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2019年9月14日 (土)

英国ロイヤル・オペラ《ファウスト》

英国ロイヤル・オペラの来日公演《ファウスト》の初日を見てきました。
このオペラを生で見るのは、2007年9月の神奈川県民ホールでの首都オペラ以来、2度目のことでした。
(首都オペラではバレエシーンはカットされていました)

ニューヨークのメトロポリタン歌劇場の開場記念公演は《ファウスト》だったそうで、欧米では頻繁に上演されているようですが、日本ではほとんど上演されることがありません。やはりフランス語のオペラは上演が難しいのですね。ファウストのアリア「この清らかな住まい」は、数あるテノールのアリアの中でも最も好きな部類なので、もっと見る機会があればいいのにと思うのですが。

このブログはネタバレありなので、よろしくお願いいたします。

ファウストを歌ったヴィットリオ・グリゴーロは、素晴らしい声でした。写真で見ていたように実際にも二枚目ですし、この役にぴったり・・・と思ったのですが、ファウスト博士ははたして二枚目だったのでしょうか?
老齢になった時の、たった1つだけの望みが「若さ」。「若さは全ての欲望を満たす」というようなセリフがあった。そうだろうか?
悪魔の力で二枚目にしてもらったのではなく、彼は若い時にあの顔だった時代があったのだ。う、羨ましい・・・。すでに自分で持っているものは悪魔にねだる必要がない。あの顔で自らの学問に没頭し、恋愛に関心を持っていなかったらしい。そんなことがあるだろうか?
このオペラを見ていると、マルグリートを捨ててファウストは何をしていたのだろう?と不思議に思います。ゲーテの原作では、1人でいじけているような描写があったと記憶していますが、オペラのファウストは原作のファウストとは別の人格であって、きっとマルグリートを捨てて酒色に溺れていたのだ、そうに違いない!と今回の舞台を見ていて確信しました。(ファウスト=ドン・ジョヴァンニ説と名づけよう)
今回、1階9列目で見ていたのですが、グリゴーロが老人から若者に変わる瞬間を見逃すまいと双眼鏡を用意していました。その場面以外は双眼鏡を使うほどじゃないなと思っていたのですが、むしろ老人の時の顔を双眼鏡で見ておけば良かった。若者に変わってからのグリゴーロは普通のグリゴーロだったので・・・。(変身の瞬間は陰に隠れていて見えない)
老人の時のファウストがもう一度出てこないかなと期待していたら、最後の場面で出てきました。通常、最後の場面はマルグリートの昇天に焦点が絞られてファウストの印象が薄いですけれども、ファウストは最後に何を感じたのだろう?
「別の願いにしておけば良かった」?

私だったら何を願うかなあと考えたのですが、「歌舞伎と文楽が本来持っている魅力が永遠に消えませんように」かな。
望みが大きすぎて悪魔でも実現できなさそうだ。

「時間よ止まれ、お前は美しい」・・・しかし時間は止まらない。

メフィストフェレス役のイルデブランド・ダルカンジェロは、音程が不安定だったように感じましたが、演劇的に歌っていたということなのでしょうか。

マルグリート役のレイチェル・ウィリス=ソレンセンは、「宝石の歌」は今ひとつでしたが、後半が良かったですね。

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≪英国ロイヤルオペラ≫②オペラ『ファウスト』考・・・第一幕
(独語、仏語はhukkats訳)
 9月12日の「ファウスト」初日を観劇して、先ず再確認したことは、やはりこのオペラの内容では、ゲーテの『ファウスト』が意図するところからは程遠い矛盾が多いという事です。ふくきちさんが色々疑問に思うのも当然です。今更言うまでもないですが、このオペラの基となったゲーテ(独)の戯曲「ファウスト」は余りにも有名で、世界の文学史上ダンテの「神曲」と並ぶ二大金字塔とも言われています。グノーはジェラール・ド・ネルヴァルによってフランス語に翻訳されたゲーテの『ファウスト』をベースとしながら、台本作家ジュール・バルビエとミシェル・カレの協力を得て、台本制作にとりかかったのでした。しかしゲーテの戯曲は非常に膨大で内容が深く、オペラ化するには手に余る程の哲学的思想が込められているので、グノー達のオペラ化の試みは困難を極め、結果、原本の第一部、所謂“学者悲劇とグレートュヒェン悲劇”の部分のみを切り取って現在の形のオペラを作った訳です。ゲーテが生涯をかけて完成させた大作の神髄を一作曲家が短期間でオペラ化出来るわけが有りません。若しゲーテが存命ならば、“これは『ファウスト』ではない。やめてくれ”と叫んだかも知れませんし、「FAUST」の名前では上演権(著作物隣接権)は与えなかったでしょう、きっと。「ファウストもどき」と言うと言葉が悪いかなー?「FIRST」等の名であれば、ゲーテのプライドも傷が付かないでしょう、多分。
でもこれはこれでゲーテの『ファウスト』のエセンスを部分的ではありますが、引き継いでいるオペラだと思います。即ちゲーテの『ファウスト』を構成する(A)プロローグ[献ぐる言葉、舞台の前曲、天上の序曲](B)悲劇[学者悲劇、グレートュヒェン悲劇](C)第Ⅱ部[第1幕~第5幕]の膨大な内容から“グレートュヒェン悲劇”の部分をかなり忠実に抜き取って作曲したことは先に述べました。 そもそも『ファウスト』はゲーテの専売特許ではなく、それ以前からゲーテ作ではない「ファウスト伝説」が幾つかの変形で存在し(起源は14~16世紀の西欧における文藝復古に遡ると言われます。cf.『ゲーテの哲学とファウスト』(Wilhelm Windelband著,髙橋禎二訳、東京市・大村書店)、ゲーテはそれらを基に二十歳代に書き始め、肉付けしたり修正したりして自分の戯曲として一生かかって死の直前、八十歳台で仕上げたのでした(1832年)。謂わばゲーテのライフワークの作品ですね。従ってこのオペラもゲーテ原作と余り強調せずに、グノーの(独自の)「ファウスト」であることを強調していれば何ら問題ないのです。
さてオペラ公演の方はどうだったかと言いますと、先に投稿した速報(9/12付記事「九月歌舞伎座の夜の部」に投稿した9/13付hukkatsコメント①『ファウスト速報』参照)にも書きましたが、ファウスト役グリゴーロ(以下Griと略記)は快調で、他の役柄の歌手に比し抜きん出ていたと思います。冒頭の第一幕第1場は、上記で提示した問題点が端的に表れる箇所の一つなので少し詳しく説明していきます。前奏に続く穏やかなオケの調べの後、やや不安げな調べに変わりGriが皴ぶった老人のこわ色で歌い始めました。「Rein! En vain j'interroge…La nature et le Créateur(何も(聞こえ)ない。…虚しく自然と神について訊いても)」とかなり抑え気味です。「J'ai langui, triste et solitaire, …Je ne vois rien! Je ne sais rien!(私は弱っている、悲しく孤独に。…何も見えない、何も分からない)。」親しみやすくゆったりとしたメロディーに乗ってと切々と訴えます。この冒頭の副詞『Rien』と言う単語がキーワードの一つですね。否定文型でnothingの意味。何十年にも渡るファウスト博士の人生の終わり近くに及んでも、結局奥深い処は何も分からなかった。絶望があるのみ。死があるのみ。毒液を飲んでこうした状況に決着を付けようとします。その時、管弦で夜明けの調べが流れ、最後の朝に挨拶して将に毒を飲もうと口に容器を近づけたその瞬間、また先程の夜明けのメロディーが今度は女性コーラスで聞こえて来ました。「Sous son manteau d'or; Déjà l'oiseau chante Ses folles chansons;…Le ruisseau murmure, La fleur s'ouvre au jour, Toute la nature S'éveille à l'amour…(日は照っている。金の外套を纏って。・・・とっくに鳥は夢中に歌っている…小川はささやき、花はお日様にあたり開いている。全自然が愛に目覚めている。)」ファウストは一瞬手を安めますが、再度、毒液のグラスを口に運ぼうとします。しかし今度は外から農夫達のコーラスが聞こえてきます「Aux champs l'aurore nous rapelle!……… Beni soit Dieu!(曙の畑がわれわれを呼び戻している。………天主に幸あれ。)」登場した冒頭から杖を突き顔も動きも老人に扮したGriは歌ばかりでなく演技も相当なものですね。各種映像では老いたファウストと若いファウウトをダブルキャストで表現するケースも有りますが、老け役のテノールでも相当バリバリ歌うのがほとんどです。今回のGriは老人役に徹していました。次の場面で神に怒りをぶつけ、地上を呪い希望や信仰も呪い、サタンを呼ぶRécitati((レシィタティーヴォ)では、かなり伸びのある強い声の歌い振りも発揮しましたよ。もう毒薬を飲んで自殺することはやめてしまった。この自ら死ぬのをあきらめるきっかけが、ゲーテの『ファウスト』の場合のきっかけに対し、自然さ、説得力が無く不自然なのです。ゲーテでは口に毒薬を運び飲まんとする将にその時にCHOR der Engel(天使の歌声)が響き始めます。「Crist ist erstanden!…(キリストは蘇った。…) 」とそれを聞いたファウストは「Welch tiefes Summen,welch ein heller Ton Zeiht mit Gewalt das Glas von meinem Munde?(何と深い声が、何と澄んだ声が、私の口から力ずくでグラスを引き動かすのだろうか?)」と自殺をあきらめたファウストは「……Diew Träne quilt,die Erde hat mich wieder.(あふれる涙が流れ出て、地上は再び私をとらえた(即ち自殺をやめてこの世にとどまったの意))」と言い切るのです。即ち天井の神は復活したという声が自殺を思い留めさせるのです。神の力です。オペラの様な女性や農夫の歌声を聞いたくらいで、すべてに絶望しているファウストがグラスの盃を翻す訳が有りません。この神の力(恩寵)はゲーテの第一部のみならず第二部を通して重要なキーポイントになるのです。上述した第一幕の場面がグノーのオペラの独自性というか自主性というか簡易化が良く分かる処なので詳述しました。
さて第一幕の第2場でメフィストフェレス(以下メフィストと略記)が登場しました。メフィストは全体を通しての舞台出現率が高く、その出来不出来はオペラの成否に大きく影響します。今回のメフィスト役、ダルカンジェロ(以下DAruと略記)は第一幕ではファウストとの二重唱(récitatifのやりとりに近いか?)の形で互いに求める処の交渉を始めますが、ファウストがこの世で‘青春が欲しい’‘快楽を、若い恋人を、本能の情熱を、陶酔を、喜びを欲しい’、その代わりLá-ba(あそこ即ち地獄)では、メフィストのものになることを契約するのです。ファウストが「Lá-ba ?」と訊き直すとDaruは「Lá-ba 」を→ ⤵とバスの低い声をbaでさらに下げて歌ったのでした。大変ズッシリした良い声でした。上記のファウストが自分が求めるものを列挙する箇所でGriは「moi les plaisirs, Les jeunes maîtresses! A moi leurs caresses! A moi leurs désirs! A moi l'énergie Des instincts puissants,Et la folle orgie Du cœur et des sens! Ardente jeunesse, A moi les désirs, A moi ton ivresse, A moi les plaisirs!」と次第に上りあがるクレッシンドで老人の皴い声を少し緩めながら本来の声に少し近づけてかなり大きな声で歌いました。ここからもGriの好調さが窺えました。
ここでファウストの求めが余りにも情欲的なもので、これでは単なる『色爺さん』と受け止められても仕方が有りません。しかしゲーテの『ファウスト』ではこういった求めをファウスト博士は一切していません。岩波文庫「ファウスト第一部(相良守峰訳)」から引用しますと“君にいったじゃないか、快楽などは念頭にないんだと。私は目もくらむほどの体験に身をゆだねたいのだと。悩みに満ちた享楽や、恋に盲いた憎悪や、気も晴れるほどの腹立ちなどに。知識欲の圧迫から逃れたこの胸は、今後どのような苦痛をも辞しはせぬ。全人類に課せられたものを、私は自分の内にある自我でもって味わおう、自分の精神でもって最高最深のものを敢えてつかみ、人類の幸福をも悲哀をもこの胸に積みかさね、こうして自分の自我にまで拡大し、結局は人類そのものと同じく私も破壊しようと思うのだ”とファウストは随分高尚なことをメフィストに言っているのです。
そして契約は結ばれ、オペラではグラスの毒は若返りの液と変身し、それを飲んだファウストも若返るのでした。この契約の直前にメフィストはチラッと少女(グレートュヒェン)の姿を映し出しファウストの気を引きますが、今回の演出ではマルガリートの糸を紡ぐシーンでなく、何と入浴(上半身を濡らしたタオルで拭く)シーンでした。これには少し驚きました。こうして若いファウストとメフィストは外の世界に飛び出すのでした。
以上長くなりましたのでここまでにして、続きの第二幕以降については後日書くことにします。


ゲーテの原作はずいぶん前に読んだのですが(もちろん日本語訳で)、第2部のことはあまり覚えていないです。第2幕をオペラにするのは内容的に難しそうですね。
しかし、冒頭のファウストの悩みが何も解決されぬままオペラが終了してしまうのは、不自然にも感じます。

オペラ第1幕でファウストが言う望み「A moi leurs caresses! A moi leurs désirs!」の「leurs」が、「彼女たち」という複数形である点に、彼のスケベぶりが表れていますね!

◎英国ロイヤルオペラ≪オテロ≫
  昨日敬老の日、英国ロイヤルオペラ「オテロ(全四幕)」を観てきました。(2019.9.17.15h~18h@県民ホール) このオペラはご承知の通り、シェイクスピア原作の戯曲を基として、ヴェルディが作曲したオペラ(1887年スカラ座初演)です。シェイクスピアの戯曲「オセロ」は16世紀後半には完成し17世紀初頭には演劇上演されている様ですが、作品の時代背景には16世紀のイスラム教世界とキリスト教世界との対立の激化があり、ヴェネチア共和国の植民地キプロス島をめぐる戦いに勝利したヴェネチア側が、先勝後の大嵐を乗り切り帰還する凱旋将軍のオテロを、熱烈に歓迎する場面からオペラが始まります。第一幕冒頭からオケの大音響が鳴り響き、激しい雷雨と先々の不気味なオテロの運命を予測する様な雰囲気の音の中、戻ったオテロが「喜ばしい。イスラム教徒達は海のモズクとなった。キプロスと天に幸いあれ。戦い後の嵐で彼らを叩きのめした!」と第一声を放ちます。オテロ役はテノールのグレゴリー・クンデ。声量もかなりある様だし、いい声をしている。でも短い歌なのでこれだけでは実力はまだ分からない。オテロの部下ヤーゴが第一幕から謀略を謀り、ロデリーゴにささやきます。ヤーゴを歌うのはバリトンのジェラルド・フィンリー。ヤーゴ役は「ファウスト」の悪魔メフィストフィレスよりあくどいですよ。舞台出現率も高いヤーゴに、英国オペラもさすがいいバリトンを配役しています。フィンリーは低めのいい響きと声量を有している。副官カッシオに追い酒を飲ませ、いさかいを起こす策略など悪魔そのものですね。このカッシオが副官に昇格し自分がなれなかったことをヤーゴは根に思ったらしいのですが、昇進、昇格に伴う悲哀なぞ、いつの時代もどの国でもあったことです。枕草子にも「すざまじきもの(興ざめなもの)」として、『除目に司得ぬ人の家 今年は必ずと聞きて はやうありし者ども ほかほかにありつる 片田舎に住む者どもなど みな集まり来て・・・(略)・・・・他より来る者などぞ殿は何にかならせたまえるなど問う。いらへには なんの前司(ぜんじ)にこそは と必ずいらふる。 誠に頼みける者は、いみじう嘆かしと思いたり。つとめてになりて 暇なくおりつる者も、ようよう一人二人づつ すべりつつ出(い)でぬ。』と人事の悲喜こもごもを描写しています。現代の組織においても、成果が良い(と思っている)人が必ずしも昇進するとは限りません。ふくきちさんの組織でも同様でしょう?それを根に思うことは非常に少ないでしょう。あっても『復讐したい』とまではめったなことでは思わない(生まれながらの悪魔ではないでしょうから)。ヤーゴが異常な程復讐心にかられたのはそれ以外に何か原因があったのでは? キリスト教に改宗して成功しているムーア人のオテロに対しヤーゴは人種差別意識があったのではないかという説も有ります。(参考文献:『オセロ』とイスラム世界―17世紀初頭のキリスト教ヨーロッパ世界が抱いた不安と葛藤―同志社大教授勝山貴之著)
さてカッシオがいさかいに追い込まれ、モンターノを傷つけてしまい、駆け付けたオテロに解任されてしまいます。オテロは皆を退場させ、新妻デズデモナと愛の二重唱を歌います。デズデモナ役のフラチュヒ・バセンツのソプラノは音程も安定していて綺麗な歌声は聴いていて心地良いのですが、オテロ役のクンデの声の7/10位の声量かな?バランス的に物足りない感じを受けました。この物足りないという印象は第二幕から第四幕までずっと同じでした。もっともこれは、自宅にティバルデイのデズデモナ(オテロはモナコ)のⅭDを持っていていつも聴いているからかも知れない?でも今回は会場からの拍手も少ないし歓声も少なかった印象がありました。バセンツはこの役初挑戦らしいですから、あがっていて実力を発揮出来なかったのかも知れません。オテロ役のクンデとヤーゴのフィンリーは二幕、三幕と進んでも安定感があり良い歌でした。第二幕で二人の「復讐の二重唱」は非常にアウンの呼吸が合って良かった。大きな拍手と歓声を受けていました。オテロが第三幕の神に祈る場面で「・・・・天主の御意向を喜んで受ける。でも嘆きや悲しみが幻想を奪いとってしまった。魂を幸せに穏やかにしてくれた夢を。」と切々とクンデは歌い、最後は大きい高い声で嘆きの叫びをあげて歌いましたが、迫真に迫っていました。
同じく第三幕でヤーゴが「ここはクモの巣、ここであなたは心静かに糸に絡まれて嘆きながら死にます。・・・・」とカッシオに向かって歌う「蜘蛛の巣の歌」をフィンリーはロシーニのオペラ張りの早口言葉でテクニカルに上手に歌いました。最後の第四幕は、舞台右方上部に、ヴェネチアの守護としてサンマルコ広場にもある「有翼の獅子像」のセットが壊れた形で置いてありました。ヴェネチアを背景とする愛憎劇が破綻したことを象徴していると思った。第四章での聴きどころはやはりデズデモナのアリア「柳の歌」と「アヴェ・マリア」です。これをバセンツは悲しげに静かに綺麗な声で歌い上げ、この日の一番の出来だと思いましたが、全体としての声量が足りないと思いました。叫びたいほどの悲痛さが伝わって来なかった。最後デズデモナが殺されるのですが、枕で窒息死させる演出でした。剣で刺された訳ではないので、窒息死の場合意識を失ってからは歌を歌えません、心臓マッサージや人工呼吸をしない限り息は吹き返さない。おそらく祈りを呟いていたのでしょうが、不自然な演出でした。結局真相が分かったオテロは自死を選ぶ訳ですが、当初からの疑問「オテロは何故カッシオを攻撃しなかったのか?」ということと「何故オテロはこうも安々とヤーゴの妄言に騙されてしまったのか?」の答えは分かりませんでした。若しふくきちさん、「オテロ」を観たのなら教えて!!尚、この投稿は新ブログにテスト投稿してみますが、これまで通りの「ふくきち舞台日記」にも投稿します。両者の投稿し易さ、表示画面状況(アップ表示の速さ、読み易さ、表示項目erc.)などを比較し、今後の投稿を再考してみます。


《オテロ》もご覧になったのですね!私は価格に気後れして見送りました・・・。
《オテロ》は不思議なところのある作品ですよね。疑いが生じてから確信するまでの時間が短すぎるように感じます。
オテロは、この件に関して、イヤーゴが嘘をつく必然性を感じなかったのだと思いますが・・・。
難しいですね。

≪英国ロイヤルオペラ≫
『ファウスト』速報Ⅱ・【グリゴーロ降板!代役ゲオルギー・ヴァシリエフ】
県民ホール「ファウスト」千穐楽(2019.9.22.15:00~)において、ファウスト役グリゴーロは体調不良のため出場出来ず、代役を立てたそうです。千穐楽のチケットもあったのですが、私は初日を観たので同じものを二回観ても仕方ないと思い家内に行って貰いました。休憩時間に連絡が入り、主役グリゴーロが欠場し代役はゲオルギー・ヴァシリエフ(露)になったとのこと、日本ではほとんど無名ですね。初日を聴き「グリゴーロは絶好調で声は伸びもあり、演技力もあり何と言っても聴きごたえがある」と吹聴していたので、家内も期待して行ったのですが、がっかりした調子で電話をかけてきました。代役は声量も余りなく二重唱などよく聞こえなかった模様そうです。そんな中でマルガリート役ソレンセンが声量もあり良かったらしい。宝石の歌を堂々と歌い、観衆の大きな拍手を受けていたとのこと。(私は、初日を聴いて「ソレンセンの歌い振りは尻上がりに調子が出て・・・まだ若いですし、主役の場数を踏めば踏む程うまくなるに違いない。」と投稿に書いたのですが(9/12付記事「九月歌舞伎座の夜の部」に投稿した9/13付hukkatsコメント「ファウスト速報」参照)、まんざら外れた見立てではなかったかな?)ついでに。ソレンセンさんの仏語発音はいまいちですね。特に鼻濁音がはっきり聞こえなかった(初日)。マリナ・レベカ(ラトビア人)がマルガリートを歌う録音があるのですが、特に鼻濁音が綺麗で仏語らしい。11月の「椿姫」来日公演が楽しみです。
今回、グリゴーロが全公演を全う出来ず、ファンをがっかりさせた状況をみて、「やはりそういう事があるか」と思いました。と言うのも、昨年12月に「グリゴーロテノールコンサート」を東京芸術劇場で聴いた時、‘このテノール歌手は長時間歌うスタミナが大丈夫か?’という一抹の不安を抱いたからです。詳細は省きますが、“観客の一人としてはもっともっと歌って欲しかった気がします。………多くの点で精進しないとパヴァロッティの域には達しないでしょう。”とコメントしたことを思い出します。(2018/12/4 付記事「新国立劇場≪カルメン≫」に投稿した12/8付hukkatsコメント参照)。


ユーチューブで見ると、代役のテノールもわりと良さそうに感じますけれど、動画では声量が分からないですから、実際に聞いてみると全然違うのでしょうね。
絵画なども、実物を見て大きさが予想と全然違うことに驚く時があります。
オペラは休演が多くて、本当にギャンブルをしているような感覚になります。

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