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2019年3月17日 (日)

清元『傀儡師』

今月の歌舞伎座で上演されている清元『傀儡師』の詞章解釈を載せておきます。

野原に一本だけ生えている薄〔すすき〕は、穂が出て初めて「ああ、これって薄だったんだなあ」と分かる。(穂が出ないと何の草だか分からない)
野辺の露のように、誰にも気づかれず短い間に消えていくものもあるが、一方でこの薄のように、時を経てようやく本性を表すものもある。
「恋草」という草を見たことありますか。幼い頃には知らなかった恋というものが、年を経てどのような花を咲かせ、どのような実がなるのか。
「筑波嶺〔つくばね〕の峰より落つるみなの川 恋ぞつもりて淵〔ふち〕となりぬる」という有名な和歌があるけれど、いいえ、淵ではありません。恋がつもると花嫁になるのです。画策して手順を踏んで仲人を頼み、めでたく祝言をし、女の仕事をこなし、彼女は三人の子宝に恵まれた。
長男は遊び人になってしまい、とても家督を継げそうにない。次男は反動からか堅物になり、もう少し愛想があればいいのにと思うけれど、親の思ったようには育たぬもの。でもこの子が家業を継ぐのだろう。三男はもう家の中にポジションがないので寺へ見習いに出した。器量が良いから、きっと寺でやっていけるだろう。

(このあとの詞章は、読めばだいたい分かるでしょう・・・)

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コメント

昨日土曜日、クリスチャン・ツィメルマン(以下Zimと略記)のピアノリサイタルを聴いて来ました。(2019.3.16.15h~@みなとみらいホール大ホール)今回のリサイタルは、昨年の演奏会が好評だったらしく、急遽二つの演奏会(2/28サントリーH,3/16みなとみらいH)が追加されたものの様です。ショパンコンクールで勝ってから40年以上も経ち、その後演奏活動等により名声を高めてきましたが、私は最近Zimの演奏を聴いておらず、昨年も演奏会がある事は知っていましたが、関心を持ちませんでした。でも昨年の演奏はかなり多くの聴衆の評判が良かった模様で、やはり追加公演は聴いておいた方がいいかなと考えたのです。 若い頃ショパンの再来ともいわれた風貌は今は無く、綺麗な真っ白な髪と髭を伸ばし、すたすたと舞台に登場、挨拶もそこそこにそそくさとピアノに向かったと思ったら、間髪を置かずショパンの憂いと哀愁を帯びたマズルカOp.24-1を弾き始めました。Zimにとっては、コンクールで弾きマズルカ賞をとった思い出の曲でしょうが、若い頃の様に上体を揺すって感情移入を表現したりはせず淡々と弾きました。次いでOp.24-2。如何にも舞曲という風の軽快な調べです。ピアニストによっては軽快なリズムに首や体で拍子を合わせて弾くピアニストもいると思いますが、Zimは変わらず淡々と演奏。Op.24-3でも然り。Op24-4はそれまでの曲がかなり短いのに比し、倍近く長くてしっかりした鍵盤タッチを感じさせる音ですが、立派に締めくくり演奏をした。ちょっと気になったことは、Op.24-1では終音の一つ前でペダルをかなり長く踏み終音は聴こえない位のppなのですが、どういう訳か終音の最後(多分ペダルを踏み終えた後)で、コンマ秒かそこいらの瞬間、わずかな耳障りな金属音が聞こえたのです。これは0P.24-2の最後でも聞こえました(ペダルは最後踏まないと思いますが)。ペダルを長く踏んでいると、他の弦か何かが共鳴して異音が出るのでしょうか?それとも気のせいかなー?何れにせよ演奏の大勢には関係ない些末なことですが。
 次いで演奏会の聴きどころブラームスのソナタ2番。これはかなりの大曲でブラームスが19歳の時、シューマンの弟子になって初めて作曲したソナタと思われます。19歳ですよ。すごい才能。尊敬するピアニストであるクララシューマン夫人に捧げるという意味の  『Frau Clara Schumann verehrend zugeeignet』 という言葉が、シューマンの了解を得て楽譜の冒頭に記入されました(死ぬまでブラームスはクララを尊敬していた様ですね)。第一楽章はメロディを和音の連なりでダイナミックに表現、ブラームスらしい金属的な響きの曲でZimはエネルギッシュに力演、第2楽章ではゆっくりとしたテンポのメロデイを丹念に弾き始め変奏へと展開していった。第3楽章は速いテンポの舞曲風のしらべで始まりかなり力強く弾きその後ゆっくりとした中間部を経て再び速いテンポの舞曲風の後一気に駆け下りて終了。この2、3楽章でZimは強く弾く時には頭を縦に揺らしながら演奏、相当力を入れてることが分かる。最終楽章の初めはゆっくりした曲を綺麗に表現、リズミカルな力強いパッセージから最後は鍵盤の高音部⇒低音部に手が一気に下降し強い和音を最後2回鳴らして弾き終えた。(座席は鍵盤の見える左側の席は取れなくてステージ近くの前方右寄りの席に初めて座ったのですが、ピアノの黒光りする響板が鏡の役割をし、一部運指の様子が窺い知れました。又この席からだと、ピアノも演奏者も挨拶する時も随分ステージ左側の端で行っている錯覚にとらわれる様に見えました。これは意外でした。)
 20分の休憩の後、待ちに待ったスケルツォが1番から4番まで演奏されました。多くの人が好む2番についての感想ですが、冒頭の最初のパッセージの後の小休止の次に有名な春風の如き流麗な心地良い調べのパッセージがあるのですが、その箇所がどういう訳か明瞭に耳に届かないのです。これまで多くの音楽ソフトで人々(アラウ、ポリーニ、アシュケナージ、ホロビッツ、ルービンシュタイン他)の2番を聴きましたが、このパッセージは大体皆同じく素敵な演奏をしていますが、今回は何かむにゃむにゃと聴こえました。最後に繰返される同じパッセージでも同様です。きっと私の耳がおかしかったのでしょう。ブラームスの時、途中眠くなったりもしたし。それにしてもZimの演奏は全体的に調和された精巧な彫刻といった感がある。かって吉田秀和さんはショパンの曲の演奏を比較して、“ポリーニはそれ以前のホロビッツ、ルービンシュタイン、リヒテルなどの名人達の枠に留まらない新しいタイプのショパン弾きの巨人だ”と評しました。若し今回のZimの演奏を聴いたら秀和さんは何と評するのでしょう?


ピアノの最後の音の消え方は、綺麗な人と、綺麗じゃない人に分かれますね。よほど難しいのでしょうか。

吉田秀和さんの批評って、本当にすごい影響力があったんですねえ・・・。

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