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2019年9月

2019年9月17日 (火)

新ブログのテスト版について

ブログの周りに広告がたくさん出るようになりまして、広告が駄目というわけではないのですが、ちょっと内容が耐えられないので、ブログの引っ越しを検討しています。
JUGEMのブログがいいかなあと思って、テスト版を作成してみました。

何だかインターネットの世界もだんだんつまらなくなってきている気がするのですが、気のせいでしょうか・・・。

2019年9月14日 (土)

英国ロイヤル・オペラ《ファウスト》

英国ロイヤル・オペラの来日公演《ファウスト》の初日を見てきました。
このオペラを生で見るのは、2007年9月の神奈川県民ホールでの首都オペラ以来、2度目のことでした。
(首都オペラではバレエシーンはカットされていました)

ニューヨークのメトロポリタン歌劇場の開場記念公演は《ファウスト》だったそうで、欧米では頻繁に上演されているようですが、日本ではほとんど上演されることがありません。やはりフランス語のオペラは上演が難しいのですね。ファウストのアリア「この清らかな住まい」は、数あるテノールのアリアの中でも最も好きな部類なので、もっと見る機会があればいいのにと思うのですが。

このブログはネタバレありなので、よろしくお願いいたします。

ファウストを歌ったヴィットリオ・グリゴーロは、素晴らしい声でした。写真で見ていたように実際にも二枚目ですし、この役にぴったり・・・と思ったのですが、ファウスト博士ははたして二枚目だったのでしょうか?
老齢になった時の、たった1つだけの望みが「若さ」。「若さは全ての欲望を満たす」というようなセリフがあった。そうだろうか?
悪魔の力で二枚目にしてもらったのではなく、彼は若い時にあの顔だった時代があったのだ。う、羨ましい・・・。すでに自分で持っているものは悪魔にねだる必要がない。あの顔で自らの学問に没頭し、恋愛に関心を持っていなかったらしい。そんなことがあるだろうか?
このオペラを見ていると、マルグリートを捨ててファウストは何をしていたのだろう?と不思議に思います。ゲーテの原作では、1人でいじけているような描写があったと記憶していますが、オペラのファウストは原作のファウストとは別の人格であって、きっとマルグリートを捨てて酒色に溺れていたのだ、そうに違いない!と今回の舞台を見ていて確信しました。(ファウスト=ドン・ジョヴァンニ説と名づけよう)
今回、1階9列目で見ていたのですが、グリゴーロが老人から若者に変わる瞬間を見逃すまいと双眼鏡を用意していました。その場面以外は双眼鏡を使うほどじゃないなと思っていたのですが、むしろ老人の時の顔を双眼鏡で見ておけば良かった。若者に変わってからのグリゴーロは普通のグリゴーロだったので・・・。(変身の瞬間は陰に隠れていて見えない)
老人の時のファウストがもう一度出てこないかなと期待していたら、最後の場面で出てきました。通常、最後の場面はマルグリートの昇天に焦点が絞られてファウストの印象が薄いですけれども、ファウストは最後に何を感じたのだろう?
「別の願いにしておけば良かった」?

私だったら何を願うかなあと考えたのですが、「歌舞伎と文楽が本来持っている魅力が永遠に消えませんように」かな。
望みが大きすぎて悪魔でも実現できなさそうだ。

「時間よ止まれ、お前は美しい」・・・しかし時間は止まらない。

メフィストフェレス役のイルデブランド・ダルカンジェロは、音程が不安定だったように感じましたが、演劇的に歌っていたということなのでしょうか。

マルグリート役のレイチェル・ウィリス=ソレンセンは、「宝石の歌」は今ひとつでしたが、後半が良かったですね。

2019年9月12日 (木)

九月歌舞伎座の夜の部

歌舞伎座の夜の部を見たのです。『勧進帳』の配役が日替わりだったので、両方の配役を見てきました。

このブログの「ふくきち」という名前は、私の心酔する中村福助の「ふく」と中村吉右衛門の「きち」から勝手に取ってきたものです。お二人が「寺子屋」で顔を合わせるとのことで、発表されてからもう気もそぞろでした。
はたして「寺子屋」は実に名演でした。2回見て2回ともズルズルと泣いてしまいました。周りも多くの方が泣いているようでした。今回は菊之助さんの千代も良かったですね。これだけの「寺子屋」は今後なかなか見られなくなるでしょうから、多くの人に見ておいていただきたいものです。

そして『勧進帳』。仁左衛門さんの弁慶は約10年ぶりだそうです。もうそんなに経つのですね。
仁左衛門さんの弁慶は、見慣れた他の方々とずいぶん違っていたので、新鮮でした。どういうところが違っていたのかと言いますと、まず一つは「お能の味わいが濃い」ということ。特に足の運びにお能らしさが感じられました。他の方はああいうふうにはなさらないですよね。わざとお能から変えているのかと思っていました。片足ずつ上げて拍子を踏む時の頭の位置の安定感などにも、お能らしさを感じました。そして二つには「仏教色が濃い」ということ。弁慶が「急急如律令」と口にした時に、本当に何か特別なことが起こるのではないかと私は感じたのです。そういうことは、やはり仁左衛門さんが京都のお生まれで、読経や声明などが身近なものだったから出来ることなのではないかと思いました。

ところで、このブログでは再三お薦めしていますが、
1966年11月19日ライヴ録音 テアトロ・コムナーレ(フィレンツェ)
指揮:カルロ・マリア・ジュリーニ
マントヴァ公爵:ルチアーノ・パヴァロッティ
リゴレット:コスタス・パスカリス
ジルダ:レナータ・スコット
レーベル:ARKADIA

オペラファンの方々には、この録音をぜひお聞きいただきたいのです。「本当に呪いがかかるのではないか」と思う不思議な音色が聞けます。目に見えない力を感じるというのは、信じない人は信じないだろうと思いますが、実際にあることなのです。(でも滅多にありません)

そして今月の歌舞伎座で、仁左衛門さん演じる弁慶の「急急如律令」も、ぜひ生で聞いてみてくださいね。(もうあまり切符が残っていないかもしれませんが・・・)

2019年9月 9日 (月)

《ランスへの旅》あれこれ

《ランスへの旅》は、フランス国王シャルル10世の戴冠を祝うために作られたオペラで、最後の場面はシャルル10世への讃歌となるため、現代人とは何の関係もなく、演出に苦心するところである、というようなことが言われたりします。
しかし、ワーグナー作曲のオペラの中にも「ドイツ万歳」という結末を迎える作品がありますし、他にも「(キリスト教の)神を讃えましょう」というような、多くの日本人にとって何の関係もないオペラもいくつか存在します。
イタリアに行ってたくさんの絵画を見て回りますと、そのほとんどが「キリスト教」か「ギリシャ神話」を題材にしたもの、あるいは「貴人の肖像画」が多いのです。私の生活には関係のないものです。そして、誰もが美しいと感じるはずの花鳥画は実に少ない。しかし、私はキリスト教徒ではないのにもかかわらず、イタリア絵画を楽しむ能力を持ち合わせているのです。それはイタリア人からすれば不思議なことだろうと思います。一番肝心な点を抜きにして、でも充分に作品を楽しんでいるのです。

能楽、文楽、歌舞伎を見ておりますと、仏教を信仰する心がないと肝心のところは理解できないだろうと感じます。しかし、肝心のところが理解できていなくても、結構楽しめてしまうのです。日本人は結構楽しんでしまいます。

ヨーロッパ各国の貴族が集う物語を、日本人歌手だけで演じる不思議な公演《ランスへの旅》。むかしの日本のオペラ歌手は、西洋人を演じるために化粧、鬘などで必死に変装しようとし、「それが面白かった」とも言えますし、他方で「それがかえってもの寂しい雰囲気を醸していた」面も否めない。現代のオペラ歌手、歌手だけでなくストレートプレイの俳優も含めて、日本人はそういうことをあまり、しなくなった。そのまま舞台に出てきて普通に外国人を演じている。私はむかしの舞台を知らないので、よく分かりませんが、フランス人らしさ、ドイツ人らしさ、ロシア人らしさ、イギリス人らしさ、そういうものを表すのは主に「衣裳」の役割となったのでしょうか。

《ランスへの旅》では、大勢の歌手が出てきて歌唱を競うわけですが、最も難しい役はドン・プロフォンドではないかと私は思うのです。この人の歌うアリアは、まだランスへ行けると思っていた時間の高揚感が込められており、たいへん美しい歌ですが、前半は各国の特徴を早口で歌い分ける技巧的なものとなっています。蘇演にあたってこの役を再創唱したルッジェーロ・ライモンディの録音が残されていますが、よくぞこれだけ歌い分けたと深い感銘を覚えます。本当に信じられない名演です。歌唱の力だけで国を歌い分けるなんて。

教会が国王に冠を授けることを祝う特殊なオペラ《ランスへの旅》は、1825年、一時的に王政が復活した特殊な状況下のフランスで初演され、その後1984年まで上演されなかった。現在では、ヨーロッパ各国で上演されており、共産国であるロシアでさえも上演されているわけですが、劇中に参加していない国でも上演されているものなのでしょうか?推測ですが、イスラム教の国々ではまず上演されないと思うのです。中国でも上演されなさそうです。共産主義のロシア人は、このオペラの結末をどのような気持ちで鑑賞するのでしょうか。

日本人による《ランスへの旅》は、非常に珍しい花なのではないかと思ったのです。ヨーロッパ人が見たら、きっと驚くでしょう。

二期会《清教徒》

二期会の《清教徒》を聞きに行ってきました。(9月1日、みなとみらいホール)
演奏会形式だったのですが、歌手がオーケストラの後ろ側で歌いました。それは開演してから「前じゃないのか!」とびっくりしたのです。私は1階1列目の中央の席でしたが、オーケストラの人たちに視界を遮られて、歌手の姿がほとんど見えませんでした。
座席の位置というのは人によって好みが分かれます。私は歌手の表情もしっかり見たいですし、音響的にも直接音が好きなので、前方の席を選びます。気合を入れて発売日にチケットを取ったのです。歌手の顔が見えないって、酷くないですかね?見えない場合は事前に告知するものなのでは?

みなとみらいホールは、オーケストラの音は綺麗に聞こえるのですが、歌手の声は残響が多すぎと感じました。
かえって《清教徒》のオーケストラって、こんなに綺麗な音楽だったんだなあと感動しました。(古い録音のCDで慣れ親しんでいる作品なので)
また神奈川フィルの演奏がたいへん素晴らしかったのです。プログラムに名前は書かれていませんでしたが、私はずっとコンサートマスターの演奏を見ていました。《清教徒》って、こんなに複雑な演奏だったんですね。神奈川フィルはよく準備されていました。

アルトゥーロを歌った大澤一彰さんは、ハイFの高音を朗々と出していました。プログラムには「通常は歌われない高音」と書かれていましたが、私が生で聞いたアルトゥーロは、たいていハイFを出しています。
曽我雄一、セルソ・アルベロ、藤田卓也、中川正崇、出していました。ジュゼッペ・サッバティーニは出していなかったと思いますが・・・。
でも大澤さんは事前に「出します宣言」をしていたから、すごいですよね。

指揮の森内剛さんは素晴らしかった。久しぶりで好きな作品を聞くことが出来て感激しました。

藤原歌劇団《ランスへの旅》

この土日に、藤原歌劇団の《ランスへの旅》を見てきました。(新国立劇場にて)
最近、観劇の予定を詰め込みすぎているようで、8日(日)は予約を三重に入れてしまうという失態をやらかしてしまいました。
まず、玉川太福さんの「赤坂で浪曲」という公演を予約していたのですが、これは当日清算の公演なので、申し訳ないけれど予約取り消しの電話を入れさせていただきました。清水次郎長の外伝物の連続読みだったのですが、連続物の初回を1回聞き逃して、次の公演に行くか行かないかというのは迷いどころですね。
そして立川オペラ。《イル・トロヴァトーレ》と《ファウスト》のハイライト上演で、早々にチケットを取って楽しみにしていたのに、これまた行けませんでした。
全ては手帳に書き忘れたのが敗因でした・・・。
しかし、藤原歌劇団の公演がある日に、主たる団員の出演する別公演があるっていうのは、どちらを選んだものか困っちゃいますね。
7日(土)に東京文化会館小ホールで上演された「宮本史利バリトンリサイタル」も興味があったのですが、藤原の公演と完全に客層がかぶっていると思うんですけど、そんなに同じ公演日になっちゃうものなんですかねえ。

藤原歌劇団が《ランスへの旅》を上演するのは3回目です。私は3回ともにダブルキャストの両方の公演を見ていると思いますが、歌手の全体的な水準が格段に上がったように感じました。以前は、あまり歌えていない人も混じっていました。逆に、オーケストラの水準は下がったように感じました。(軽快さや躍動感や音色の美しさや変化の妙など)

佐藤美枝子さんのフォルヴィル伯爵夫人は、歌に装飾を付けすぎな気がしました。
衣裳のサイズが体に合っていない人が散見されました。Bキャストのほうが衣裳が体に合っている人が多いようでした。上江隼人さんの衣裳はカッコ良かったですね。でも後半の衣裳はドイツ人みたいな色づかいでしたけど。
照明が結構きれいでしたね。
客席に電子音が飛び交っていたような・・・?
新国立劇場の客席は、物を落とす人が本当に多いですね。1階の後ろのほうで、ガタッ、ガタッと何かが落ちる音がします。床が木だから仕方ありませんけれど。
コリンナを歌った砂川涼子さんの手の動きが優雅でした。
フォルヴィル伯爵夫人の横前奈緒さんは、技巧的に難しいアリアを素晴らしく歌っていました。鮮烈な印象を残しました。
シドニー卿を歌った小野寺光さんは、以前にも何度か歌声を聞いていますが、このような大きな役で聞くのは初めてで、良い声でした。
良い声と言えば、メリベーア伯爵夫人の中島郁子さんもたいへん良い声でした。
私が一番感動したのは、何と言っても中井亮一さんのベルフィオーレです。フランスの色男っぽい雰囲気はあまりない(それは糸賀修平さんのほうが出ていた)のですが、歌唱と演技がよく練られていて、細やかで、ほとんど完璧と言っていい出来だったと思います。
糸賀修平さんは二期会からの参加でしたが、糸賀さんのロッシーニを聞くのは2年ぶり?なかなか聞く機会がありません。声の音色に個性があり、好きな声なんですけどね。《マノン》とか《ファウスト》とか良さそうですけどね。
字幕は倒置が多くて読みづらい感じでした・・・。

2019年9月 6日 (金)

あれこれ

◎このブログの周囲に表示されている広告は、私の意思とは無関係に表示されてしまうのですが、あまりに見苦しくて耐えられない。月額1400円くらいの料金を払うと広告を消すことができるプランも存在するのですが、金を払ってまで文章を書くかねえ?と考えてしまいます。(書いたら原稿料をもらえてもいいくらいなのに)
インターネット上の広告って、どうして汚らしいのでしょうかねえ?(このブログだけに限らず)

◎日本の外交能力の低さに驚きを禁じ得ない。

◎オリンピックの暑さ対策があまりにも悲惨。

◎学校における英語教育は、現在どのようになっているのでしょうか。私が学生の頃は、テキストが与えられ、手本を聞くこともなしに人前で読み上げることが求められ、かつ、分からないところは辞書を引きつつ意味を考えて日本語に訳すことが予習として課されていました。まるで暗号解読のような勉強方法でした。最初に答えを全部与えて、なるほどなるほどと思いながら、たくさん読んだり聞いたりしたほうが、英語が身につくのではないかと思うのです。漢詩と違って、英語のテキストは大した内容ではないので、考えても仕方がないのです。

2019年9月 5日 (木)

鐘に恨みは

先日、能の『道成寺』を見てきました。私がこれまで一番多く見ている能は、断然『道成寺』だと思います。かなり上演頻度が高い作品ですよね。

隣の席の爺さんが、ガサガサと謡本をめくりながら『道成寺』を見ていて、ダサい爺さんだなあと思いました。そんなに年を取っているのに、まだ『道成寺』を見ながら謡本が必要なのかと不思議に思いました。
私も、能を見始めた初期の頃は、詞章のコピーを膝に広げながら舞台を見ていたこともありましたが、すぐにそれはやめました。詞章は事前に読んでおき、見る時は舞台に集中したい。ガサガサ音がするのは本当にダサいことですし、年を取ってダサいのは本当に惨めです。

以前、タブレットに謡本を映して詞章をチェックしながら舞台を見ている人がいて、能の客席は変な人が多いなあと思いました。

能『道成寺』は、安珍清姫伝説に基づいていますが、あくまでも後日譚であり、伝説そのものではありませんよね。文楽の『日高川入相花王』や、組踊の『執心鐘入』のほうが、まだしも伝説に近い形を残しています。文楽『日高川入相花王』は、川を渡る場面しか現在では上演されません。清姫が蛇に変わるところが最も劇的な場面であり、浄瑠璃化しやすかったのでしょう。逆に言うと、鐘の場面は芝居として描きにくかったのではないでしょうか。

能の『道成寺』のあらすじを説明するのは難しいと思います。「物語」と言うほどの何かが起こるわけではない。物語が起こったのは過去のことであり、「思へばこの鐘うらめしや」と女は言うけれど、いま鐘の中に安珍はいないのです。安珍がいないのに、鐘だけを恨み続けるのは、おかしなことだと思いませんか。それは「物語」ではなく「詩」であると思う。しかも、言葉で表す詩ではなく、舞で表わす詩であって、説明できない。

『松風』を見ていても、すでに死んでいる行平をまだ待ち続けていることへの不思議さを感じるものです。死ぬとそこで時が止まり、ずっと同じ気持ちのままで苦しみ続けなければならないのですね。止まった時をもう一度流れさせる鐘の供養によって、苦しみが消えるかと思ったのに。

歌舞伎の『京鹿子娘道成寺』は、能の『道成寺』とは別の理由で鐘を恨んでいると思います。

2019年9月 4日 (水)

三読物

先日、能の『木曽』を見てきました。『木曽』という作品は観世流でしか上演されないそうですけれども、この曲の「願書」と、『安宅』の「勧進帳」、『正尊』の「起請文」の3つを「三読物〔さんよみもの〕」と称します。いずれも「紙に書かれたものを読み上げる」という体裁ですので、「読物」には違いないのですが、読み上げる本人が「思いついたばかりの」文章でもあります。

「勧進帳」の文言が、いつ弁慶の頭の中に思い浮かんだのかについては、意見の分かれるところです。むかしの上演ではシテと立衆の連吟だったそうですから、関にかかる前に示し合わせていたことになる。しかし、咄嗟に考え出したという設定のほうが、弁慶が格好良く見えると思うのです。

私は3作品とも見たことがあるのですが、よくもこのような難しい文章を咄嗟に考えつくものだと毎回感心いたします。現在、このような文章を書ける人が日本に存在するでしょうか?書くどころか、読むことさえ難しそうです。

この3作品が上演される時には「あなたも、これくらいの文章が咄嗟に書ける人間になってくださいよ」と言われながら、むかしの日本人は育ってきたのではないでしょうか。

昭和時代までは、選ばれた人の文章しか活字になりませんでしたから、目にする文章はそれなりの水準に達したものが多かったと思います。ところが現在は、片言の日本語が巷に溢れるようになりました。「この人の立場だったら、もう少し綺麗な日本語が書けなくてはいけないのでは?」と思うこともあります。

むかしは『論語』だの『孟子』だの、難しい文章を子供にいきなり読ませて、意味が分かるまで自分で考えさせるという訓練があったように思うのですが、「同じ文章を意味が分かるまで何年でも繰り返し何度でも読む」という習慣が日本から消えてきていると感じるのです。国語教育の目標水準があまりにも低すぎると思います。

研の會

国立劇場小劇場で、「研の會」を見てきました。
花外の席だったのですが、いつもと違う角度から「弁天小僧」を見るのは新鮮でした。花道に五人男が並んだところなぞは、逆光の後ろ姿がカッコ良くて最高でした。
特に今回は、ツケの音がやたらといい音で、しびれました。

『酔奴』は、これまで見た右近さんの舞台で一番感動しました。泣き、怒り、笑いの三人上戸の描写が素晴らしかった。(文楽座の出演)

「弁天小僧」も『酔奴』も、幕が開く前に、右近さんのアナウンスであらすじが流れました。珍しいですね。『酔奴』は説明があったほうがいいと思いますが、「弁天小僧」は何も知らずに見たほうが楽しめそうな気がしますけど・・・。
もっとも「弁天小僧」を何も知らずに見る人が存在するのか疑問ですが・・・。

来年はオリンピックのため「研の會」はお休みだそうです。

2019年9月 1日 (日)

市川海老蔵展

日本橋高島屋で開催されている「市川海老蔵展」を見てきました。
衣裳、舞台写真、舞台映像、インタビュー映像が主に展示されていました。
代々の市川團十郎ゆかりの品などがもっと展示されているのかと思っていましたが、そういうものは少なめでした。十代目團十郎関連の品がいくつか見られたのが珍しい感じでした。

むかし、国立劇場の資料展示室で「市川団十郎展」をやったことがあると思いますが、代々の團十郎の書や画が展示されていて、俳優でありながら書や画にも秀でているという「文化人としての多面性」を感じることができました。むかしの国立劇場の資料展示は豪華だったんですよね。いまは予算を削られ、すっかりしぼんでしまって・・・。

むかし、江戸東京博物館で十二代目市川團十郎丈の講演会があったのですが、代々の團十郎が書、画、俳句、漢詩などの英才教育を受けていたという話題になり、聞き手が「そんなにたくさん、大変なんですね」と言ったところ、團十郎丈は「そんなのは普通じゃないですか」と話していらっしゃいました。團十郎が大変なのは普通のことなんですね。

ところで、いまの海老蔵さんも、そのような英才教育を受けたのでしょうかねえ?

展示会場で流された映像の中に、花火を借景として海老蔵さんが立ち廻りをする野外公演の映像がありました。次々と打ち上げられる花火の中に、市川家の紋である「三升」をかたどった花火があって、驚きました。四角い花火って、どういう仕組みになっているのだろう?しかも、四角形の一角からその対角に向かって色を変えながらキラキラと輝いていくという、見事な花火でした。すごい。

展示会場に掲出されていた代々の團十郎の錦絵は、複製画に見えたのですが、どうなのでしょうか。

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