3 オペラあれこれ

2018年7月21日 (土)

ポーギーとベス

ジョージ・ガーシュイン作曲のオペラ《ポーギーとベス》が日本で上演されたことはあるのかなと思って、ちょっと調べてみました。

そういう時にどうやって調べるのかというと、インターネットで昭和音楽大学の公式サイトを開き、トップページの下のほうの「Pick Up」というところから「オペラ情報センター」をクリックし、《ポーギーとベス》を検索するか、

または「日本でのオペラ公演史」というサイトを見るか、どちらかになるでしょうか。
日本でのオペラ公演史

昭和音楽大学は、文化庁からお金を受け取ってオペラの情報をまとめているわけですが、「日本でのオペラ公演史」のほうはオペラ好きな方が個人で情報を更新していると思われ、素晴らしいと感心するわけであります。

それで、日本における《ポーギーとベス》の上演ですが、
1996年にヒューストン・グランド・オペラ
2004年にニューヨーク・ハーレムシアター
が上演しているほか、
1997年に「ガーシュイン生誕百年祭世界ツアー日本公演」
というのがあり、かなりの回数を上演しています。

他に、詳細は分かりませんが日本の国内オペラ団体が、
1987年、1991年、1996年、1997年、2004年、2005年に
これまたかなりの回数で上演しています。

公演回数の多さからすると、オペラ公演というより、ミュージカル扱いのような気もします。(歌手の喉の負担という観点からして)

日本人歌手が《ポーギーとベス》を上演する場合、やはり《オテッロ》のように顔を黒く塗って演じるのでしょうか。

私がオペラを見始めたのは1997年。
2004年に東京で上演された時には、まだ人気演目を見に行くことで精一杯、《ポーギーとベス》まで見る余裕がなかったのかもしれない。

「いま上演されたら見に行くか?」と訊かれたら、何と答えようか・・・。

2018年7月18日 (水)

トスカとスカルピアの審判

新国立劇場の「高校生のためのオペラ鑑賞教室」で《トスカ》が上演されました。《トスカ》はストーリーに不自然なところがありませんし、初心者向けの作品だと思いますが、その一方で、学校の授業の一環として見る作品としてはどうなんだろう?という感じもあります。つまり拷問とか強姦とか殺人の話ですからねえ。

国立劇場の歌舞伎鑑賞教室で「弁天小僧」や「源氏店」が上演されることがありますけれども、昔は異を唱える人が結構たくさんいたそうですよ。幕内で強く反対する人もいたそうです。他に歌舞伎がないでなし。

時代の流れとは言え、鑑賞教室でそういう作品を上演することに反対する人がいなくなることが、良いことなのかどうか、私にはよく分からない。

ところで授業で《トスカ》を見た場合、「あの時トスカはどうすれば良かったんですか」と生徒から質問されたら、先生は何と答えればいいのだろう?
まあ先生に答える義理はないかもしれないけれど、神には答える義務があるでしょう。

人間は正解の分からない世界に投げ出されて右往左往。
そしていつか神の御前で。

2018年7月17日 (火)

野外でトスカ

今年の9月、名古屋城の野外特設ステージで《トスカ》が上演されるのだそうです。私は行きませんけれども、どのような舞台装置なのか、音響はどうなるのか、そして結末でトスカがどうなるのか、ちょっと興味がありますね。日本で野外オペラって珍しいですね(?)

《トスカ》は人気演目で上演頻度も高いので、これまで度々見ています。
「舞台装置が何もないのに演技は本格的なトスカ」という公演も見たことがあります。「これは最後どうするのだろう?」と思いましたが、最後にトスカはフッと上手〔かみて〕の出入口へ消えて行きました・・・。
舞台装置も本格的な上演なのに、最後にトスカが飛び降りなかった公演もありました(トスカが後ろ向きにゆっくり階段を登っていくところで幕)。しかし演出家であれば、「どういう飛び降り方をするのか」という点で勝負していただきたいところです。

2018年7月10日 (火)

星は2度かがやく

トスカはカヴァラドッシのことを「マリオ」と呼び、「カヴァラドッシ」と呼ぶ場面はありません。しかしカヴァラドッシはトスカのことを「フローリア」とも「トスカ」とも呼び、どちらかと言えば「トスカ」と呼ぶことが多い。それは、トスカが著名な歌手という設定だからなのでしょうか??

先日、新国立劇場で《トスカ》を見て来ました。指揮のテンポ設定がちょっと風変わりな感じでした。それで、第3幕のカヴァラドッシのアリア「星は光りぬ」で、拍手が起こらなかったんですね。それは、指揮者のテンポ設定によるものなのか、歌手の歌い方によるものなのか、今回の客層によるものなのか、ちょっと判然としない。
第2幕のトスカのアリア「歌に生き、恋に生き」が、それまでの緊迫したドラマの流れを止めてしまうので、作曲者によりカットを検討されたことがあると聞きます。今回の上演で「歌に生き、恋に生き」では拍手が起こっていました。マリア・カラスのトスカでは、このアリアの後に拍手が起こらないことがありました。拍手が出来る雰囲気ではなかったらしい。
「星は光りぬ」のほうは、「このアリアのためにドラマが中断される」などと言われるのを聞いたことがない。
1967年1月27日の《トスカ》の録音(パルマでのライヴ)では、フランコ・コレッリの「星は光りぬ」に拍手が鳴り止まず、「ビス!(もう1度歌って!)」と叫ぶ熱狂的な観客の声が記録されています。
オペラでは、客のアンコールによってアリアが2回演奏されるということが稀にあって、私の体験ですと、フアン・ディエゴ・フローレスが《連隊の娘》のアリアを2回歌いましたし、アントニーノ・シラグーザが《ラ・チェネレントラ》のアリアを2回歌いました。それは観客にとって本当に特別な感動体験です。
マリア・カラスは、何と、ルチアの「狂乱の場」を2回歌ったことがあるそうな(録音が残っていたと思います)。
でもコレッリは、どんなに長く拍手が続こうとも、「星は光りぬ」を繰り返すことはしなかった。そう言えば、指揮者のリッカルド・ムーティは、アリアの繰り返しは悪い慣習であるという発言をしていたような気がする(うろ覚えですみません)。
客が歌手に対してアリアの繰り返しを要求するような熱狂的な舞台というものは、まだ存在するものなのでしょうか?
ところで、「星は光りぬ」が2回繰り返された映像を私は見たことがあります。ルチアーノ・パヴァロッティがローマ歌劇場で歌った《トスカ》です。私の記憶では、あまりにも長く続く熱狂的な拍手に、ついにパヴァロッティは「ニヤリ」と満足の笑みを浮かべ、もう1度同じアリアを歌うのでした。私はパヴァロッティのファンなのですが、しかし、その「ニヤリ」は場面にそぐわないように思ったものでした。このローマ歌劇場の映像は、非常に優れた演奏であったと記憶していますが(トスカはライナ・カバイヴァンスカ)、なぜかDVD化されなかったのではないかと思います。なぜでしょう?

2018年5月22日 (火)

フィデリ夫

ベートーヴェン作曲の唯一のオペラ《フィデリオ》は、人妻が男性に変装して監獄に入り込み、政治犯として投獄されている夫を救い出す、という物語。その人妻というのが、スカートをはくと女で、ズボンをはくと男。カツラをかぶると男で、カツラを取ると女。その2種類しか変化がない。
という話をしたら、「オペラとはそういうもの」と諭されてしまいました。
もう少し男らしい仕草をするとか、男っぽい声を出すとか、しないものなのでしょうか?
オペラ歌手は何も演技をしていない・・・。

男装した人妻に恋をしてしまった若い女性の恋心の行方がいつも気になるのであった。彼女の恋が成就する演出はどこかで上演されていないものだろうか?

ブスッと腹を刺されて、「あっ、死んだ」と思ったら、死んでいなかった。「腹の肉が厚くて急所まで届かなかったのかな」と思ったのだけれど、そのまま死んだような、生きたような?

2018年4月30日 (月)

《ラ・チェネレントラ》の演出

ロッシーニと言えば、生涯に書いた39本のオペラのうち、《セビリャの理髪師》は日本で毎年上演されているけれど、その他の作品はなかなか上演されない。なぜ《理髪師》ばかりが上演されるのか・・・?
そうした中で、2番目に多いのが《ラ・チェネレントラ》でしょうか?

《ラ・チェネレントラ》を見るにあたって、演出に期待する点としては、やはり「没落貴族のさびれた屋敷から豪奢な王宮への舞台転換」が最も気になるところではないでしょうか。
実際には、公演予算の都合で、舞台上に王宮を出現させるのはなかなか難しい面があるのでしょう。しかし、歌舞伎や文楽なら1日の公演で10回くらい場面転換しますし、バレエ公演でも何かしら工夫して場面に合った舞台美術を用意するのではないでしょうか?
オペラはそういう工夫をはじめから放棄することが多い。誠に不思議なことです。

それから、各登場人物の身分差という点が私は気になります。変装していて途中で身分が変わる役は特にそうです。ダンディーニを歌う人は、「従者が王子のふりをしている演技」をしなければなりません。まず「王子の演技」というのが、演技力のないオペラ歌手にはなかなか望めないんですよね。でもロンドンのロイヤルオペラで見たダンディーニは、ちゃんと王子のふりをする演技をしていました。「こういうの、一度やってみたかったんだよね~、うふふふ」という演技。「王子の演技」ではなく「王子のふりをする演技」です。衣裳も一番豪華なロイヤルブルーのマント(ひと目で王族と分かる印)を着けていましたし、大勢の人を従えて登場していました。ダンディーニより先に合唱が大勢到着するわけなのですが、合唱はあくまでダンディーニにかしずいてその変装を補助しなければならぬはずです。

あとは、音楽の最中にガサガサしないでほしい、というくらいでしょうか。パパの演技には新鮮な目新しさが欲しいところですが、それほど多くを望んでいるわけではありません。

2018年2月27日 (火)

注目のオペラ歌手

東京芸術劇場が研修という名目で若い人にタダ働きさせようとしていてビックリです・・・。定められたレポートを提出すると月18万円?出る場合もある(必ずではない、そして交通費は自腹)らしいけれど・・・。よっぽど財政に困っているのだろうか・・・?どういう人が応募するんだろう??

さて~~、最近、絶対に生で聞いてみたい!!と思えるオペラ歌手の出現がめっきり少なくなっているような気がしませんか?
グルベローヴァ、グレギーナ、テオドッシュウ、バルトリ、デセイ、パヴァロッティ、ドミンゴ、フローレス、シラグーザ、フルラネットetc
夢中になった黄金の歌手たちも、年を取ったり、来日しなくなったり・・・。
しかしその嘆きは、ひょっとすると、海外で人気のある歌手が日本では話題にならなくなって、単に自分が知らないだけかもしれないのです。
オペラ総合雑誌『グランドオペラ』が休刊になって何年が経つでしょう。
(バレエの雑誌『ダンスマガジン』は休刊にならないんですね・・・)

私は過去にニューヨークのメトロポリタン歌劇場に行ったことがあるのですが、インターネットでチケットを取ったところ、その後ずっとメトのメルマガが送られてくるようになったのです。すごく頻繁に送られてきて、公演の話題はもちろん、ライブビューイングやオリジナルグッズのことまで、写真や動画が組み込まれた綺麗なメルマガなのです。海外のオペラハウスは、紙のちらしにはあまり力を入れておらず、ホームページやメルマガを主力広告媒体にしているように思います。
日本はまだ紙媒体が主力ですね。紙のちらしだと、一通りぱらぱらと見るわけですし、手に取った人への訴求力は強いと思いますが、来場した人の手にしか渡らず、範囲が狭い。
私も、能の公演に行くとちらしをたくさんもらって、また行こうと思うのですが、一旦途切れるとそのまま何も分からなくなってしまう、なんていうことがありますね。
(そこで能楽公演情報サイト「柳の下」が活躍するわけですが・・・)

先日、メトからのメルマガにオリジナルグッズの紹介が出ていて、「コジ・ファン・トゥッテ・スカーフ」なる水玉のスカーフが販売されていた。これはあれでしょうか、「私はいつでも誰でもOKよ」という女の印なのでしょうか?アメリカらしい素敵なスカーフですね。

そして!!現在メト一押しのソプラノが、ソーニャ・ヨンチェヴァであるらしい。

おととい、久しぶりに渋谷のタワーレコードに行ったら、試聴機にソーニャ・ヨンチェヴァのヴェルディ・アリア集が入っていたので、聞いてみました。「世の空しさを知る神」のすごくいい所で時間制限がかかってプツッと切れてしまい、思わずCDを買ってしまいました。(タワレコの思う壺)
このソプラノは現在、世界的に売れっ子みたいですから、オペラ好きの皆さまはぜひチェックしてみてくださいね。
(いつか日本にも来るのだろうか・・・?)

2018年2月25日 (日)

燕尾服

演奏会形式のオペラというのは昔からありますけれども、今後はもっと増えていくのではないでしょうか。舞台装置なし、衣裳なし、譜面台あり、というような公演が増えていくような気がするのです。「この作品はむしろ演奏会形式でこそ最大限に音楽を楽しめるのです」などと強弁するケースが見受けられますが、本気なんですかね?
しかし、予算がなくて、中途半端に学芸会のようになってしまうよりは、演奏会形式のほうが幾分マシである、ということは大いにあり得ると思います。
演奏会形式といっても、女性歌手はたいていドレスやアクセサリーを役に合わせて工夫するものですが、男性歌手は役柄と関係なく一律で燕尾服が多い。この燕尾服というものが、日本人の体形に合わないと私は思うのです。肩幅、お腹まわり、上半身にだけすごいボリュームが出て、下半身とバランスが取れない。もっと何か、自分の体形に合ったカッコいい服を着たほうが良いのではないかと・・・。

それにしても、パヴァロッティはすごく太っていて足も短かったけれど、燕尾服が似合わないと思ったことはないなあ・・・。単に仕立ての技術の違いなのでしょうか?

2018年2月10日 (土)

2017年のオペラ

時の過ぎるのは早いものですねえ。

昨年見たオペラを振り返りますと・・・。

まず、グルベローヴァの来日が大きな出来事でした。
ルチアが聞けるということで、とても期待していました。
しかし、来日1発目に開催されたすみだトリフォニーホールでのリサイタルが、思ったほど良くなかったんですよね。この1年でずいぶん衰えたなあと感じたのです。もちろん、それでも素晴らしい公演ではありましたけれども、これではルチアを歌っても3点変ホ音は出ないんじゃないかなと危惧しました。(実際は出しましたけど)
大阪でのルチアもチケットを取ってあったのですが、これなら東京から行くほどじゃなかったかなと思ったくらいでした。
ところが、大坂公演はすごく調子が良かったみたいで、素晴らしい出来映えでした。本当に大阪まで行った甲斐がありました。
フェスティバルホールは再開場後は初めてでしたが、音響も良かったですし、なかなか洒落た雰囲気でした。
エドガルド役は、アンドレア・ロストと一緒に歌ったテノールのほうが感動しましたけどね。
グルベローヴァのルチアは、昔の録音を聞くと歌い方に変な癖があってあまり好きじゃなかったのですが、途中からずいぶん歌い方が変わりましたね。生で聞けて良かった。

去年はやたらとルチアを何度も見ていた気がします。日本のオペラは同じ演目ばっかり上演しますよね。
光岡暁恵さんのルチアは、オーケストラのテンポ設定が私の好みではなかったのですが、それでも緻密に計算された歌唱に引き込まれました。光岡さんのルチアは何度か見ていますが、去年12月の公演でやっと完成されたという印象がありました。

そして去年私が一番感動したオペラは、オペラ彩が12月23日に上演した《トゥーランドット》ですね。村上敏明さんがカラフ全曲を歌うのは初めてだったそうです。その1年くらい前に「いまカラフを歌いたい」と村上さんが言っているのを聞いたのですが、ここで実現したわけです。村上さんが歌いたいって言っても、藤原歌劇団は舞台を用意してあげないんですね。どうしてなのでしょう?
トゥーランドットは鈴木慶江さん、リューは佐藤美枝子さんでした。鈴木さんにトゥーランドットみたいな重い声の役が合うのかなと心配したのですが、いざ聞いてみたら素晴らしい歌唱でした。ビックリ。佐藤さんのリューも、どこまでもずっとフレーズが繋がっていくかのような大きな歌唱で感動的でしたね。カラフの村上さんは、絶好調というわけではなかった。

私は、オペラを振る指揮者の中では、ネッロ・サンティとヴィート・クレメンテが好きなんです。あまり指揮者にはこだわりがないつもりだったのですが、そうでもないみたいで、結構好みが分かれますね。話題の指揮者は次々に登場しますが、たいてい私の好みじゃないのです。
オペラ彩の《トゥーランドット》を振ったヴィート・クレメンテは、本当にすごい才能だと私は思っているのです。音がキラキラと輝く。なぜ極東の地方都市で2日間だけの公演に出演しているのか、とても不思議です。もっと世界的な名声を得ていい人のはずなのに。
しかし考えてみますと、有名な歌劇場でたくさんの制約に縛られて出演するより、小さなプロダクションで自分の好きなようにじっくり準備をしたほうが、好きなものを作れるのかもしれません。
結果に満足できないと、やっている甲斐がありませんからね。

2017年7月23日 (日)

オペラよもやま

あれは先月17日のこと、仙川フィックスホールという120席くらいの小さなホールで、村上敏明さんのリサイタルを聞いてきたのです。自由席だったので、1階1列目中央に座ってしまいました。もうすごい迫力。
私がオペラを見始めたのは今から20年前。ちょうど新国立劇場ができた平成9年でした。この頃は、すごく大勢の若手テノールが一気に出てきた時期でした。今も活躍している人もいるし、名前を聞かなくなった人もいます。昨今は、それほど大勢のテノールは出てこない。若いテノールは本当に人数が少なくなりましたね。
私は文学部日本文学科を出ているのですが、大学入試のとき、文学部だと就職で困るんじゃないかなと思って迷ったのです。そして予備校の先生から「今の時代、何をやったって生きていけるんだから、好きな道に進むべきだ」と言われ、法学部をやめて文学部を選んでしまいました。そうしたら在学中にバブルがはじけ、就職には苦労しましたよ、ええ。進路が時の経済状況に左右されることはありますよね。日本も高度成長とかオイルショックとかバブルとか、いろいろな時代があって、テノールが登場する時期、登場しない時期というのがあるのでしょうね。でもマリア・カラスなんていうのは貧困の中から出てきたわけで、不況だからオペラ歌手が出てこないってこともないと思いますけども。
その頃出てきたテノールの中で、村上敏明さんは最も輝いている部類で、今回見ていて本当にカッコいいなあと思ったのです。夢を実現させて、継続させている人ですから。マンリーコのアリアなんて最高にカッコよかったですね。

その翌日18日、日生劇場で《ラ・ボエーム》を見てきました。これが珍しく日本語上演だったのですね。
今どき日本語上演の《ラ・ボエーム》なんてありえないし、馬鹿馬鹿しいと思ったのですが、テノールの宮里直樹さんが素晴らしい声だという噂を聞いており、一度生で聞いてみたかったのです。私がテノールの諸役の中で最も好きなのはロドルフォであり、つまりその宮里直樹さんがオケ・合唱入りの《ラ・ボエーム》に出演する機会は今後あるのかどうか分からないし、たとえ日本語上演であっても機会を逃してはいけないと思ったわけなのです。実際、なかなか良い声でした。
この公演はオペラを初めて見るであろう高校生を主な対象としていて、地方を含め10回くらいある公演のうちの2回だけが一般発売されたものです。一般発売されたこの2公演以外の、対象となる高校生は無料招待なのだそうです。招待される高校生と招待されない高校生はどのように選別されているのでしょうか?公表されていない。クローズドの公演に芸術文化振興基金という公的資金が流れていることが不思議ですね。
ところで、初めて見るオペラが日本語訳詞上演であるというのは、オペラファンを増やすために効果的なことなのでしょうか?
私はオペラの日本語訳詞上演をあまり見たことがなくて、オペラを見始めた1997年か1998年に二期会の《フィガロの結婚》を日本語訳詞上演で見たのと、佐渡裕さんが2013年に兵庫でやった《セビリャの理髪師》が日本語上演だった。あとは杉並区民オペラ2回と、今回の日生劇場の《ラ・ボエーム》くらいでしょうか。
日本のオペラ公演で初めて字幕が使用されたのは、1986年なのだそうです。それまで日本のオペラ団体は日本語訳詞上演が普通だったそうな(原語上演もしていたけれど)。そして新国立劇場が開場する1997年、日本のオペラ公演から日本語訳詞上演がほぼ消えた。私が見た二期会の《フィガロの結婚》は、日本語訳詞上演の最後の時期だったのではないかと思う。それ以降は、子供向けの公演やオペレッタなど、ごく限られた分野だけに日本語訳詞上演が残った。
そして、ここにきて俄かに日本語訳詞上演のリバイバルだ。現在オペラ公演を企画する人たちは日本語訳詞上演でオペラに馴染んできた人たちであり、オペラの普及のために日本語訳詞上演が必要であると判断したのでしょう。
現実問題として、オペラの観客層の高齢化が著しい。同じ伝統芸能では、バレエの観客は若い人もかなり多い。歌舞伎や文楽も若い客はいる。オペラと能楽の観客の激しい高齢化は何なのだろう?この世代とともにこの芸能も消滅していくのだろうかと思うくらいです。言葉の壁があるのですね。言葉は、分からない人には全く分からない。全く。
しかし私個人は字幕付き原語上演によってオペラに取りつかれた人間であり、日本語訳詞上演だったらここまでオペラを見ていないだろうと思う。
日生劇場の《ラ・ボエーム》では、第一幕の最後の部分、Amor! Amor! Amor! が、日本語で「愛よ!愛よ!愛よ!」と歌われていました。音符に乗らないんですよねえ。もし日本語で「愛よ!愛よ!愛よ!」と歌うことがあるとしたら、絶対に別なメロディーになると思うんです。
そして全体的に、聞いていて「気恥ずかしい」。
オペラを見ていて、「これが母国語だったら直接的に理解できるのに残念だなあ」と思うことがよくありますが、逆に「異国語だから美しい夢として聞いていられる」という側面があるのではないでしょうか?
昨日、杉並区民オペラの《カヴァレリア・ルスティカーナ》&《道化師》を見てきたのです。日本語訳詞上演でした。杉並区民オペラは珍しく一貫してずっと日本語訳詞上演を続けていて、その理由は、なるべく幅広い年齢層の人に合唱として参加してほしい、子供から年配の方まで歌ってほしい、となるとやはり日本語が良い、ということだそうです。
サントゥッツァの呪いの言葉、Bada!(覚えていろ、覚悟しておけといった意味)は「バカ」、 spergiuro!(裏切者)のあたりは「地獄へ落ちろ」と歌われていましたかねえ・・・。
原語上演では感じない低俗さを感じてしまいました。(それはそれで私も楽しみましたが・・・)
日本語訳詞上演がオペラの入口になるかどうか、私はちょっと疑問に思うのです。

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