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2019年9月 4日 (水)

三読物

先日、能の『木曽』を見てきました。『木曽』という作品は観世流でしか上演されないそうですけれども、この曲の「願書」と、『安宅』の「勧進帳」、『正尊』の「起請文」の3つを「三読物〔さんよみもの〕」と称します。いずれも「紙に書かれたものを読み上げる」という体裁ですので、「読物」には違いないのですが、読み上げる本人が「思いついたばかりの」文章でもあります。

「勧進帳」の文言が、いつ弁慶の頭の中に思い浮かんだのかについては、意見の分かれるところです。むかしの上演ではシテと立衆の連吟だったそうですから、関にかかる前に示し合わせていたことになる。しかし、咄嗟に考え出したという設定のほうが、弁慶が格好良く見えると思うのです。

私は3作品とも見たことがあるのですが、よくもこのような難しい文章を咄嗟に考えつくものだと毎回感心いたします。現在、このような文章を書ける人が日本に存在するでしょうか?書くどころか、読むことさえ難しそうです。

この3作品が上演される時には「あなたも、これくらいの文章が咄嗟に書ける人間になってくださいよ」と言われながら、むかしの日本人は育ってきたのではないでしょうか。

昭和時代までは、選ばれた人の文章しか活字になりませんでしたから、目にする文章はそれなりの水準に達したものが多かったと思います。ところが現在は、片言の日本語が巷に溢れるようになりました。「この人の立場だったら、もう少し綺麗な日本語が書けなくてはいけないのでは?」と思うこともあります。

むかしは『論語』だの『孟子』だの、難しい文章を子供にいきなり読ませて、意味が分かるまで自分で考えさせるという訓練があったように思うのですが、「同じ文章を意味が分かるまで何年でも繰り返し何度でも読む」という習慣が日本から消えてきていると感じるのです。国語教育の目標水準があまりにも低すぎると思います。

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