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2019年8月

2019年8月31日 (土)

国立能楽堂のホームページが酷い

国立能楽堂の英語版ホームページが本当に酷い状態なのです。
10月に「外国人のための能楽鑑賞教室 Discover NOH & KYOGEN」という公演が行われるのですが、英語版ホームページに「Nohgaku kansho kyoshitsu for the Audience from Abroad」と紹介されているのです。
「新しいことを始めるのは、今やっていることがまともにできるようになってから」お願いします。

「計画Plan」や「点検Check」にかける膨大な手間を省いて、真に必要な「実行Do」を!



国立能楽堂ショーケース

先日「国立能楽堂ショーケース」という公演を見に行ってきたのです。
この公演は、ちらしに「国立能楽堂SHOWCASE」と書かれていて、外国人向けの公演なのかと初め思っていたのですが、そういうわけではなく、単に「初心者向け」の公演でした。
国立能楽堂には各座席に字幕が付いていて、この公演は日本語・英語・中国語・韓国語の字幕が出るので、外国人でも楽しめる公演だと思いますが、最初の「解説」は日本語で行われましたし、主に日本人の観客を対象とした公演です。
「国立能楽堂の能楽入門」「初めての能楽」などの名前のほうが、企画の趣旨が伝わるのではないかと思いました。
何でも英語で書けばいいというような昨今の風潮に私は強い違和感を感じています。日本語の美しさを売りにしている能楽が、そうした流れに追従する必要はないと思うのです。「ショーケース」が「入門公演」だと理解できる日本人がどれだけいるのでしょうか。公式サイトの公演情報ページには、「国立能楽堂ショーケースとは、このような公演です」という説明さえもありません。
※国立能楽堂では、「Discover NOH & KYOGEN」という外国人向けの公演を、すでに数年前から行っています。

私はもう何年も前から能を見ており、初心者ではないのですが、どのような公演なのか興味があったのでショーケースを見てきました。
武田宗典さんの解説はたいへん分かりやすく面白い内容でした。主に能舞台の説明と、上演作品(狂言一番、能一番)の説明でした。驚いたことに、この解説にも4か国語の字幕が表示されたのです。私は日本語字幕を選んで表示させていたのですが、「武田宗典さんの話していることと一言一句同じ」というわけではありませんでしたが、「だいたい同じ」ことが字幕で表示されていました。武田宗典さんは、原稿を手にして話していたものの、「ただ読み上げている」というふうではなく、ほとんど原稿を見ずに、自然に話していらっしゃいました。

国立能楽堂では、開場当初から「普及公演」という「解説付きの公演」を行っているのですが、その「普及公演」よりも更に初心者向けの内容でした。そして何よりも、料金が安い!
しかし、会場はお年寄りが多く、初心者が多く見に来ているという感じではありませんでした。もちろん、年を取ってから能を見始めるというのも素敵なことだと思いますが、私が見たところ常連客が多い気がしたのです。
初心者向けの公演が、初心者のもとにちゃんと届いているのか、疑問に思いました。
「ショーケース」「普及公演」などの公演は、あぜくら会の先行予約をやめるとか、40歳以下の優先予約を開始するなど、特別な措置が必要なのではないかと思いました。

2019年8月29日 (木)

花外の酔奴

尾上右近さんの自主公演「研の会」のチケットが、キャンセル待ちで入手できました!良かった・・・。
席は花外〔はなそと〕でした。
私は平成4年から歌舞伎を見ているのですが、花外で歌舞伎を見るのは今度で2度目になると思う。
花外は、「芸裏〔げいうら〕」とも言い、幕内の符丁では「ドブ」とも言う。
なぜ同じ料金なのか私には理解しかねるところですが、意外と見やすいという話も聞いたことがあります。芸裏からしか見えないものも確かにあるわけなので、この際、2度目の花外を楽しみたいですね。

上演演目の「弁天小僧」はお馴染みですが、『酔奴』は初めて見るので、詞章をチェックしておこうと思って日本舞踊社『日本舞踊全集』を開いてみたら、何と掲載されていないではありませんか。
国立劇場の主催公演では、平成25年に花柳寿太一郎さんが1度だけ踊っています。
よほど珍しい演目なんですね・・・。

2019年8月28日 (水)

劇場の名前

劇場の名前というのは、一体どうやって決まるものなのでしょうか?

札幌に「Kitara」という名前のコンサートホールがあって、てっきり「キタラ」と読むのかと思っていたのですが、公式サイトによるとギリシャ神話に出てくる楽器の名前で「キターラ」から来ているのだそうです。

札幌には「hitaru」という名前の劇場もあるのですが、公式サイトには名前の由来が書かれていないみたいです。アイヌ語の単語から来ているという話を聞いたことがあります。私は行ったことがないので、しつこく調べる気力もない。「ヒタル」と読むものと思っていますが、ひょっとすると「ヒタール」などという知らない楽器の名前かもしれない。または「ヒータル」「ヒー・ター・ルー」などの可能性も捨てきれない。

「文京シビックホール」は、普通に言えば「文京区民ホール」となるでしょうし、「世田谷パブリックシアター」は、「世田谷公会堂」ということなのでしょうが、カタカナにすることによって独自性を打ち出すことに成功した。

「北とぴあ」は、北区にあるから「きたとぴあ」なのかと思うと「ほくとぴあ」なのであった。でもルビが振られていることが多い。名前の由来は不明。

「さくらホール」という名称は、エキセントリックなところがなくて好感が持てるものの、同じ名前のホールが全国にたくさんあり、区別がつかない。

「ウィーンホール」「モーツァルトホール」などの名前は、「なぜその名前?」という疑問が拭えない。(意味不明感が満載)

「KAAT」は「カート」と読むそうですが、「T」を「ト」と読ませるのは難しい。

「日本橋公会堂」は、自ら「愛称:日本橋劇場」などと名乗っていて、もう名前を覚える気力も湧かない。(1つの劇場で2つも名前を覚えられない)

名古屋にある「日本特殊陶業市民会館」は、何度か行ったことがありますが、1度も名前を覚えたことがない。

「梅若能楽学院会館」も覚えられない。

池袋に新しく出来る劇場の名前が「東京建物 Brillia HALL」に決まったそうです。「ブリリアホール」と読む。書けなさそう。

渋谷公会堂が建て直されて「LINE CUBE SHIBUYA」という名前になるそうです。

ローマ字になると、もう「勝手にやってくれ」という感じがします。

2019年8月27日 (火)

ブログ

このブログは「ココログ」を使って作成しているのですが、従来使っていたデザインが使えなくなって、ストライプに変更してみました。しかし、実はどのデザインも私の好みではなく、仕方なくこれを選んだという感じです。
そして、ブログのまわりに表示される広告が、痩身だのシワ取りだの、掲載写真があまりに美しくない。もう耐えられない。
ブログの引っ越しを考えています。

2019年8月24日 (土)

紀尾井町夜話

歌舞伎座ギャラリーで行われた「紀尾井町夜話〔きおいちょうやわ〕」第四夜に行ってきました。

松緑さんのトークショーには何度か行ったことがあります。国立劇場で織田紘二さんを聞き手として出演したのが最初だったでしょうか。この時は聞き手がかなり年上だったこともあり、わりと大人しい感じでした。その後、気心の知れたゲストを迎えたりして、ずいぶん弾けた内容になってきました。(夜話ではお酒が入ってますし)

今回は、まず松緑さんの服装に衝撃を受けました。黒地に花模様のスーツ?こんな服を着ている人は見たことがない!写真撮影オーケーの時間もありましたが、私のガラケーではボケボケ写真しか撮れませんでした。

ゲストは梅枝さん。ハワイから帰りたてで、日焼けしていました。

国立劇場の7月歌舞伎鑑賞教室では、「車引」と『棒しばり』が上演されたわけですが、演目の決定にずいぶん時間がかかったのだそうです。『夏祭』が候補に挙がっていたのですが、親殺しの内容が鑑賞教室に相応しくないということでボツ。(お父様の初代辰之助さんが、むかし鑑賞教室で『夏祭』を上演したことがありましたが)
『文七元結』も挙がっていたのですが、吉原へ身を売るという内容が相応しくないということでボツ。『身替座禅』も不倫の話で論外。
国立劇場の歌舞伎鑑賞教室は、高校生が主な客層なのですが、7月は後半が「親子向け」になるので、6月よりも更に演目の幅が狭まるのですね。親が子供に説明できないんですね。
そうすると、本当に上演できる作品が限られてしまいますね・・・。

※新国立劇場のオペラ鑑賞教室では、娼婦の話《椿姫》や、強姦の話《トスカ》、領主の初夜権の話《フィガロの結婚》なども上演していますが、こちらは観客を高校生に限定しています。オペラは強姦の話がやたら多いですね。《フィガロの結婚》も、スザンナは嫌がっているのですから、伯爵は強姦を狙っているわけですね。新婚の花嫁の。

他に出た話では、
「金閣寺」で碁を打つ場面がありますが、本当に碁を打っているのだそうです。「本当に碁を打っている」という話は私も聞いたことがありましたが、松緑さんは碁が強いので、大膳なのに毎回勝ってしまうのだそうです。勝っているのに「兄者が負けた」と言われているのだそうですよ。
ちなみに開演前、舞台に碁盤を用意する時は、お弟子さんが新聞の囲碁欄などを参考に本格的に碁石を置いておくのだそうな。

『傾城反魂香』の修理之助が虎をかき消す時、筆で「龍」の字を書きますが、「竜」の字の場合もあるそうです。「辰」の字はないそうです。(梅枝さんが「竜田揚げの竜」と言っていました)
梅枝さんのお話では、「金閣寺」の雪姫は爪先鼠の場面で、ひらがなの「ぬ」の字を書いているのだそうです。最後に目を入れるところでは、「ぬ」の字の真ん中あたりに入れているそうな。全然知りませんでした。「ぬ」の字は鼠に似てますかね・・・?最後のクルッとしたところがしっぽなんですね。
「龍」の字も、知る前は何を書いているのかさっぱり分かりませんでしたが、話を聞いた後に見ると筆で「龍」の字を書いているのが見えてくる。次に「金閣寺」を見る時は、「ぬ」の字が見えてくるのでしょうか。

2019年8月23日 (金)

言葉の消費

インターネットというものが世に出始めた頃と、私がオペラに興味を持った時は、ちょうど同じ時期でした。
全ての公演を見ることは不可能で、自分が見られるものは限られていますから、気になっていたけれど見られなかった公演の情報をインターネットから得られるのは便利。知らなかったことをいろいろ教わる場でもあります。


オペラでも歌舞伎でも、まずは「掲示板」というものがあり、書籍として流通するような話題ではない噂話とか、小ネタ、マニアックな知識、さまざまな感想というものが書き込まれ、誰かが疑問を投げかければ、それに回答を与える人もいました。かなり流行っていました。有益な情報を得ることもありました。
が、掲示板は完全に終了したように見受けられます。

そのような公開討論のような場のほかに、「ホームページ」「ブログ」などで、個人の感想や考えを書き込む人もいました。
が、それらは人数が減ったのに加えて、検索しても引っかからなくなったと思います。

「mixi」「Facebook」に書き込む人もいます。
が、ログインしなければ読めないところに書かれた感想や意見には、私はあまり興味がない。世間の興味の対象が「話」から「人」に移ったように感じました。

最近は「Twitter」で呟く人が増えました。検索にも引っかかり、私も読んでみることがあります。
が、文章が短い。文章と言うか、本当に鳥のさえずりのようで、単語で喋っているみたいな感じですね。

海老蔵さんのブログは、形式はブログですけれども、中身はほとんどTwitterなのではないかと思う・・・。

ネット上の文章が、どんどん短くなってきている気がするのです。そしてすぐ消えていく。

2019年8月18日 (日)

異国語への憧れ

先日、新国立劇場で「バレエ・アステラス2019」という公演を見てきたのです。「アステラス」という言葉は、ギリシャ語で「星」という意味であると仄聞していたのですが、いまインターネットで検索すると製薬会社の名前しか出てこない。ギリシャ語で星を検索すると「アステリ」「アステール」だそうです。もう訳が分からない。
(パリ・オペラ座バレエ団の格付けで最高位ダンサーを表す「エトワール」は、フランス語で「星」のことで、他のバレエ団では使われない)

「バレエ・アステラス」は、短い場面や小品を次々に上演していく公演形態ですが、上演作品の1つに『Notre Chopin』というのがありました。無料配布されたプログラムには、短い作品解説が書かれているものの、タイトルに関する言及はナシ。
ひと昔前ならば『ノートル・ショパン』とでも表記されたでしょうし、もっと前なら『私たちのショパン』というタイトルになっていたことでしょう。現代は、異国語をそのまま提示される時代になったのでしょうかね。
この公演を見に来た人の何割が「Notre」を読めているのでしょうか?

来年1月に新国立劇場のバレエ公演で「DGV Danse à Grande Vitesse」という作品が上演されるのですが、きっと誰も読めていないと思う。

吉田都さんの引退公演が「Last Dance」というタイトルだったのです。一応、カタカナで小さく「ラストダンス」と添え書きされていましたけど。「Last」なのに定冠詞が付いていないことに軽い衝撃を受けました。

内閣府の取り組みに「TEAM防災ジャパン」っていうのがあるのですが、何のために「TEAM」という表記なのかよく分からない。「チーム」ではなく「ティーム」と発音すべきなのか、などと考えてしまう。

いま、「漢字で書かれていたら読まない(読めない)」という人と、「ローマ字で書かれていたら読まない(読めない)」という人と、どちらのほうが多いだろう?

内閣府でやっている「プレミアム付商品券」というのがあるのですが、「プレミアム付」ってどういう意味なんですかね?「プレミアム付商品券」の公式サイトを見ると、「確にゃん」「確認したら申請にゃん」などと書かれていて、これが本当に内閣府作成の公式サイトなのかと目を疑う。日本はもう駄目なんですね。

他の国の言語も、現在、こんなに混沌とした状況なのでしょうか?

2019年8月17日 (土)

クルクルねずみ

世の中には、不思議なことがたくさんありますよね。
「なぜ真夏に野外競技を開催するのか?」というのも不思議ですけれども、「他の人気スポーツと開催時期が重なると、テレビ中継の視聴率が取れなくなるから」というわけで、良い季節は先にサッカーや野球やラグビーに取られちゃってるんですね?
出場する人々は屈強な人たちですから大丈夫なのかもしれませんが、見るほうはどうなんでしょうかねえ?
それに、この暑さでは良い記録は期待できませんよね・・・。

今日、歌舞伎座の第一部を見てきたのです。『伽羅先代萩』で、政岡のクドキには拍手が起こらなかったのですが、クルクル回るねずみに拍手が起こっていました。
ねずみが片膝でクルクル回るとなぜ拍手が起こるのか、私は昔から不思議なんですよね。バック転のほうが7百倍くらい難しそうなのに。
これまで何度も『伽羅先代萩』を見てきて、政岡のクドキで拍手が起こらなかったのは何度か見ましたが、ねずみのクルクルに拍手が起こらなかったことは1度もない。

「客の感動」と「拍手の大きさ」は、あんまり相関していないんじゃないかなと最近思うのです。
「周りが拍手しているので、自分はあまり感動していないけれど拍手する」とか、「自分はすごく感動しているけれど、誰も拍手していないので自分もしない」とか、普通にありますよね。

2019年8月16日 (金)

おおグローリア

プラシド・ドミンゴが「おお、我が栄光よ!」と歌う声が何度も聞こえて来る気がする今日この頃です。暑いですね。いかがお過ごしですか。

ドミンゴのセクハラのニュースが今月13日に出たわけですが、その記事はほんの数行でした。これではよく分からない。日本語のニュースでは、セクハラで告発されたということぐらいしか分からないですよね。
情報の発信元であるAP通信の記事では、かなり具体的に詳しく書かれています。でも英語では読めないのでござる。

被害を訴えた女性の1人は言う。ドミンゴとは2度セックスし、そのうちの1度はロサンジェルスのホテルだった。ドミンゴは先に立ち去る時、棚の上に10ドル置いて、こう言った。「僕は君に娼婦のようだと感じてほしくない。けれどまた、君に駐車料金を払わせるわけにもいかない」
※10ドル=約1,060円


君の運命を変えてあげよう


東京文化会館と新国立劇場とで制作した≪トゥーランドット≫は、びわ湖ホールでも上演されたのですが、その2日間公演の1日目に停電が起こったのだそうです。第2幕の謎解きの1問目だったそうです。そこから観客はロビーに出され、1時間以上が過ぎてから、舞台装置が動かぬまま再開されたそうな。そうして翌日の公演も舞台装置は止まったままで、トゥーランドットは第1幕には登場しなかった(!)そうですよ。
すぐに、「びわ湖ホールで停電、上演中のオペラが一時中断 原因は調査中」というニュースがインターネット上に出たのですが、その後の調査結果などがニュースにならない。まだ調査中なのでしょうか?

日本のニュースには知りたいことが書かれていないことが多い気がする。

2019年8月12日 (月)

もしも大富豪だったら

このあいだ、梅若能楽学院会館に能を見に行ってきました。
ここの会館の名前は私には覚えられないです。
あと、入口の作りが変だと思うんですね。風水のことを知らなくても変だと分かります。

ここで能を見るのは3回目くらいでしたでしょうか。
舞台照明が異様に綺麗なんですよね。上のほうに外光を採り入れるガラスがあって、照明と日光が混ざっているんです。舞台に日光が当たると、装束の金糸がきらきらと輝いて、もう嘘みたいに綺麗なんですよ。動く美術品っていう感じ。これが能装束の本来の美しさなんだよなあと思いました。他の能楽堂では、能装束の本来の美しさを全然引き出せていないと感じるのです。

能は何百年ものあいだ、昼間の野外で上演するのが普通であって、夜の公演は特別な催しだったと思うのですが、現在の能楽堂の照明は、夜っぽい雰囲気のところが多いですよね。薄暗い中で鑑賞するようなイメージです。もっと明るい中で上演したほうが綺麗だと私は思うのです。
舞台上で、位置によって明るさにムラがあるのも風情が出ると思いますね。

もしも私が大富豪だったら、根津美術館のカフェみたいに、ガラス張りの空間の中に能舞台を建てたいですねえ。

2019年8月11日 (日)

音の会

国立劇場の「音の会」に行ってきました~。「音の会」と書いて「ねのかい」と読むのです。国立劇場は、歌舞伎に使われる音楽の演奏者を養成していて、「音の会」はその出身者たちの公演なのです。普段は地方〔じかた〕をしている人たちが主役となる晴れ舞台ですね。

お三輪を踊った中村京妙さんが素晴らしかった!これだけ踊り込んだ、ちゃんとした踊りは、今後なかなか見られなくなっていくのではないかという気がします。

私は法政大学の学生の頃、歌舞伎研究会というサークルに入っていたのですが、中村京蔵さんがそこのOBなんです。京蔵さんは、学生の時に『東海道四谷怪談』のお岩様を演じたというので伝説になっているのですが、写真は残っていなかったですね。歌舞伎俳優で私の顔を覚えてくださっているのはおそらく京蔵さんだけです。
そうした縁から、京屋一門の公演「桜梅会〔おうばいかい〕」にはよく行きました。「桜梅会」は途中からすごく豪華な会になって、『妹背山婦女庭訓』や『加賀見山旧錦絵』などの大作を上演していました。本公演でもなかなか上演されないほどの大作ですよ。聞いたわけではありませんが、京蔵さんが「勘定奉行」のCMで稼いだお金をつぎ込んでいたのではないかと思うんです。振り返れば、本当に豪華なものを見させていただきました。
京妙さんは「桜梅会」で、常磐津の地でお三輪を踊ったと記憶しておりますが、資料が出てこないので分かりません。でも結構鮮烈に覚えています。
「桜梅会」では、たいてい冒頭に四世中村雀右衛門さんの挨拶があって、この人たちの、自分の弟子たちの、芝居を好きだという気持ちだけは本物だと仰っていました。
好きだとこれだけのことが出来るんだなあということを私は見たのです。

それできのう見た「音の会」のことですけれども、京妙さん以外では、中村京純さんの求女の二枚目ぶりが良かったですね。すごい二枚目でびっくりでした。二枚目の風情がありました。
助演を除くと、田中傳吉さんが良かったですねえ。「良かった」なんて書くと偉そうで恐縮ですけど、確かに良かったです。
竹内宗光さんは声が綺麗なのでますます頑張ってほしいですね。

囃子の中に、「この人は能を見ていないな」って明らかに分かる人が混じっていましたね。

国立劇場のホームページがあまりに酷い

文字が小さくてゴチャゴチャしていて本当に読みづらい国立劇場のホームページですけれども、内容も実に酷いと思うのです。
どういうところが駄目なのかと言いますと、たとえば国立演芸場で来月「正蔵 正蔵を語る」という公演があるのですが、企画の内容が何も説明されていない。今の九代目の林家正蔵さんは、祖父にあたる方が七代目の正蔵だったわけです。それで、代々の正蔵の当たりネタに挑戦する会、ということらしいのですが、説明がないと何だか分からないですよね?分かる人だけ来いということなのでしょうか?
国立劇場の邦楽公演で、10月に「浮世絵の音風景」という公演があるのですが、浮世絵がどういう形で公演にからんでくるのか、実物がロビーに展示されるのか、演奏している時の背景に映像が投影されるのか、印刷したものが配布されるのか、何も分からない。
「既成者研修発表会」って言われても、普通の人には意味が分からないと思うんです。「既成者」という言葉は他で一度も聞いたことがない。
何でこんなに説明がなくて分かりづらいのかと不思議に思うのです。

新国立劇場「ひめゆり」

新国立劇場の演劇研修所の朗読劇「ひめゆり」を見てきたのです。
内容は事前に知っていたのですが、生の舞台を見るとすごいパワーで、圧倒されました。
ひめゆり学徒隊で生き残った方々の手記を基にしたドキュメンタリーで、もう本当に悲惨な内容なんです。
戦争を描いているのですから、当然ですけれど・・・。
「痛い」とか「それが人間のすることか」とか、本息で絶叫してました。
登場人物がどんどん死んでいきますし・・・。
途中で気分が悪くなったかして、耐えられなくなって出ていくお客さんもいました。
でも本当に戦争が起こったらそこから出て行くことは出来ませんからね。
私も途中でちょっと気分が悪くなって、耐えられないかなと思いましたけれど、最後まで見られました。
子供を連れて見に来ていたお客さんもいましたが、難しいですよね。
子供にどこまで見せていいのやら。
見ないで済むのなら見ないほうがいいのでしょうけれど、日本人に生まれたら見ないわけにいかないでしょう。
戦争がどんなに悲惨なものか、知らない人が結構いるものなんですね。
でも、そういうわけにいかないですよね。
また起きるかもしれない戦争を何とかみんなで回避しなくてはいけないわけですからね。

私も子供の頃から戦争の映画やらアニメやら、夏になるたび見させられたものでした。
たいていは原爆に関するものでしたけれど。
ケロイドの写真を見たことは本当に心の傷と言うか、消えない衝撃でしたねえ。

ひめゆりについては、「そういうことがあった」ということは前から知っていましたが、それは文章にしたらほんの数行のことしか知らないような状態でした。

もうずっと「ウチは第九条があるんで戦争はできないんです」ってことでいいと思いますけどね。
でも日本の外交能力の低さには唖然としてしまいますね。
揉め事をどんどん増幅させていって、どうするんでしょう。
何であんなにも外交能力が低いのでしょうか?

2019年8月 7日 (水)

トウシューズの音

京都の平安神宮の近くに、京都市動物園があります。この動物園には観覧車があって、その場所にむかし八角九重塔が建っていたのだそうです。何だかロマンチックだし、観覧車を見てみたいと思って、近くの京都観世会館に行った折に立ち寄ったのです。道を歩いて動物園に近づいていくと、柵の向こうにフラミンゴが見えました。フラミンゴを生で見るなんて何年振りだろう、いや、ひょっとして初めてだった?と思っていると突然、フラミンゴが鳴き声をあげて、想像外の汚い声に驚きました。あんなに細長い足の、ピンク色の優雅な鳥が、あんなに汚い声で鳴くなんて、誰だってびっくりするではありませんか。
(動物園に入る時間はなかったので、観覧車は外から眺めたのですが、思っていたよりずっと小さく、あまり見えなかった)

今日、新国立劇場で「吉田都 Last Dance」を見てきました。
私が初めて見たバレエはたしか吉田都さん出演の《眠れる森の美女》だったと思うんです。新国立劇場の開場記念公演で、たぶん平成9年10月29日でした。2階席でしたね。
初めて見たバレエは素晴らしかったのですが、トウシューズの床に当たる音がカツカツカツカツずっと響き続けていた記憶があります。すごい雑音でびっくりしたんです。
「トウシューズが床に当たる音」は、時代の推移とともにいつしか小さくなっていき、いまや全然気にならなくなりましたね。完全に消えたわけではないけれど、むかしに比べたら、ないのと同じくらい。新国立劇場のバレエ床って、すごく進化してるみたいです。地方公演に行く時も、持っていくようにしているそうですよ。
代わりに上演中に客席で靴底をカツカツ床に当てて音を鳴らす人がすごく増えましたね。むかしはいなかったと思うんです。バレエの観客は行儀が悪くなっている感じがします。
オペラと能楽の観客はむかしから行儀が悪いです。
歌舞伎の観客はむかしよりは行儀が良くなっていると思います。

トウシューズの音の話ですけれども、音楽とずれていたんですよね。覚えていらっしゃいますか?トウシューズのカツカツという音が、オーケストラの音楽とずれていた。
つまり、私の想像では、
①ジャンプの飛び始めのタイミング
②ジャンプが一番高い位置にあるタイミング
③ジャンプの着地のタイミング(←このタイミングで音がする)
という三段階があったとすると、②のタイミングを音楽の拍と合せているんだと思うんです。そうすると③が音楽とずれるわけです。
①は、②から逆算したタイミングであり、音楽の拍と合っている場合と合っていない場合があると思うんです。①のタイミングが②から逆算できない人は、ずっと音楽からずれるわけです。これは、ジャンプだけの話ではなく、踊りの全てのタイミングに当てはまります。
音楽とタイミングが合わせられないダンサーって、実はたくさんいると思うんです。音楽がジャーン!ってなった時に、踊りがジャーン!ってならないダンサーがいっぱいいます。
オペラ歌手がオーケストラと合せるのよりも難しそうです。

2019年8月 6日 (火)

成金Final

落語芸術協会の二つ目ユニット「成金」のファイナル公演が9月に行われるのですが、このチケットが取れるか取れないか「くじ引き」で決めるというので、くじを引きに行ってきました。ミュージックテイト西新宿という、新宿駅から少し離れた小さなCD屋さん。夜7時の閉店直前にギリギリ駆け込んで、汗だくでハアハア、成金のくじ引きに来ました、ハアハア、はい、あっ、ハズレですね、がび~ん。暑い中、焦って駆け付けてハズレ、脱力感パないっす、もう立ち直れない。自分はこういうのの運だけは良いと思っていたのに・・・。でもこれまで成金の公演って1度も行ったことなかったから、見捨てられても仕方ないか・・・。ハアハア。でもせっかく成金本は全ページ読んだのに、ハアハア。しょぼ~ん。

2019年8月 5日 (月)

よもやま

新国立劇場で、「バレエ・アステラス」という公演を見たのですが、たくさんの名場面を集めたガラ公演の中で、金子三勇士さんがゲストピアニストとしてショパンの協奏曲を弾いたのです。(協奏曲第1番の第2楽章)
それがもう非常に美しくて、踊りも良かったのですが、とにかくピアノが美しくて、たいへん感動しました。すっかり三勇士ファンになってしまいました。幻想的と言うのか、この世のものではないほど美しかった。
ところが、曲が終わらぬ内にフライング拍手が起こって、余韻がなくなってしまいました。どうしてそんなに急いで拍手をするのでしょうねえ?

南條年章オペラ研究室が、ベッリーニ全曲上演に取り組んでいて、今年は《ノルマ》が上演されるのですが、公演日に別の公演のチケットを取ってあってショック!行けない~。この日は「オペラマニア」というマニアックな公演に行くのです。すごい端っこの席しか取れなかったけれど・・・。

たまっているVHSのビデオテープを捨てようと思って、古い録画を見ているのですが、古今亭志ん朝さんの『唐茄子屋政談』を見たのです。もう途中からボロボロ泣いてしまいました。こんな素晴らしいものを、どうして世の中の全員が見ていないのでしょう。
たしか私が成人前にTBSの深夜番組で録画したものですが、60分CMなしで、よくぞ放送してくれたものだと思います。
志ん朝さんは、落語は消えていくところが良いんだという考えで、録画や録音には乗り気でなかったそうですが、プロデューサーがどうしても放送したかったんだと思うんですね。だって本当にすごいんだもの。

竹本住太夫師匠が亡くなった時、追悼番組では「沼津」か「佐太村」でも丸ごと放送するのかなと思っていたら、細切れの名場面集みたいな感じでガッカリしてしまいました。
視聴者が長い物を見られなくなってきていますよね。

2019年8月 4日 (日)

リューの死はトゥーランドットのせい

新国立劇場で《トゥーランドット》が上演されて、「もともと納得のいかない話だった」というような感想を書いている人が何人かいて、ビックリしました。取り分け、カラフのことを悪く書いている人が多かった。(多いと言ってもほんの数人であり、見た人の1%にも満たないと思いますが)
「リューを死なせたくせに」
「多くの人の命を危険にさらして」
「女なんて強引にすれば落とせると思っている」
など、「勝手なカラフ」という感想がいくつか見受けられました。
カラフのアリア「誰も寝てはならぬ」は、オペラ屈指の人気曲だと思っていたので、カラフのことが嫌いな人がいるのを知って驚きました。
私はカラフという役はもともと好きですけどね。
恋のために命を懸ける男という設定がロマンチックではありませんか。
多くの人の命を危険にさらしているのはトゥーランドットであり、リューが死ぬのもトゥーランドットのせいだと私は思っていましたけど。違うのでしょうか?
確かに、カラフが諦めれば誰も死なずにすんだのでしょうけれど、「誰も寝てはならぬ云々」と命じたのはあくまでもトゥーランドットですから。酷い女ですよあれは。氷のような女です。

カラフも初めはトゥーランドットのことを許せないと憤っていたのに、見たら好きになっちゃったんですよ。リューも一度微笑まれたらカラフのことを好きになっちゃったんです。そんなものでしょう。自分で考えて決めたのではない。別の人を好きになっていたら、楽な別の人生があったのに。

ユーミンの歌の中に「誰か不幸にしても 熱い気持ちは止められない」というフレーズがありました。(『紅雀』)
誰か不幸になるなら人は恋を諦めるでしょうか。
二つは選べない。

「カラフは嫌い」という人は少数派だと思いますけどね。って言うか、そういう人は《トゥーランドット》は見ないのでは?
カラフの恋が叶わない演出だと、「ざまあみろ」と思うわけですか?
よく分からない。

カラフは自分から謎を1つ出すわけですが、「自分が負けたら死にます」と言って、「勝ったらどうしろ」とは言っていない。(勝つのはすでに勝っています)

私は初めて《ラ・ボエーム》を見た時、「恋ってこんなに簡単に始まるんだなあ」と思って衝撃を受けました。
私は初めて《トゥーランドット》を見た時、「愛ってこんなに難しいんだなあ」と思って衝撃を受けました。
(両極端)

あなた、恋のために命を懸けますか。
それとも、命のために恋をやめておきますか。

「愛とは情熱ではなく関係のことである」ということを、むかし伊丹十三が本に書いていたのです。
恋とは一方的で、自分勝手なもの。
しかし、愛という特別な関係を築くために、その情熱は必要なものであるでしょう。

蝶々さんもカラフも、欲しい愛が手に入らなければ命はいらなかった。
欲しい愛が手に入らなくても、人生は生きる価値があるだろうか。

欲しい愛が手に入らなくても生きていく、というオペラがあったなら、私は見てみたい。

2019年8月 3日 (土)

天賦の才

オペラ歌手に「ブラボー」の声を掛けたことがありますか?私はあります。
歌舞伎の掛け声は、芝居の進行中に掛けるものなので、畏れ多くて掛けたことがないのですが、オペラは話の切れ目なので、わりと掛けやすいと思います。
最近は全く掛けなくなったのですが、そのむかし、ロベルト・フロンターリが≪セビリアの理髪師≫の「私は町の何でも屋」を歌い終わった時ですとか、ディミトラ・テオドッシュウが≪アンナ・ボレーナ≫を歌った時の第1幕フィナーレなど、私もブラボーを掛けました。「ブラボー」と書くより、「ブラーヴォ」という感じでしょうか。
テオドッシュウは、録音で聞くとあまり良いと思わないのですが、とにかく声が大きかったので、すごい迫力だったのです。≪アンナ・ボレーナ≫の第1幕フィナーレは、客席も熱狂的に盛り上がったものでした。私も興奮してブラボーなんか掛けてしまったのですが、しかしこの場面の歌詞をよく読んでみると、「王族の一員である私が裁判官に裁かれるなんて、屈辱的」という内容であり、何だか意味不明な感じがします。裁判官が裁かなかったら、一体誰が裁くのでしょうか?「ヒロインが窮地に立たされた」ということが分かれば充分なのでしょうけれども、歌詞にちょっと不思議なところがあるのです。状況としては、≪トゥーランドット≫第2幕の終盤と似ていると思います。

マリア・カラスの伝記の中に、次のような一節がありました。
マリアの最後の≪蝶々夫人≫、つまり十一月十七日に行われた第三回の公演は、終演後に楽屋で発生した事件のため、特に強く記憶されることとなった。この晩はシカゴの膨大なファンの要求に応えて、カラスの同意のもとに行われた追加公演だった。先の二回に劣らぬ勝利がくり返された。切りのないカーテン・コールがようやく終わり、カラスが感動に火照りながら疲れた体を楽屋へ運んでいたとき、一群の令状執達吏が呼び止めた。エドワード・バガロジーの起こした契約違反の訴訟を伝えに来たのだった。彼らの突然の侵入とデリカシーを欠いた態度に、カラスは一瞬、絶句した。われに返った途端、その口からいささか風変わりな啖呵が飛び出した。
「その手を退けなさい! わたしに触るんじゃない! わたしは執達されないわ。わたしの声は天使の声よ。人間はわたしに執達できないのよ」。〈牝虎〉は荒れ狂い、終演後の取材に来ていた記者とカメラマンが一部始終を細大漏らさず記録した。ニュースは地球上を駆けめぐった。(p.184)
『マリア 回想のマリア・カラス』ナディア・スタンチョフ:著、蒲田耕二:訳より

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荒れ狂う〈牝虎〉の写真

「人間はわたしに執達できないのよ」という部分を読んだ時、アンナ・ボレーナやトゥーランドットに似ているなと私は思いました。

同じ伝記の中に、次のような記述もあります。
「カラスを批評する権利のある人間は、カラスだけよ」と、のちに彼女は言ったことがある。≪ジョコンダ≫を終えたあとで、声を消耗させる発声上の欠点をルイーズ・カゼロッティが指摘しようとしたところ、マリアはぴしゃりといい返した。「わたしは自分のうたいたいようにうたうわ! 大切なのはうたうことよ、うたい方じゃなくて。わたしは世界じゅうの歌劇場で通用すると、バッティスタもいってるわ」
メネギーニの愛情をただひとつのよりどころに、マリアは火がついたように怒鳴り散らし、こうしてルイーズとの長い友情にいきなり終止符を打った。(p.123)
『マリア 回想のマリア・カラス』ナディア・スタンチョフ:著、蒲田耕二:訳より

このような文章を読むと、マリア・カラスという人はずいぶんと傲岸不遜な人間に思えますが、カラスの取ったこのような態度は、「傲慢さ」から来るものではなく、むしろ逆に「謙虚さ」から生まれたものなのではなかったかと私は最近思うのです。

と言いますのも、同じ伝記の中に、次のような記述もあるのです。
カラスは三十歳にして、世界で指折りの著名な、人に追い求められる女になった。かつて、わたしに述懐したことがある。「ナディア、神はわたしによくしてくれたわ。全部が全部、神様のおかげとはいわない。そう、トップの座を私は苦労して掴んだのよ。でも、神様がくださった成功は、予想以上に大きかったわ」(p.175)
『マリア 回想のマリア・カラス』ナディア・スタンチョフ:著、蒲田耕二:訳より

自分の手にした成功が、自らの努力を超えて予想外に大きなものであった場合、努力を超えた分は「神が与えたもの」であり、だから「神聖」なのであり、よって「人間には触れないもの」となるのでしょう。

アンナ・ボレーナやトゥーランドットに見られる「王女の権威」は、自分の努力はゼロで、全てが「神から与えられたもの」なので、当然にして「神聖」なのであり、他人もそれを理解すべきである。

理解できました??

2019年8月 1日 (木)

王様と私が踊る大紐育イン・トーキョー

7月は2本のミュージカルを見たのです。東京文化会館で『オン・ザ・タウン』、シアターオーブで『王様と私』、どちらも映画でよく知られていますが、舞台上演の機会は滅多にありません。台本に時代のずれを感じるというか、うーん。今回の舞台は、映画ほどの違和感は薄まっているようでしたけれども、消えはしなかった。

『オン・ザ・タウン』は、映画の邦題を『踊る大紐育』と言います。「大紐育」で「ニューヨーク」と読む。「踊る」というタイトルを付けられるだけあって、踊りのシーンが満載の映画でした。今回の舞台では、映画ほどは踊っていませんでした。あくまでも歌がメイン。歌いながらですと、そんなに踊れないんですよね。映画だと、映像と音声が別収録だから、歌って踊れるんですね・・・。
一番いいナンバーが、映画だとカットされている。あの歌だと踊れないからでしょうか?不思議ですね。勢いが止まる感じはしますけどね。

とにかく『オン・ザ・タウン』の軽薄さには驚く。内容は「24時間のうちに女の子をナンパ」というだけ。この台本で1本ミュージカルを作ろうと思う発想に驚きを禁じ得ない。もちろん誇張されているのだろうけれど。「女が男をナンパ」という場面が含まれているところがアメリカらしいと言うか・・・。
蝶々さんもこの『オン・ザ・タウン』を見ていたならば、ピンカートンに騙されたりせずに済んだろうに。

先日、職場の若い者が「蝶々さんって馬鹿ですよね?」と訊いてきたのです。確かに馬鹿かもしれない。「『ある晴れた日に』は狂乱の場である」という話もあります。なぜ蝶々さんはピンカートンの帰りを信じているのだろう。それだけ強く愛されていたという自信があったからでしょうか。愛の強さと長さには、どの程度の相関があるのでしょうか。あるいは「自分だったらそんなことはしない」という想像力からでしょうか。他人は自分じゃないから自分が思っていたのとは違う行動を平気でします。

『王様と私』の内容は、「未開の地の野蛮人に、優しいイギリス人が優雅なマナーを教えてあげます」というもの。タイトルが『王様と私』と言うくらいですから、私(イギリスの上流階級の未亡人)の視点で描かれており、隠そうとしても隠しきれぬ差別感が漂うのも仕方のないところ。
チケット代が19000円でしたから、もう少し豪華な舞台装置なのかと思ったのですが、わりと簡素な印象でした。期待していた劇中劇もごく簡素な感じでした。出だしだけ豪華だった。最初だけだった。

「開国を迫る側」と、「開国を迫られる側」と、どちらが野蛮人なのかについては、議論の分かれるところです。
イタリアという国は、他国から侵略されることが多かったのですが、むかし「野蛮人は外へ!」というスローガンがあったのだそうな。(それは「侵略」であって「開国」ではないわけですが)
日本ではむかし「尊王攘夷」ということがありました。「攘夷」という言葉は「野蛮人は外へ!」という意味でしょう。「夷」とは野蛮人のことです。
「開国を迫る側」には、高度な「航海術」と「軍事力」があるでしょう。軍事力がある、すなわち野蛮人ということでしょう。



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