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2018年9月

2018年9月30日 (日)

愚痴シリーズ

きのう、演奏会形式のオペラを見に行ったのです。そうしたら周りの爺さん婆さんが酷くて、上演中にスマホを点けるわ、手でリズムを取って自分も指揮を始めるわ(数年ぶりに見た)、一番重要なアリアの最中に飴を食べ始めるわ、ビニール袋をガサガサさせるわで、たいへん興ざめな感じでした。爺さん婆さんというものは、なぜあのように行儀が悪いのでしょうか?

先日、歌舞伎座ギャラリーで行われた「神田松之丞の会」に行ってきました。開演が夜9時15分で、終演が23時頃でした。なぜこのような遅い時間帯に上演されるのか推測するに、爺さん婆さんが来ない設定になっているのではないでしょうか。若い人が多く、客席の集中度が全然違いました。

このあいだ、新国立劇場で「避難体験コンサート」がありました。無料コンサートの途中で避難訓練が行われるというもので、最近いろいろな劇場やホールで実施されています。お客を入れないで訓練することも重要だと思いますが、実際にお客を入れた公演の途中で訓練するというのは従業員にとって大変貴重な経験となるでしょう。新国立劇場ではこれまで3回実施しているのですが、国立劇場では1回もやっていないのです。なぜ国立劇場でもやろうということにならないのか、まことに不思議なことです。

オリンピックが近づいていることもあり、文化行政でも外国人向けのサービスが重視されています。ところが国立劇場の英語版ホームページはあまりに情報が分かりづらくてゲンナリしてしまいます。一方、新国立劇場の英語版ホームページはリニューアルされて綺麗になりました。あまりにも差が大きすぎて驚きます。

急激な気候の変化に体がついていかず、すっかり風邪を引いてしまいますた。

2018年9月28日 (金)

【再掲】助六の紫

10月に歌舞伎座で「助六」が上演されますので、むかし書いた関連記事を再掲しておきます。
  ↓


紫色を、「ゆかり」「ゆかりの色」と表現することがあります。『助六由縁江戸桜』という外題〔げだい=タイトル〕にも入っていますね。なぜ紫のことを「ゆかり」と言うのか、その原因となったのが、次の和歌です。

■紫のひともとゆえに武蔵野の草はみながらあはれとぞ見る(詠み人しらず)

紫を「ゆかり」と言うのは、この歌のためであるとされています。しかし、歌の中に「ゆかり」という言葉は含まれていませんし、何が「ゆかり」なのか、いろいろ調べてみたのですが、分かりやすく説明してくれる文章は存在しないんじゃないかと思うんです。存在しないものは自分で作るしかない!ということで、僭越ながら私が分かりやすく解説させていただきます。

この歌は『古今和歌集』に収録されているのですが、その当時の武蔵野(現在の東京あたり)はたいへん辺鄙〔へんぴ〕な田舎でした。和歌を詠むのは京〔みやこ〕に住む上流階級の人々であって、田舎の人はふつう和歌なんて詠まないんです。この歌の作者も、もともとは京に住む人だったのだろうと思います。ところが、京に住む上流階級の人々には「除目〔じもく〕」と言われる人事異動があって、急に地方の役職に任命されることがあったんですね。地方に赴任することは、必ずしも左遷とは限らなくて、地方のほうが財源が潤っていたりして、田舎で財力をたくわえて京に戻ってくるというようなケースもありましたが、武蔵野がそのような土地であったかは知りません。ともかく信じられないくらいの田舎で、今で言えば海外赴任で開発途上国に行くような、心細い感覚であったろうと思います。赴任した男だか、随行した女だか分かりませんが、この歌の作者がいざ武蔵野にたどりついてみますと、気候も違うし、だだっ広い武蔵野の野原には、見たこともない・名前も知らない草がたくさん生えている。仕事とは言いながら、何だって私はこのような場所に来ることになってしまったのだろう…なんて、自分の身をつくづくはかないもののように思っておりますと、野原の中に1本(1種類)、知っている草が生えているのです。その草は「紫草〔むらさき〕」と言って、歌の作者は見たことのない草だったのですが、存在は知っていたのです。この草の根は「紫根〔しこん〕」という、紫の染料でして、まだ京にいたころ、紫根で紫に染めた布は身近に使っていたからです。紫草の花って、紫色ではなくて、白い花なんですね。根っこは紫の染料なのだけれど、なぜか花は白、どんな花なのか見てみたい…、でも誰も見たことがないんです。京には生えていない、武蔵野の草だからです。その、誰も見たことのない花をいま自分が見ていると思うと、こんなに辺鄙な田舎の風景であっても、ちょっと素敵に感じられました。そういう内容の歌だと思います。武蔵野に住むようになった作者にとって、紫だけが京との接点だった、接点すなわち「ゆかり」ということです。

この歌は、武蔵野に住んでいる人に向けて詠んだ歌ではないでしょう。いつも紫草を見ている人には、この歌の意味は分からないのです。この歌は、京に住む知り合いに向けて詠んだ歌、「よりによって武蔵野に赴任だなんて、あの人いまごろどうしてるのかしら?」なんて思っているだろう知人に送った歌だと思います。

「あはれとぞ見る」の「あはれ」は、「しみじみと趣き深い」などと現代語訳されます。プラスの評価の言葉なのだけれど、どこか淋しい、陰りのある言葉です。切ない美しさとでも言うのでしょうか。しかし、2代目團十郎が助六を演じていたころ、江戸はもう、そのような場所ではなくなった。政治の中心地となり、活気に満ちていた。道を整備したり、橋を架けたり、家を建てたり、新しい仕事がいっぱいあった。よし、江戸に出て新しい生活を始めるぜ!という人々が集まって、とてもエキサイティングな、憧れの場所となった。

その土地にしか生えない植物で染めた色なら、その色はその土地の色、イメージカラーであり、やがて「江戸紫」と呼ばれるようになった紫根染めの紫は、江戸を象徴する色となった。

「紫のひともとゆえに」の歌は、『古今和歌集』に収録された千首あまりの歌の中でも、取り分けよく知られた歌でした。『源氏物語』の主要人物である、紫の上の名前の由来となった和歌だからです。知識人は全員この歌を知っていて、武蔵野と言えば紫、紫くらいしか思い浮かばない場所、という強いイメージを持っていた。その紫も、時代とともに意味を変えていく。紫はもう淋しい色ではなく、活気のある江戸を象徴する格好いい色となった。今日も助六は、江戸の色の鉢巻をして、花道へおどり出て行くのだった。

2018年9月27日 (木)

そして九月はセプテンバー

9月文楽公演の『夏祭浪花鑑』、良かったですねえ。勘十郎さんの団七がもう絶品でした。
東京では6年ぶりの『夏祭』、次はいつになるのでしょう?名作なのに見る機会が少ないんですよね。これが歌舞伎だったら6年の間に何回『夏祭』を上演することか・・・。
織太夫さんもすごい格好良かったですね。床と舞台とどちらも見たい!目が2つほしい!いや目は2つ持っているのだった。ふつう、舞台の焦点は1か所に集まるようにできていると思うのですが、文楽は見たいところがいろいろあって大変なのでした。
『夏祭』は舞台の照明もいい感じでした。

そして歌舞伎座の『俊寛』、吉右衛門さんの俊寛はこれまでに何度も見ているのですが、見るたびにすごいですね。1階席で見ていたら、幕切れの俊寛が光に包まれて周りが暗くなって俊寛だけ浮かび上がっているように見えたんですよ。こんな経験は初めてのことでした。
吉右衛門さんの演じる俊寛は、去っていく赦免船を目で追っていった後、体の向きを変えて、「赦免船ではないものを見ている」ということを明確にしていたようでした。
見ているお客さんが、弘誓の船をどのくらい知っているのだか・・・。

寺子屋

森下文化センターで、靖太夫さんと錦糸さんの「寺子屋」を聞いてきました。
どうでもいいですが、森下文化センターの公式サイトに掲載されている地図では森下文化センターにはたどり着けないと思う・・・。

「寺子屋」を一段まるまる語るのではなく、合間に解説を入れながら、いくつかに区切って演奏されました。かなりカットが入っていて、松王丸の泣き笑いが省略されてビックリでした・・・。
演奏後に質問を受け付けていたので、なぜ泣き笑いがカットなのか訊こうかと思ったのですが、国立劇場の職員がそんなことを質問しては悪いかと思って黙っていました。何か言うに言われぬ切ない事情があったのかもしれませんし・・・。誰か代わりに質問してくれる人はいないかと思いましたが、いませんでした。ひょとして質問があったら演奏してくれるのではないかと期待したのですが・・・。

やっさんが「寺子屋」を一段語るのは、いつのことになるのやら・・・。

それで、今日の会とは直接関係のない話ですが、
太夫だったら「寺子屋」だの「太十」なんて語れて当たり前だと思うじゃないですか。
でも若い太夫がそのような名作を語る機会は少ない。
人前で語りたいという欲望がないのかと不思議に思うわけなのですが、師匠から教わらないと語れないのだそうですよ。だから本人の意思より師匠の意向が大きいのだそうです。
それから、どんなに意欲があっても、自分で素浄瑠璃の会を主催することはなかなか難しいと聞きます。上演に向けて稽古すること以外に、会場を押さえたり、宣伝したり、切符をさばいたり、なかなか出来ないのだそうです。
逆に言えば、そういうことをやってくれる人がいれば、語ってくれるみたいですけどね。

2018年9月24日 (月)

花かつみ

私の家の家紋は「蔦〔つた〕」の紋です。子供の頃、家で仏壇を購入したのですが、その正面上部に家紋を入れるようになっていて、その時に家紋が蔦であることを私も教えられたのでした。しかし、ひと口に蔦紋と言いましても何十種類も存在し、それぞれ細かな違いがあり、正確な名称は覚えておりません。私が家の家紋を見るのは、この仏壇と、父方の墓石に刻まれたものを見る時くらいで、今日まで他に使う機会がなかったのです。私が着物を着ないせいかもしれません。いいえ、それ以上に、この「よく分からない蔦紋」を「使いたい」と思わなかった。我が家の紋がもしも「三升」であったらなら、私はその紋を事あるごとに使ったことでしょう。歌舞伎を見ていて、やはり三升は特別に格好いい紋だと思うのです。簡潔でありながら他と見間違えぬ唯一絶対の存在であるという点が格好いい。さすが老舗という感じがいたします。やはりそういうものは「早い者勝ち」と思う。

もちろん、複雑な造形であっても、菊の御紋や葵の御紋には威厳がございます。

一概には言えませんが、家紋は植物を素材としたものが多いように思います。

動物には「動物園」というものが存在しますから、珍しい動物であってもわりと実際に見たことがあるものです。昔の日本人だったら見られなかった象、虎、ライオンなど、私でも見たことがあります。
しかし、これが植物ということになりますと、この年齢になっても、まだ見たことがないものがあるのです。たとえば、猿之助さんの家紋は「澤瀉〔おもだか〕」ですが、私は澤瀉を1度も見たことがありません。(澤瀉屋の「瀉」の「つくり」は正式には「ワかんむり」)

その辺に生えているのに、名前も知らぬまま通り過ぎてしまう植物がたくさんあるものです。
また、動物であれば、「龍は架空の生き物」というように、想像上の動物と、現実に存在する動物との区別を私たちは知っていますけれども、こと植物になると、どこまでが現実でどこからが想像なのか、はっきりと知らなかったりします。
全体像を把握していない、誰にも掴みきれないほど広く豊かな世界が植物にはあると思うのです。きのこ1つ取っても、信じられないような不思議な色かたちをしたものがございます。

そうしてある日突然、こんな花が存在したのか、と驚いたり、この花は存在しなかったのか、と驚いたりするのです。

玉三郎さんの定紋が「花勝見〔はなかつみ〕」であることはずっと前から知っていたのですが、この花勝見という植物がどのようなものなのか、ずっと知らないままでした。知らないことはすぐに調べれば良いものを、ぼんやりした私は愚かにもそのままにして過ごしてきてしまったのです。
ところが、松尾芭蕉の『おくのほそ道』に「かつみ」の話が出てきて、私は初めてこれが「かつて存在し、今は誰にも分からなくなった幻の花」の名前であることを知ったのでした。

郡山〔こおりやま〕を過ぎて檜皮〔ひわだ〕の宿(現在・郡山市日和田〔ひわだ〕町)を出はずれたところに、歌枕の安積山〔あさかやま〕があります。「安積山かげさへ見ゆる山の井の浅き心をわが思はなくに」という歌が万葉集にあり、歌にまつわるエピソードも収録されています。この歌、風流の尊さ、風雅の力を象徴する歌として有名なのです。
葛城王〔かつらぎのおおきみ〕が陸奥に派遣された時、国司の対応が無礼だったので王が機嫌をそこね、せっかくの宴席がしらけてしまった。その時、かつて采女〔うねめ〕だった風流を解する娘子〔むすめご〕がこの歌を口ずさんだところ、王の心がほぐれて機嫌がなおった。そんなエピソードです。歌の力、風流の力が、かたくなになった人の心を和らげる。安積山は風流を尊んだ人たちゆかりの歌枕なのです。
さらに芭蕉は、近くの沼に「かつみ」と呼ばれる草がないかと人にたずねて歩きます。これも古今集に「・・・あさかの沼の花かつみ・・・」という歌があり、風流人として知られた平安朝の歌人・藤原実方〔さねかた〕のエピソードがあるのです。端午の節句が近づき、実方は都の風習にしたがって軒端〔のきば〕に菖蒲〔しょうぶ〕を葺〔ふ〕かせようとしたのですが、当時、土地の人たちの間にその風習はなく、菖蒲もなかった。そこで、「あさか沼」の「かつみ」を代用に葺けと命じたという話です。芭蕉は実方の故事を思って、「かつみ、かつみ」と日が暮れるまでたずね歩きます。
「かつみ」は、実方の時代は真菰〔まこも〕のことだったらしいのですが、時代が下った芭蕉のころは、その正体が分からなくなっていたらしい。正体の分からない草「かつみ」をたずねまわって一日過ごしたわけです。土地の人はもちろん知りません。当然見つかるわけもないのですが、端午の節句が近い五月はじめの一日を、「かつみ」にこだわり、「かつみ」を追い求めて過ごす、芭蕉はそんな風流に身をまかせる自分を演じているのです。
『芭蕉の言葉』佐佐木幸綱:著より


芭蕉の『おくのほそ道』はたいへん素晴らしい書物であると思いますが、原文だけを何度読み返してみても、現代人にはその素晴らしさが理解できないのではないかと感じます。
その素晴らしさを解説してくれる素晴らしい本として、
『おくのほそ道行』森本哲郎:著、笹川弘三:写真、平凡社:刊
『芭蕉の言葉』佐佐木幸綱:著、稲越功一:写真、淡交社:刊
この2冊をお勧めいたします。写真も美しい。
昔は欲しい古本を入手するのも大変でしたが、今は「Amazon」や「日本の古本屋」などで簡単に手に入る時代となりました。ぜひお手元に。

「かつて存在し、今は誰にも分からなくなった幻の花」という「花かつみ」が、玉三郎さんにとても合っていると私は思ったのです。知る前は、よく分からなかったのですけれども。

2018年9月19日 (水)

あれこれ

郵便局のサービスがどんどん低下していますね。そう感じませんか?

ウチの近所のパン屋の定番「コロッケパン」が、突然ひと回り小さくなっていて驚きました。その数日後、よく利用するおにぎり屋のおにぎりまで小さくなっていて驚愕しました。

もう従来のサービスが支えられなくなっているみたいですね・・・。

日本の将来を考えると明るい材料が見当たらないのですが、あまり考えないようにしましょう・・・。

さて先日、新国立劇場オペラ研修所の「世界若手オペラ歌手ガラコンサート LE PROMESSE 2018」に行ってきたのです。(このようなコンサートは普通「ガラ」とは言わないと思いますが)
日本人歌手・・・多くの修了生の中から選ばれた優秀な人たち
外国人歌手・・・少数の現役研修生の中から選ばれた優秀な人たち
出演歌手の選ばれ方が日本と外国とで異なっている点が気になる公演でした。日本人の出演歌手はすでに何度も主役を歌っていますし、年齢的にも若手とは言えません。
また、このような研修発表コンサートに合唱の出演は必要ありませんし、生花や舞台装置も不要だと思いました。
聞いたことのない曲も混じっていて、字幕が欲しいところでした。対訳が無料配布されましたが、読む時間がありませんでした。
出演した歌手の中では、「冷たき手を」と「清らかな住家」を歌ったテノール、チャン・ロンがたいへん素晴らしかったですね。ちゃんと演技付きでアリアを歌ってくれました。「清らかな住家」を生で聞くのはいつ以来だったでしょうか・・・。好きな歌なのです。
(好きな人が住んでいる家を「住家」とは言わないと思うので翻訳が変ですね)
この日にアリアが歌われた《シモン・ボッカネグラ》《アドリアーナ・ルクヴルール》《タンクレディ》《ファウスト》など、新国で1度も上演したことがないですよね?

この新国の研修発表会のあと、サントリーホールのブルーローズで上演された《アドリアーナ・ルクヴルール》を見てきました。実在した名女優を表題役に据えた名作オペラ。名女優を演じるのは、さぞかし演じ甲斐があることでしょう。(マリア・カラスは適役だったのになぜ全曲演じなかったのだろう?)
私はこの作品が好きですし、これまでにも見たことがありますが、あまりにも久しぶりすぎてストーリーを忘れていました。そして、字幕付きで見ても詳しい物語は結局分からなかった・・・。
劇中でアドリアーナが「フェードル」の一節を朗唱する場面があるのですが、字幕に「フェドーラ」と出ていたような気がして、私の見間違いかもしれませんが、この場面は出演者の好みによって選択できるようになっているのだろうか、「フェドーラ」だったらどういうふうに公爵夫人を罵倒するのだろうか、などと期待に胸を躍らせていたところ、普通に「フェードル」が朗唱されたのでした・・・。

そう言えば、またマリア・カラスの映画が製作されたのだそうです。「私は、マリア・カラス」という邦題で、作中の半分以上が初公開の素材(未完の自叙伝、秘蔵映像・音源、手紙など)で構成されているのだとか。
またカラス映画が作られるのか・・・と驚きつつ、また見に行ってしまうのだろうなあ。
あーあ、マリア・カラスを演じられるような大歌手が出てこないものですかねえ。

2018年9月13日 (木)

実方の続き

先日このブログで、藤中将実方の逸話を記しました。その逸話を知った時、私はたいへん衝撃を受け、気の毒な人だと思ったのですが、実際はそれほど気の毒な人ではありませんでした。百人一首に採られた「かくとだにえやはいぶきのさしも草さしも知らじな燃ゆる思ひを」の作者が実方なのだそうです。百人一首に入ったら、それだけでもずいぶんな果報者と言えるでしょう。私もこの和歌は昔から知っていましたが、作者の人生なんて気にしたこともなくて、「熊谷陣屋」と結びつかなかったんですね。

そして実方は舞の名手でもあり、上賀茂神社の臨時祭で舞人に選ばれ、御手洗川に映った自分の美貌にしばし見とれた、という伝説も残っています。美形でモテモテだったんだそうですよ。自分の美貌に見とれるなんていう経験を私もしてみたいものだなあ。

そして、実方の死後だいぶ経ってから、西行が弔いの歌を詠んでいます。
「朽ちもせぬその名ばかりをとどめおきて枯れ野の薄〔すすき〕かたみにぞ見る」
・・・あの西行に歌を詠んでもらったら、実方だって成仏するのじゃなかろうか?

実方は、死んだあと雀になって都へ帰ったと言われていますが、この雀は藤原氏の寄宿舎であった勧学院で息絶え、そこに塚が築かれたそうです。この塚は「雀塚」として、勧学院の後身である更雀寺〔きょうじゃくじ〕に今も残されているそうな。(京都市左京区)

そして実方の墓は宮城県名取市に現存しています。松尾芭蕉がこの墓に行こうとしてたどり着けず、句を残しました。
「笠島〔かさしま〕はいづこ五月〔さつき〕のぬかり道〔みち〕」

そして『実方』という能も存在し、長く上演されていなかったのですが、平成5年に復曲されました。ワキは西行で、シテの実方が賀茂の祭りの舞を再現する、という内容。『阿古屋松〔あこやのまつ〕』という能もあり、こちらも先年、およそ580年ぶりに復曲されたのですが、陸奥の歌枕を探し回る実方が塩釜明神の助けにより最後の1つ「阿古屋の松」の場所を知るという内容です。

こんなに手厚く弔われているのですから、羨ましいくらいです。

いろいろ

先日、能の『安宅』を見てきたのです。武田孝史〔たけだ・たかし〕さんの弁慶が、端正で素晴らしかったですね。能にはよく、シテがじっと動かず座ったまま時がひたすら過ぎていく場面がありますけれども、武田さんは座っているだけの場面でどうしてこんなに素晴らしいのだろうと思いました。
弁慶は頭に兜巾をつけているわけですが、明治の断髪令より前、たとえば江戸時代の能楽師は、弁慶を勤める時どのような髪型をしていたのでしょうかねえ?ふだん能楽師は髷を結っていたわけですよね。弁慶に髷は似つかわしくないですし、どうしていたのでしょう?

先日、玉川太福〔たまがわ・だいふく〕さんの浪曲『天保水滸伝』を聞いてきたのです。「鹿島の棒祭り」と「笹川の花会」でした。太福さんは、「浪曲界の若大将」なんて言われているみたいですけど、はるか期待以上に面白い口演でした。「利根の川風、袂に入れて、月に棹さす高瀬舟」なんて、もう最高ですね。最高。「名調子!」なんて声もかかっていましたが、高揚感といいますか、本当にうっとりするような唸りでしたよ。前回聞いた時は、そこまでとは思わなかったのですが、作品の名作度の違いですかねえ。
7月に講談の『天保水滸伝』を聞いたのですが、講談のほうはちょっと物語の場面設定の描写を端折り過ぎなのではないかと思いました。たとえば「鹿島の棒祭り」では、当日のお祭りらしさのようなものがあまり描かれていなかった気がするのです。

11月12日(月)に新宿の角筈区民ホールで、玉川奈々福さんと太福さんの姉弟会があるのですが、まだ良い席も残っているみたいですし、強力にオススメします。

オススメと言えば、今月の歌舞伎座・夜の部の中村吉右衛門さんの俊寛と、国立劇場小劇場・文楽公演の桐竹勘十郎さんの団七は、絶対に見逃さないでいただきたいんですよね。見て何をお感じになるか分かりませんが、とにかく間違いなく必ず見ておくべき舞台なのですから、強くオススメいたします。ぜひともよろしくお願いいたします。

2018年9月11日 (火)

訂正いたします

日本美術というものは不思議なもので、ある特定の時期・特定の場所にバーッと集まり、その展覧会が終了すると、もう見られない。
狩野一信の「五百羅漢図」も、伊藤若冲の「動植綵絵」も、あんなに素晴らしかったのに、もう二度と見られないのではないかとさえ思う。
千葉市美術館の入場者数記録を塗り替えた「田中一村展」で、こんなに素晴らしい画家を私は知らなかったのかと自分の不明を恥じたものですが、その後、田中一村の絵を見る機会が増えたかというと、そうでもない。
3年前に永青文庫で春画展が開催され、大変な話題となり、それを契機にタブー視されていた春画展が一気に解禁となるのではないか、という私の予測は外れて、春画を見る機会も不思議なくらい少ない。(少ないと言うか、ない?)

永青文庫の春画展で、「狐忠信と初音図」という肉筆画が展示されていました。
そのことを、このブログで話題にしたことがあります。

過去の記事1
過去の記事2

その記事の中で、狐忠信が押し倒している鎧姿の女性は静御前でしょうと私は書きましたが、やっぱり「佐藤忠信の妻」が正しいようですね。
と言いますのも、松尾芭蕉の『おくのほそ道』に、佐藤忠信の父親の旧館に芭蕉が立ち寄ったという件りがあるのです。
ものの本によりますと、佐藤継信・忠信兄弟が討ち死にした後、2人の妻は甲冑をつけて夫の母を慰めていたのだそうです。
与謝蕪村の描いた『奥の細道絵巻』には、2人の女性が鎧をつけて座っているところが描かれています。
ですから、春画の中の鎧の女性は、「本物の忠信」の妻であろうかと思われます。

自分が気づかぬうちにブログに間違いを書いてしまう、ということが、これまでにもたくさんあったのでしょうねえ・・・。
私は、編集や経理の仕事をしてきて、「人間とはこんなに間違うものなのか」ということを、驚きとともにたくさん見てきました。
大学の教授ほどの人が、年号や人名などをボロボロ間違えたりするのです。なまじっか詳しく知っているだけに、自信があって、原典に当たらずに記憶で書いてしまい、そして間違っている。そのようなことがよくありました。
どんな人にも間違いはありますし、校正の手が入っていない原稿なんて、出版できないと思うのです。
しかしインターネットは校閲なしでポーンと発表できてしまい、気楽な恐ろしいメディアだなあと改めて思いました。

先日、中島みゆき様の「夜会」のことをこのブログに書きました。第3回の「KAN-TAN」は、能の「邯鄲」に着想を得たもの、と書きましたが、その時の公演パンフレットを見てみたら、『枕中記〔ちんちゅうき〕』が岩波文庫から転載されていました。能ではなく、中国の書物が元だったようです。公演当時、私は当然このパンフレットを読んでいたはずなのですが、どこかで勘違いしてしまったのですね・・・。
みゆきさんは、何かの記事で、邯鄲の話を学校で習った、先生の言っていることはおかしいと思った、と語っていたと記憶しています。
漢文の授業で習ったのでしょうか?
私は学校で邯鄲は習いませんでした。

ブログの間違いは自分で気づかないとずっと間違えたまま。嘘が広まってしまったらどうしよう・・・。

2018年9月10日 (月)

残酷な人

マリア・カラスはたいへん個性的な歌手でしたから逸話も多く残されていますが、次の出来事はあまり知られていないのではないでしょうか。
カラスは1923年生まれ、1947年にヴェローナで《ラ・ジョコンダ》に出演してイタリア・デビューを果たしました。1950年にスカラ座にデビューし、1959年には絶対的な自信を持っていた高音(3点変ホ音)が出なくなります。1960~63年はあまり舞台に出演しませんでした。そして最後のオペラ出演が1965年です
これは、1961年にスカラ座で、ケルビーニ作曲《メデア》に出演したときの話です。冒頭、メデアは、心の離れていった夫ジャゾーネに向かって2回続けて「残酷な人!」と歌いかけます。指揮はトマス・シッパースでした。
 ↓
1961年12月11日の初日、第一幕のデュエットでメデアがジャゾーネに彼女と子供たちのところへ戻るように頼むとき、カラス伝説に寄与する出来事が起こった。シッパースは思い出す。「マリアが『あなたの子供たちの』と歌いだしたとき、聴衆は彼女の歌唱がうまくいっていないと感じたようでした。私は同意しませんが。天井桟敷からひどいシッシッと言う声が台風のように聞こえてきました。マリアは歌い続けて、遂にメデアがジャゾーネを『残酷な人!』という言葉で非難するテキストの地点に達しました。オーケストラはこの言葉に二つのフォルテの和音で従わなければならない。それから二度目の『残酷な人!』と歌う彼女を待ってオーケストラは演奏を続ける。しかし最初の『残酷な人!』の後、マリアはまったく歌うのを止めた。長いフェルマータ、サスペンスにみちた休止。私は疑惑でいっぱいになって見つめた。彼女は客席をねめつけ、劇場のあらゆる目を二つずつとらえ、あたかも“さあ、ご覧。これは私の舞台です。私が欲するかぎり私のもの。もし今、あなた方が私を憎むなら、私はあなた方を同じくらい憎みます”と言うかのようでした。私は見ていて、それを感じました。それからマリアは二度目の『残酷な人!』を直接、観客に向けて歌った。そして沈黙のなかにへこませたのでした。私の生涯でそんなことをあえて劇場でやる人なんて見たことがありません。決して。その後は彼女に対して抗議のつぶやきすらなかったのです。私はがたがたになりました。私自身は“ブウ”を言われたことがありますから、シッシッと言う声に気が転倒したわけではありませんでした。私を追い詰めたのはマリアの休止でした。彼女が再び歌い出したとき私はどうしていいかわかりませんでした。彼女が全部をコントロールしたのです。彼女が歌い出したとき、『私はあなたにすべてを捧げました』という言葉で、カラスは桟敷に彼女の握りこぶしを挙げて振りました」
『マリア・カラス-その人と芸術-』(主婦の友社)より

2018年9月 9日 (日)

実方の一念

歌舞伎と言いますと、松竹や国立劇場の興行のほかに、村のお祭りで村人が年に1回演じたりする「地歌舞伎〔じかぶき〕」や、大学生が部活動として演じる「学生歌舞伎」などがあります。
25年ほど前でしょうか、大学生の頃に私は『熊谷陣屋』の熊谷次郎直実を演じたことがあります。歌舞伎を見始めて2年も経っていないのに、大胆なことでした。
意味の分かっていないセリフを自分が口に出すことに抵抗があったので、戯曲についてはいろいろ調べました。しかし、大したことは分からなかった。

能の謡であれば、詞章の意味を細かく注に記した解説書が出ており、全ての現行曲を網羅していると思うのですが、浄瑠璃の場合は、『一谷軍記』のような代表作とも言える名作でさえ、全編の解説が出ていない。丸本の翻刻は出ていますが、脚注も現代語訳も記されていないと思うのです。これまで国語の分野において、近代という時代区分は研究が手薄だったのではないでしょうか。誠に残念なことです。

相模のセリフに「香の煙に姿を現し、実方は死して再び都へ帰りしも、一念の為すところ」というのがありますけれども、「実方〔さねかた〕」というのが私にとって長らく謎の人物でした。(今でしたらインターネットで検索すれば良いのですが)
それが一昨年、『おくのほそ道』を経由して、実方の人物像が私の眼前に立ち現れたのです。20年以上も謎の人物だった実方、死んだのちに都へ帰ったという摩訶不思議な伝説を持つ魅惑の男が突然、正体を現した。その時の興奮をお分かりいただけますでしょうか。
松尾芭蕉の『おくのほそ道』には、「実方の墓に行こうとして行けなかった」という件りがあるのです。
そして森本哲郎:著『おくのほそ道行』には、このような記述がありました。

桜狩〔さくらがり〕雨は降り来ぬ同じくは
           ぬるとも花のかげにかくれむ
この歌が“事件”の発端だった。藤中将実方〔とうのちゅうじょうさねかた〕が花見に東山に遊んだとき、雨が降りだした。そこで彼は桜の木の下に雨宿りをして右の歌を詠んだのだが、この一首が一條帝の前で披露されたとき、実方の傍らにいた藤原行成〔こうぜい〕が、歌は面白いが、わざわざ桜の木陰で雨に濡れるなんてバカげている、と評したのである。それをきいて実方は大いに腹を立て、のちに殿上で行成にあったとき、何がバカげているのか、と食ってかかり、口論のすえ、手にしていた笏〔しゃく〕で行成の冠をたたき落として庭に投げ捨てた。
さあ、ただではすむまいぞと、みな片唾を呑んで見守っていると、このとき行成すこしも騒がず、おだやかに主殿司〔とのもづかさ〕を呼んで冠を拾わせ、髪を直し、襟もとただして冠をかぶり、静かな口調で、「これはいったい、どうしたことか。これほどの乱暴をされるおぼえはないのに、あまりの狼藉ではないか」とさとした。こうした相手の落ちついた態度に実方はすっかり面目を失い、無言で立ち去るほかなかった。それを帝は一部始終ご覧になっていて、行成こそ勇々〔ゆゆ〕しく、おだやかな人物だと蔵人頭〔くらんどのかみ〕に取り立てられ、実方に対しては「陸奥の歌枕を調べて参れ」と命じられた。つまり、実方は陸奥へ左遷させられたのである。そこで実方は東国へくだり、陸奥の歌枕を尋ねてまわったが、阿古屋〔あこや〕の松だけがどうしても見つからず、さんざん捜したすえ、ある老翁に教えられて、やっとつきとめたという。だが、こんなに苦労をしたのに、ついに帝のおゆるしは出なかった。
(中略)
ある日のこと、彼は笠島〔かさしま〕の道祖神の前を馬に乗りながら通り過ぎようとした。すると、里人が「ここに祀られている神は霊験〔れいげん〕あらたかな神さまだから、罰が当たりますよ。馬からおりて拝んで行きなされ」と忠告した。「ほう、いったい、どんな神なのかね」と実方がきくと、里人はこう説明した。
「ここに祀られているのは、都の賀茂〔かも〕の河原の西、一條の北のあたりにいました出雲路〔いずもじ〕の道祖神の女〔むすめ〕で、父はその娘をたいへん愛〔いつく〕しんで、いい夫にめあわせようとしていたのですが、娘は父のいうことに背いてある商人〔あきんど〕に嫁〔とつ〕いでしまいました。そこで父は大いに怒って勘当〔かんどう〕し、この国へ追放したのですが、この国の人が道祖神の娘ということで崇〔あが〕め敬〔うやま〕って、ここに祀ったのです。そして何か願いごとがあると貴賤男女を問わず、この祠〔ほこら〕に陰部の形につくった懸飾〔かけかざ〕りを奉納してお祈りをすると、願いのかなわなかったことがありません。あなたさまも都からはるばるここへくだってこられたのだから、さだめし都へ帰りたいと思っておられることでしょう。ですから、そのようにして拝めば、きっと都へお帰りになることができますよ」
すると実方は、「なんだ、そんな下品〔げぼん〕の女神〔にょじん〕なのか。そんな神なら下馬するに及ばない」といって、そのまま通り過ぎようとした。と、女神が怒りを発して、「馬をも主〔ぬし〕をも罰し殺し給いけり」という始末になったのである。とつぜん馬が暴れだし、狂奔して斃〔たお〕れ、実方も馬の下敷になって絶命したのだという。そこで里人はあわれみ、この祠の傍らに葬ったのが、笠島で私が見てきた実方の墓だというのだ。
『源平盛衰記』の作者は、さらにつづけて、こう書いている。
――人臣に列〔つらなっ〕て人に礼を致さざれば流罪〔るざい〕せられ、神道を欺〔あざむ〕いて神に拝を成〔な〕さざれば横死にあへり。実〔まこと〕に奢〔おご〕る人也〔なり〕けり。
そして、死んだ実方は都恋しさのあまり、「雀といふ小鳥」になって都へ飛んで行き、いつも殿中の台盤(食膳)にとまっては、残りの米粒を食べていた――とある。

相模の「実方は死して再び都へ帰りしも」という、こんなに短いセリフの向こうに、こんなに大きな逸話が隠されていたことに、私はたいへん感動したのでした。

おくのほそ道

わたくし、2年前の夏から、松尾芭蕉の『おくのほそ道』に心ひかれているのです。
以前は、その魅力がよく分からなかったんですね。ところが、夏の墓参りのために実家に帰省した際に、親の蔵書の中にに『おくのほそ道行』(森本哲郎:著、笹川弘三:写真)という本を見つけ、パラパラと読んでいるうちに、興味を持つようになったのです。
古文というものは大抵そうですが、本文だけを何度読んでいても、含意や背景が分からないと思うのです。でも、優れた解説書に出会って、そこが分かるとやっぱり面白いですよね。

芭蕉は、『おくのほそ道』の旅で、東北地方の歌枕を訪ね歩くわけですが、歌枕が激変していたのだそうです。東北の歌枕は、もともと歌人の頭の中で作り上げられた幻想の土地という側面があるにしても、すごく変化していたのだそうです。
そうしてその旅のあとに、「不易流行」ということを芭蕉は言い始めます。

不易流行とは、宇宙はたえず変化(流行)しながら、じつは不変(不易)であるという宇宙観でした。それは同時に自然観でもあり人生観でもあります。時の流れとともに花や鳥も移ろい、人も生まれて死んでゆく。その花や鳥や人も不易なるものが時とともに流行する姿なのです。
『松尾芭蕉 おくのほそ道』(長谷川櫂:著)より


芭蕉の言った「不易流行」は高校の古文で習いました。でもその時は何のことだか分かりませんでした。
これは、『方丈記』にある「ゆく河の流れは絶えずして、しかももとの水にあらず」と同じことだと思います。鴨長明のほうがだいぶ前ですが、芭蕉も同じことを言っています。それは普遍的な物事の捉え方であり、誰もが同じことに気づくわけですが、本当に実感として気づくタイミング、人生における時期というものは、人によって異なるでしょう。

去年の夏は、立石寺、最上川、象潟、酒田など、『おくのほそ道』の名所を訪ねてみました。まだ行ってみたいところがいろいろあります。芭蕉が実感した激変よりも更に激変していて驚きます。そして味わい深い。

2018年9月 6日 (木)

増補忠臣蔵

鶴澤寛治師匠がお亡くなりになりました。
寛治師匠と言えば、鶴澤寛治という大きな名跡を襲名する際の披露狂言が『増補忠臣蔵』でした。増補物で大名跡の襲名披露というのが私には不思議に思えたのですが、この時、孫の寛太郎さんが13歳で初舞台を踏まれています。初舞台が三千歳姫の琴だったんですね。琴で初舞台というのがすごいと思ったのです。三味線弾きですから三味線が弾けるのは当たり前、「それ以外に」これだけのことをすでに教えてあります、という特別なお披露目でした。ですから、お孫さんの初舞台という点に重きを置いて選ばれた演目なのかなと思っておりました。(私はこの舞台は拝見していませんが・・・)

しかし、講談や浪曲では外伝だの銘々伝だのたくさんの忠臣蔵物がありますけれども、文楽では『仮名手本忠臣蔵』という絶対的な名作がある状況で、1つだけ話を補うとすれば、やはりこの場面になるのかなあと思うのです。
『忠臣蔵』の九段目「山科閑居」で、加古川本蔵が「忠義にならでは捨てぬ命、子ゆえに捨つる親心、推量あれ由良助殿」と言います。これは、「自分の命は忠義のためだけに捨てるつもりだった、しかしそれはやめて、娘のために命を捨てることにした」という意味だと思いますが、そうしたら当然、「忠義のほうは一体どうなったのか?」ということが気になるはずです。それに答えを与えたのが『増補忠臣蔵』なのでしょう。

人間は、やりたいことがあったとして、その全てを実行に移すわけではないでしょう。たとえば、「それをすると死んでしまう」ということには手を付けません。ところが武士というものは、死ぬことで出来る夢があるなら、やってしまう人々なのだと思います。死ぬのが怖いと戦えませんしね。

自分の命を何に使うか、それは誰にとっても大きな問題ですし、出来ることなら自分で選び取りたいものですね・・・。

2018年9月 5日 (水)

坂東玉三郎・越路吹雪を歌う

先月、茨城県つくば市にあるノバホールで、玉三郎さんのコンサートを聞いてきたのです。4月のNHKホールでのコンサートには行きませんでした。人事異動があったりして、人生が激変して、生きることだけで精一杯だったので・・・。
東京から離れた会場のほうが、舞台に近い席で見られるかなと思って、茨城県まで足を運んだのでした。

会場内は、「越路吹雪さんのファン」といった雰囲気の方が多かったでしょうか。
歌っている最中に喋ってしまうおばさんたちが前列にいて、やっぱり東京のほうが良かったかなと思いました。

姿月あさとさんと真琴つばささんが出演して3人で順番に、時には一緒に歌ったのですが、歌の合間のお喋りも洒落ていました。

真琴つばささんが歌った「ラストダンスは私に」は、ちょっと踊りながら、少し演技しながら歌っていて、たいへん素晴らしく、越路吹雪さんの舞台ってこんなふうだったんじゃないかなと思いました。
でも踊ったり演技したりしながら歌ったのはその1曲だけだったようです。

玉三郎さんはあまり動いたり演技したりしない歌唱でした。
大竹しのぶさんも「愛の讃歌」を歌う時にあまり演技しないですね。
演技するのは美輪さまくらいですかね・・・。
(美輪さまは岩谷さんの訳詞では歌いませんが)

私は2011年の赤坂BLITZでのコンサートも行きましたし、昨年の帝国ホテルでのコンサートも行きましたが、玉三郎さんはだんだん歌がうまくなってきているようですね。私がこんなことを書くのもおこがましい感じですが・・・。

ロビーで、越路吹雪さんの幻のCD「世界の恋人たち」が販売されていたので、購入してみました。いま聞いているところです。

関係ありませんが、「恋人たち」を「恋人達」と書くな、「たち」を「達」と書くのは間違いだ、と私は高校生のころ小論文の先生に厳しく注意されたことがありました。

2018年9月 4日 (火)

オペラ公開稽古

先日、演出家の田尾下哲さんがオペラの一場面を演出するところを見学して来ました。モーツァルト作曲《フィガロの結婚》から、10分くらい(?)の場面でした。伯爵がスザンナを探しに来て、今宵2人きりで会おうと告げる場面です。

ホームページの事前のお知らせでは、公開稽古は15時から21時まで6時間となっていたのですが、実際は20時までの5時間で、だいたい1時間ごとに10分くらい休憩が入りました。どこで休憩が入るのか等、全体の構成が前もって分からないので、結構疲れました・・・。トイレはいつ行けばいいんだろうとか、飲食はどうなんだろうとか。パイプ椅子に5時間座っていて、隣の人の肩が当たるくらい隙間がなくて、まあ面白かったんですけども・・・。

自由席だったので早めに行って1番前の席に座ったのですが、私より早く来ている人もいました。気合が入ってるなあ、と思ったらその人が最前列で爆睡していてビックリでした。最前列で、すぐそばを歌手が何度も通るのに足を組んでいて居眠りしていて、どんだけずうずうしいジジイなのかと心底驚きました。

今回の公開稽古では、3人の演出家が同じ場面を演出するところを見比べられるようになっており、別の日に岩田達宗さん、菅尾友さんの稽古もあるのですが、私は田尾下さんの日しか見られません。

取り上げる10分ほどの場面では、ケルビーノは歌うところはないのですが、演技だけのためにケルビーノ役の歌手は参加しています。田尾下さんの演出では、お客様サービスということで(?)、今回特別に「恋とはどんなものかしら」の冒頭を歌う場面が付け加えられていました。

最初に1時間ほど田尾下さんが演出コンセプトを早口で喋り倒しました。ボーマルシェの原作の話が多かったですかねえ。「登場人物は何の目的でこの部屋にやって来たのか」ということを詳しく話していましたね。伯爵には「スザンナを誘惑しに来た」という明確な目的があるわけですが、他の登場人物は実際のところなぜこの部屋に来たのか、ぼんやり見ていると分からないんですよね。
と言うか私は《フィガロの結婚》をもちろん何度かは見たことがありますけれども、ストーリーの詳細は覚えていないです。例えば《椿姫》とか《ラ・ボエーム》だったら、ここでこうなって、次はこうなってと全部覚えていますけれども、《フィガロの結婚》は全然覚えていない。えー、そうだったっけ?という感じ。

「ショーシャンクの空に」という映画がありまして、刑務所の中で伯爵夫人とスザンナの「手紙の二重唱」がスピーカーから流れ、アメリカの囚人たちはイタリア語の歌詞が全く分からないけれど、何かきっと素晴らしいことを歌っているに違いない、だってこんなに美しいメロディーなのだから・・・
というシーンがあったと思います。(うろ覚え・・・)
何か、私も、モーツァルトのオペラって、歌詞の意味を全く知らなかった昔のほうが美しかったような気がするのです。

《フィガロの結婚》と言うくらいで、フィガロはタイトルロールなのだと思いますが、彼が歌う一番有名なアリア「もう飛ぶまいぞ、この蝶々」、この歌詞の意味の分からなさと言ったらない。どういうところが面白いのでしょうか?何かこう、ヨーロッパ人でなければ読み解けない裏の事情みたいなものが隠されているのではないかと不思議に思う。それはちょうど、能の謡が日本人にしか理解できないみたいに。伯爵の「賭けに勝っただと?」も全く意味が分からない。翻訳を読めば言葉は分かるけれど歌う意味が分からない。

それで田尾下さんの演出ですけれども、演出と言うよりも踊りの振付みたいな感じでした。歌の、あるいは伴奏(今回はピアノ)の、「このタイミングで、この動きをしてください」という感じで、まさに振付です。「ここで、あなたの右手で彼の右手を掴んでください」「ここでテーブルの上に座って時計回りにくるっと回ってください」というような。
最初の1時間の喋りを除くと4時間、10分程度の場面を4時間で演出して、最後に通してやったのですが、ちょっと時間が足りないようでした。振りが多くて歌手が覚えきれないのでした。もっと時間がほしいと言っていました。

一応、歌っている人が能動的に動く、歌っていない人はそれを受ける、という構成になっていたそうです。歌っていない人もかなり動き回っていましたが・・・。早すぎて見ているほうも分からないのではないかと思う場面もありました。(ケルビーノがスザンナのうしろからバジリオの手を指さして伯爵に教えるところ、と書いても読んでる人には分からないでしょう、歌詞にもト書きにもない動きなので)

伯爵を歌った黒田さんは、「20年前の歌手だったら、こんなに動けなかっただろうし、やれと言ってもやらなかっただろう」とコメントしていました。スザンナを歌った腰越さんは、「最近は予算がなくて、これだけ細かい稽古はやりたくてもなかなか出来ない、稽古場が借りられなくて」と言っていました。バジリオを歌った大槻さんは、「過去の田尾下さんの演出では、もっと細かい時もあったから、今日は少ないほうでした」と言っていました。ケルビーノを歌った青木さんは、「私は田尾下さんに踊り要員と思われているみたいで、たいてい踊らさせられます」と言っていました。
田尾下さんは、モーツァルトの音楽を全て生かそうと思うと動きを詰め込みたくなる、もったいないと思ってしまう、時代とともにだんだん歌手の動きが多くなってきていて、自分の演出は最も動きが多いほうだというようなことを言っていました。

オペラ公演も全般的に予算が減ってきて、稽古時間が短くなり、それで田尾下さん演出のオペラを見る機会が少ないのかなあ、などと思いました。

とにかく「こんなに短い場面を準備するのにこんなに時間がかかるのか!」ということに驚きました。私が想像していたような作業と全然違っていました。

2018年9月 2日 (日)

9月歌舞伎座

9月の歌舞伎座を昼夜とも見てきました。
待ちに待った福助さんの復帰でした。
本当にこの瞬間を迎えられるのかなと思ってドキドキしてしまいました。
鳴り止まぬ拍手。綺麗でした。涙が出ました。
良かった、良かった。
おめでとうございます。

ヴェネツィアの女はみんなそうしたもの

そして結局のところ、デズデモーナは本当に貞淑な妻だったのでしょうか?

『ゼッフィレッリ自伝』フランコ・ゼッフィレッリ:著、木村博江:訳より
映画に出来てオペラに出来ないことの一つが、容姿の点では不的確な歌手を口だけ動かす俳優と置き換えることだ。主役にこの方法を使えば観客はだまされたと思うかもしれないが、脇役にはこの方法を採っても良いのではないかと考えた。「オテロ」では、オテロの嫉妬を掻き立てるためにイヤーゴに使われる若い士官、カシオがその好例である。カシオはオテロに疑いを抱かせるほど若い美男でなくてはならない。私のイメージするカシオはおそらくデズデモーナの幼馴染みの若いヴェネツィア貴族だ。だからこそ彼女は彼を何度も必死でかばい、夫に最悪の妄想を抱かせるのだ。デズデモーナとカシオのような上流階級の若く呑気なヴェネツィア人たちは、かなり簡単に肉体関係を結んだであろう。冗談や遊びの感覚が強く、彼らにとっては何でもない。しかし完全にキリスト教の教育を受けたオテロにとっては、それは堪え難いことだった。私はカシオにイタリア貴族の若者、プリンス・ウルバノ・バルベリーニを選んだ。彼はその名が示すように公爵や皇太子の子孫で、先祖には法王も混じっていた。彼もまたデズデモーナと同じように金髪で、二人の外見的な類似が、一層オテロとの対照を強めた。p592

シェイクスピアの戯曲『オセロー』を(日本語訳ながらも)読んだり、芝居で見たり、オペラ《オテロ》を見たりしておりますと、デズデモーナは貞淑であったのに「誤解から」殺されてしまったと思うわけですが、実際には彼女はカシオと寝ていたのかもしれない。ヴェネツィアとは、そういう街だったから。
もしそうであるとするならば、死にゆくオセローは美しい幻想を抱いて死んでいけるから幸せだったのかもしれない。やっぱり妻は貞淑であったのだという美しい幻想。
寝たのか?寝ていないのか?それは誰にも分からない。(この世のことは全て冗談)

2018年9月 1日 (土)

そんなの邯鄲

私は今46歳ですが、14歳の頃から中島みゆきファンなのです。暗い少年だったのですね。そして「夜会」は第2回から全て見ています。第1回の時も行きたいとは思いましたが、まだ私が子供すぎて、全く行ける状況ではなく、チケットを取ろうともしませんでした。ですから、チケットを取ろうと思った第2回以降は、取れなかったことがないわけです。この「夜会」は、現在は赤坂Actシアターで上演されることが多いですけれども、当初はシアターコクーンという小さな劇場で、客席数が極端に少なかったため、ファンクラブの会員でさえ3割くらいの人しか見られなかったのだそうです。私はこのチケットを取るために人生の運を全て使ってしまったのではないかと思うくらいです。
そうして回数を重ねている「夜会」ですが、私が一番感動したのは、何と言いましても第3回の「KAN-TAN(邯鄲)」です。これは、能の「邯鄲」から着想を得た、恋愛の歌物語でした。

「邯鄲」という曲名の発音は、頭の「か」にアクセントが付けられるのが一般的です。これは文字を見ているだけでは分からないわけですが、能楽師がトークショーなどで実際に口にするところを何度も聞いたことがあります。

関係ありませんが、舞台のチケットを取る時「カンフェティ」というサイトを利用することがありますけれども、このConfettiという言葉は「紙ふぶき」という意味だそうです。「カンフェティ」を声に出す時、頭の「カ」にアクセントを置く人が多いようなのですが、confettiを辞書で引くとアクセントはfeに付いております。文字で見ただけでは分からないわけですが。

confetti
の場合は辞書を引けば正しいアクセントが分かりますが、「邯鄲」はもともと中国の地名なのですから、日本人が「かんたん」をどのように発音してもそれは中国人にとっては間違いなのであり、すなわち正しいアクセント、間違ったアクセントというものはないのではないかと私は思うのです。
なぜこのような話をしているのかと言うと、「邯鄲」は、「簡単」という言葉と掛詞になっていると思うからです。
何が簡単なのかと言うと、悟りを開くことが簡単だとこの能は言っているのです。
人が悟りを開くと聞けば、何か難しい、遠い世界のことのように思うかもしれませんが、それは単に「気づくか」「気づかないか」というわずかの違いであり、何もテストで満点を取れとか、100メートル走で10秒を切れなどと無理なことを言われているわけではなく、何の準備もなくても、誰でも、今日にでも悟りを開けるのです。気づきさえすればそれは簡単なことなのです。

それでは盧生は、何を悟ったのでしょうか?この世の空しさを悟ったのでしょうか?欲しいと思っていた、そういうふうになりたいと思っていた、その世界を夢の中で自分が体験して、「いらない」と気づいたのでしょうか?もう欲望が消え去ったのでしょうか?実際に体験すると欲望は空しいのでしょうか?悟りとは欲望を消し去ることなのでしょうか?

欲望は悟りによって消え去るでしょうか?空腹は悟りで消え去るでしょうか?

中島みゆきの「KAN-TAN」で提示されたのは、悟りによって欲望が消えるということではなかった。
・欲しいものが手に入らない→不幸
ということになると、人はずっと不幸でいなければならない。
「欲しいものが手に入らなくても、不幸とは限らない」という価値観の大転換を示したところに、私は感動したのでした。

能の「邯鄲」は、若手能楽師にとって憧れの曲のようで、わりと頻繁に上演されます。
私も何度か見ていますが、盧生が夢から覚める場面は演者によってだいぶ演り方が異なり、すごい迫力の時もあれば、そうでもない時もあります。林宗一郎さんの「邯鄲」は、この場面が実に見事でした。素晴らしかった。

幸福な時間は短い。あとは待合室

お年を召した方はあまり感じないらしいのですが、国立劇場ってどうしてこんなにみすぼらしいのかと私は思うのです。駅からの導線が裏さびれた感じがします。特に永田町から歩いてくると、鉄条網を見ながら正面に回らなくてはなりません。前庭の黒アスファルトも安っぽい印象を与えています。

私が日本芸術文化振興会に就職したのは、平成7年のことでした。そして平成8年が国立劇場30周年記念でした。その時、上の人から、国立劇場は40年たったら建て替えられるのだと聞きました。もともとそんなに長く使えるように作っていないのだそうです。私は「ああ良かった」と思いました。
海外の劇場はもっと格段に長く建物を使っているのに不思議だとは思いましたが、実際、50年たった今、雨漏りがしたり、異臭がしたり、冷暖房が十分でなかったりしています。
建物は配管から先に駄目になっていくのだそうで、上下水道や空調の配管がもう限界とのことです。
今度の東京オリンピック前に建て替えを完了するという話もあったのですが、オリンピック終了後に延期となりました。
そしてオリンピックが終了したら解体に取り掛かる予定でしたが、それもさらに延期になりました。
建て替え時期は白紙の状態となりました。
とにかく文部科学省は国立競技場の建て替えで悲惨な目にあったわけで、誰もやりたくないみたいです。
国立競技場ほどの世論の後押しもないですし・・・。
建て替えは必要ないという意見も根強くあるみたいです。
日本の国立劇場は世界一みすぼらしい国立劇場と私は思っているんです。
西洋の歌劇場のようにキラキラである必要はありませんし、それは誰も望んでいないと思いますが、ちょっと快適なホテルと同じくらいの美しさはあっても良いのではないかと思うのです。
国立劇場の裏手のスロープは出来た当初からデコボコでしたし、伝統芸能情報館は建った直後から壁にヒビが入っていました。
日本の公共建築は押しなべて非常にレベルが低いと感じています。
建て替えるのなら組織に新しい役割を加えるべきだという意見も聞かれるのですが、今やっていることさえ満足に出来ていないのに、新しいことなんて難しいと思います。
劇場として当然のことをまず今ちゃんとやってほしいのです。
例えば、12月にDiscover BUNRAKUという外国人向けの公演が行われるのですが、英語の公演情報をインターネット上で見つけるのは難しいと思います。国立劇場ホームページの英語版サイトは、誰も公演情報を見つけられないと思います。この公演がどのような公演なのかという説明もあらすじも何もない。
いま、文楽の研修生を募集している期間なのですが、その情報もホームページで見つけづらい。そしてカリキュラムや講師も紹介されていない。文楽研修生の募集は日本の伝統芸能にとって決定的に重要な事柄であるにもかかわらず。
新国立劇場の会報ジ・アトレはオールカラーなのに、国立劇場の会報あぜくらはオール白黒。この差は何なのでしょうか?
暗い材料しか思い浮かびませんね・・・。

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