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2019年3月10日 (日)

京鹿子娘道成寺

5月の歌舞伎座で、『京鹿子娘道成寺』が上演されます。これは新しい歌舞伎座で初めての上演となります。福助さんの歌右衛門襲名で上演されるはずだったのが、流れてしまい、誰が踊ることになるのかなと思っていました。福助さんのご子息の児太郎さんが踊るのか、鷹之資さんが二十歳になった時に富十郎を襲名して踊るのか、などと考えていましたが、菊之助さんが踊るそうですね。

こんなに長く『娘道成寺』が上演されなかったのは、初めてのことではないでしょうか。まるで時が止まってしまったかのようでした。止まっていた時が、また動き始めるんですね。

『娘道成寺』は何度も見てきましたが、ずっと歌詞の意味が分かりませんでした。部分部分の単語の意味は分かっても、全体として意味が分からない。
ところがある時、突然、歌詞の意味が分かったのです。これは私にとって、たいへん衝撃的な出来事でした。

2010年に書いた記事を、少し手直しして、ここに再掲載しておきます。

『京鹿子娘道成寺』「道行〔みちゆき〕

〔つき〕は程〔ほど〕なく入汐〔いりしお〕の 煙〔けむり〕〔み〕ち来る小松原〔こまつばら〕 急ぐとすれど振袖〔ふりそで〕の びらり帽子〔ぼうし〕のふわふわと
しどけなりふり ああ恥ずかしや 縁
〔えん〕を結ぶの神ならで 花の御山〔みやま〕へ物好〔ものず〕き参り 味な娘〔むすめ〕と人ごとに 笑わば笑え浜千鳥〔はまちどり〕
君と寝〔ぬ〕る夜〔よ〕の後朝〔きぬぎぬ〕を 思えば憎〔にく〕や暁〔あかつき〕の 鐘も砕けよ撞木〔しゅもく〕も折れよ さりとてはさりとては 縁〔えん〕の柵〔しがらみ〕せきとめて
恋をする身は浜辺
〔はまべ〕の千鳥〔ちどり〕〔よ〕ごと夜ごとに袖〔そで〕〔しぼ〕る しょんがえ 可愛〔かあい〕可愛と引きしめて しょんがえ 交わす枕のかねごとも
〔た〕の面〔も〕に落つる雁〔かり〕の声〔こえ〕 ただ我〔われ〕をのみ追い来るかと 科〔とが〕なき鐘を恨〔うら〕みしも この罪科〔つみとが〕の数々〔かずかず〕を 読めども尽〔つ〕きじ真砂路〔まさごじ〕 急ぐ心〔こころ〕は花〔はな〕早き 道成寺にこそ着きにけり 道成寺にこそ着きにけり

上に記したのは、現行の竹本の詞章です。むかしは、家ごとに異なる曲を使ったそうです。十代目の三津五郎さんは常磐津で踊りました。しかし現在、大抵は上記の竹本の詞章で上演されます。

そもそも『京鹿子娘道成寺』は、『男伊達初買曽我
〔おとこだてはつかいそが〕』という長い芝居の、最後の部分の舞踊です。「法界坊〔ほうかいぼう〕」と同じ構成ですね。最後の部分だけ舞踊になっているのです。その前の芝居の部分は、残念ながら台本が残っていません。初演時の役名は、清姫ではなく「よこぶえ(横笛)」でした。しかしおそらく、清姫と同じように、鐘に恨みを残して死んだことは間違いないでしょう。何らかの形で鐘を恨みながら死んだことは間違いない。

初演時(宝暦期)の芝居は、ロングラン形式でした。客が入る限り上演し続けるわけです。千秋楽が決まっていない。終わる時は、みんなが見飽きた時。次の芝居には、何か別のものを上演しなくては客が入りません。清姫の話はみんな既に知っているので、別の話、横笛という新しいヒロインが登場します。残っている資料によりますと、初代中村富十郎が演じる横笛は、前の幕で身分の高い人に横恋慕して、嫉妬のあまり無茶をするので、殺されてしまいます。その亡霊が現れて踊るのが『京鹿子娘道成寺』です。

前の幕で殺されたはずの富十郎が出てきて踊り始める、「あれは何て言う役だい?」「さあ…?」観客には、彼女が何者なのか、よく分かっていません。

ところで、この「道行」の部分は、初演時の正本
〔しょうほん〕が残っています。現行の詞章と見比べると、かなり変化していることが分かります。
(正本をチェックしようと思ったのですが、そんなことをしていると、いつまで経っても記事が書けないので、文学部出身にもあるまじき孫引き!間違っていても怒らないで!!)

〔つき〕は程〔ほど〕なく入汐〔いりしお〕の 煙〔けむり〕〔み〕ち来る小松原〔こまつばら〕 急ぐとすれど恋風〔こいかぜ〕の 振袖〔ふりそで〕重く吹きたまり びらり帽子〔ぼうし〕のふわふわと
しどけなりふり おお恥ずかしや 縁
〔えん〕を祈りの神ならで 鐘の供養〔くよう〕へ物好〔ものず〕き参り 味な娘〔むすめ〕と人ごとに 笑わば笑え百千鳥〔ももちどり〕
君と寝〔ね〕し夜〔よ〕の後朝〔きぬぎぬ〕の 飽〔あ〕かぬ別れの悲しさを 思えば憎〔にく〕や世の中の 鐘も砕けよ撞木〔しゅもく〕も折れよ さりとてはさりとては 縁〔えん〕の柵〔しがらみ〕せきとめて 恋を知らざる鐘つきの 情〔なさ〕けないぞや恨〔うら〕めしと 忘るる暇〔ひま〕も涙川〔なみだがわ〕 恋の氷〔こおり〕に閉じられて 身を切り砕く憂き思い
恋をする身は浜辺
〔はまべ〕の千鳥〔ちどり〕〔よ〕ごと夜ごとに袖〔そで〕〔しぼ〕る しょんがえ 君に逢〔お〕う夜〔よ〕は梢〔こずえ〕の烏〔からす〕 可愛〔かあい〕可愛と引きしめて しょんがえ 交わす枕のかねごとに
〔また〕の御見〔ごげん〕はいつかはと 心〔こころ〕〔づ〕くしの年月〔としつき〕は 門〔かど〕に松〔まつ〕立つ旦〔あした〕より 梅〔うめ〕が香〔か〕〔にお〕う窓の内〔うち〕 桜も散りて早苗〔さなえ〕とる 蛍〔ほたる〕の夕〔ゆう〕べ五月雨〔さみだれ〕に 蚊遣〔かや〕りふすぶる軒〔のき〕のつま 秋風〔あきかぜ〕そよとおとずれて 田〔た〕の面〔も〕に落つる雁〔かり〕の声〔こえ〕〔げ〕に月〔つき〕ならば十三夜〔じゅうさんや〕 菊の下露〔したつゆ〕濡れ初〔そ〕めて 妻恋〔つまこ〕いかぬる小牡鹿〔さおじか〕や 鴛鴦〔おし〕の衾〔ふすま〕の薄氷〔うすこおり〕 これみな恋の色〔いろ〕と香〔か〕に 語り明かさぬ夜半〔よわ〕もなし 別れ惜〔お〕しめど暁〔あかつき〕の 鐘〔かね〕〔は〕や鳴りて鳥〔とり〕の声〔こえ〕 ただ我〔われ〕をのみ追い来るかと 科〔とが〕なき鐘を恨〔うら〕みにし この罪科〔つみとが〕の数々〔かずかず〕は 読むとも尽〔つ〕きぬ真砂路〔まさごじ〕 急ぐ心〔こころ〕かまだ暮れぬ 日高〔ひだか〕の寺にぞ着きにける

現行の詞章は、カットが多くて、意味が取りにくくなっています。正本の詞章を解釈してみましょう。

問1.彼女はなぜ急いでいるのか。
答1.急がないと、鐘が鳴ってしまうから。
問2.急いでいるのに、なぜ歩きづらい服装をしているのか。
答2.鐘供養のお祝いの場に相応しい、お洒落な格好をしていたいから。

「娘道成寺」に関する資料を読んでいますと、「どうすれば急いでいるように見えるか」という口伝
〔くでん〕はよく紹介されているのですが、「なぜ急いでいるのか」という口伝は載っていません。それを考えるのが個々の俳優の仕事であり、また観客の楽しみでもあります。「急いでいる」というのは、詞章に書かれているのですから、間違いのないところです。「なぜ急いでいるのか」それは詞章には書かれていない。そこを考えるのが「行間を読む」ということです。何を想像しても良いのです。数学と違って、間違いということはありません。

「いま何時なのか」時間を知る方法は、何通りかあるだろうと思います。汐が満ちてきたから何時ごろ、月があの方角なら何時ごろ・・・など。しかし、汐を読んだり月を読んだりするのには、相応の知識が必要です。彼女には、そのような知識がありません。鐘が鳴らない限り、まだ、時刻になっていないのです。時刻の狭間に永遠に漂う女。

こんなお洒落した姿で恥ずかしい。私くらいの年ごろの女だったら、恋愛成就祈願のお参りにでも行きそうなものだけれど、私がこれから行くところは、鐘ができたお祝いの会なの。物好きな女だなって、笑いたいなら笑えばいいわ。

百千鳥〔ももちどり〕」というのは、初代富十郎のライバルである初代瀬川菊之丞の踊った『百千鳥娘道成寺〔ももちどりむすめどうじょうじ〕』への当てつけです。「笑う人がいても、鳥が鳴いているのと同じ、私は気にしないわ」という花子の描写と、「先行の人気舞踊『百千鳥娘道成寺』なんて気にしないよ」という富十郎の描写が重ねられています。

好きなあの人と一緒に寝た日の朝、まだ一緒にいたいのに、別れの時刻を知らせる鐘が鳴って、あの人が帰っていく。世界中の鐘も撞木も壊れてしまえばいいのに。2人の縁を邪魔する鐘、そして鐘を鳴らすお坊さんが恨めしい。

恋を知らざる鐘つき」というのは、僧侶〔そうりょ〕のことです。僧侶は女人禁制なので、恋を知らないわけです。自分が恋を知らないから、そんな無慈悲なこと(=別れの時刻を知らせる鐘をつく)ができるのだろう、恨めしい、という描写です。

むかしは鐘の音で時刻を知ったのですが、現代の感覚と違って、5分や10分くらい平気でズレていただろうと思うんです。そのあたりは、鐘をつく僧侶に全部任されていたわけです。規則正しい生活をして、「これがこうなったら何時」と把握できる知識もあり、自分たちで時刻を作り出していた。鐘が鳴らないと、町の人々は何時だか分からない。任せてしまったら、自分では分からない。まして恋をして、好きな男と一緒にいる女だったら、鐘さえ鳴らなければ時間は止まったまま。鐘さえ鳴らなければ。

恋をする身は浜辺の千鳥 夜ごと夜ごとに袖絞る しょんがえ」というのは、「謎かけ」です。「Aとかけまして、Bと解きます、その心はCでございます」というやつです。AとBは一見すると何も関係ないように思えるけれど、Cという共通点がある。AとBは、かけ離れているほどいいし、Cは、ABそれぞれの核心を突く事柄がいい。「その心は」と言う前に「C」が思い浮かんでしまうようでは、いい謎かけとは言えません。「恋をする身とかけまして、浜辺の千鳥と解きます、その心は、夜ごとに袖を絞ります」という謎かけの歌となっています。「袖を絞る」と言ったら、それは「恋のために泣いて、拭いた袖が涙で濡れて、絞ったらビショビショ出てきたわ」という誇張表現です。むかしからの定番表現。「袖が濡れる」「袖を絞る」と言ったら「恋の涙」に決まっているのです。そういう和歌がたくさんあるので、聞いたらすぐにピンとくるものなのです。
「わが袖は 潮干〔しおひ〕に見えぬ 沖〔おき〕の石の 人こそ知らね 乾〔かわ〕く間〔ま〕もなし」私の袖は、潮が引いたときでさえ見えない沖の石と同じで、人の知らぬところでずっと濡れている…百人一首にも採られた二条院讃岐〔にじょういんのさぬき〕の歌です。「濡れた袖」という定番表現に、「沖の石」という意外性をぶつけています。これも謎かけの一種だと思います。
浜辺の千鳥はいつも羽が濡れている、私の濡れた袖と同じね、と謎かけしているわけです。

君に逢う夜は梢の烏 可愛可愛と引きしめて しょんがえ」これも謎かけです。梢の烏が「カアー、カアー」と鳴いているのと、恋人が「可愛い可愛い」と抱き寄せるのと、かあかあ同じだねと言っています。

『正札付根元草摺
〔しょうふだつきこんげんくさずり〕』という踊りがありますが、朝比奈〔あさひな〕が突然、遊女の踊りを踊り始めますね。なぜだか分かりますか。朝比奈と遊女と、「行こうとする男を引き止める」という点が同じだからです。「朝比奈とかけまして」「遊女と解きます」「その心は、行こうとする男を引き止める」という洒落なのです。AとBは遠いほどいいのです。CはABの1番大事な点を突いていなくてはいけません。(朝比奈を舞鶴〔まいづる〕に変更して踊る場合がありますが、洒落が弱まります。)
踊っている人物は朝比奈なのか遊女なのか?と言われれば、それは朝比奈に決まっています。踊っている内容は朝比奈のことなのか遊女のことなのか?と言われれば、それは遊女のことに決まっています。

同じ構造によって、横笛(現行では清姫)の亡霊は、遊女の踊りを踊るのです。踊っているのは生娘なのか白拍子なのか?と言われれば、生娘に決まっています。前の幕で死んだ富十郎が出てきて踊っているのですから。しかし、踊っている内容は生娘なのか遊女なのかと言われれば、それは遊女だと思うのです。「娘道成寺」の詞章を読んでいて、娘と解釈できる箇所は一箇所もないと私は思います。全て遊女の詞章です。でも踊っているのは娘なのです。だから「道成寺」なのでした。「生娘の清姫とかけまして」「白拍子の花子と解きます」「その心は、鐘に恨みがございます」という洒落です。生娘の清姫と白拍子の花子は別の人間なのですが、「鐘を恨んでいる」という共通点により、合体するのです。

これは、和歌の掛詞
〔かけことば〕から派生した、作劇の修辞なのではないかと思います。和歌を舞台用に立体化した、とでも言うのでしょうか。日常会話では使わない、舞台の上だけの、美のテクニックです。「関の扉」で、小町桜の精が遊女として登場するのも、「小町桜とかけまして」「遊女と解きます」「その心は、生まれた土地を遠く離れて」という洒落だと思います。

「娘道成寺」は、どの部分でも抜き差し自由、などと言われることがありますけれども、とんでもない話です。眼目(クドキ)をカットする人はいないでしょう。また、カットしたら意味が通らなくなる部分はカットしてはいけません。すなわち道行はカットできません。白拍子である花子が鐘に恨みを持っている理由は、道行でしか示されていないからです。清姫が鐘を恨んでいることは、観客全員が知っています。横笛は清姫のヴァリエーションですから、清姫を知っていれば問題ありません。しかし花子のことは、ここでしか説明されていないのです。六世歌右衛門も、歌舞伎舞踊として上演するなら道行はカットすべきでない、と常々主張していました。九代目福助襲名披露のとき、「娘道成寺」を歌右衛門が監修しましたが、「山尽くし」の後半と「ただ頼め」をカットし、道行を上演しました。それは一見、変則的な形態に見えますが、詞章の意味を考えたら納得のいく処理と言えます。「山尽くし」は、踊りとしては面白いけれど、カットしても詞章の意味は通ります。道行をカットしたら意味が通りません。道行をカットしたら、洒落にならない。

枕を交わした後、約束として、「次に会えるのはいつ?」と聞いてみるけれど・・・ここで彼女の心は、1年の四季をめぐっていきます。好きな人に会えない時間が長く感じられる、という気持ちを誇張して表現しているのです。むかしから「一日千秋」などと言いまして、時間の感覚は状況によって激変するのです。恋をしたことのある人なら分かりますね。

ただ我をのみ追い来るかと」・・・追い来るのは鐘の音であって、雁の声ではありません。
我をのみ」・・・遊女でなければ、好きな人とずっと一緒にいられるのに、どうして私にだけ別れがやってくるの?

罪のないものを恨んでしまう自分の愚かさ、罪の数々、それは分かっているけれど、…こうしてやって来てしまうのでした。道成寺は、現在の和歌山県日高郡
〔ひだかぐん〕にあるお寺です。

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コメント

“朝の鐘の音で別れを惜しむ清姫”、愛する男女が、朝が来て別れを惜しんでも惜しみ切れないのは古今東西同じですね。今月初め観たオペラ「ロメオとジュリエット」(3/2付記事「アクセス解析」に3/4投稿したhukkatsコメント参照)でも、第4幕のベッドシーンで別れを惜しむロメオとジュリエットが歌うDuo、そこではロメオがl’alouette(ひばり)が鳴いて朝の到来を告げているからもう行かなければならないと言うと、あれはl’alouetteでなくrossignol(ナイチンゲール)だから、まだ夜だからもっと居てと言うジュリエットは‘Loiu cruelle! Loiu cruelle!(残酷な定め)’と恨めしく嘆くのでした。
さてこれまで歌やら器楽演奏やら色々聴いて来ましたが、最近いつも思うのは若い人のことです。我々年配者はいろんな意味で下り坂ですが(もう転がり落ちる状態かも知れません)これからの世界を、日本を、音楽界を背負って立つ若人の活躍を心から願っているのです。日本の音楽と言っても、すぐに思いつくだけでも民謡、歌謡曲、演歌、ポップス、フォーク、ロック、ジャズ、ソウル、ラテン、シャンソン、クラシック音楽など多岐にわたっていますが、ポップス、ロック、フォークソングなどでは若い人の活躍が目立つと言えるかと思います。(最近レジェンドの復活演奏も見られますが)民謡もラジヲで結構若手が歌っているのを耳にします。それに比しクラシック界では、まだまだ若手がけん引する状態とは言えません。当然と言えば当然かも知れない。他の音楽分野よりもある程度年数のかかる学校教育の比重が大きいからです。それだけ習得すべき内容が多いからだと思います。勿論最近は日本の音楽学校に進学しないで、若いうちから海外で修練、研鑽し、腕を磨くケースも増えていますが、まだまだ主流とは言えません。費用の問題も有りますから。その点、実力を付けた若い人が急速に頭角を現すチャンスとして音楽コンクールは重要だと思います。 2月中旬に「東京音楽コンクール優勝者コンサート」を聴いたばかりですが(2/11付記事「中正面」に2/11投稿したhukkatsコメント参照)、先週3月7日(木)に今度は「日本音楽コンクール受賞者発表演奏会」というコンサートがありました(2019.3.7.18h~@東京オペラシティコンサートホール)
6名の各部門のトップ受賞者による演奏会で、オケは東フィルでした。冒頭、いきなりオーケストラの大きくけたたましい音が駆け巡りはじめ、一瞬、先日観に行って頭に残っていたオペラ「金閣寺」の演奏の続き?と勘違いしてしまった位。まるで春一番が荒れ狂って台風の強い風に変わりゴーゴーと森や林が騒がしく、鳥や動物たちがうろたえ飛び回る感じ。“「強まれ!強まれ!もっと迅く!もっと力強く!」森はざわめきだした。池辺の樹の枝々は触れ合った。夜空の色は平静な藍を失って、深い納戸いろに濁っていた。虫のすだきは衰えていないのに、そこらをけば立たせ、そぎ立てるような風の遠い神秘な笛音が近づいた。…(略)…風はふと静まり、又強まる。森は敏感に聴耳を立て、静まったり騒いだりする。(三島由紀夫「金閣寺」より)”
ふと我に返ってプログラムを見ると、①作曲部門の井上渚さんの作品演奏でした。次の楽章は一転かなり静謐な雰囲気になり、ざわめきがあちこちでささやくように次第に大きくなってくる気がしました。
ところで大震災から今日で丁度8年が経ちました。春一番が吹いて春がそこまでやってきても、失った家族や人々は待てど暮らせど今日も戻ってきません。この場を借りて、ご冥福と残された方々に幸あれと心からお祈りいたします。

「春一番吹けど無かりし我が妻の(or君のor父のor姉のor妹のor子らのor友の etc.に置き換え)便り届けよ木々の騒めき。(hukkats)」

さて演奏会は、②クラリネット中舘荘志さん③バイオリン新井里桜さん、④トランペット三村梨紗さん、⑤ソプラノ森野美咲さん、⑥ピアノ小井戸文哉さんの順に続けられました。
②コープランド「クラリネット協奏曲」、安定したいい演奏ですが、音、特に低音にさらに磨きをかけるともっと素晴らしくなると思います。③ショーソン「詩曲」、歴代Vn部門のトップは高い技術水準にあるのに違わず、難しいテクニックの部分も朗々と弾く部分も軽々とこなしている感じがした。個人的にはもっとメリハリが欲しい気がしました。④フンメル「トランペット協奏曲変ホ長調」女性の優れたトランペット演奏者は少ないでしょう。今回の受賞と「東京音楽コンクール」の受賞で二冠同時達成ですね。ベージュを帯びた白の生地に太い黒のボーダー柄のドレス(トランペットの形を模しているのでしょうか?)を纏い登場、にこにこしていて周りの観客席のご婦人方から「ワー可愛い!」との声が聞こえました。フンメルの曲、いい曲ですね。思わず体で拍子をとってしまいました。“ハーメルンの笛吹き”の様に魅力的な演奏で聴衆を皆連れて行ってしまわないでね。⑤一曲目の歌は今一つの感がしましたが、二曲目は良かった。大きな拍手に満足げの表情が窺えました。⑥非常にスマートな細い体と足にピッタリの黒っぽいスーツに身を包み、しなやかな女性の様な指で鍵盤を縦横無尽に行き来していました。3/4付朝日夕刊の記事に依ると、3月2日、英国の国際ピアノコンクールでも1位となったとのことです。海を渡った二冠ですね。欲を言えば更なる力強い演奏が欲しい気がしました。指、腕だけでなく体全体で力を出す体力が重要ではないでしょうか。いつだったかNHKテレビで、小澤征爾さんの幼少から指揮者になるまでを放送していましたが、音楽以上にラグビーに夢中になった学生時代があり、その時培われた体力が、指揮者として非常に役立ったという様な事を話されていました。
『音楽は体力なり!』??


若いオペラ歌手で「この人はなかなか良さそう」と思っても、なかなか聞く機会がないですねえ。
本当に実力があれば、周りが放っておかないだろうという気もしますけど・・・。
若手テノールの宮里直樹さんは注目株ですね。

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