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2019年5月

2019年5月28日 (火)

国立劇場のプログラム

何だか国立劇場の悪口をひたすら書いているブログみたいですが、不満があるのですから仕方がないですよね!
誰にでも見える部分のことしか書いていないですし、本当に書いちゃいけないことは書いてないでしょう。

興業の世界で一般に「パンフレット」「パンフ」と呼ばれる印刷物がありますけれども、歌舞伎座や新橋演舞場では「筋書」、松竹座や南座では「番付」と言っていると思いますが、国立劇場では「プログラム」と呼んでいます。そして「プログラム」は仮の名前で、正式名称は「解説書」と言う。
「筋書」は、あらすじが書いてある冊子のことでしょう。
「番付」は、配役が書いてある冊子のことでしょう。
「もっと詳しい」という意味を込めて「解説書」と名付けたのではないかと私は推測しています。
しかし世間で通用していない言葉を自分で勝手に命名しても誰も使ってくれない。
それで「プログラム」と呼んでいる。「プロ」などと略されることもある。
でも私は歌舞伎や文楽の興業にカタカナが入り込んでくるのは風情がないことだと思っているので、「筋書」「番付」のほうが素敵なのに、と不満です。
「NTJメンバー」とか「タイムテーブル」などの言葉にも強い嫌悪感があるのですが、私には何の決定権もないので仕方がありません。
(「タイムテーブル」で爺さん婆さんに通じるのでしょうか?)

そのうち全部が英語になるんじゃないかと思いますけど・・・。

最近は国立劇場の英語アナウンスも量が増えてきて、パンフレットがアヴェイラブルみたいなことを言っているんですよね。これまで何十年もプログラムプログラムって言ってきたのに、なぜパンフレットという言葉でアナウンスの録音を吹き込んだのでしょうか?

国立劇場で使う英語表記はむかしからイギリス英語が基本です。
イギリス英語とアメリカ英語と、どちらか片方を選択するとしたら、イギリス英語に決まっていますよね?
(個人の好みの話ではありません)

でも「プログラム」と言うと、「本日の上演内容」「番組」という意味にも取れますし、何かと不便なんですよね。
よその劇場で「プログラム」ってあまり言わないですし、何のことだか分からない人も多いのではないかと思う。
(そもそも「プログラム」には「解説書」というような意味はないのでは?)
「筋書」って言うと、国立劇場では筋のないものも上演されますし、「番付」でいいんじゃないかと思うんですけどね。
何で無理してカタカナにしたがるんでしょうかね?

私の心のリージョンコード

オペラのDVDも、あまり買わなくなりましたねえ。
「買ったのに見ていないDVD」が山積していますから、その上さらに購入するのは馬鹿の所業ですよね。
でもたまに買ってしまうことがあるんです・・・。うう~ん。

近年はタワレコのオペラコーナーが品薄ですし、ネットで購入することになるわけですが、その際は「日本語字幕が付いているか」ということを確認いたします。日本語字幕が付いていなくても楽しめる演目、すでに内容が頭に入っている演目、というのはその人のオペラマニア度によって違うと思いますけれども、私の場合それほど多くない。
っていうと「興味はあるけれど字幕が付いてないから諦める」ということもあります。

字幕なしでも楽しめる演目の場合、リージョンコードを確認いたします。買ったのに見られないんじゃ仕方がない。

そもそも、リージョンコードっていうのは、何なのでしょうかね?貿易障壁?
よく知りませんが、中国なんかですと「日本のアニメーションは国民に見せない」という政策になっているそうですよね。
他のアジア諸国では、子供が「ドラえもん」とか「一休さん」などの日本アニメを見て育つ国もあるそうですが、それだと自国の独自な文化が薄まっていくと言うか、感覚が日本と似てくると言うか、それではイヤだという国もあるでしょうね。

独自の文化をどのように守っていくか?別に守る必要はないのか?
日本は何も守らないですね。時代の流れに翻弄されて。

日本とヨーロッパは、同じリージョンコードですが、NTSCとPALで規格が違うからDVDが再生できない。規格の違いは単に商業上の覇権争いですよね?
日本とアメリカは、同じNTSC方式ですが、リージョンコードが違うから再生できない。
日本とアメリカのリージョンコードが違うのは、どうした理由によるものなのだろうか?
日本は敗戦国としてアメリカ文化に染まっているというのに、アメリカはこの上まだ日本に見せられない情報でもあるのだろうか。
「スターウォーズ」のDVDを買う時、安い輸入盤ではなく、高い国内盤を購入せよ、ということだろうか。
(「スターウォーズ」を字幕なしで楽しめる日本人はあまりいないと思われるので、その線はない)

インターネット上には、DVDのリージョンコードに相当するものはあるのだろうか。
中国は他国のネット情報を締め出しているという話も聞いたことがありますが、日本はどうなのでしょう。

海外からの情報は、どのように操作されているのだろう。その操作方法は知らされているのだろうか。

日本は現在のロシアの情報をちゃんと取得できているのでしょうか?
(規制されていなくても、解読できなければ同じことですが)

このあいだ新国立劇場でチェーホフの「かもめ」が上演されたのですが、イギリスの劇作家トム・ストッパードが書き直した台本で上演されて、あら、日本って英語経由でロシアを理解する国だったんだっけ?と驚いた。トム・ストッパードがやったような作業を日本人の視点から行う日本人
はいないわけなんですね?

アメリカで銃の乱射事件があると日本で大きなニュースになるけれど、無限にある世界のニュースの中から、なぜそれが選ばれて報道されるのか、よく分からない。

2019年5月26日 (日)

国立劇場のホームページ

国立劇場のホームページが酷いという話の続きです。
駄目なところはいろいろあるのですが、まず「出演者の顔写真が載っていない」というところが駄目だと思うのです。
歌舞伎で「特設サイト」を作った場合は顔写真が掲載されるのですが、そうでない場合は載らないんです。つまり基本的に載っていないんですね。

私が職場でそのような話をしますと、「ちらしのPDFが貼ってあるじゃないの」という展開になることが多いです。でも「ちらしのPDFが貼ってある」というのは、ウェブサイトの作り方として、かなり低級な情報提供ですよね。
時代の流れを考えれば、紙のちらしを作成することに力を注ぐよりも、ウェブを見やすくするほうが、宣伝効果が高いのではないかと思うのですが、どうでしょう?

ちらしに顔写真が出ていればまだ良いほうで、国立能楽堂なんて名前だけです。しかもホームページの公演情報ではシテ1人の名前しか出ていない。
私が職場でそのような話をしますと、「国立能楽堂の公演はいつも完売だから、宣伝にお金をかける必要はない」という展開になることが多いです。しかし「国立能楽堂の主催公演が完売ならそれでOK」というような考えでは駄目だと私は思うのです。能楽の公演はどんどん観客層が薄くなっていて、よそでは空席が目立ちます。能楽師はただでさえ面をつけていて顔を覚えにくいところがあるのですから、公演の機会にちゃんと顔写真を出して、観客に覚えておいてもらわないと困ります。他の能楽堂がやっていなくても、国立能楽堂が率先して出演者の顔写真やプロフィールをホームページに掲載すべきだと思うわけなのです。
新国立劇場なんて、研修発表公演でさえも出演者の顔写真を載せています。
そういう部分のお金を惜しむのはおかしいと思うのです。

私が職場でそのような話をしますと、「新国立劇場は寄付を集めてやっているのだから、うちとはお金の使い方が違うのも当然だよ」という展開になることが多いです。
それは全ての費用を寄付でまかなっているのならば私も何も言いませんが、新国立劇場は舞台スタッフを全て税金でまかなっているでしょう。国立劇場よりも広範囲にわたって、国立劇場よりも多額の税金を投入しているのに、それは自己財源でやってるからと言われても、意味が分からないです。つまり国立劇場や国立能楽堂の現状に納得がいかないわけなのです。

新国立劇場の英語版ホームページは、イギリス人スタッフがデザインしているのだそうです。
国立劇場の英語版ホームページとの落差というものを、評価委員の方々はどのように考えているのでしょうか?


水商売

国立劇場・・・。
平成7年に就職したのですが、ずいぶん変わりましたねえ。外から見ているとあまり感じないかもしれませんが。

劇場の切符売場、場内案内の仕事は職員がやっていたのですが、私が就職してほどなく、外部委託となりました。
(職員にもいろいろな身分がありましたけど)

ここ数年、高齢者採用も増えました。
よその職場で60歳定年で退職した方を採用して、65歳まで働く形。
特任事務員も増えました。
1年契約で、最長3年まで更新できる形。
要するに、退職金を払わなくていい雇用形態ですね。
同じ仕事をしているのに、ずいぶんな待遇だなあと思うのです。

しかし、職員である私も、将来ちゃんと退職金がもらえるんだか?ちゃんともらえない気配が濃厚となってきましたから、さして待遇は変わらないのかもしれません。

3年間働いて、職場を去って行った特任事務員の方が、よそで3年働いて、また戻ってくる・・・という例も見るようになってきました。

人事を担当する部署は、人事労務課と言います。むかしは人事課と言っていたのですが、途中から人事労務課に変わりました。どう違うのか分からない。福利係と言っていたのが福利なんとか係になったり、部署の名前がどんどん長くなっていって、しかも途中で変わるので、どうせまた変わるんだろうと思って、名前を覚える気もしない。

いま人事の人は大変みたい。任期満了にせよ、途中にせよ、大勢の人がやめていきますし、そのぶんまた雇わなければいけない。募集したり面接したり本当に大変。給与も新たに計算しないといけないわけでしょう。

こういう流動的な雇用形態って、アメリカから来ているんですかねえ?

私の場合、2~3年に1度の周期で人事異動があって、いま10箇所目の職場で働いています。異動があって新しい職場へ行くと、これまでと全く違う仕事をすることになり、転職を繰り返しているのとあまり変わらないんじゃないかなあと感じます。
そして、あまり専門的な仕事は出来ないのではないかと思います。
具体的に言いますと、ずっと編集の仕事をするのだと思えば、Photoshopを覚えようとかInDesignを習おうかとか考えるでしょうけれど、3年しかいないのに出来ない。
(もっとも編集の仕事をやり始めたらそんな時間は取れないと思いますが・・・)
先の予定が立たないですよね。

私が就職する前くらいまでは、あまり異動もなかったのだそうです。ずっと同じ部署で働いている人が多かった。

なんでこんなにくるくる異動があるのかと考えますと、「やってられない」と思う人が多いのではないかと推測されます。「もうこんな部署では働いていられない」という人がいると、人事異動があって、その人の気持ちが新たになり、辞めずにすむ。
「もうこんな部署では働いていられない」と人が思う部署は、いつも同じ部署。変えられない。

そして、聞いた話では、うちの監督官庁である文化庁がさらに人事異動が激しいのだそうです。1~2年で別の部署らしいです。

「ゆく河の流れは絶えずして、しかももとの水にあらず」などという言葉が思い浮かびます。

日本にはいろいろな芸能があって、1つの分野だけでも、有名な演目を見るのに数年はかかります。2年間で何が出来るのかなあ?と思います。

2019年5月25日 (土)

《ドン・ジョヴァンニ》新国立劇場

新国立劇場の《ドン・ジョヴァンニ》を見てきました~。
ドン・オッターヴィオを歌ったフアン・フランシスコ・ガテルが驚くほど良かったです。
冴えない男の代名詞のようなドン・オッターヴィオ。婚約者を寝取られながら、怒るアリアもなく、薄い存在感。それなのに、ガテルは素晴らしかった。それも、有名な第2幕のアリア「恋人を慰めて」ではなく、第1幕のアリアが特に素晴らしかったのです。普段つまらないと思っているようなアリアでも、歌い方ひとつで、こんなにも魅力的な場面になるんだなあと感心しました。

プロダクションは、なかなか綺麗で良かったですね。写真で見るよりずっと綺麗でした。照明はドイツ人、衣裳はイタリア人が担当したのが良かったのではないでしょうか。(逆だと困る)

ドンナ・エルヴィーラを歌った脇園彩さんも良かったですね。

畦倉重四郎

神田阿久鯉・神田松之丞 連続読み「畔倉重四郎」完全通し公演に行ってきました~。
平日5日間連続、19時開演、深川江戸資料館。最寄り駅の清澄白河は、私の職場からわりと近いので、定時にあがれば間に合うのですが、5日間連続で定時に退社するのはなかなかハードルが高かった。

この公演は、5日間のセット券しか発売されませんでした。「天保水滸伝」などと違って、一部分だけ聞いても仕方がない内容だったんですね。だから観客は全員5日間通うわけです。同じ場所、同じ時間に。
でも、途中で脱落してしまう人がいましたね。空席がありました。1日聞き逃してしまったとして、次の日に行くかどうか、迷うところでしょう。たとえば全19巻の漫画があったとして、7巻目を読まずに8巻目に進めるか?というのは、作品の性質にもよるし、読者の気質にもよるでしょうね。
幸い私は5日間全て聞くことができました。

「5日間同じ席」と「5日間バラバラの席」と、2種類のチケットが販売されたのです。私は「バラバラの席」を選択しました。隣の人が5日間連続でイヤな人だったら耐えられないもん~。
チケットが届いてみると本当にバラバラの席で、前のほうだったり後ろのほうだったり、端だったり中央だったりしたのですが、どの席に座っても松之丞さんと目が合っている(ような気がする)。不思議なものですね。どうなってるんですかね。

「慶安太平記」「徳川天一坊」「天保水滸伝」などと違って、「畔倉重四郎〔あぜくらじゅうしろう〕」は史実に縛られていないと言いますか、現実から乖離していると言いますか、フィクションの度合いが格段に高いように思いました。一応、実在の人物である大岡越前守が登場して悪を裁くのですが、事件はほとんどファンタジーなのではないかと思う。(誰もその事件を見ていないし)
序盤に伏線が張ってあり、「この人は死んだと見せかけて生きているんだな」「最後にまた登場するんだな」っていうことは予め分かっているのだけれど、その登場の仕方がすごくて、こういうのが話芸なんだよな~と思いました。

最後に平兵衛殺害がバレる展開が最高でした。大岡越前守は最初からあれを狙ってやっていたのでしょうか。こんなすごい展開を考えついた作者は偉い!でも名前も分からないんですね。日本の話芸は不思議なものですね。

松之丞さんは、善人を演じる時と悪人を演じる時の振り幅が激しくて、しかもそれが突然入れ替わるものだから、本当にどうなっているのかと思う。2つを演じ分けている時の声と顔が、「仏」と「般若」くらいに激しく変化するんです。

浪曲の玉川太福さんも、悪人を演じる時は急に鬼のような顔になって、これは同じ人の顔なんだろうかと思うくらいに別の顔になりますね。でも太福さんは「根は穏やかな人なんだろうな」と思い、松之丞さんは「根も怖い人なのかな」と思わせられるところに、2人の違いが感じられます。(もっとも浪曲協会のおじさんの話では「太福さんはいい人のふりをしている」らしい)

かなりぶっ飛んだストーリー展開だったのですが、それを感じさせない描写力がすごいと思いました。体に火がつくところの描写なんか、本当えげつない。大道具や衣裳や時間に縛られていないので、急展開の火事の描写が独特の表現力を持っていました。他の芸能には出来ない表現ですね。


劇場施設を利用する

国立劇場のホームページが読みづらいという話の続きなのですが、ページの中に「劇場施設を利用する」というボタンがあります。
これは、劇場を借りて何か催しをする、貸し劇場の会主となって公演を行う、などの場合に見るページのことなのです。
しかし、「劇場施設を利用する」という言葉から、その内容を読み取ることは難しいと思います。
劇場のトイレを使うことだって「利用する」だし、図書閲覧室を使うことだって「利用する」だし、駐車場を使うのだって「利用する」だし、更に芝居を見に行くことだって「利用する」と言えると思うのです。まさかこのボタンが、貸し劇場の会主に向けたボタンであるなんて、誰に想像できるでしょう?

池袋にある劇場「あうるすぽっと」のホームページを見ておりましたら、「施設をかりる」というボタンがありました。端的で分かりやすい。「劇場をかりる」「会議室をかりる」分かりやすい。

「劇場施設を利用する」何のことだか分からない。
国立劇場のホームページは分かりづらいと思います。

2019年5月23日 (木)

国立劇場のホームページが酷い

国立劇場のホームページは酷いと思うのです。
職員同士でも、よく話題になります。「酷いよね」って。
でも「酷い」と思っている職員には変える権限がなく、変える権力を持っている人は現状で満足しているみたい。
評議員とか一体何を評議しているんでしょうかね?劇場の顔とも言うべきホームページをあの酷い状態のまま20年近く放置しておいて、一体何を評議しているのでしょうか?

国立劇場のホームページのどこが酷いかと言いますと、ひと言で言えば「ゴチャゴチャしている」ということなんです。1つのページに情報を盛り込み過ぎている。あれも目立たせたい、これも目立たせたいと思って、詰め込みすぎて、全てが目立たなくなっている。
情報の種別や軽重や順序を整理せずに、全てを均等に扱って、無秩序な状態になっている。
つまりデザインされていないのです。デザイナーを置いていないのですから当然ですけれども。
悪いウェブページの見本として授業に使えそうなくらい酷いです。

まず劇場を1つ選択しますでしょう。そうしたら、次に公演情報、交通案内、等級別の座席表、チケット購入。それだけあれば、一応の用事は済んでしまいます。それが根幹であり、他のことはあくまで枝葉ですね。肉付けと言ってもいいです。
1度「国立劇場」を選んだら、その後はもう「国立演芸場」とか「国立能楽堂」とか全く出てこなくていいんです。調べたければ1度ホームへ戻ればいいんですから。1度に出ている情報が多すぎるんです。字が細かくて見る気力が削がれます。字が小さくて潰れていて拡大表示しても読み取れないです。

英語版のホームページは更に酷いです。外国人対応が、インバウンドの取り込みがと声高に言うわりに、最も重要な英語版ホームページがあまりに酷くて、計画も点検もないものだと思います。もう20年近くあの酷い状態のまま放置されています。
「歌舞伎」「文楽」「能楽」など、芸能の紹介はトップページになくていいと思うんです。確かに興味はあるでしょうけれど、それを調べに来たんじゃないんですから。

とにもかくにも、「担当部署が存在しない」「誰も全体を考えていない」ということが問題の根源だと思います。


2019年5月22日 (水)

目が合う

神田松之丞さんの講談のチケットは本当に取れないですよね~。最近の高座で頻繁にかけているというネタ『鮫講釈』もまだ聞いていない。しかし、あまりガツガツせずに、取れた時だけ聞ければいいかなという気もする。今月は7回聞く予定であり、周りの人からは「充分多いだろう」と言われている。自分でもそう思う。

松之丞さんの講談を聞いていると、もちろん自分の座席の位置にもよりますが、「松之丞と目が合っている(ような気がする)」「ずっと私に向かって語り続けている(ような気がする)」と感じることがありますね。かなりの頻度で。

もちろんそれは勘違いである。

春風亭一之輔さんはド近眼で客の顔は見えていないらしい。

玉川太福さんは、眼鏡をかけて登場し、浪曲に入る直前に眼鏡を外す。
松之丞さんは、眼鏡をかけて登場し、高座につくとすぐに眼鏡を外す。(何のために眼鏡をかけて出てくるのだろう?)

私はむかし客として柳家喬太郎さんには顔を覚えられていましたね。ほとんど追っかけみたいな感じでしたし、私は笑い袋のようにガハガハ笑っていたので、目立っていたのかもしれない。嫌な客だったかな。

てっきり松之丞さんは客の顔が見えていないのだと思っていたのですが、今日の高座で「客の顔が見えるのが邪魔」ということで後半から客電が暗くなり、意外と見えていたらしいことが判明・・・。

文楽の公演を見に行くと、技芸員から「見てたでしょう」と言われることがありますね。文楽の技芸員はわりと客を見てますよね。って言うか見えちゃうんですね。
竹本住太夫師匠は、客電が暗いのはお好きでなかった。
でも国立劇場はむかしから客電が暗めですね。誰の好みなんですかね。

長谷川一夫は、前方の席に座っている客全員に「目が合った」と思わせる力を持っていた、と聞いたことがあるけれど本当かな。

平成中村座は、前のほうの席は本当に舞台に近いんですよね。そして舞台の高さが低い。役者さんがすぐ目の前にいて、あまりの近さにドギマギすることがありました。
平成中村座で十八代目の中村勘三郎さんが「寺子屋」の松王丸をなさった時、私は運良く1階1列目で見ていたんです。そうしたら首桶が私の真正面に置かれたんです。首桶を挟んで、2人で向かい合って座っているような形だった。首実検の時、松王丸は目を閉じて顎をあげ、カッと目を見開き、少しずつ視線を首のほうへ下げていく、その目の動きの途中で勘三郎さんと私の目が合う瞬間があった。目が合うことが事前に予測されて、来るか来るかと思って、そして本当に目が合った。それは私にとって何か特別な体験でありました。視線に心を射貫かれたような。そして私はボロボロ泣いていて、きっと変な客だった。

2019年5月21日 (火)

国立劇場のチケット売場

国立劇場のチケット売場は良くないと思うんです。

まず、出入口のガラスにベタベタとたくさん貼り紙があって見苦しいでしょう。表示が汚いです。
出入口が2か所あるのですが、入口と出口が別になっていて、こちらが入口っていう大きな表示が何枚も貼ってある。
出入口が混み合うわけでもないのに、なぜ入口と出口を無理に分ける必要があるのでしょうか?

私は発券機を使うだけなのに、発券機から遠いほうの入口から入らねばならず、そして入ったらいきなりパーテーションが迷路みたいに並べてあって、なかなか発券機までたどり着けない。

客が並んで待たなければいけないほど混雑しているところを一度も見たことがないのですが、あのパーテーションは何のために出しているのでしょうか?売り出し日だけ並べるというのでは駄目なのでしょうか?

チケット売場なのにチケットと関係のない質問をしてくる人がいっぱいいるのだとは思いますが、質問できる場所はあそこしかないのですから、総合案内のような役割も兼ねていると思うのです。

たとえば歌舞伎座であれば、開場時には「分からないことは私に何でも聞いてください!」っていう感じの係員が2~3人走り回っています。

国立劇場でも、カウンターの手前で「どういったご用件でしょうか?」と対応する係員がいてもいいくらいだと思うのです。

国立劇場のチケット売場は全く良くないと思うんです。

2019年5月19日 (日)

徳川天一坊

先日、神田松之丞さんの『徳川天一坊』を聞いてきました。全20話のうちの4話抜き読みだそうです。いいところだけ抜き出して口演できるのが講談のすごいところですね。また舞台装置や衣裳がなくて、観客が頭の中で想像しているだけなので、話の進み方が芝居と違うんですよね。海で嵐に遭って、1人だけ助かる描写なんて、急展開すぎて芝居では再現できませんね。
とにかく松之丞さんの描写力がすごかった。声の幅が広くて驚異的。他の人がやっても面白くならなさそう。

批評がましいことを書くつもりは毛頭ないのですが、松之丞さんは言い間違いがありますよね。その時の公演1回だけのことならいいのですが、そうじゃないっぽいのが怖い感じ。
【たぶんここが違っていた】
・「沖〔おき〕」というのは、「岸から遠いほう」なので、沖に投げ出されたら助かりません。
・「恐悦」というのは「すごく嬉しい」ということです。
・「過ちては則ち改むるに憚ること勿れ」「過ちを改むるに憚ることなかれ」・・・『論語』からきた諺なので変えられません。
もう何度も高座にかけているはずなのに、誰も注意しないんですかねえ。言ったらすごく怒られそうですもんね。松之丞さん怖そうだもの。

松之丞さんの『徳川天一坊』全話完演はいつ聞けるのだろう。切符取れるのかな?
先日売り出された国立演芸場の「二ツ目時代」は取れませんでした。チェッ。

2019年5月18日 (土)

何が出るか分からない

私が歌舞伎を見始めた頃は、十八代目の中村勘三郎さん(当時は勘九郎)がいろいろ新しいことを始め出した頃と重なっています。コクーン歌舞伎や平成中村座の第1回公演も見ました。

第1回のコクーン歌舞伎は『東海道四谷怪談』でしたが、隠亡堀では本水が使われました。お岩様の霊が、口を開けたまま真みどり色の水の中へ沈んでいく様の、まあ面白いこと面白いこと。
何をやるか分からない、というところがありました。

長く歌舞伎を見ていると、だいたい見たことのある配役が多くなってきて、見る前に予測がつくようになります。

獅童さんが「オフシアター歌舞伎」なるものを始めるというので、迷った末に入場券を買いました。
検索してみると、普段はプロレスをやっているような会場で、四面を客席に囲まれており、どんな舞台になるのか全く想像がつかない。
「何が出るか分からない」というところにお金を出してみたわけなのです。

初日が開いて「歌舞伎美人」のサイトに舞台写真が掲載され、意図せず見てしまいました。
ネタバレ感ハンパない・・・。

戦争を知らない子供たちを知らない子供たち

私が初めて文楽を見たのは平成4年9月、大学2年の時でした。『本朝廿四孝』の通し上演で、1日どっぷり文楽漬けとなったのです。前月8月に歌舞伎で『義経千本桜』の通し上演を見て、これも元は人形浄瑠璃のために書かれた戯曲ですけれども、「日本にはこんなにすごい芝居があるのか」と心酔したものでした。

当時、私はとても貧乏で、食費を切り詰めて歌舞伎座へ行っていたのです。(それでも全公演は見られませんでしたが)
3等B席が2500円で、学割で2400円で見られたと記憶しております。「高い」と思いましたが、一方で「生の舞台だから映画よりも高いのは当然」とも思いました。
現在の歌舞伎座は3等B席が4000円ですから、学生はなかなか歌舞伎を見られないと思います。私が大学生の頃に所属していたサークル「法政大学歌舞伎研究会」は、部員が集まらず消滅してしまいました。

文楽公演の入場料は歌舞伎と比べて安いと思われていますが、私が学生の頃は、安い席は文楽より歌舞伎のほうが断然安かったのです。それで私は文楽をほとんど見なかった。貧乏でしたし、歌舞伎のほうが1か月先に感動したので、歌舞伎のほうが優先という意識がありました。

その後、日本芸術文化振興会に就職して、ゼミの先生から「あなたにピッタリの職場ね」などと言われたりしました。
国立劇場に就職したら、歌舞伎や文楽の話ばかりしている職場なのだろうと私は思っていたのですが、意外と興味のない人が多くて拍子抜けでした。

先輩職員から「そんなに歌舞伎が好きなら、もっと早く生まれれば良かったのにね」と言われたことがありました。でも私は、当時の歌舞伎に何の不満もなかったのです。

そして歌舞伎も文楽も「この状況がずっと続いていくのだ」というふうに当時は思っていました。

私は平成9年にオペラに興味を持ちました。特に興味を持ったのが、フランコ・ゼッフィレッリによる豪華な演出です。当時、私は「ゼッフィレッリの演出はもうすぐ見られなくなる」という予感が働き、ニューヨークまでその舞台を見に行きました。
メトロポリタン歌劇場は一時期、ゼッフィレッリ一色に染まる勢いでしたが、現在残っているのは《ラ・ボエーム》と《トゥーランドット》だけになりました。いつまで維持できるのでしょうか。

勘三郎さんの助六が見たい、三津五郎さんの傀儡師が見たい、といった未来の夢は失われてしまいました。

ミュージカルの話題で、タモリさんが「普通に喋っていて急に歌に切り替わるのが気持ち悪い」と言っていたことがあります。
文楽でも、普通の「セリフっぽい部分」と、旋律のある「歌っぽい部分」とがあり、詞〔ことば〕、地合〔じあい〕、節〔ふし〕、色〔いろ〕などと分類されます。(私にはあまり区別がつかないのですが)
太夫が語っていて、予測のつかいない箇所でいきなり詞から地合に切り替わる、その時の「脳が痺れるような快感」「ふわりと極楽へ向かって舞い上がるような高揚感」、そういう種類の感動は現在の文楽からは感じられなくなりました。

むかしの舞台映像など拝見しておりますと、こんなに素晴らしい舞台なのに、どうして客が入らなかったのだろう?と不思議に思うことがあります。
最近私が思いますのは、第二次世界大戦のあいだ、戦意高揚のための新作を上演していたことが大きかったのではないでしょうか。(『肉弾三勇士』など)
同じ人たちが上演しているものを見ることに抵抗がある人が多かったのは想像に難くない。

言論の世界で言えば、朝日新聞、毎日新聞は、大戦期間中に戦意高揚に加担したために、終戦時に方向転換を迫られ、極端な左寄りになった。言論で戦争を煽っていたわけですよね。よく会社が消滅しませんでしたよね。

美術の世界で言えば、戦争画を描いた藤田嗣治は戦犯扱いされて日本にいられなくなり、パリへ行ってしまいました。フランスに帰化し、日本国籍を抹消した。
フランスは、自国にいられなくなった芸術家を呼び寄せる力を持った土地なのでしょうか。(日本にはそのような力はなさそう)
藤田嗣治の洗礼名「レオナール」は、レオナルド・ダ・ヴィンチのフランス語読みから取ってきたそうですが、イタリアの天才ダ・ヴィンチもまたフランスで亡くなったのでした。
ロッシーニもマリア・カラスもフランスで亡くなった。ロッシーニの骨はイタリアが取り返し、マリア・カラスの骨は海に撒かれたのでした。
(藤田はスイスで亡くなったそうですが)

藤田嗣治の描いた戦争画を見ていると、あまり「戦意高揚」という印象は受けません。
むしろ横山大観のほうが戦意高揚に加担していたのではないかと思うのですが、大観が描いたのは藤田と違って「富士山」とか「太陽」などの「象徴」であったために、何の(?)咎めもなかった。

私の捉えたところでは、藤田は「愛していた日本に見捨てられた」という屈折した負の想念を抱いて亡くなっていった。遺族が存命のあいだは、日本では「藤田嗣治展」を開催することが出来なかった。
それが近年、立て続けに開催されるようになった。どういう理由で開催できなかったのか、どういう経緯で開催できるようになったのか、なぜ「レオナール・フジタ展」ではなく「藤田嗣治展」なのか、よく知らない。
でも何となくその理由は分かる気がする。

描かれた絵はそのままなのに、時代によって、世代によって、受け止め方が変わっていくのは不思議なことです。

絵画はそのまま残ったけれど、芝居をそのまま残すことは不可能であり、だからまた美しいのかもしれない。


2019年5月17日 (金)

スマホは脳のエスカレーター

あれっ?えーっと、何て名前だっけ?出てこない。
うーん、この名前が出てこないはずがないのに。ついこの間まで覚えていたはずなのに。
どうでもいい名前は出てこなくても仕方がないけれど、この名前が出てこないのはヤバいのでは?
47歳で、もうボケてしまったのだろうか?
だって悲しい記憶の数ばかり飽和の量より増えたなら忘れるよりほかないじゃありませんか。
いやいや、こういう時に諦めないで、じっくり思い出せばいいんだよな。
みんなすぐスマホで検索しちゃったりするわけじゃない?
使わないと脳が退化するんだよね。
エスカレーターにばかり頼っていると足腰が弱くなって、どんどん歩けなくなっていくのと同じ。
スマホに頼っていると脳の足腰が弱っていく。
思い出そうとすれば、結構思い出せるものなんだよね。
検索は最終手段ね、最終手段。

(数時間後)
あれっ?何を検索しようとしてたんだっけ?

2019年5月13日 (月)

鬼薊

きのう、浪曲の『祐天吉松〔ゆうてんきちまつ〕』を聞いてきたのですが、重要な部分で「般若湯〔はんにゃとう〕」という言葉が出てきました。私は歌舞伎が好きなので般若湯は知っているのですが、聞いている人はみんな分かったんですかねえ?

能は見る前に予習をしないとつまらないと思いますが、浪曲は事前に何も知らないほうが、意外性があって楽しめると思うのです。能と違って、そんなに難しい言葉は出てきませんしね。でも若い人は意外と聞き取れないのかもね。

『祐天吉松』の中に、お坊さんが出てくる場面がありました。そこで「鬼薊〔おにあざみ〕」という言葉が出てきました。
坊主に鬼薊と言えば、歌舞伎が好きな人には『小袖曽我薊色縫〔こそでそがあざみのいろぬい〕』という演目が思い浮かぶと思います。
主人公は鬼薊清吉〔おにあざみせいきち〕という元・坊主。
でも鬼薊は清吉のことだけを表す言葉ではなかった。
薊というのは、「葱坊主」と同じように、その形状から「坊主頭」のことを表しているということが、きのう分かったのでした。
そしてそれは、普通の坊主ではない。


2019年5月12日 (日)

ネットで検索

YAHOO!で何かを検索しようとすると、「キーワード入力補助」というのが検索語を予測してくれるのですが、「京鹿子娘道成寺」を入れようとしたら、「京鹿野子娘道成寺」とか「京鹿子娘道明寺」とか、ちょっと違うものが勝手に出てくるのです。(試しにやってみてください)
この「キーワード入力補助」は、検索の実績が多い言葉が自動的に出てくる仕組みなのでしょうか?「娘道明寺」とは一体どうしたことでしょう。
(そして正確なキーワードは表示されないのでした)
使っている人のレベルが低いのでしょうか?

そして、検索しても、広告とウィキペディアと辞書くらいしか出てこなくなった。
以前は、もう少し面白い記事が引っかかったような気がするのだけれど。

一体YAHOO!のニュースは、誰が編集しているのでしょうかね?
どういう基準で記事を選んでいるのでしょうか?
内容が馬鹿すぎでは?

そしてまた、各記事に3つだけ付くコメントが輪をかけて馬鹿すぎる・・・。

もう少し洒落たポータルサイトが登場しても良さそうなものなのに。

私は前から不思議なのですが、なぜ「インターネット上にウイルスをばらまく犯罪者を特定して厳罰に処す」ということが実施されないのでしょうか?いい加減、そのくらいの技術が開発されても良さそうなものなのに。

いつになったらAIが勝手に仕事をしてくれる時代が来るのかな~。

祐天吉松

玉川太福さんの浪曲を聞きに行ってきました。『祐天吉松〔ゆうてんきちまつ〕』全9話の連続読みで、今回が3回目。
開演直前に気分が悪くなって、でも席に座ってしまったらもう出られないくらいの小さな会場で、私はこのまま死ぬのではないかと思ったのですが、浪曲が始まったら調子が持ち直してきました。癒し効果があるのでしょうか・・・。

浪曲は、日本の音曲の中ではわりと後発組であるだけに、俳句、川柳、都都逸などの良いところを作中に取り込んでいるのではないかと思うのです。そういう磨き抜かれた言葉の洒落っ気みたいなものが、たいへん心地良いと感じます。都都逸っぽいなと思う時があるんですね。私は都都逸って好きなんです。自分の口から出る言葉が全て都都逸だったら良かった。

『豆腐屋ジョニー』は、面白い新作浪曲ですが、若い2人が結ばれるところまでやらないと、途中で終わった感じがしちゃいますねえ。作品を短く短縮するのって、大変なんですね。
浪曲って、30分くらいの曲が多くて、15分でできるような短めの作品は少ないのだそうです。
(村田英雄さんや三波春夫さんは、テレビ用に浪曲を変形させていったんですかねえ?)

『祐天吉松』の「人生流転」で、「猫のヒゲ」という言葉が出てきたのですが、「猫の死骸」(しがい→しげえ)じゃないですかね?(ヒゲでは死因は分からない)
江戸っ子は「ひ」と「し」が入れ替わると言いますが、どうなのでしょう?


2019年5月 9日 (木)

駅の発車サイン音

近年、電車の発車サイン音を変更する駅が増えていますね。むかしはベルやブザーといった、けたたましい警報が使われていましたが、この頃は何か有名な楽曲から引用した短いメロディーが多くなりました。

JR上野駅の発車メロディーが、オペラ《トゥーランドット》のアリア「誰も寝てはならぬ」になったのをご存じでしたか?聞いた時は、上野と何の関係があるのかと思ってビックリしたのですが、今年の夏に東京文化会館で上演される《トゥーランドット》を盛り上げるために、期間限定で採択されたのだそうです。
短い期間でメロディーを変えるのは珍しいのではないでしょうか?

国立劇場の最寄り駅である半蔵門駅も、昨年、発車サイン音を変更しました。候補の段階では、『越天楽』『春の海』なども挙がっていましたが、結局は文楽と歌舞伎から1曲ずつになりました。(文楽の『寿式三番叟』と、歌舞伎の黒御簾音楽から「てんつつ」)
慣れてくると、なかなかいいメロディなのではないかと思います。
「柝の音」なんていう候補も出ていましたねえ。「柝の音」は、柝を打たないと柝の音にならないんじゃないかと思いましたケド・・・。

新国立劇場の最寄り駅である初台駅は、オペラ《アイーダ》とバレエ《くるみ割り人形》を使っていますね。発車サイン音ではなく到着サイン音かな?

やっぱり陽気で洒落た曲がいいとなると、曲選びも大変ですよねえ。
むかし、JR八王子駅で「夕焼け小焼けで日が暮れて」のメロディーが使われているのを聞きました。この曲を朝や昼に聞くのは嫌だなと思いました。
JR豊田駅で「垣根の垣根の曲がり角、焚き火だ焚き火だ落ち葉焚き」のメロディーを聞いた時は、夏もこの曲を使っているのかなと思ってゾッとしました。
私が以前住んでいたJR武蔵小金井駅では、一年中「さくらさくら」が流れていて、とても嫌な感じでした。
季節や時間が合っていない曲は、嫌な感じがするものです。

たとえば能舞台の鏡板に描かれた松のように、季節と関係なく、それでいて誰が見ても納得するような、そんな松に匹敵する普遍性を持った日本のメロディーって、実はそれほど存在しないのではないかという気がする。

ところで、劇場の開演5分前のブザーって、どうしてブザーを使うんですかね?(東京文化会館はチャイムの音を使っていますが)
ブザーの音って、綺麗じゃないですよね?開演を告げる音が綺麗じゃないのって、おかしいことですよね?
柝の音や、お調べや、寄席囃子。芸能の分野ごとに、素敵な開演の合図があるのに、昭和に作った開演告知の合図が味気ないブザー音。
このあいだ行った劇場の開演ブザーは、開演5分前と開演直前と計2回も鳴って、耳からウンコ食わされているようだった。

劇場の開演の合図も、綺麗な音に変えてくれればいいのに。

2019年5月 7日 (火)

勉強し直して

物を捨てたい、けれど捨てられない。
捨てた後に「あっ、やっぱり捨てなければよかった」と後悔することもある。

買ったままになっていた「CDつきマガジン 落語 昭和の名人」創刊号「五代目古今亭志ん生」(小学館)を、パラパラと読んでいたのです。演芸評論家の矢野誠一さんが、志ん生について語っているのですが、その聞き書きの中に、志ん生の盟友として八代目桂文楽の話題が出てきました。
文楽は昭和46年夏、「東横落語会」で『大仏餅』を口演中に”神谷幸右衛門”の名が出てこず、絶句。以来、高座に復帰することはありませんでした。

いやいや、桂文楽の最後の高座は、国立劇場小劇場における「落語研究会」でしょう。「東横落語会」はその1日前ですね。そんな間違え方があるものなのでしょうか?

バレエの《ロメオとジュリエット》

ケネス・マクミラン振付のバレエ《ロメオとジュリエット》は大変人気のある作品です。私もこの作品は大好きで、アレッサンドラ・フェリがジュリエットを踊る映像は、バルコニーの場面を何度も何度も見ました。フェリはまるで重力から自由になった妖精みたいで、見えない羽根が生えていて、もう少しで空を飛べるんじゃないか・・・、と思ったものです。

しかし何度も見ているうちに思ったのですが、マクミラン振付のこのバルコニー・シーン、恋する2人の初々しさや、ときめきは良く表現されているものの、親同士の仲が悪くて先行き恋が実らなさそうな不安だとか、それでも好きな気持ちを止められない衝動とか、駄目だからこそ燃えてしまう「なぜあなたはロメオなの」みたいな側面、この物語を特徴づけている重要な要素「禁断の恋」の表現が抜け落ちているように感じるのです。普通の恋愛みたいに見えると言うか、バルコニーの舞台装置がなかったら何の話だか分からない。

禁断の恋であることを観客に分からせる振付を、日本人の振付家が新しく作り出してもいいのに、と思いました。
(言葉なしで、その表現は可能でしょうか?)

2019年5月 6日 (月)

オペラと拍手

オペラ《ラ・ボエーム》を見ておりますと、第1幕の最後の部分で、まだ音楽が続いているのに、拍手が入ってしまうことがよくあります。この部分の音楽は、冬のパリの月夜を感じさせる情緒豊かな美しい音色で、拍手で聞こえなくなってしまうことが大変残念なところです。
しかし、主役2人が去って行って、幕が下り始めたならば、拍手が起こってしまうのもまた無理からぬことです。

生で見ていて拍手が起こると、あの美しい音楽を聞けないのがもう本当に残念で、周りの観客を恨んでしまったりすることもありますね。
しかし、せっかく美しいものを見に来ているのに、そこでマイナスの感情を呼び起こしてしまうのは、全く馬鹿げたことです。

そこで演出家の取れる対策として、「音楽が終わるまで幕を下ろさず、第1幕は暗転で終了させる」「舞台上にプッチーニの亡霊役が現れて、観客に向かって『シーッ』というポーズを取る」などの方法が考えられます。

どの録音だったか、観客の中の1人が客席中に聞こえるように「シーッ」と言い放ち、鳴り始めた拍手をやめさせる録音を聞いたことがありますね。
「演出家が客席にそういう人を仕込んでおく」という手も考えられます。
※あまり美しくない

ところで先日、VHSビデオテープをもう捨てようと思って、英国の王立歌劇場の《ラ・ボエーム》を見ておりましたら、第1幕の幕切れに拍手が起こりませんでした。しかも、「冷たい手を」にも「私の名はミミ」にも、第3幕のミミの「さようなら」の後にも、すなわち劇中では1度も、全く拍手が起こらなかったのです!こんなのは初めて見ました。別に歌が悪かったわけではなく、《ラ・ボエーム》の映像としては極上の部類に入るものなのに。

そう言えば、こんな話を読んだことがあります。ドナルド・キーン氏が初めてマリア・カラスを生で見た時の話です。場所はロンドンの王立歌劇場。
自分の席にたどり着いて、最後まで観たのですが、観客の多くが熱狂する中で、私の隣の男の人は片手で自分のもう一方の腕をたたいているだけでした。私が「素晴らしいと思いませんか」と聞くと、その人は「いや、これは今まで観たオペラで一番よかったですな」と言うんです。典型的なイギリス紳士というのはこういうものかと思いましたね(笑)。
『マリア・カラス 世紀の歌姫のすべて』(1997年、共同通信社)よりp44

マリア・カラスに関する本で、カラスが「なぜ拍手が起こらなかったのかしら」と気にした、という記述をいくつか読んだことがあります。1952年の《ノルマ》の「清らかな女神よ」の後と、1964年の《トスカ》の「歌に生き、恋に生き」の後、どちらもロンドンでの公演の逸話でした。
(何の本に書かれていた逸話だったのか、パッと本が出てこないのですが、私はもう頭がボケているんですね・・・)
ロンドンの客はあまり拍手をしないのかなと思いました。

オペラでもバレエでも、ドラマの最中に拍手が入るのは不思議なものですよね。作品にもよるでしょうけれど。

《椿姫》の第1幕のアリア「そは彼の人か」の後に拍手が入ると、ドラマが途切れてしまいますよねえ。
拍手が入った場合の演技と、入らなかった場合の演技と、歌手は2種類の演技を準備しておく必要があるでしょうね。難しいものですね。

そういう拍手って、作品を知らない、初めて見る人がしてしまうわけでしょう。初めて見るくせに上演の最中に拍手をするのって、すごい度胸だよなと思う。

エディタ・グルベローヴァがサントリーホールのリサイタルで「偉大なる王女様」を歌った映像をよく見るのです。「偉大なる王女様」は、長い歌の終盤に高音を決めるところがあり、これでアリアが終わりなのかな?と思うのですが、グルベローヴァは「まだ終わりじゃないの」という「客に拍手をさせない演技」をして歌を続けています。そして本当に終わる瞬間にパッとお辞儀をして、客席は熱狂的な拍手。実に見事で、偉大な歌手は観客の拍手までコントロールできるのかなあと思いました。

拍手という習慣はむかしの日本にはなかったものであり、明治以降に日本でも取り入れられたのだそうです。
能楽や歌舞伎の公演で拍手が呆気ないのも、また風情があるものです。

2019年5月 4日 (土)

あれこれ

10連休、早くも終盤に差しかかっています・・・。
やろうと思っていたあれやこれや、全然実行できぬまま・・・。

我が社は夏休みが5日間あるのですが、学生の頃は40日くらいあった夏休みが社会人になると5日間って、ホントに短いですよね~。
なんでこんなに短いんですかねえ?
日本は他の国に比べて祝日が多いと聞きますが、ヨーロッパの人々は、夏とか年末とかに、まとめて長期間休むでしょう。

あれは5年前、仕事の都合で、ロンドンのグローブ座から舞台写真を借りようという話になったのです。同じ係の頭のいい人が英語で依頼メールを送ったのですが、先方から何の返信もない。これはもう駄目だなとすっかり諦めた頃、「ゴメン、夏休みだったんだ」というメールが届いたのは1か月以上たってからのことでした。グローブ座って、そんなに長い夏休みなの?と驚きました。

忙しいのは仕方がないけれど、ずっと忙しいのはイヤですよねえ。
(今の部署はあんまり残業もないんですけどもね)


2019年5月 3日 (金)

五月歌舞伎座・夜の部

歌舞伎座の夜の部を見てきました~。
丑之助襲名の初日とあって、大向こうの掛け声がすごかったですね~。
『絵本牛若丸』は、丑之助さんの立ち廻りがたっぷり見られました。音羽屋らしい感じでした。

そして、久しぶりに『京鹿子娘道成寺』を拝見しました。生で見るのはおよそ7年ぶり。
その間、京都では上演されていましたけれども、私は行きませんでした。(舞踊家さんのは東京でもありましたが)
毎年見ていた演目が、7年間の空白。何とも不思議な時間でした。
客の拍手のタイミングが変じゃありませんでしたか?「恋の手習い」の前に拍手が入っちゃうの、イヤなんですよね~。しかも、三味線の合方の終わりと、花子の出と、2回も拍手がありました。超絶いらないだろ!

「三味線の合方に拍手はいらない」と私はむかしから思っているのです。
演奏が素晴らしい場合・・・せっかくの三味線が拍手で聞こえなくなってしまう
演奏が素晴らしくない場合・・・拍手をする必要がない

ミラノで思う

私は昭和46年生まれなのですが、小学生の頃の記憶では、家に物売りが来ることが稀にありました。(実家は神奈川県西部の田舎で、田んぼの中の一軒家でした)
母親が対応していましたが、日用雑貨などを売りに来ていたのではないかと思います。

今は消え去ったと思いますけれど、そのような行商の形態は、昔は普通のことだったのでしょう。断るのが面倒くさそうですよね。江戸時代には、行商だけでなく、托鉢とか巡礼とか門付けなども家に来たのでしょう。断る時は「ご無用(うちは要りません)」「通れ(早くあっち行って)」なんて言うのがお決まりのセリフだったようです。
赤の他人が突然やって来て、「買え」とか「くれ」とか言う。それは必ずしも迷惑とは限らず、当たり前の生活の一部であり、嬉しかったり便利だったりすることもあったのでしょうね。

現代でも、形を変えて、電話やメールなどで営業されることがありますよね。営業が強引だと、要らないのに買ってしまう場合があります。特に子供や年寄りですね。「要らない物はきっぱり断れ」ということを子供のうちにしっかり教育しておく必要があります。
私も高校生の頃、高額な英語教材を買わされた苦い経験がありますねえ・・・。(親の金ですけど)

このブログのせいで、私はしょっちゅう海外に行っているイメージがあるみたいなんです。でも前回行ったのはもう5年も前のことです。前の所属部署では、休むと仕事が余計に大変になるので、休めなかったんですね。
前回の海外旅行では、ミラノへ行きました。イタリアオペラの総本山と言われるスカラ座に初めて行ったのです。
ミラノは、イタリアの他の都市と比べると、観光名所が少なめです。ドゥオーモと呼ばれる大聖堂と、レオナルド・ダ・ヴィンチの『最後の晩餐』が有名で、あとは冴えない城と美術館くらい。オペラファンの夢であるスカラ座に興味のない人は、他のイタリア都市を先に見たほうがいいのではないでしょうか。

ところで、ドゥオーモの前で写真を撮っていると、アフリカ人がやって来て、ミサンガを売りつけようとするんですよ。ミサンガって、カラフルな紐ですね。手首や足首に付ける飾りです。これが「ノー」って言っても引き下がらないんです。押し売りですよ、押し売り。

ローマでもフィレンツェでも、物売りは大勢いるのです。そして、教会の入口あたりにはたいてい乞食がいます。北イタリアの電車の中で、恵んでくれと乗客にお願いしながら渡り歩く子供たちを見たこともあります。駅で切符を買おうとすると、小銭をもらおうとして寄ってくる人たちもいます。イタリアは貧富の差が激しく、そして「貧」の側の人たちはとても活動的なのです。

しかし、さすがに押し売りは珍しいですね。ミラノのドゥオーモ前の押し売りは、すごくしつこいんです。いま北アフリカは政情がたいへん不安定で、命の危険があり、海を渡ってヨーロッパへ逃げて行く難民がたくさんいるんですよね。私が見た押し売りは、自分でアフリカ人って言っていたので、間違いなくアフリカ人なんです。向こうも生きていくために必死ですし、怖いんですよね。私は買いませんでしたけど。

それにしても、「なぜミサンガの押し売りなのか?」と私は不思議に思ったのです。こちらだって観光に来ているのだし、何か旅の思い出になるようなものに対してならば、まんざらお金を出さないわけでもないのです。例えばアフリカらしい歌や踊り、あるいはドゥオーモのイラストとか?もっとお互い楽しくできそうなものです。売り方にもいろいろありますし。

レオンカヴァッロ作曲のオペラ《道化師》のDVDを何枚か持っています。その中に、ワシントン・ナショナル・オペラでドミンゴが主演した1997年の映像があります。演出はフランコ・ゼッフィレッリ、指揮は私の知らない人。日本語字幕が付いていないので、普通の人は買わないと思いますが、私はゼッフィレッリのファンなので購入しました。
ドミンゴはワシントンで芸術監督をしていましたし、すごく力の入った公演だったのだろうと思います。
旅回りの劇団が町にやって来て、「今夜みんなで見に来てね」と告げる冒頭の場面で、アメリカの大道芸人が何組も出て来るんです。羊をつれたデブ女、バック転おじさん、サドルの高い一輪車、口から火を吹くおじさん。ジャグリングもあるのですが、本火のついた松明でジャグリングするんですよ!舞台上で本火でジャグリングですよ!「これなら23時に私もそこへ行く!」と思いました。と言うか、これが生で見られるならワシントンまで行ってしまおうかと思ったくらいです。
アルレッキーノがコロンビーナへの恋心を歌う場面では、アルレッキーノの周囲に、化粧をした道化師たちがいて、歌に合わせていろんな顔をするんです。表情だけで人を惹きつける力がある。こういうのが本物のピエロなのかなあと思いました。

ニューヨーク・メトロポリタン歌劇場の1978年の《道化師》DVDも持っています。やはりゼッフィレッリの演出で、このプロダクションは日本でも上演されたことがあります。極め付きと言える美しい舞台ですね。(私は生では見ていませんが、無理してでも見ておけば良かった)
劇団が町にやって来る場面で、子供たちの器械体操みたいなのがあるんです。西洋版の越後獅子みたいなパフォーマンス。ネッダも幼い頃にこういうことをしていたのかなと思わせるような場面です。この芸になら私もお金を出しますね。

歌舞伎の中の一場面に越後獅子をやって見せる子役が登場することがありますけれども、側転を2~3回やるだけでは、あまりすごいと思えない。小学生の時、側転が出来る人は周りにたくさんいました。(私は出来ませんでしたが)
越後獅子って、もっとすごいものだったのではないかと思うのです。インターネットで検索すると古い写真が出てきますが、軟体芸みたいなこともやっています。「越後獅子の親方」と言えば、強欲で厳しい雇い主の代名詞みたいに使われますし、江戸時代はもっとすごいことをやっていたのではないでしょうか。

今の東京でも、大道芸をやる人はいますよね。東京都の許可を取らないと出来ないみたいですけど。東京都では「ヘブンアーティスト」って言うそうですよ。英語にすると意味が分からなくなりますよね。英語にするとカッコいいと思う感覚が全く分からない。私はむしろダサいと思うんです。「ヘブンアーティスト公演中」という旗のダサさには失神しそうになります。「許可制の大道芸」ってのも不思議な感じがしますケド。

歌や踊りでお金を取るのは大変なことですね。大道芸で人気があるのは、やはり曲芸ですね。

しかし日本では、大道芸であっても、言葉の要素が重要ですよね。
むかし、海老一染之助・染太郎〔えびいちそめのすけ・そめたろう〕という兄弟の太神楽コンビがありました。
染之助さんのほうが曲芸担当で、染太郎さんは喋っているだけでした。曲芸なのに喋ってるだけなのは納得がいかないというのでコンビを解消したら、全然売れなくなっちゃったのだそうです。それでまたコンビを復活させた。
傘の上で鞠を回す曲芸が売り物でした。鞠の次に、升を傘の上で回すんです。丸い鞠より、四角い升のほうが、確かに回すのは難しいだろうけれど、「鞠を回せるんなら升だって回せるだろうよ」とみんな心の中でたぶん思うんです。そこへ染太郎さんが、「升が回って、ますますおめでとうございまーす!」って陽気に言うと、みんなヤンヤの大喝采。ただの駄洒落なんだけれど、それだけのことで、みんな本当に心から幸せな気持ちになれたものだったのです。

アメリカでは、「言葉が通じなくても見て分かる芸」が発達したけれど、日本の芸は話術と切り離せない。そして、それを楽しむことが出来るのは日本人だけです。わっはっは。

2019年5月 2日 (木)

白黒の熊谷

むかし録画したVHSのビデオを連休中に見ているのですが、八代目松本幸四郎の「熊谷陣屋」を今日拝見しました。昭和35年の上演で、白黒映像です。

まず竹本の立派さに感銘を受けます。三味線の音が現在とずいぶん違いますね。昔のほうが義太夫らしいと言いますか、文楽の音色に近い感じがします。現在の竹本の三味線は、サワリのビヨーンという響きを削った、乾いた音色ですね。江戸前の好みなのでしょうか。

先代の又五郎さんが藤の方を勤めていらっしゃいます。私が歌舞伎を見始めた頃は、お爺さんの役をされることが多く、そのイメージが強かったのですが、この藤の方が素晴らしいです。記録を見ると、又五郎さんはお岩様も演じているんですね。お岩様を演じられるというのは、すごいことですね。ちょっと新鮮だったのですが、相模のくどきを聞きながら、藤の方が「そういうことだったのか!」って身替わりの事実に気付く演技をするんです。今の上演ではやらないですよね?

2019年5月 1日 (水)

生音超え

私がオペラを好きになったのは平成9年のことでした。オペラのCDを物色しに、CD屋さんへよく行ったものです。試聴機で新譜を聞いていると、オペラのアリアなんか長いから途中で切れちゃって、いいところなのにチクショー!なんて言って結局買う羽目に・・・。(思う壺)

最近はCD屋に行く機会もめっきり減って、先日久しぶりに新宿のタワーレコードへ行ったのですが、まあオペラコーナーの縮小されたこと。昔はロッシーニの珍しい作品なんかも結構置いてあったのに。今だったらアマゾンで買うわけですかねえ。でもジャズコーナーは一向に狭くならないですよね?(隣の芝生は青く見えるものなのでしょうか)

聞きたいオペラだってろくろく聞けていないくらいですから、器楽曲まで手が回らないのですが、ショパンのピアノ曲「バラード第1番」が好きなんです。前から顔だけは知っていた牛田智大さんの新しいCDが試聴機に入っていたので、聞いてみました。素晴らしい~!早速購入。
「うしだともはる」とお読みするのだそうです。読めないですよね。まだ19歳だって。

ショパンの「バラード第1番」は、ジョン・ノイマイヤー振付のバレエ《椿姫》の一場面にまるまる使われていて、私はバレエからこの曲を知ったのです。繰り返し見た映像で頭に刷り込まれてしまって、好きな曲なのに好みが固定化してしまったと言いますか、どの演奏でも好きというわけではなく、むしろほとんどの演奏が駄目。「なんでそう弾くの?」って不満に思うことが多いのです。(客は王様)
いろいろ聞き比べて、気に入ったのはアシュケナージ、辻井伸行さんくらいでした。
アヒルが、卵から孵って最初に見た「動く物」を母親と思い込んでしまうみたいに、最初に聞いた演奏に捕らわれて世界が狭くなってしまうのは、もったいないのではないかと思います。
しかし、オペラのアリアでも、本当に感動するのはほんの一握りの歌手だけで、聞いても感動しない歌手のほうが圧倒的に多いのです。
落語でも、同じネタなのにつまらない落語家のほうが圧倒的に多い。
「刷り込み」って、単純に「最初に良いものを聞いてしまった」ということなのかもしれない。
そして、私のその刷り込みをかいくぐって心に飛び込んで来たアシュケナージはすごい。
(「私にとって」というだけのことだけれど)

それで、牛田さんは素晴らしいと珍しく思ったわけなんです。
速すぎないのがいいと思うんですね。
「速いからすごい」と感じることも勿論あると思いますが、「速い」ということは、強弱やテンポの変化を盛り込む余地がなくなっていく、ということでもあります。イコールなんです。「速いから駄目」ってこともあると思う。

また牛田さんのそのCDは、音が綺麗なのでビックリしてしまいました。炊き立てのおいしいごはんの米粒が一粒一粒立っているみたいな、音符が一つ一つキラキラと輝いているみたいな感じ。これはもう、生演奏を超えたのでは?
演奏会で聞く場合、隣の席に気持ちの悪いオッサンが座っている可能性も高いし、録音はもう生演奏超えの時代ですね。

最近、海外ではピリオド楽器の演奏が流行っているじゃないですか。オーケストラの各楽器は、時代によってかなり変化してきているわけですけれども、作曲された当時のスタイルの楽器を使って演奏するわけですね。変化する前に戻るわけです。音色が全然違いますから。(演奏する技法もだいぶ違うそうですが)
そうすると、同じ曲に聞き飽きたクラシックファンたちは新鮮に感じて、人気が出たりするみたい。
日本ではまだ、そういう演奏を聞く機会は少ないですよね。日本人の演奏家はそういう楽器を持っていませんから。そういう楽器は世界的に少ないし、高価でしょう。
でも実際に聞いてみると、音が小さいんだそうですよ。
楽器がなぜ変化していったのかと言うと、だんだん会場が大きくなっていったので、音を大きくする必要があったわけなんですよね。貴族の宮殿の一室で演奏されていたのが、何百人、数千人入るホールに移っていったのですから。少数の大金持ちだけが聞く時代から、聞きたい人みんなで聞く時代になった。
古楽器の演奏会は、使う楽器は作曲された当時のものに戻るのですが、会場は作曲された当時に戻るわけではないので、必然的に音が小さいと感じるのだそうです。
「録音で、自分の好きなボリュームで聞いたほうが楽しめる」と聞いたことがあります。


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