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2019年4月

2019年4月30日 (火)

オペラの映像

10連休の真っ只中、いかがお過ごしですか?

VHSのビデオテープを「見て→捨てる」という作業をしたいと常々思っているのですが、なかなか実行できません。この連休の機会に、いくつかビデオを見ました。

まず《スペードの女王》を見ました。2005年6月、パリ・オペラ座の公演。
《スペードの女王》は10年以上前、ひょっとして20年くらい前?映像で1度見たことがあり、それ以来でした。
ストーリーはすっかり忘れていたのですが、もう本当に意味不明でしたね。今回見た映像では、場面設定が「病院の中」で、主人公が冒頭から精神を病んでいるんです。またヘンテコな読み替え演出かと思ったら、べつに歌詞と違うことをしているというわけではなく、セリフに合ったことをしているだけに見える。つまり元の話が変なんです。全員がずっと「狂乱の場」を歌っているみたいな雰囲気。
主役のガルージンは強靭な喉を聞かせていて、すごいんですけれど、長い髪の毛が汗に濡れて乱れていて、狂った演技がホラーチック。怖い。
チャイコフスキー作曲のロシア物なので、当然ロシア語で歌われるのですが、婆さんが若い頃を思い出して昔フランス社交界で歌った歌をフランス語で歌う場面があった。パリ・オペラ座の客には、そういう場面が楽しいのかもしれない。
ヨーロッパの貴族は国を越えて交流があり、母国語以外に必須言語があったそうですね。どの言語が必須なのか、地域によって当然違ってくるでしょうけれど。ロシア語の歌とフランス語の歌、気を付けていないと切り替わったことを知らぬまま過ぎてしまいそう。

そして《ラ・ボエーム》の映像を2本見たんです。片方はBSの録画、もう片方はCSの録画でしたが、字幕はほとんど同じでした。
第1幕のミミの登場シーンで、ロドルフォが「ウナ ドンナ Una donna!」と言います。この部分の字幕は「女だ!」では感じが悪いし、「女性だ!」では不自然ですし、「女の人だ!」と訳されることが多いのですが、「女の子だ!」じゃ駄目なのでしょうか?
第4幕で、ミミが死んでいることに気付いたショナールが「エ スピラータ è spirata...」と言います。「死んでるぜ」では感じが悪いし、「息を引き取ってるぜ」と訳されることが多いのですが、「息してないぜ」でどうでしょう?(他にも何か洒落た字幕を見たことがある気もしますが・・・)
「ブドウ酒」とか「腕輪」などの言葉、今どきの字幕でも使っているのでしょうかねえ。(私は嫌いじゃないけれど)

シコフとコトルバシュが主演したコヴェントガーデンの《ラ・ボエーム》を見たのですが、さすがイギリスは演劇の国だなあと思いました。第4幕でムゼッタが部屋に飛び込んで来るところ、ムゼッタとマルチェッロが一瞬だけ目を合わす場面があって、2人の「会っていなかった時間」みたいなものが凝縮されているように感じたのです。
このロイヤルオペラの映像は全体的に良かったですね。


イギリスって、何でイギリスって言うのかなと思ったのです。イギリスのことをイギリスと呼ぶのは日本くらいじゃないかと思って。
ウィキペディアによれば、ポルトガル語の「イングレス」が語源なんだそうな。なぜポルトガル経由なのかと不思議に思いますが、ポルトガルはキリスト教の布教に熱心だったから、アジア地域にいち早く西欧の事物を運んだのかもしれない。

2019年4月29日 (月)

神田伯山

神田松之丞さんの伯山襲名がヤフーのトピックスに上がってますね。
今年の正月に、その方向で調整中と本人が高座で言っていましたが、ついに発表になったんですねえ。
もう、チケットが取れる気がしない・・・。

しかし、「すごいらしいから聞いてみよう」という人は、実際にどれくらいいるものなのだろう?

『京鹿子娘道成寺』くどき

もうすぐ、新しい歌舞伎座で最初の『京鹿子娘道成寺』が上演されますねえ。もう待ちきれない!

『娘道成寺』のくどき「恋の手習い」は、昔からいろいろな解釈があり、娘と遊女と人妻の3人の気持ちが混ざった歌詞だと言われることもありますが、私が思いますには、「遊女の初恋」が描かれた歌詞なのです。
むかしブログに書いた記事を再掲しておきます。
 ↓

恋〔こい〕の手習〔てなら〕い つい見習〔みなら〕いて 誰〔たれ〕に見〔み〕しょとて 紅〔べに〕鉄漿〔かね〕付〔つ〕きょうぞ みんな主〔ぬし〕への心中立〔しんじゅだ〕て おお嬉〔うれ〕し おお嬉し

末〔すえ〕はこうじゃにな そうなるまでは とんと言〔い〕わずに済〔す〕まそぞえと 誓紙〔せいし〕さえ偽〔いつわ〕りか 嘘〔うそ〕か誠〔まこと〕か どうもならぬほど逢〔あ〕いに来〔き〕た

ふっつり悋気〔りんき〕せまいぞと たしなんでみても情〔なさ〕けなや 女子〔おなご〕には何〔なに〕がなる 殿御〔とのご〕殿御の気〔き〕が知〔し〕れぬ 気が知れぬ 悪性〔あくしょう〕な悪性な気が知れぬ 恨〔うら〕み恨みて かこち泣〔な〕き 露〔つゆ〕を含〔ふく〕みし桜花〔さくらばな〕 触〔さわ〕らば落〔お〕ちん風情〔ふぜい〕なり

 

「手習い」という言葉は、三大名作の1つ「菅原伝授手習鑑〔すがわらでんじゅてならいかがみ〕」や、舞踊「手習子〔てならいこ〕」でお馴染みですね。お習字の始めの段階、お手本を見ながら知らない字を自分でも書いてみる段階です。ここから、この恋が初恋であることが分かります。「つい」は、「思いがけず」「そんなつもりじゃなかったけれど」という意味。「見習いて」は、ほかの人がやっていることを自分でもやってみた、ということです。「鉄漿〔かね〕」は、お歯黒〔はぐろ〕のこと。既婚女性が歯を黒く染めることで、明治初期まで一般的な習慣でした(テレビの時代劇では黒くしていませんが、それは現代風にアレンジした演出なのです)。ふつう、未婚の娘はお歯黒を付けることはありません。未婚であっても、あんまり年を取ると、お歯黒を付けることがあったそうですが、そういうものはここで考える必要はありません(見習う対象にもなりません)。

遊女は、結婚していなくても一般的にお歯黒をしていました。これは「一夜妻〔ひとよづま〕」つまり「今夜だけはあなたの妻です」という意思表示、顧客サービスです。八ツ橋が笑うと、お歯黒をしているのが分かりますね。「恋の手習い」の主人公も、ほかの遊女がみんなやっていることを、自分でもやっている、と描写されています。(「結婚してお歯黒を付けている将来の自分を想像してみた」のではありません。いま、好きな男に見せるために、お歯黒を付けている。そういう文章になっています。遊女以外に考えられません。)

「主〔ぬし〕」というのは、主人ってことですが、遊女が客を呼ぶときに使うのが歌舞伎では普通ではないでしょうか。

「心中立て」は、好きな気持ちを形にして相手に示すことです。現在では「心中」と言えば2人で一緒に死ぬことになってしまいますが、そこまで深刻でなくとも、誓紙〔せいし〕を交わしたり、自分の髪を切って渡したり、指をつめて渡したりするのも「心中」の一種なんです。目に見えない心の中を、目に見える形にして相手に提示するのが「心中」です。ここでは「私がこう綺麗にしているのも、みんなあなたに見せたいだけなんですよ」ということですね。

「末はこうじゃにな」というのは、「ゆくゆくは夫婦になりましょう、約束ですよ」という意味。「そうなるまでは」というのは、「年季〔ねんき〕が明けるまでは」ということでしょう。遊女は売られてきているので、決まりの年数が過ぎるまで(借金を返すまで)、廓〔くるわ〕を出られないのです。年季が明けないと夫婦になれない。「言わずに済まそぞえ」は、自分は遊女だから好きじゃない男とも寝なくてはいけないけれど、それは仕事で仕方ないことなんだから何も言わないで。私が好きなのはあなただけなんだから、それまでは言わずに済ませましょう、という意味。

「誓紙」は心中立ての一種で、愛の誓いを紙に書いて渡すものです。要するに遊女というものは、たくさんの男と寝て、みんなに気に入られようとする。売れないと自分が困るからです。客がつかない遊女ほど惨めなものはありません。それで、何とか客の心をつなぎとめようとするわけです。「私が好きなのはあなただけよ」と、大勢の男に言ったりする。そうなると男のほうでも信用できないから、じゃあ何かはっきり形にして好きの証拠を見せてもらおうじゃないか、となる。そこで誓紙を交わすわけです。信じられないから誓紙が必要になる。誓紙は別に遊女だけのものではありませんが、遊女の手練手管〔てれんてくだ〕の1つではありました。このあたりのことは、落語の「三枚起請〔さんまいきしょう〕」を聞くとよいでしょう。ついでに「品川心中」「お直し」「五人廻し」「幾代餅〔いくよもち〕」などを聞くと、遊女の苦労がよく理解できるでしょう。古今亭志ん朝〔ここんてい・しんちょう〕の映像や録音が私のお薦めです。すごく面白い落語です。

誓いの言葉を紙に書いて交わした2人だけれど、その誓紙さえも信じられない、相手の気持ちが分からない、本当に好かれているのか、ただ言葉だけなのか、嘘か誠か、お互いに疑って、どうにもならない。「逢いに来た」のは男が女に逢いに来たのであって、女が男に逢いに行ったのではありません。振付を見ても、男が女に逢いに来ています。遊女は待っているだけ。

「悋気〔りんき〕」は嫉妬、やきもちのこと。「たしなむ」は「たしなめる」の文語形。ここは、①「私が本当に好きなのはあなただけなんだから、嫉妬しないで」と女が男に言った、②「気持ちの読めない浮気な人だけれど、でも嫉妬しないように気をつけなくちゃ(そうしないと嫌われちゃう)」と女が自分自身に言い聞かせた、と2通りの解釈が可能かと思います。(私は絶対①だと思いますが…。)

「情けなや」は、たしなめたのも空しく男が去っていく様子。

「女子〔おなご〕には何がなる」は、「女に生まれたいと思う人なんているのかしら」「女なんて、やってられない」という意味でしょう。

「殿御」は男。「悪性〔あくしょう〕な」は「浮気な」「心が移ろいやすい」という意味。

「露を含みし桜花」は、その直前の「かこち泣き」の「泣き」→涙→水→露という縁(水つながり)で、恋の涙に濡れる女を美しく形容しています。「触らば落ちん風情なり」は、触ったら落ちそうに見える、俺にも手に入りそうに見える、ということでしょうか。実際に落ちるかどうかは分かりませんが…。いずれにしても、「露を含みし」の部分は女を外側から眺めた描写となっており、その前までの歌詞と様式が異なっています。振付も、歌詞に合わせて様式が変化しており、その変化が歌舞伎の面白さの1つと言えるでしょう。

 

このように、難解と言われる「恋の手習い」も、「遊女の初恋」と思えばすっきり解釈できると思います。いかがでしょう?

2019年4月27日 (土)

見て来たような

オペラを見に行くと会場で偶然顔を合わせて会話を交わすオペラ仲間、オペラ友達というのが、私にもいるのです。人数は少ないですが・・・。その中に、青森ご出身の方がいて、こんなお話を伺いました。ご郷里のほうでは、「あの辺りに住んでいる人はたぶん武士の子孫」「この苗字の人はひょっとして武士の子孫?」というようなことが今でも話題になることがあるのだそうです。ピンとくるんだって。そういうことを今でも気にするんだそうですよ。

私自身はそういうことをあまり気にしたことがないですね。先祖が武士だと言う人に会ったこともない・・・ように思う。でも、能楽師の方に接すると「この人、武士っぽいな」と感じることがあります。士族の残り香みたいなものを実際に感じたことがありますね。それから、宮内庁の楽部の方とちょっとお話しする機会があったのですが、「やっぱりお濠の向こうの人は違うなあ」と思いました。武家とは異なる、公家っぽい雰囲気を本当に感じたんです。

神田松之丞さんの講談を初めて聞いた時、ちょっと落語っぽいなと感じました。それまでは感じたことがない。松之丞さんは、著書やインタビューの中で、講談と落語の違いについてたびたび言及しています。私はあまり考えたことがなかった。厳然と違うものだと思っていたので。

今年2月の国立劇場の文楽公演で、近松門左衛門の『大経師昔暦〔だいきょうじむかしごよみ〕』が上演されました。この物語の中に、赤松梅龍〔あかまつばいりゅう〕という浪人の太平記講釈師が登場します。そう、講釈師って浪人がやるイメージがありますよね。義太夫は「語る」、浪曲は「唸る」、講談は「読む」と言いますけれど、町人は『太平記』なんて自分では読まないでしょう。武家だから読めるんだもの。受ける教育が全然違うんですから。

文楽や歌舞伎は庶民の芸能だと言われますが、近松門左衛門は武士の次男だったとされています。作っている人たちの中には、武家の出身の人がかなり混じっていたのではないでしょうか。でもそれは、親からしてみれば「恥ずかしいこと」であり、あまり大っぴらにできなかったのではないかと思います。時代物の作品には、『平家物語』や『太平記』、謡曲を知らないと書けないはずの作品がたくさんありますね。

士農工商というヒエラルキーは、厳然と区別されていて変更不可能だったイメージがありますけれども、おかるや平右衛門のように、境界線を行ったり来たりする人が実際には結構いました。『加賀見山』の尾上のような話もあります。

武家に生まれても、三男、四男、五男などは仕官が叶わないこともあったでしょう。また明治維新の後はたくさんの浪人が出ました。生きていくために、講釈師になった人も多かったのではないでしょうか。つまり講談と落語は、「やる人」が違っていたのだと思うのです。一緒にされたくなかったわけでしょう。現代は「やる人」が同じなので、区別がつきにくくなってしまったのでは?

そのように考えますと、「義士伝」や『慶安太平記』など、浪人の活躍する話が講談で人気なのも分かりますし、「侠客物」なども同じカテゴリーなのではないかと思います。
「講釈師 見て来たような 嘘を言い」などと申しますが、境界を越えてやって来て、町人が見たくても見られない世界を見せてくれる、そんな存在だったのではないでしょうか?

2019年4月26日 (金)

よもやま

明日から10連休です。この機会に部屋の掃除をしたいと思っています・・・。

この1年で急激に老眼が進み、もともと近眼なので、近くも見えない、遠くも見えない状態に。舞台は1.0で見えるように眼鏡を調整していますが・・・。耳も遠くなってきた感じ。ときどき耳鳴りもするのです。そうしてだんだん彼岸へと近づいていくのでしょうか・・・。

中村鷹之資さんが、今年8月に『京鹿子娘道成寺』を踊るんですね。そう言えば富十郎さんが言っていましたよね。この子が二十歳になったら娘道成寺を踊らせて富十郎を襲名させるって。鷹之資さんはもう二十歳になられたそうです。時の過ぎるのは早いものですねえ。どんな娘道成寺を踊るんでしょうかね。富十郎はいつ襲名なさるんでしょうか。

四月の歌舞伎座で福助さんが常盤御前をお勤めになりました。復帰以来、だんだん出演時間が長くなってきて、福助さんの演技がたくさん見られるのが嬉しいです。

神田松之丞さんが、また連続読みをなさるそうです。5月20日(月)~24日(金)五夜連続、深川江戸資料館。「畔倉重四郎〔あぜくらじゅうしろう〕」を姉弟子の阿久鯉さんと2人で語るそうですよ。暗くて長い話だそうですけど、面白そう。

2019年4月24日 (水)

国立劇場のちらし

神奈川芸術文化財団から、よくダイレクトメールが届くのです。神奈川県民ホールも、神奈川県立音楽堂も、KAATも、私はたまにしか行かないのに。
NBSからも、よくダイレクトメールが届きますねえ。

むかしは、国立劇場からも公演案内の葉書がよく届いたものでした。今はやっていませんね。国立劇場は個人客宛のダイレクトメールを全く出さなくなりましたよね。あぜくら会員宛にも出していないですよね。あぜくらの会報におすすめ公演のちらしを同封したりもしないですよね。お金がなくて、そういうことができないわけなんです。

国立劇場は毎公演、豪華なちらしを作っていますけれども、国立劇場に直接来た人とか、関係者しか入手できない感じです。ほとんど、よそで配ってないんです。配るお金がないんじゃないかと思うんですけど。作りっぱなしって言うんですかねえ。よそで見かけないでしょう?

2019年4月23日 (火)

日本という国

私は日本以外の国に住んだことがありませんし、他との比較は出来ないのですが、日本は馬鹿によって牛耳られているのではないか、と感じることがあります。

そういうことを一番感じたのは、「原発の再稼働」の時です。原子力発電所というものは、危険なものであるから、建設に反対する人が結構いたのです。私が子供の頃のことです。それに対し、「原発は安全です」と大々的に宣伝し、建設が推進されてきたわけですが、現実に原発事故が起こってしまった。まあ本気で「絶対に安全」と信じていたのでしょうし、人智を超えた出来事だったわけですから、1回は仕方がないと言いますか、私自身も強くは反対してきませんでしたし、原発で作られる電気を享受してきた事実もあり、受け入れるしかないのかと思いました。ところが、福島の後処理も終わらぬうちに、原発を再稼働させるとか、新たに建設するとか、また同じことをもう一度繰り返すつもりなのでしょうか?日本は本当に馬鹿の国なんだなあとつくづく呆れたのでした。

選挙期間になると、候補者の名前を連呼して回る選挙カーがたくさん発生するんですけど、あれは一体何なのでしょうか?人が集まるところで、実現させたい政策を訴えるというなら分かりますが、ただ名前の連呼。あまりに無能すぎると思うのです。

投票のお知らせとか、写真入りの候補者一覧などは頼んでいなくても家まで届くのですが、自分の投票した候補者が当選したのかしないのか、自分で調べないと分からないのですね。今回選出されたこの議員たちで、これから〇年間の区政に臨みます、というような印刷物が届いてもいいんじゃないかと思うのですが・・・。公式サイトのURLでもいいですけど。
今回の選挙は前回から何年ぶりで、何名の候補者の中から何名が選ばれますとか、区議会が握っている予算はこれだけあって、現状ではこのように配分されていますとか、今回の当選者が何年議員を務めることになりますとか、区議会はこういうところですとか、投票のお知らせと一緒に届いてもいいんじゃないかと思うのですが・・・。調べれば分かるんでしょうけど。

2019年4月21日 (日)

アメリカという国

小学館の雑誌『和楽』に、玉三郎さんの随想が掲載されています。気が付いたら買って読んでいるのですが、たまにしか発売されない雑誌なので、買い忘れてしまうこともありますね。
玉三郎さんは、アメリカ文化に強い影響を受けていらっしゃるみたいです。私の印象では、今の六十代の方々は、アメリカからの影響を非常に強く受けているようです。

私は昭和46年の生まれですが、アメリカ文化の影響はあまり受けていないと思うんですね。もちろん間接的には多大な影響があっただろうと思いますが、直接的には何もないです。本も、映像も、音楽も、笑いも、踊りも、何も。
(ちなみに両親は戦中の生まれ)

私が持っているアメリカのイメージは、まず「日本に原爆を落とした国」でした。
それから「隣にいる人が拳銃を持っているかもしれない国」「犯罪率が高い国」。
あまり関心がなくて、どちらかと言えば悪いイメージしかない感じ。
アメリカへの憧れがない。


私が幼少の頃に影響を受けた文化と言いますと、「8時だヨ!全員集合(ドリフ)」「世界名作劇場(ハイジ、フランダースの犬、母をたずねて三千里、ラスカル」「ウルトラマン」「ゴレンジャー」「ドラえもん」「タイムボカン」「ザ・ベストテン」などです。特に「ウルトラマン」と「ドラえもん」には強い影響を受けました。(ディズニーの影響は全くない)

これまでアメリカには5回ほど旅行に行ったことがあります。それはアメリカを見に行ったわけではなく、「アメリカが輸入したヨーロッパの文化」を見に行ったのです。パヴァロッティの生声とか、ゼッフィレッリのオペラ演出とか、モネとか、フェルメールとか。
(ミュージカルもいくつか見ましたが、旅の動機ではない)

ニューヨークは工事中
いつ行っても工事中

マンハッタンは、街のそこらぢゅうで、足場みたいなのが組んであって、工事中なのかな?と思う。でも工事しているわけではなくて、仮設のアーケードみたい。綺麗じゃないです。
(見たい建築はない)

そして、やはり怖い。
(これまで私が行った中で一番怖かった街はバルセロナかな)

世代が違うと、文化的な背景が全く違うのだなあと思った次第です。

2019年4月18日 (木)

豪奢な建造物

三好和義さんの写真集を何冊か持っているのですが、その中に、インドのマハラジャを撮影した『印度眩光』という本があります。「マハー」は「偉大な」、「ラージャ」は「王」のことだそうです。その宮殿のまあ何と贅沢なこと。六本木にかつて存在した伝説のディスコ「マハラジャ」は、バブルの象徴のように言われることもありますが、もちろん私は行ったことはありませんが、写真や映像で見た記憶では、贅沢と言えるような空間ではなかった。インドのマハラジャの宮殿のような、信じられないほど豪奢な建造物というのは、日本には存在しないと思うのです。

インドの宮殿がなぜそれほど豪華なのかというと、侵略者と戦って勝利した戦士の住まいが飾り立てられていったのだそうです。

世界には「信じられないほど豪奢な建造物」がいくつか存在しますが、それらが建った経緯は、「戦争(勝利)」か「宗教」かのどちらかが原因だと思うのです。
そして、日本には「信じられないほど豪奢な建造物」は存在しない。
(悪いことではない、とは思いますが)

2019年4月15日 (月)

ベルベットなイースター

能の謡は丁寧な解説本が出ていますが、歌舞伎や文楽はそのような解説が少なくて、意味の分からない部分がたくさんあるものです。
年を取って、分からなかったところが分かるようになる、という嬉しい体験もありましたが、「誰か教えてくれたらいいのに」とか、「いっそ作者に直接質問できたら良かったのに」なんて思う時もあります。

しかし、たとえ作者と同時代に生きていたとしても、質問するチャンスはなさそうな気がするし、そのような好機があったとしても、作者は教えてくれないんじゃないかなという気もする。

私は現在47歳ですが、高校1年の時からユーミンの歌をよく聞くのです。ずっと「ベルベット・イースター」の意味が分からなかった。せっかく同時代に生きているのだし、ユーミンに直接質問できたらいいのにと思うのですが、ユーミンと話す機会って、ないじゃないですか。(才覚があったら自分でチャンスを作り出せるものなのでしょうか?)

ユーミンは『ルージュの伝言』という本を出したことがあって、そこにこう書かれています。

七九年の七月に『OLIVE』が出て、十二月に『悲しいほどお天気』。これ、いいタイトルでしょう。好きなの、自分でも『OLIVE』はジャケットが気に入ってて『悲しいほどお天気』はタイトルが気に入ってるの。どういう意味ですかって、つくったころはよく聞かれたんだけど、答えられないよね。どういう意味ですかって聞くような記者って、記者やってらんないんじゃないかって思うよ。それぐらいいちいち聞くんだよね。(p.177)
『ルージュの伝言』松任谷由実:著

この本はたしか高校生の頃に読んで、歌の意味というのは自分で考えなくてはいけないのだなと思いました。「悲しいほどお天気って、どういう意味ですか」なんて聞く人は馬鹿じゃないかって私も思ったからです。

自分の考えと、作者が詞を書いた時の想いとが違っていても仕方ないではありませんか。だって別の人間だもの。

「ベルベット・イースター」は、ただ待っているだけでは永遠に意味が分からないと思う。もっと能動的にならないと。

「ベルベット」というのは、布の種類を表す言葉ですよね。そこから「なめらかな」という意味で使われることもあります。
この歌の中でベルベットが使われる可能性としては、カーテンや毛布が考えられます。カーテンは主人公の部屋を包むものだし、毛布だとすれば主人公自身を包むもの。いずれにしても、こういうことではないでしょうか。イエス・キリストは死んだ3日後に石棺(せきかん、せっかん、石のひつぎのこと)の中から復活したけれど、この主人公はベルベットの中から復活したわけです。と言っても、もちろんこの主人公が死んでいたわけではありません。まるで死んでいるみたいだなってずっと思っていたのです。けれどある時、自分が生きている意義みたいなものが自分で分かったわけ。つまり「セカンド・バースデイ」ということですね。

毎年1回やってくる復活祭とは別の、自分だけの復活祭を、自分で名付けたのでしょう。

イエス・キリストには「復活」の前に「受難」の苦しみがあり、この主人公にもきっと苦しみがあっただろうと思うのですが、ユーミンにとってその苦しみは「過ぎ去ったもの」であり、描きたいのは「ラー、ラララ」と歌いながら出かけて行く朝の景色なのであり、だから「その景色への行き方」は、聞いている人が自分自身で考えないと永遠に分からない。

2019年4月14日 (日)

あれこれ

このブログはニフティの「ココログ」というのを使って書いているのですが、最近、管理画面がリニューアルされたんです。
なぜか、コメントが反映されないことがあるんですよね~。遅れて表示されたり。
以前は出来ていたことが、出来なくなったり・・・。
どこが良くなったのか私には分からないし・・・。
リニューアルして前より悪くなるというのは、どういうことなんでしょうね?
前のままだとなぜ駄目なのでしょう?

選挙カーで名前を連呼して回る候補者には絶対に投票しない。無能そうだから。
(名前をメモしておく、その人に投票しないために)

今日は新国立劇場でオペラ「フィレンツェの悲劇/ジャンニ・スキッキ」を見てきました。
ジャンニ・スキッキ役のカルロス・アルバレスが素晴らしかった~。
まさに名人芸という感じでした。拍手も1人だけ盛大に受けていました。
巨大なテーブルの上で物語が展開するという設定は、去年の藤原歌劇団でも見かけましたが、流行っているのでしょうか?私が初めて見たのは、2002年ブレゲンツ湖上音楽祭の「ラ・ボエーム」でしたかねえ。



ファントムなメナス

生の舞台を見ることを優先しているので、これまで映画はあまり見ていません。有名な作品くらいは一通り見たいとは思っているのですが、いつでも見られると思うと、後回しになってしまいます。

『スターウォーズ』も、1作品しか見たことがありません。1999年に公開された「エピソード1」です。(それほど面白いと思わなかった)

『スターウォーズ』はシリーズものなので、副題が付いていますね。(「帝国の逆襲」「ジェダイの帰還」など)
「エピソード1」には「ファントム・メナス」という副題が付いていました。私はこの副題に軽いショックを受けたのです。十中八九、と言うよりほぼ十中十の人が知らない言葉をサブタイトルに持ってくることが不思議でした。

『スターウォーズ』にはこれまでの興行実績があり、「エピソード1」というだけで充分に集客が見込めるので、おそらく副題に「訴求力」を持たせる必要がなかったのでしょう。他の作品と区別するための記号、識別子のようなものになったのかなと思いました。

そして、この映画に興味がない人は別にいいのですが、この映画を見る日本人は2種類に峻別されると思ったのです。すなわち、「ファントム・メナスの意味を考える人」と「考えない人」の2種類です。

「ファントム・メナス」というのは、ウィキペディアで見ると「見えざる脅威」と紹介されています。でも昔はウィキペディアはありませんでした。自分で辞書を引いたりして考えたものです。

私はしかし、実は「考えない人」のほうが多いのではないか、という疑いを持っており、自分がそちらに入るのは真っ平だと思っているのです。


2019年4月13日 (土)

『鵜飼』あれこれ

久しぶりに、能『鵜飼』を見てきました。
番組の中に解説の時間が付いていたのですが、「うがい」ではなく「うかい」と言っていました。「鵜使い」は「うづかい」ではなく「うつかい」と言っていました。「三卑賎」は「さんぴせん」ではなく「さんひせん」と言っていました。
※三卑賎=『阿漕』『善知鳥』『鵜飼』

この『鵜飼』の謡の中に、「鉄札〔てっさつ〕」という言葉が出てきます。浄瑠璃『菅原伝授手習鑑』の「寺子屋」にも出てきますね。

今〔いま〕、浄玻璃〔じょうはり〕の鏡にかけ、鉄札〔てっさつ〕か金札〔きんさつ〕か、地獄極楽の境〔さかい〕。

この「今」というのは「now」「今ここで」ということでしょう。
「浄玻璃の鏡」というのは、閻魔大王のもとで裁きを受ける時に、生前の行いが映し出される鏡のこと。「そら、お前はこれだけ悪いことをしたのだから、地獄へ落ちるのは当然だろう」と本人に認識させるためのものなのではないかと思いますが…。
そして、生前の悪行が記されているのが「鉄札」で、善行が記されているのが「金札」なのだそうです。1枚に1つずつ記されている。しかし、「鉄札のほうが多いから地獄行き」とか、「金札のほうが多いから極楽行き」とか、単純な数の問題ではないみたいです。『鵜飼』では、鉄札が無数にあって、金札がたったの1枚だったのに、救われることになった。その1枚だけの金札というのが、「一晩、旅の僧を泊めてあげた」っていうことなのですが、なぜ旅の僧を泊めてあげると救われるのか?

現代では、知らない人が突然やって来て「泊めてください」と言っても絶対に泊めないと思いますが、江戸時代などはわりと泊めてあげたのだそうです。「みんなが旅の苦労を知っていた」ということもあると思いますし、「お互い様」ということもあるでしょうが、宗教的な理由も大きかったみたいですね。「困っている人を助けることによって、困っている自分がいつか助けられる」ということではないでしょうか。
また仏教では、特に僧侶を大切にもてなすことが重要視されています。「仏法僧〔ぶっぽうそう〕」「三宝〔さんぼう〕」などと言って、仏と法と僧の3つが大切なのです。「仏の大切さ」と「法の大切さ」は誰でも分かると思いますが、僧がなぜ大切なのかというと、仏の教えを理解し、実践し、広める役割を担っているからでしょう。宗教というのは「教え」なので、教わらないと分からないのです。自分で考えついたら教祖様になってしまいます。そんな人は数百年に1度しか現れません。別に、自分たちに有利になるように三宝の中に僧を組み込んだわけではないのです。僧がいなければ教えも存在できない。全ての僧侶は人々を救いたいという心を持っているがゆえに仏教を広めようとするわけでしょう。しかし、縁なき衆生は度しがたいのです。仏縁があれば救われるのです。鵜飼の男は自分で仏縁を作っていました。

ところで、あなたの金札はいま何枚ですか?私の金札ははたして何枚ありますかねえ…。(思い浮かばない)

清水次郎長伝

玉川太福さんの3日間連続公演『清水次郎長伝』に行ってきました。(4月9~11日、日本橋社会教育会館)

浪曲で一番有名な作品と言えば、やはり清水次郎長でしょう。開演前のアナウンスでは「しみずじろちょうでん」と言っていましたし、太福さんも「しみずじろちょう」と言っていましたが、私はずっと「しみずのじろちょう」だと思っていました。「清水」というのは姓ではなく、地名ですよね。「八王子のおじさん」なんて言うのと同じかなと思っていたのです。でも、どちらでもいいのかもしれない。よく分からない。

すごく長い話で、ダイジェストで3日間やったけれど、全然終わらない。まだ続くのだそうな。「バカは死ななきゃ直らない」が聞けたのは嬉しかった。このフレーズに節が付くと本当にすごいパワーだ。しかし一番有名な「旅行けば駿河の道に茶の香り」は出てこなかった。ひょっとして聞き逃した?2日目の前半はけっこう寝そうになってしまった。話が全然頭に入ってこなくて…。しかし2日目の後半が一番面白かったなあ。

3日間の『清水次郎長伝』で、客の入りはキャパ204席に対し3分の1くらいでしたかねえ。こんなに面白いのに、どうしてもっと入らないんですかねえ?

3日間、浪曲を聞きにいくので定時で帰ります、と職場で宣言したら、浪曲を知らないと言われた…。

しかし最近、浪曲協会には8人の新入りがあったんだそうです。(10日もしないうちに1人やめてしまったそうですが)

ちなみに文楽の研修には今年度3人が入ってきました。

芸能の行く末は誰にも分からない。


2019年4月10日 (水)

カルロス・ゴーンという男

よく分からないですよね~、カルロス・ゴーン。なぜ、あのような高額の報酬が1人の人間に対して支払われるのか、本当に不思議じゃないですか。別に、その分を自分で稼いだわけじゃないでしょう。

私は大学4年の卒業旅行の際にヴェルサイユ宮殿へ行ったのですが、その豪奢な建物や庭を見て、これはルイ16世が処刑されたのも無理はないわいと思ったものでした。庶民の血と涙で建てたわけでしょう。ルイ16世は自分が悪いことをしたなんて全然思っていなかったでしょうけれど、制度自体がおかしいのであり、そのおかしな制度に乗っかっていたことで彼は命を落としたのではないでしょうか?

ルキノ・ヴィスコンティ監督に「ルートヴィヒ」という長い映画があります。私が見たのはかなり昔で、もう内容もほとんど忘れてしまいましたが、狂ったドイツの王様ルートヴィヒの建てたノイシュヴァンシュタイン城のあまりの豪華さに、ロミー・シュナイダーが馬鹿笑いをする場面があったと記憶しています。「馬鹿じゃないの?」という感じで美女が馬鹿笑い。だってお金の使い方がおかしいんだもの。印象深い場面でした。

多くの人から搾取して、それがある沸点を超えると、突然しっぺ返しを食らう仕組みになっているのではないかと思うのですが、どうでしょう?

2019年4月 6日 (土)

よもやま

明日はいよいよ、5月文楽公演の一般発売日です。
『妹背山婦女庭訓』を通しで見られる貴重な機会を逃さないでくださいね。
とにかく、ぜひ通しで見ていただきたいのです。

昔は、通し狂言の場合は「第一部・第二部のセット割引」があったと思うんですけど、そういうのはもうやらないんですかねえ。両方見る人のために先行発売があってもいいのに。

あぜくら会は、郵送で申し込める便利な先行発売があったのに、それもやらなくなっちゃったでしょう。
国立劇場のサービスは、どんどん低下していく感じ・・・。

昔は、歌舞伎公演の時にロビーで資料展示を行っていました。演目に関係した錦絵とか舞台写真とかが展示されていて、私は休憩時間に見ていたんです。やらなくなっちゃいましたね。
展示室での資料展示も、昔はもっと充実していました。代々の市川團十郎の資料展や、花柳章太郎の資料展が特に記憶に残っています。無料配布のカラー図録も出していた。

今の展示は本当に小規模になりましたねえ。
展示の中心は錦絵であるのにもかかわらず、左から右へ進んでいく形式になっているのが致命的。
資料も見づらい感じ。

まあ毎年1%ずつ運営費が減っているのですから、仕方ありませんけれども。

国立劇場のチケットシステムが新しくなったんですねえ。
やっと世間並になったと言いますか、前のシステムは文楽発売日にほぼ毎回1時間くらいダウンしてましたから、商機を大きく逃していたと思うんですよね。(1時間つながらなかったら普通の人は諦めますよね?)
前と比べて不便になった部分もあるかもしれませんが、世間並でいいと思うんですよね。

でも発売日がよく分からなくなりましたよね。
「発売カレンダー」とか公式ホームページに出してほしいですよね。
だいたいホームページに情報が載るのが遅すぎなんですよね。
1年分の文楽公演の日程とか、ホームページに出してほしいわけなんです。
決まっているのになぜ出さないのか、前から不思議なんですよね。
情報掲載が直前すぎると思うんです。
演目が決まっていなくても先に日程だけでも知りたいわけなのです。
(私は関係者だから知ってますけど)
先に別の予定がどんどん入っちゃうんですから。

2019年4月 5日 (金)

当て振り

日本舞踊の用語で「当て振り〔あてぶり〕」という言葉があるじゃないですか。
十八代目の中村勘三郎さんが、むかしテレビで「日本舞踊っていうのは基本的に全部、当て振りだからねえ」と言っていたと記憶しています。
それで私は、「歌詞の通りのことを体で表現すること」が「当て振り」なのだと思い込んでいました。
歌詞に振りを当てる。歌詞の通りの振りを当てる。
ところが、ある時、それは勘違いであるということに気付いたのです。

「当て字」という言葉がありますが、これは、漢字を、本来の意味と違うように使うことですよね。
例えば「夜露死苦=よろしく」などです。
漢字の読み方を借りてきているだけで、意味は全く関係ない。
関係ないけれど、字づらが面白い。
面白いから、たまに使われる。

日本舞踊の「当て振り」も、振りが歌詞と関係ないけれどそこが面白い、例えば『関の扉』の関兵衛の「生野暮薄鈍」などが「当て振り」であり、そして、頻度としてはそれほどたくさん出てくるわけではない。

ということが分かった。何年前のことだっただろう?

2019年4月 4日 (木)

おすすめ

もうすぐ5月文楽公演のチケットが売り出しになりますね。
半蔵門の国立劇場で上演される『妹背山婦女庭訓』のことです。
ぜひ、第1部・第2部を連続でご覧いただきたいと思うのです。
逆から見たら駄目です。
そして、どちらか片方しか見られないなら第2部です。
でも絶対に両方の部を続けて見たほうが感動すると思います。
個人的には、シェイクスピアの芝居など全く比較にならないくらい感動的な演目だと思っております。
「文楽ってどんなものなのか、1度くらい見てみたいな~」と思っている方は、ぜひ5月文楽公演をご覧ください。
絶対に見逃さないでいただきたいのです。
どうかお願いいたします。

2019年4月 1日 (月)

特別

パリで『かさね』を上演したら、それは「特別」かもしれないけれど、日本で『かさね』を上演しても、それは「普通」のこと。
演劇で特別なことをやるのは、なかなか難しいですよねえ。
美術展だったら「あの名作が何年ぶりの公開」で充分に「特別」になるでしょうけれど。

私が就職したのは平成7年のことでした。
バブルがはじけた後だったし、就職活動は大変でした。
ですから就職が決まった時は嬉しかった。その後も辞めることなど考えたことがなかった。
初めて辞めることを考えたのは50周年記念の時でしたよ。
ドカドカ仕事が増えていって、周りの人がバタバタ休んで。
通常の年だってアップアップしているのに。

寄席の興行では、ホール落語みたいな企画公演はやらないものなんだって聞いたことがあります。
特別なことをやると、通常の運営に障りが出てくるのだそうな。

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