない映像は見ないでしょう絶対に。
そしてDVDは昔よりもたくさん販売されていて、同じ演目で何種類も手に入りますけれども、意外と日本語字幕が付いていないんですね。さらに値段が驚くほど高価になっていて、日本語字幕付きのものは1本6000円くらいだったりします。定番だったはずの映像が手に入らなくなっているケースもあります。
このような環境では、日本人の新しいオペラファンはなかなか出てこないのではないかと危惧するわけなのです。

先日、新国立劇場で《トスカ》が上演されました。その舞台を見た職場の若い者に、マリア・カラスの《トスカ》第2幕の映像を貸してあげたのです。私が持っていたそのDVDには日本語字幕が付いていなかったのですが、舞台で《トスカ》を見たばかりだから、まあ分かるだろうと思って、むりやり「見て見てお願い」と私が押し付けたわけなのですが、その若い者は「ああ英語字幕が付いてるなら大丈夫です」と言ってのけた。
これから先は、ハイパーな若者が日本でオペラを楽しむ時代なのかもしれない・・・。

2018年8月28日 (火)

南無阿弥陀仏の意味

9月・10月に歌舞伎で「俊寛」が上演されますので、内容を理解するための参考として、むかし書いた記事を再掲しておきます。「俊寛」が上演されるたびに再掲しようと思っているのです。



日本人ならば、ほとんどの人が「南無阿弥陀仏」という言葉を知っているでしょう。しかし、「南無阿弥陀仏」の意味を知っている人は、意外と少ないのではないでしょうか。私も意味など知らずにいたのですが、去年はっきり分かりましたので、誠に僭越ながらここで分かりやすく解説させていただこうと思います。信仰する・しないは別にして、知識として持っていて良いと思うんですよ。

(記述が間違っていても怒らないで!)

仏教は、2千数百年前の古代インドで生まれた宗教です。ゴータマ・シッダールタという王子が、29歳で出家して、35歳で悟りを開き、80歳で死ぬまで教えを説きました。人間が悟りを開くと仏になります。「悟りを開く」「仏になる」とは、端的に言えば「もう苦しまなくて良くなった」という状態であると思います。ゴータマ・シッダールタは、悟りを開いて「釈迦如来〔しゃかにょらい〕」という仏になりました。

如来=仏

その教えをまとめたのが「お経」ですが、当時は紙も筆もなかったので、お釈迦様の直筆のお経は存在しません。「こういうふうに考えれば、もう苦しまなくていいんですよ」というお釈迦様の話を聞いていた人たち、仏の弟子たちが、教えを語り継ぎ、いつしか文字となっていきました。ですから多くのお経が「如是我聞〔にょぜがもん〕」=「私が聞いたところでは、●●だそうでございます」という言葉で始まります。

お経は、古代インドの言葉「サンスクリット語(梵語)」で書かれています。これが中国語に翻訳されて、日本に入ってきました。サンスクリット語を中国語に翻訳するとき、大きく分けて2通りの方法があります。

例えばelephantという英単語を日本語に訳すとき、
①象(意味を訳す)
②エレファント(音を写す)
という2通りの方法があります。それと同じ。

最もよく知られたお経に「般若心経〔はんにゃしんぎょう〕」がありますが、これはほとんどの言葉が①の方法で中国語に翻訳されています。ところが最後の「羯諦羯諦波羅羯諦〔ぎゃていぎゃていはらぎゃてい〕」以下の部分は、②の方法で翻訳されているんですね。サンスクリット語の音を漢字で写し取っただけ。ですから中国語を知っているだけでは理解できないんです。

音を写しただけの②の方法では、翻訳になっていないのではないか?と不思議に思う方もいるでしょう。サンスクリット語を知らないと理解できないのでは、翻訳の意味がありませんからね。This is a pen.をジス イズ ア ペンと訳したら、テストで点は取れないでしょう。

しかし、全ての言葉を外国語に翻訳するのは、なかなか難しいことです。日本語にも、他国の言語に翻訳できないものがあります。
・唐衣 きつつなれにし つましあれば はるばるきぬる 旅をしぞ思ふ(在原業平)
・花の色は 移りにけりな いたづらに 我が身世にふる ながめせしまに(小野小町)

上記の和歌は、外国語に翻訳することは出来ません。和歌には、掛詞〔かけことば〕、縁語〔えんご〕、折句〔おりく〕などの技法があります。その技法を、英語で説明することは出来るでしょうけれど、英語に翻訳することは出来ません。日本語でないと表現できないのです。そういう種類の言葉が存在するのです。

「南無阿弥陀仏」は、②の「音を写す」方法によって中国語に翻訳された言葉です。「南」は「ナ」という音を表しているだけで、southという意味はありません。「無」は「ム」という音を表しているだけで、nothingという意味はありません。

「南無阿弥陀仏」をあえて①の方法で翻訳すると、「帰命無量寿覚〔きみょうむりょうじゅかく〕」となるそうです。「帰命」は「私は●●を信仰します」「信じます」「頼ります」という意味。「無量寿」は、時間も距離も超えて、届かぬ場所のない光、遮るもののない光、という意味。「覚」は、悟りを開いた存在、仏です。

釈迦如来は実在した人物ですが、阿弥陀如来は実在の人物ではありません。観念上の、頭の中だけの存在。そうすると、「なぜ実在しないものを信仰しなければいけないのか?」と疑問に思う人がいると思います。しかし、考えてみてください。そもそも信仰とは何でしょうか?自分より優れたものの存在を信じ、仰ぎ、自分もそれに近づこうとすることでしょう。仏というのは、人間の理想形、最終形、ゴールであります。人間には目標が必要なんです。鹿の赤ちゃんは、生まれたその日に立ち上がって歩き出します。しかし人間の赤ちゃんは、食べられないものを口に入れてしまうほどのお馬鹿さんで生まれてくる。教えてあげないと何も出来ない。これは食べられます、これは食べられません。このバナナは腐っているように見えますが、実は今が1番おいしい時です。目玉焼きの焼き方には、このような種類があります。これは善いことです、これは悪いことです。何か指針が必要なのです。

目標とする人間、理想の人間とは、どのような人物か?たとえばプロゴルファーを目指している若者の中には、タイガー・ウッズを目標にしていた人もいたでしょう。けれど、「やっぱりウッズみたいな浮気ジジイは目標じゃないな」と思い直した人もいたのではないですか。つまり人間は一部分しか見えないのですし、裏側は理想的じゃないかもしれません。突然転落してしまうスターが大勢いますね。オペラ歌手を目指している若者の中には、マリア・カラスを目標にしている人もいるでしょう。けれど、同じ日のライヴ録音であっても、EMIレーベルとMYTOレーベルとでは全く音が違うでしょう。劇場で生で聞いたら、もっと違う声だったでしょう。エディンバラのキャンセルの理由は、本によって書いてあることが異なり、本当の理由はさっぱり分からない。誕生日も12月2日説と12月4日説があります。ほんの数十年前に生まれた人でさえ、もう変容している。実物のマリア・カラスは誰にも把握できない。イチローを目標にしている若者もいるでしょうが、私は芥子粒ほどもイチローに興味がありません。イチローを目標にしている人は何パーセントいるのでしょうか?選挙で公正に選んだ国会議員でさえ、支持率30パーセントくらいだったりするものでしょう。そして必ずアンチがいる。時代を超え、場所を超え、全ての人が「なるほど、それは人間の理想形に違いない」と思うような存在は、架空の存在、概念上の存在であって良い。いえ、概念上の存在でなければならぬ、とさえ思います。

仏教では、人間の成長の段階がいくつかに分けられています。
居士〔こじ〕→僧侶〔そうりょ〕→菩薩〔ぼさつ〕→如来〔にょらい〕
如来がゴールです。ゴールは1つではありません。複数の如来がいます。
まず私たちのような何も知らない者が、仏教のことを知ろうと思って勉強すると「居士」と言われる存在になります。さらに出家して修行を始めると「僧侶」になります。僧侶が「菩薩」になるためには、六波羅蜜〔ろくはらみつ〕という6つの行いをしなければなりません。六波羅蜜の行〔ぎょう〕とは、
・布施〔ふせ〕見返りを期待せず、自分のものを他人に与えること
・持戒〔じかい〕仏教の戒律を守ること
・忍辱〔にんにく〕理不尽な出来事を辛抱すること
・精進〔しょうじん〕善い行いに努め励むこと
・禅定〔ぜんじょう〕写経や座禅をして心を穏やかに保つこと
・智慧〔ちえ〕物事を正しく判断すること
禅定まで5つを行じると、おまけとして智慧がもらえるそうです。この6つの修行を積むと誰でも菩薩になれます。
さらに菩薩が「如来」になるためには、「四弘誓願〔しぐぜいがん〕」という4つの誓いを立て、それらを実行しなければなりません。
・無数の衆生を度せんとする誓願
・無辺の煩悩を断ぜんとする誓願
・無尽の法門を知らんとする誓願
・無上の菩提を証らんとする誓願

これら4つの誓願は、全ての仏に共通の誓いです。阿弥陀如来は、これら4つの誓願のほかに、48の誓願をお立てになりました。共通の4つの誓願とは別の誓いであるから「別願〔べつがん〕」とも言い、また阿弥陀如来にとってはこちらのほうが大切なので「本願〔ほんがん〕」とも言います。本願が、阿弥陀如来を阿弥陀如来たらしめている特色であり、阿弥陀如来そのものであると言って良いでしょう。48のうち、分けても18番目の誓いが重要で、特別に扱われています。歌舞伎十八番の「十八」も、ここから来ているのではないかという説を聞いたことがあります。
その18番目の誓いとは、
「たとえ、我れ仏を得たらんに、十方の衆生、至心に信楽〔しんぎょう〕して、我が国に生れんと欲して、ないし十念せんに、もし生れずんば、正覚〔しょうがく〕を取らじ。ただ五逆〔ごぎゃく〕と、正法〔しょうぼう〕を誹謗〔ひぼう〕せんとをば除く」
というものです。
これを現代語に訳すと、
「修行の末、たとえ私が、もう苦しまなくていい幸せな存在になれると言われたとしても、他の人々が苦しんでいるのであれば、私はそんな存在にはならない。他の人々と一緒でなければ、私は仏にはならない。極楽浄土に行きたいと思う人、あるいは10回でも念仏を唱える人を、私は必ず救ってみせます。ただし、人を殺したり、仏教を信じない人のことは知らないけれど」
という感じでしょうか。
阿弥陀如来は、法蔵菩薩〔ほうぞうぼさつ〕という菩薩だったころに、48の誓いをお立てになりました。
「自分だけ幸せになるんだったら、その幸せはいらない」この誓いを理想と思わない人がいるでしょうか。そのような誓いを立てる人こそ、人間の理想形、最終形と言えるのではないでしょうか。

しかれば諸仏の御誓い、いずれ勝劣なけれども、超世の悲願あまねき影、弥陀光明に如くはなし。
能『姨捨』より


悟りを開く方法はいろいろあるのですが、1番簡単なのが「南無阿弥陀仏」と唱えること。1番簡単であるがゆえに、修行をしている人々からは軽んじられている面もありました。しかし、「1番簡単であるがゆえに1番尊い」という大転換が起こります。ただ「南無阿弥陀仏」と唱えることしかできないような民衆、飢饉や疫病に苦しんでいる、字も読めないような無学な民衆こそ、真っ先に救われるべきである。なぜなら理想の存在である阿弥陀如来はそれを望んでいるに違いないからです。「南無阿弥陀仏」という言葉はインドからやって来ましたが、この価値の転換は鎌倉時代の日本で起こり、ここに法然〔ほうねん〕が浄土宗〔じょうどしゅう〕という宗派を起こします。

僧侶の修行は厳しいもので、難しいお経の研究はもちろん、食事や恋愛についても細かい戒律があり、民衆にはとても望めない。法然上人は、何とか民衆を救う方法はないかと考えました。それで、阿弥陀如来が「全員を救わぬうちは仏にならない」と誓ったわけですから、阿弥陀如来に助けてもらっちゃいましょう。仏の境地まで自分の足で歩いて行くのは大変だけれど、みんなで船に乗ってラクラク極楽浄土まで、向こう岸まで連れて行ってもらいましょう。だって阿弥陀如来様ご自身がそう仰っているのですから。

これが「他力〔たりき〕」という考え方です。阿弥陀如来様は、私たちを救うために走り回ってくださっているのです。全員で船に乗って助けてもらっちゃいましょう、ということです。

俊寛が乗るは弘誓の船、浮世の船には望みなし。
文楽『平家女護島』より


ここで注意していただきたいのですが、阿弥陀如来は、はるか昔に仏になっています。お経にそう書いてあるんです。なるほど、そのような理想の人物であれば、仏になっていないはずがありません。つまり私たちが救われるのは、生まれる前から決まっていることなのです。全ての命は救われる約束になっている。「決定往生〔けつじょうおうじょう〕」と言います。

「南無阿弥陀仏」と唱えれば極楽へ行けます、という法然上人の教えは、民衆から熱狂的に受け入れられました。しかし、旧来の宗派から「そんな自堕落な宗教があるものか」と厳しい弾圧を受けます。法然上人ご自身は、旧来の戒律を厳格に守る方だったそうです。他人には寛容だったけれど、自分には厳しい人でした。戒律に意味を見出していたわけです。戒律を捨てなかった。一方、法然の弟子の親鸞〔しんらん〕は、戒律の守れない人で、妻帯者でした。自分のことを駄目な人間だと思っていました。親鸞は法然と違って、駄目な側の人間だったのです。しかし、1番駄目な自分をこそ、阿弥陀如来は真っ先に助けてくださるに違いない。理想の存在ならば、極楽から1番遠くで苦しんでいる私を見捨てるはずがない。私こそが仏の正客〔しょうきゃく〕である。ここに親鸞が浄土真宗〔じょうどしんしゅう〕を起こします。浄土真宗では、阿弥陀如来のことを「お真向き様」と呼びます。1番駄目な私のほうを向いてくださっている仏様だからです。

時宗〔じしゅう〕を起こした一遍〔いっぺん〕は、「南無阿弥陀仏」の六字を広めるために、全国を歩き回りました。遊行〔ゆぎょう〕と言って、自分の本拠地となる寺を持たず、ずっと旅暮らし。「南無阿弥陀仏」の他には何もいらぬと、自分の書いた本も燃やしてしまったので、あまり大きな宗派にはなりませんでした。しかし、「南無阿弥陀仏」の六字は一遍上人に至って究極の南無阿弥陀仏となった、行きつくところまで昇華された、と言われています。自分で何かが出来ると思ってはいけない。絶対他力。他の修行はいらない。私が南無阿弥陀仏であり、南無阿弥陀仏が私である。

現代の日本人は、無宗教だと言われます。特に地下鉄サリン事件以降、宗教と言えば何か怪しいものなのではないかという雰囲気さえあるように思います。しかし、信仰を持っていない人のほうがよほど怖いと思いませんか?何をするか分からないではありませんか。善悪を誰に教わったのでしょう。学校では善悪を教えません。国語、算数、理科、社会、体育、音楽、美術、技術、家庭、ものの善悪を教える教科があるでしょうか?高学歴の悪人だって大勢います。毎日、迷惑メールがたくさん届くでしょう?おかしなセールスの電話がかかってきませんか?そういうことをしている人が、実際にたくさんいます。他人を騙して金を儲けようと思っている人とか。人間は、いくらでも悪人になれます。そしらぬ顔をして、身の回りにいるんですよ。

昨今の政治の混迷、マスコミの騒乱を見ておりますと、何て愚かしいのだろうと思う。身近な場所で再び戦争が起こるのかもしれない。人間は本当に賢いのだろうか?

先に「教えてあげないと人間は何も出来ない」と書きましたが、去年12月に文楽の『本朝廿四孝〔ほんちょうにじゅうしこう〕』を見ていて、そうじゃないなと思いました。人間には、誰からも教えられずとも、本来持っている美がありますよね。
お種…我が子の命を助けようとする母親の心
横蔵…生きるか死ぬかという場面になったときに、生きるほうをつかみ取り、自分の命を自分の信じる何かの役に立てようとする心
八重垣姫…好きな人と添いたい、好きな人を何とかして守りたいと思う心

『本朝廿四孝』の登場人物って、親が言っていることとは別の行動を取っていて、これのどこが孝行なんだろう?と思いますが、たとえ親の教えとは違うことをしていても、自分が本来持っている美を輝かせることが出来たなら、それで充分、孝行と言えるのではないでしょうか。

同じ羽色の鳥翼、人目にそれと分からねど、親と呼び、また夫鳥と呼ぶは生ある習いぞや。
文楽『本朝廿四孝』より


そのような、人間が本来持っている美の中の1つに、阿弥陀如来を理想と感じる心が入っているのではないかと思う。「自分だけ幸せになるんだったら、その幸せはいらない」って言葉を聞いたら、誰でも「それは人間の理想には違いないな」と思うのではないでしょうか。力及ばず自分には実行できなかったとしても、「確かに理想には違いないな」と感じるのではないでしょうか。そう感じる心こそが「南無阿弥陀仏」そのものなのだと私は思います。自分の命を、全ての命を肯定したいという、祈りの言葉です。

「末法思想〔まっぽうしそう〕」と言いまして、仏の教えは時代が下るにつれてだんだん薄れていくだろうということが、仏教誕生の時からずっと言われていました。今まさに末法の世の中となっています。しかし釈迦如来は、「自分のことは忘れ去られても、阿弥陀如来は最後まで残るだろう」と仰ったそうです。南無阿弥陀仏、南無阿弥陀仏。

ロンドンの「ハムレット」

ロンドンで上演された「ハムレット」の舞台の映像が、先日池袋の映画館で上映されたので、見て来たわけなのです。
登場人物のうち2人を黒人が演じていました。
役柄はもちろん白人の役なのですが、黒人が演じているのです。
現代のロンドンでは、それが普通なのでしょうね。

黒人さんが演じていた役は、
・レアティーズ(オフィーリアの兄)
・ローゼンクランツかギルデンスターンのどちらか
の2役。こういう配役って、どうやって決めるんでしょうね。だってハムレットやオフィーリアの役は回ってこないわけですよね。その脇役度の匙加減がすごいなと思ったんです。
そして、ローゼンクランツとギルデンスターンは、どちらがどちらか分からない。(見分けられたらきっとシェイクスピア通)

マクベス

こんばんは、でんこちゃんです!うそです。
日本は3度も原子力で悲惨な目にあって、何かに呪われているのでしょうか?
最近、日本人ってこんなに馬鹿だったんだなあと思うことが多くて。
そう思いませんか?

私は、テレビってほとんど見ないんです。それでもたまに見たい番組があると、親に録画しておいてもらって、実家に帰省した時に見るのです。(自宅では録画できるようになっていない)
先日、帰省した際にたまっていた録画を見たのですが、ある番組の中で、玉三郎さんがむかし演じたマクベス夫人の舞台映像が少しだけ流れました。私が大学生の頃、NHKのBSで玉三郎さん演じるマクベス夫人の「夢遊の場」が流れたことがあるのですが、それとは別の短い場面でした。
ああ、絶対に全編録画されているはずなのに、なぜ全編見られないのだろう!上演当時テレビで放映したのだろうに。
玉三郎さんのマクベス夫人の断片的な映像、あれがこれまで私の見たシェイクスピアで一番面白いと思った舞台です。

2018年8月26日 (日)

夏/夜/夢

今日、新国立劇場で、JAPON dance project 2018 × 新国立劇場バレエ団『Summer/Night/Dream』という公演を見て来ました。フランス語と英語と日本語がごちゃ混ぜになった公演。こういうのを「グローバル」って言うんですかねえ。
新国立劇場のホームページを見ていると、だんだん日本語より英語のほうが主になってきていて、READ MOREだのBUY TICKETSだのダンス・アーカイヴだのDANCE to the Futureだの、ローマ字とカタカナが溢れ、そのうち全部英語表記になるんじゃないかと思うんです。まあ、もともと日本の芸能じゃないですし、日本はアメリカの植民地みたいなものですから、仕方がないですね。

新国立劇場は、ずっと「現代舞踊」と表記していたジャンルを、最近「ダンス」って表記するようになったんですね。しかし「バレエ」と「ダンス」を併記するのって、おかしくないんですかね?バレエはダンスの中に含まれる概念ではないのでしょうか?バレエ&ダンスセット券とか、同列に並べるのはおかしいと思うんですけど。欧米でもそういう表記なんですかね?

新国立劇場は、演劇のことをずっと「PLAY」と表記していたのですが、最近「DRAMA」に変えたんですね。DRAMAのほうが適切な表記だということが判明したらしいのです。自分で適切かどうか判断できない言葉を無理して使う必要はないのでは?

今日見たダンス公演は生演奏ではなく録音を使っていました。現代舞踊はたいてい録音を使いますよね。打楽器やピアノは録音でもそれなりに聞けるのですが、擦弦楽器は音が全然良くないですね。ときどき不快でさえあります。録音と生演奏が同じ音になってしまうと生演奏の必要性が著しく薄れてしまうので、意図的に悪い音にしているのでしょうか?ちっとも進歩しないですよね。

そう言えば、横浜のそごう美術館で現在「フェルメール展」が開催されているのですが、展示作品37点が全て複製画なのだそうです。複製画で美術展が開催できるものなんですね。私は見に行っていないのですが、油絵の複製画は、すぐに複製画だと分かってしまうと思うんですけどねえ。

そう言えば、なんば駅の地下街に、有名な油絵の複製画がいくつも飾ってあって、大阪ってダサい街だなあって思ったことがありました。

2018年8月23日 (木)

カンバーバッチのハムレット

NTLive(ナショナル・シアター・ライブ)で、ベネディクト・カンバーバッチ主演の「ハムレット」を見て来たのです。ロンドンのナショナル・シアターが、舞台映像を映画館で上映する企画。2015年に舞台で上演した「ハムレット」を、2016年に映画館で上映しました。
舞台では約10万枚のチケットが発売初日に完売したという超人気公演です。
これが池袋で再上映されたので、夏休みを取って見に行ってきました。

ところが、あまり面白くなかったんですよね・・・。
カンバーバッチがどのような演技を見せてくれるのかすごく期待していたのですが、まず彼は二枚目ではないし(普通っぽい)、王子らしい高貴さも感じませんでしたし、「狂ったふり」の演技もほとんどしていなかった。「狂った様子」は、演技ではなく、演出によって表現されていたように思います。見せ場の殺陣も短縮されていた。「これはすごい!」と思うような演技がなかった。
オフィーリアは、はかなげではなかった。(女優が若くない×ごつい)
舞台セット、衣裳、照明が美しくなかった。屋敷が芝居の後半に廃墟のようになるという演出は、2014年7月にスカラ座で見た《コジ・ファン・トゥッテ》で同じようなことをやっていました。(スカラ座で見た時、すでに既視感があった)
とにかく視覚的には何も面白くなかった。
まあ、セリフ劇だから仕方ないですかね・・・。
セリフは、ときどきハッとするほど美しい瞬間がありますね。

シェイクスピアは昔からちょくちょく見ていますが、「次こそは面白いのではないか」と思って見に行くと、実際はそうでもない。

2018年8月22日 (水)

指揮の好み

マリア・カラスが歌う《トスカ》のスタジオ録音には2種類ありまして、ヴィクトル・デ・サバタ指揮の旧盤(1953年モノラル)と、ジョルジュ・プレートル指揮の新盤(1964年ステレオ)がございます。
カラスが2種類のスタジオ録音を残している場合、総じて「旧盤=録音状態は悪いが声に威力がある」「新盤=声の勢いは減じているが表現力が増している」という印象があります。
そしてカラスの《トスカ》を新旧聞き比べた場合、私は圧倒的に新盤が好きなのです。カラスの歌唱もオケの演奏も、非常に演劇的な感じがします。
ところが一般には、カラスの《トスカ》を紹介する時、旧盤が推されることが多い。サバタの指揮はテンポが速く勢いがあってメリハリが効いていると思いますが、プレートルのほうが圧倒的に私の好みです。
それは、正しいとか間違っているとかいうことではなく、好みと言うよりほかありません。

私はオペラを見ていて指揮者に感銘を受けることはあまりないのですが、現役の指揮者では、ネッロ・サンティとヴィート・クレメンテが好きです。今年の12月に埼玉でヴィート・クレメンテが《トスカ》を振るので非常に楽しみです。

オペラの録音で「指揮者がすごい」と感じるのは、
1955年3月レナード・バーンスタイン指揮《夢遊病の女》スカラ座
1955年5月カルロ・マリア・ジュリーニ指揮《椿姫》スカラ座
1955年9月ヘルベルト・フォン・カラヤン指揮《ルチア》ベルリン
上記3点はいずれもマリア・カラス主演のものですが、カラスの歌唱だけでなく、オーケストラの演奏も本当に神がかっていて、天才的な指揮だと思うのです。
カラス本人が最も評価していた指揮者は、師でもあるトゥリオ・セラフィンだそうですが、なぜか私はセラフィンの良さが分かりません。(残念)

カラスの録音以外では、
1966年11月カルロ・マリア・ジュリーニ指揮《リゴレット》フィレンツェ
この指揮は本当に素晴らしいと思う。リゴレットとジルダの二重唱など、もう、あり得ないくらい素晴らしい。(しかし、1966年11月ジュリーニ指揮の《リゴレット》は2種類あって、片方には感動しませんでした)

あとは、カラヤン指揮、フレーニ&パヴァロッティの《ラ・ボエーム》《蝶々夫人》スタジオ録音は、非の打ち所がない完璧な指揮という気がする。スタジオ録音の甲斐があったと言うか。

サバタなのかサバータなのかサーバタなのかは、いまだに分からない。オペラの謎の1つ。

2018年8月21日 (火)

フィガロの結婚ではありませんか?

9月5日・6日に銀座ヤマハホールで、新作オペラ《フィガロの再婚》が上演されるそうです。
なかなか秀逸なタイトルだなあと思いました。このタイトルだけで「見てみようかな」という気になるではありませんか。
作曲は、姿を現した幽霊・新垣隆〔にいがき・たかし〕さん。
カンフェティの冊子の表紙に、この公演のチラシが使われていました。ところが、チケットはカンフェティでは扱っていないのであった・・・。なぜ~
出演者5人が全員男性で、スザンナも伯爵夫人も男性が演じるのだそうな・・・。
もうチケットが2階席しかなかったので買いませんでしたが・・・。

2018年8月20日 (月)

オペラ演出家という仕事

先日、下高井戸のスタジオで行われた「オペラ演出家たちのホンネ」というトークセッションに行って来ました。かなり大勢の人が聞きに来ていてビックリでした。
オペラ演出家の岩田達宗〔いわた・たつじ〕さん、田尾下哲〔たおした・てつ〕さん、菅尾友〔すがお・とも〕さんの3人が、オペラ演出についてあれこれと話す会でした。
菅尾さんはベルリンで仕事中のため、スクリーンに顔が映し出されて喋っていました。スカイプと言うそうですが、意外と音声が途切れがちでしたね・・・。

田尾下さんの師匠がミヒャエル・ハンペということは私も前から知っていたのですが、岩田さんの師匠は栗山昌良さんなのだそうです。聞いていて驚いたのは、栗山昌良さんって、他の人が演出したオペラを一切見ない人だったのだそうです。舞台でも映像でも、意図的に見ないようにしていたのだそうです。だからもし栗山昌良さんの演出した舞台が誰かの演出に似ていたとしても、それは真似ではなく、偶然似てしまったにすぎないのです。だって見ていないんですから。

この話を聞いていて、私はむかし読んだインタビュー記事のことを思い出していました。
 ↓

1998年3月『音楽の友』フランコ・ゼッフィレッリへのインタビュー記事より
私は、かなり若い頃から本当に良いもの、すばらしいもの、いろいろなものをたくさん見てきました。そして、それらをただ漫然と見るのではなく、細かく観察をしてきました。こうして多くのものを吸収して、自らのものとしてきたのです。例えば、過去50年の間に、《アイーダ》一つをとってみても100以上のものを見てきました。そしてそれらの中から本当の最高のものだけを抽出し、私の個性をそこに足して、私の世界を作り出したのです。まねではなく、過去のすばらしいものを継承することも大切なことなのです。


ゼッフィレッリと栗山昌良、まさに正反対の取り組み方ですね。
A.他の舞台を一切見たことがないので個性的
B.他の舞台をたくさん見ているので伝統的
どちらの舞台が魅力的ですかねえ・・・?
私だったら迷わずBを取りますけれども・・・。
しかし栗山さんの時代の日本は、オペラの舞台を見る機会自体が非常に少なかったわけですし、もしも1つの舞台だけ見たとすると、そのイメージのみに捉われて何も出来なくなってしまうのかもしれませんね。

それからこのトークセッションで印象的だった話は、「演出がありきたりだと次の仕事が来なくなる」という不安があるのだそうな。(そりゃそうか)
見ている側としては、ヘンテコな奇抜演出より、ありきたりな演出のほうがありがたいですけどね。

それから、3人とも「客層によって演出を変える」という話をしていました。それはドイツで上演する場合と日本で上演する場合とだったら演出が変わるのもご尤もですが、日本国内であっても客層で変えるそうです。どんな客が来るのか事前にリサーチすると言っていました。
田尾下さんは、むかし新国立劇場の小劇場オペラ《フラ・ディアボロ》を演出した時に、客層を考えずにやって失敗した経験があるそうな・・・。(私は見ていません)

岩田さんは、1つの作品の準備に2年くらいかけているそうです。準備期間が短い場合は断るそうです。

「オペラ演出家になりたい」という人はたくさんいるのだそうですが、残るのは結局「安い報酬で献身的に働く人」であるらしい。(これは、指揮者も同じなのではないかと私は思っている)

オペラ演出家といえば、他に粟国淳さん、馬場紀雄さん、三浦安浩さん、原純さん、伊香修吾さんなど大勢いらっしゃいますし、演劇のほうの栗山民也さん、宮本亜門さん、笈田ヨシさんがオペラを手がけることもありますし、彌勒忠史さんのようにオペラ歌手が演出を兼ねる場合もありますし、本当に激戦ですね!

2018年8月17日 (金)

世界バレエフェスティバル

先日まで東京文化会館で世界バレエフェスティバルが開催されていましたが、そのAプログラム、Bプログラム、Sasaki Galaに行ってきました。(各1回)

世界バレエフェスティバルといえば、3年に1度の豪華な公演ということで、観客がすごく集中して行儀よく見ているというイメージだったのですが、今回は客の質がかなり低下しているように感じました。客席で飲み食いする人がいるし、上演中に喋る人がいるし、ケータイは鳴るし、すごい咳の音がしていました。幕切れの静寂にも咳、とにかく咳だらけでした。いくら休憩中のトイレが混むからといって、カーテンコールの前に席を立つのは、出演者に対する礼儀としてどうなのかと思いました。美しいものを見ている甲斐がないと言うか・・・。

Bプログラムのピアノの音響が本当に酷かったですね・・・。
録音が流れているのだと思っていたら、終わったところで舞台袖からピアニストが挨拶に出てきて驚きました。

Aプログラムでは、アッツォーニとリアブコの「ドン・ジュアン」と、ジルベールとガニオの「マノン」が素晴らしかった。
Bプログラムでは、フェリとゴメスの「オネーギン」、そして「ドン・キホーテ」のシムキンの驚異的な跳躍に感動しました。
Sasaki Galaでは、コジョカル、コボー、ホールバーグの「マルグリットとアルマン」が本当に美しかった。また「ドン・キホーテ」のロホの回転が見事でした。ボッレとガニオの「プルースト」、サラファーノフ、シムキン、カマルゴの「アー・ユー・アズ・ビッグ・アズ・ミー?」も豪華配役で楽しかったですね。
全体的には、コジョカルとゴメスが特別に輝いていたように思います。

2018年8月11日 (土)

沖縄出張

高名なバレエダンサーに、ロシアのニジンスキーがいます。
最後に踊った公演が1919年で、映像記録が1つも残っていないので、現代人は誰も彼の踊りを見たことがないのですが、空を飛んでいるようだったという高い跳躍が伝説となっています。
録音がないのに名前が残るオペラ歌手や、映像がないのに名前が残るバレエダンサー。それは本当にすごいことですね。
1919年のスイス公演「マリアージュ・アヴェック・デュー(神との結婚)」の後、ニジンスキーは精神を病んで病院を転々とするのですが、「狂っているのは私ではなく、周りの人たちだ」と言っていたのだそうです。「なぜなら周りの人たちは戦争をしているから」だそうな。

私ももう46年も生きてまいりまして、昔は分からなかったことが分かるようになったり、知らなかったことを知ったりすることもあるのですが、戦争というものがなぜ起こるのか、いまだに分からない。アメリカはなぜ他国に爆弾を落とし続けるのだろう?

さて先日、沖縄に出張に行ってきたのですが、那覇空港に降り立つとロビーにさまざまな蘭の花?が飾られていて、とても綺麗でした。空港に生花を飾るなんてずいぶん豪華だなと思いました。
そして街を歩いていると、見たこともない植物が生えている。国内を旅行していると、何だかんだ言ってもわりとどこも似た光景であり、地続きな感じがするものですが、沖縄は街路樹が椰子の木だったりして、生態系が異なっている気がしました。街路樹が椰子の木・・・。

沖縄の観光客は、ハワイの観光客より多いのだそうです。
観光業が好調で、ホテルは人手が足りないのだとか。
アジアの人々にとっては、ハワイよりだいぶ近く、ハワイよりだいぶ安い。安近短の客が多い沖縄。
私は仕事で1泊しただけで観光はしませんでしたが、異なる世界に訪れたような感覚がありました。
アメリカに占領されていなければ、今頃もっと素敵な観光地になっていたのでしょうねえ。

2018年8月10日 (金)

母国語志向

わたくし、今年の3月まで、国立劇場で公演プログラムの編集の仕事をしていたのですが、4月の人事異動で別の部署に配属となりました。
編集の仕事は自分で望んだものではありましたが、あまりに仕事量が多いのと、他人が書いた原稿を気に入らず内容を大幅に変更させようとする人が多いので、イヤになってしまいました。

そうして4月から別の部署に来たのですが、残業が少ないので、良かったですね~。校正の仕事はやってもやってもきりがない感じでしたからね~。もう献身ですよ献身。

そして今は何をしているのかというと、あんまり説明できないような仕事です。
劇場の仕事には、芝居を面白くするための仕事と、そうではないけれど必要な仕事と、大きく分けて2種類の仕事があり、今わたくしは後者に属しているわけなんです。
国立劇場では、後者の仕事が年々拡大していって、書類ばかり作っている部署とか、検査ばかりしている部署などが、少しずつ新設されていきます。

現在の私の仕事は、新国立劇場と、国立劇場おきなわを管理する仕事です。
日本には国立の劇場が6つ存在するのですが、そのうちの2つはウチから業務委託されている財団が運営しています。
なぜ委託をしているのかと言うと、組織をこれ以上大きくするわけにいかなかったからです。国立劇場を運営しているのは独立行政法人なのですが、独立行政法人は常に行政改革の矢面に立たされて、検査ばっかりしているんです。その手間で、芝居を面白くするための仕事をすればいいのにね。ホームページの公演情報なんて、ちらしのpdfを張り付けてお終いだもの。

その点、新国立劇場は財団法人なので、何の検査も受けておらず、のびのびと仕事が出来て、いいと思うんですよね~。

6つある国立の劇場のうち、4つは東京にあり、1つは大阪、1つは沖縄です。
沖縄は「芸能の宝庫」などと言われて、個性的な芝居、舞踊、音楽が今も継承されています。
このあいだ、初めて国立劇場おきなわに行ってきました。
開場して15年になる、一番新しい国立劇場であり、そして最後の国立劇場でしょう。
最寄り駅から車で15分くらいでしょうか。(あまりに遠い・・・)
劇場の内部に資料展示室があり、過去の公演記録映像が流れていました。それが全然聞き取れないんです。「ウチナーグチ」と言われる沖縄方言、琉球語のセリフなんですね。沖縄芝居には、戦後に作られた新しい題材の作品もたくさんあるのですが、昭和の作品でも全く聞き取れない。
芸術監督の嘉数道彦(かかず・みちひこ)さんにお会いする機会があったので質問させていただいたのですが、出演者さえも日常会話では使わない言葉なのだそうです。芝居の中で使われているようなウチナーグチを普通に喋れるのは今の80代くらいが最後の世代だと仰っていました。現在、沖縄芝居で新作が創作される時、作者がいったん現代語で書いて、別の人がそれをウチナーグチに翻訳するのだそうです。(歌詞など韻文を除く)
私は驚きました。だって見ている客が分からない言葉なのです。舞台脇の字幕で現代語の翻訳を表示しているんですよ。わざわざ分からない言葉に翻訳するなんて、なぜ現代の言葉で書かないのか驚いたのです。
しかし、ウチナーグチでなければ沖縄芝居ではなくなってしまうのだろうなあ、とも思ったのです。普通の芝居になってしまいますからね。

ここ数年、歌舞伎の新作で使われている言葉が変だなと思うことが増えました。前はそんなことはなかったのですが、もう書いている人も分からなくなっているんですね。
やっているほうも分からなくて、見ているほうも分からなくて、分からない同士で向かい合っているみたい。

沖縄の出演者は、ウチナーグチを理解したいから勉強している、と言っていました。

そう言えば最近、日本人作曲家による新作オペラがいくつか続けて上演されていますが、いったん作曲家本人が日本語で書いた台本を、別の人がドイツ語やら英語に翻訳しているという事例が見受けられます。実に不思議な現象ですね・・・。

2018年8月 5日 (日)

劇場の食堂

国立劇場大劇場の3階ロビーに入っていた食堂が3月末で撤退してしまいました。同じ業者さんが楽屋食堂も営業していたので、今は楽屋食堂もないのです。
昨年は2階お休み処のお茶もなくなってしまいました。

国立文楽劇場の食堂も数か月前に撤退してしまいました。コーヒーやお弁当も同じ業者さんが売っていたので、幕間にコーヒーも飲めません。

私はあまり利用したことがありませんでしたけどね・・・。

消えていくなら朝

新国立劇場主催の演劇公演「消えていくなら朝」を見たのです。
蓬莱竜太さんの書き下ろし作品で、ご自分の実体験を物語に盛り込んでいるそうな。
これってどこまで実話なのかな~?と不思議な感じがしました。

小説でも「私小説」と呼ばれる分野がありますが、それは完全なる実体験というわけではなく、ある程度は作り話が紛れているものなのではないかと思います。そして実体験と作り話の割合がどのようであろうと別に構わないし、受け手がそれを推測も出来ませんし、面白ければどうでもよいと思っていました。

しかし、それにしても「消えていくなら朝」。
「定男はなぜ帰省したのか」という点は置いておくにしても、「定男はなぜレイを実家に連れて行ったのか」という点が解せない。婚約者だというのならまだ分かるけれども。
絶対に連れて行かないと思うんですよね、私の感覚では。
確かに、家族以外の人が1人その場に入ってくることによって、物語に格段に広がりが出たということはあるにしても、逆に「レイがいる目の前でその展開はないな」という違和感がずっとありました。

定男はレイを取って未来へ生きればいいのに、なぜ過去に舞い戻って来るのだろう?

2018年8月 4日 (土)

《ベアトリーチェ・ディ・テンダ》

南條年章オペラ研究室の、ピアノ伴奏演奏会形式によるオペラ全曲シリーズで、ベッリーニ作曲の《ベアトリーチェ・ディ・テンダ》を見てきました。
(7月27日(日)、サントリーホールブルーローズ)

主役のベアトリーチェを出口正子さんが歌いました。私が出口さんを見るのは久しぶりでした。多少の傷はありましたが見事な歌唱でした。藤原歌劇団で歌った《清教徒》《夢遊病の女》を見てみたかったですね。

さて、この《ベアトリーチェ・ディ・テンダ》は、オーケストラ・合唱付きでは日本で上演されたことがないのではないでしょうか。ベアトリーチェのフィナーレのアリアが稀に演奏されるくらいですね。
グルベローヴァがチューリッヒ歌劇場で歌った時の舞台がNHKで放送されたことがあります。DVDにもなっていますが、それが唯一の日本語字幕付きでしょうかね。
テオドッシュウの映像も出ていますが、NHKの冠が付いているのに日本語字幕が入っていない!!なぜ~

私はグルベローヴァの映像を見たことがありますが、その時はストーリーが全然理解できませんでした。
しかし今回の公演で私は分かったのです。《ベアトリーチェ・ディ・テンダ》は、《アンナ・ボレーナ》に似た話であると。(台本はどちらもフェリーチェ・ロマーニ)
もちろん枝葉には相違点がありますが、話の根幹はほぼ同じ。

《アンナ・ボレーナ》は、マリア・カラスの録音でお馴染みの曲ですが、冷静に考えると、かなり不思議な内容であると思います。
ペルシーも、エンリーコも、不思議なことを次々と口にする。
そして、なぜ裁判官に引き渡されることが不名誉なのか、理解しがたい。
しかし実際に上演されますと、そのような理解の範疇を超えて、巨大な興奮の渦に巻き込まれるのが、怒涛の第1幕フィナーレです。
テオドッシュウがアンナ・ボレーナを歌った時、本当に客席中が興奮のるつぼでした。私も珍しくブラーボと叫んだ。

《ベアトリーチェ・ディ・テンダ》は、「《アンナ・ボレーナ》のベッリーニ版」と思えば、理解が進むと思います。

たしかグルベローヴァが日本最後のリサイタルでアリアを歌う予定だったなと思って調べてみたら、大阪公演でしか歌わないらしい。なぜ~

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