3 オペラあれこれ

2017年7月23日 (日)

オペラよもやま

あれは先月17日のこと、仙川フィックスホールという120席くらいの小さなホールで、村上敏明さんのリサイタルを聞いてきたのです。自由席だったので、1階1列目中央に座ってしまいました。もうすごい迫力。
私がオペラを見始めたのは今から20年前。ちょうど新国立劇場ができた平成9年でした。この頃は、すごく大勢の若手テノールが一気に出てきた時期でした。今も活躍している人もいるし、名前を聞かなくなった人もいます。昨今は、それほど大勢のテノールは出てこない。若いテノールは本当に人数が少なくなりましたね。
私は文学部日本文学科を出ているのですが、大学入試のとき、文学部だと就職で困るんじゃないかなと思って迷ったのです。そして予備校の先生から「今の時代、何をやったって生きていけるんだから、好きな道に進むべきだ」と言われ、法学部をやめて文学部を選んでしまいました。そうしたら在学中にバブルがはじけ、就職には苦労しましたよ、ええ。進路が時の経済状況に左右されることはありますよね。日本も高度成長とかオイルショックとかバブルとか、いろいろな時代があって、テノールが登場する時期、登場しない時期というのがあるのでしょうね。でもマリア・カラスなんていうのは貧困の中から出てきたわけで、不況だからオペラ歌手が出てこないってこともないと思いますけども。
その頃出てきたテノールの中で、村上敏明さんは最も輝いている部類で、今回見ていて本当にカッコいいなあと思ったのです。夢を実現させて、継続させている人ですから。マンリーコのアリアなんて最高にカッコよかったですね。

その翌日18日、日生劇場で《ラ・ボエーム》を見てきました。これが珍しく日本語上演だったのですね。
今どき日本語上演の《ラ・ボエーム》なんてありえないし、馬鹿馬鹿しいと思ったのですが、テノールの宮里直樹さんが素晴らしい声だという噂を聞いており、一度生で聞いてみたかったのです。私がテノールの諸役の中で最も好きなのはロドルフォであり、つまりその宮里直樹さんがオケ・合唱入りの《ラ・ボエーム》に出演する機会は今後あるのかどうか分からないし、たとえ日本語上演であっても機会を逃してはいけないと思ったわけなのです。実際、なかなか良い声でした。
この公演はオペラを初めて見るであろう高校生を主な対象としていて、地方を含め10回くらいある公演のうちの2回だけが一般発売されたものです。一般発売されたこの2公演以外の、対象となる高校生は無料招待なのだそうです。招待される高校生と招待されない高校生はどのように選別されているのでしょうか?公表されていない。クローズドの公演に芸術文化振興基金という公的資金が流れていることが不思議ですね。
ところで、初めて見るオペラが日本語訳詞上演であるというのは、オペラファンを増やすために効果的なことなのでしょうか?
私はオペラの日本語訳詞上演をあまり見たことがなくて、オペラを見始めた1997年か1998年に二期会の《フィガロの結婚》を日本語訳詞上演で見たのと、佐渡裕さんが2013年に兵庫でやった《セビリャの理髪師》が日本語上演だった。あとは杉並区民オペラ2回と、今回の日生劇場の《ラ・ボエーム》くらいでしょうか。
日本のオペラ公演で初めて字幕が使用されたのは、1986年なのだそうです。それまで日本のオペラ団体は日本語訳詞上演が普通だったそうな(原語上演もしていたけれど)。そして新国立劇場が開場する1997年、日本のオペラ公演から日本語訳詞上演がほぼ消えた。私が見た二期会の《フィガロの結婚》は、日本語訳詞上演の最後の時期だったのではないかと思う。それ以降は、子供向けの公演やオペレッタなど、ごく限られた分野だけに日本語訳詞上演が残った。
そして、ここにきて俄かに日本語訳詞上演のリバイバルだ。現在オペラ公演を企画する人たちは日本語訳詞上演でオペラに馴染んできた人たちであり、オペラの普及のために日本語訳詞上演が必要であると判断したのでしょう。
現実問題として、オペラの観客層の高齢化が著しい。同じ伝統芸能では、バレエの観客は若い人もかなり多い。歌舞伎や文楽も若い客はいる。オペラと能楽の観客の激しい高齢化は何なのだろう?この世代とともにこの芸能も消滅していくのだろうかと思うくらいです。言葉の壁があるのですね。言葉は、分からない人には全く分からない。全く。
しかし私個人は字幕付き原語上演によってオペラに取りつかれた人間であり、日本語訳詞上演だったらここまでオペラを見ていないだろうと思う。
日生劇場の《ラ・ボエーム》では、第一幕の最後の部分、Amor! Amor! Amor! が、日本語で「愛よ!愛よ!愛よ!」と歌われていました。音符に乗らないんですよねえ。もし日本語で「愛よ!愛よ!愛よ!」と歌うことがあるとしたら、絶対に別なメロディーになると思うんです。
そして全体的に、聞いていて「気恥ずかしい」。
オペラを見ていて、「これが母国語だったら直接的に理解できるのに残念だなあ」と思うことがよくありますが、逆に「異国語だから美しい夢として聞いていられる」という側面があるのではないでしょうか?
昨日、杉並区民オペラの《カヴァレリア・ルスティカーナ》&《道化師》を見てきたのです。日本語訳詞上演でした。杉並区民オペラは珍しく一貫してずっと日本語訳詞上演を続けていて、その理由は、なるべく幅広い年齢層の人に合唱として参加してほしい、子供から年配の方まで歌ってほしい、となるとやはり日本語が良い、ということだそうです。
サントゥッツァの呪いの言葉、Bada!(覚えていろ、覚悟しておけといった意味)は「バカ」、 spergiuro!(裏切者)のあたりは「地獄へ落ちろ」と歌われていましたかねえ・・・。
原語上演では感じない低俗さを感じてしまいました。(それはそれで私も楽しみましたが・・・)
日本語訳詞上演がオペラの入口になるかどうか、私はちょっと疑問に思うのです。

2017年6月30日 (金)

新国立劇場の不思議

新国立劇場主催のオペラ公演の良席を、チケットぴあが、
特別販売手数料514円を上乗せして販売したり、
ぴあプレミアム会員に優先的に販売したりするのは、
一体どういう仕組みなのでしょう?
また、人気公演だけチケットぴあの貸切日を設定して、
一般料金より高くチケットを販売するというのは、
一体どういう仕組みなのでしょう?
新国の良席はチケットぴあのものなのですか。
世の中よく分からない仕組みが多くて・・・。

2016年11月 6日 (日)

ノルマの指輪

ブログのログインパスワードも忘れてしまうほどご無沙汰しておりました。
みなさんお元気ですか。

 

長く生きておりますと、いままで分からなかったことが突然分かるようになることがあり、なんだ、そんなことだったのか、と思ったりするものです。それが正解かどうか知らないけれど、何でも自分で納得できればいいのでしょう。

 

マリア・カラスはオペラの世界で最も成功した歌手の1人ですが、その人生を辿ると、「ローマ事件」なる出来事が出てきます。
1958年1月2日ローマ歌劇場で、風邪気味の不調をおして《ノルマ》に出演したマリア・カラスは、有名なアリア「清らかな女神よ」の直後に「それが100万リラの声か?ミラノへ帰れ!」という野次を受けて第一幕の途中で降板。イタリア大統領が臨席する特別な公演だったこともあって大スキャンダルとなり、以後イタリア中の歌劇場から締め出しをくらう。カラス本人は「喉の不調による降板」と主張したが、「野次られたのが気に食わなくて気まぐれで降りた」と悪口を言われ続けた。

 

これがもし日本だったら、マリア・カラスのほうではなく、野次った人のほうがずっと非難され続けただろうと思うんです。だってその野次のせいで世紀のプリマのノルマを聞く千載一遇の機会を逃してしまったんですよ。
マリア・カラスは歌い方がユニークだったので、アンチ・カラス派なる人々が少なからずいたそうですが、カラスのノルマを聞きに行ってカラスに野次る感覚というのが、私にはよく理解できなかった。
しかし今日、《ノルマ》の舞台を見ていたら、このオペラの歌詞はまるでローマに喧嘩を売っているような内容だなと感じ、キリスト教の総本山であるローマの客の中には、この異教徒の物語を見て不快に思う人も当然、一定数いるであろうと思ったのであった。
ローマで《ノルマ》を上演するのは、他で上演するのと状況が違う。
ローマ事件で野次った人の気持ちが理解できる日が自分にやって来ようとは思わなかった・・・。

 

マリア・カラスが最も愛するオペラ《ノルマ》。最大の当たり役であり、その魅力を存分に引き出すがゆえに選ばれた演目。キリスト教によらぬ愛の成就の物語という点で、ギリシャ悲劇の復活を目指したオペラの初期理念を最も体現している作品とも言えよう。
ローマ人であるために、マリア・カラスのノルマを楽しめなかったのだとしたら、何とお気の毒なことであろう。

 

マリア・カラスの舞台写真集を持っているのですが、ノルマ役で左手の薬指に指輪をしている写真が残っている。
巫女が左手の薬指に指輪をしているというのは、どういうことであろうか?
オペラ歌手は、リサイタルの時には、どのような内容のアリアを歌う場合であっても、既婚者は指輪をして出てくる・・・ことが多い。
しかし舞台ではどうだろう。
未婚の役で指輪をすることは、あまりないだろう。
(マルセロ・アルバレスやジュゼッペ・フィリアノーティは、アルフレードで指輪をしていましたが・・・)
しかし、今日《ノルマ》を見ていて分かったんです。
ドルイド教徒にとっては、左手薬指の指輪には何の意味もないだろうと。
けれど、ノルマにとっては特別な意味があったのだろうと。
しかしその意味を仲間のドルイド教徒は理解できないし、
そのことを知っていてノルマは巫女でありながら指輪を楽しんでいたのかなと。
ポッリオーネが誓いの言葉と一緒にくれた指輪を。

2016年9月19日 (月)

《カプレーティ家とモンテッキ家》あれこれ

ベッリーニ作曲《カプレーティ家とモンテッキ家》の台本を書いたロマーニは、シェイクスピア作『ロミオとジュリエット』の内容に関する知識がない状態でオペラの台本を書いたそうですが、それにしても、ずいぶんストーリーが違うものですね・・・。

第2幕冒頭、薬を飲む場面で、ジュリエッタは「死ぬこと自体は怖くない」と言いながら、その舌の根も乾かぬうちに「薬を飲むのが怖い」などと逡巡する。
死ぬことは怖くないけれど、自分の死が「自殺扱い」になってしまうのは怖い、ということでしょうか?
キリスト教では自殺が固く禁じられています。
つまり自分を殺すということは、自分を作った神を否定することになるわけでしょう。
人生はハッピーエンドでなければなりません。

思っていたように効けば薬、
思っていたように効かなければ毒。
毒と薬は裏表。

一時的に仮死状態になる薬。
誰が考え付いたのだろう。
吉野川を真横に首が流れていくのよりもシュールな薬。
『ロミオとジュリエット』はSFだったのか?

ジュリエッタは父親に何の赦しを乞うているのだろうか?
あの長々しい場面の代わりに、
違うわ、あれは夜鳴きうぐいす、
いや朝を告げるヒバリだよ、
なんていう二重唱を歌っていたほうが、ずっとロマンチックなのに。
ジュリエッタは父親に何の赦しを乞うているの?
父の期待に自分が応えられないことを詫びるの?
人は他人が望むようには生きられぬもの。
好きに生きればいいのに。

ロメオと最初から駆け落ちするのと、
一旦死んだことにしてから駆け落ちするのと、
何が違うのだろう。

ロメオはなぜ毒を携帯しているのだろう?
レオノーラも毒を携帯していた。
みんな携帯しているものなの?
それでもキリスト教徒なの?

2016年7月19日 (火)

パヴァロッティTシャツと私

Photo

私が一番好きなソプラノはマリア・カラスで、
一番好きなテノールはルチアーノ・パヴァロッティであります。

確かおよそ18年ほど前に、パヴァロッティTシャツを購入したのですが、1度も袖を通さぬまま今日まで来てしまいました。
【私がこのTシャツを着て行ける場所は日本に存在しない】

なんでも風水的には、古い衣類は新しい出会いを妨げるのだそうで、パヴァロッティTシャツは、
写真を撮って→捨てる
ということに決めました。
断捨離野郎ふくきち。
(あの世に持っていけるのは思い出だけ)

2

10秒セルフタイマーによる自撮りだよ!
(どうして購入してしまったのかは謎・・・)

2016年6月22日 (水)

セビリアの理髪師~食事付

先日、日生劇場の《セビリアの理髪師》を見てきたのですが、2日間見たうちの1日、「食事付」というのにしてみました。

セビリアの理髪師~食事付

ロッシーニ風のマカロニというのを、初めて食べました~~!!
マカロニの中に、特製ソースが注入されているのです。冷製でした。

コースの料理に合わせて、ロッシーニ作曲のピアノ曲が流れてきました。
ワインも料理に合わせて用意されていましたね。
料理と音楽とお酒がコーディネイトされているのです。
(私はお酒はほとんど飲めないので最初にシャンパンを飲んだだけですが)

う~ん、お酒が飲めたらもっと別な人生だっただろうに・・・。
ワインを「美味しい!」「何千円・何万円払ってでも飲みたい」と感じる味覚があったならば・・・。
(その代わりに「何千円・何万円払ってでも見たいオペラ」を神は私に与えたもうたのだと思いますが・・・)

日生劇場は、急にオペラの公演が増えた気がしますね。
今まで東京文化会館やオーチャードホールで上演していたものが、だんだん客の入りが悪くなってきて、会場が大きすぎるということになり、小さめの日生劇場にスライドしてきたのでしょうか。

日生劇場で来年上演予定の《ラ・ボエーム》に、宮里直樹さんの名前が出ています。話題の大型テノールらしいのですが(体型のことではない)、早くもロドルフォが聞けるんですねえ。

2016年6月18日 (土)

ビッグニュース!!

来シーズンの新国立劇場《セビリアの理髪師》に出演が予定されているマキシム・ミロノフは、最後の場面の伯爵の大アリアを歌う予定だそうです!!
このプロダクションでは、これまで「歌えるはずなのに歌わないテノール」が出演して残念だったのですが、それは歌手のせいではなく演出家のせいではないかと囁かれていました。
ミロノフ君の場合は、本人のたっての希望で歌うことになったそうです。

ブラウンリーは立派に歌えるのになぜ希望しなかったのだろう?
という話になったのですが、
「同じ出演料で、歌わなくていいなら、歌わないんじゃない普通?」
という結論に至った。
歌いたいという欲望と、
歌う負担、リスク、労力と、
どちらが大きいものだろう、
オペラ歌手にとって。

アレーナ・ディ・ヴェローナで雨が降って公演が中断した時の、
出演歌手の嬉しそうな顔が目先にちらつく。

アルマヴィーヴァ伯爵が大アリアを歌うか歌わないか、
そんなに気にするのはお前だけだよ、
という話もあり・・・。

2016年6月17日 (金)

そうですか

このあいだ聞いた話なんですけれどもね。
ロッシーニ研究の権威と言われるアルベルト・ゼッダは、トスカニーニと会ったことがあるそうです。その時にトスカニーニが、「結局のところ、音楽というものは、速ければ速いほど良い」と言っていたのだそうです。そして、ゼッダ本人も、そう思うようになっていったのだそうな。

確かにロッシーニの音楽は「速い=すごい=素晴らしい」という部分があると思いますが、どの場面でも速さばかりを追求していますと、逆に感興をそぐ、という面があるのではないでしょうか?

近年、ピアニストが、ひたすら速さを競っているような印象を受けるのですが、気のせいでしょうか。

「音楽は速ければ速いほど良い」、そうですか?

2016年5月12日 (木)

私はもう雑談しかしない

今年の秋、藤沢市民オペラがロッシーニの名作《セミラーミデ》を上演する予定です。
(10月30日、演奏会形式、カットあり、解説付き)
指揮は園田隆一郎さん。
園田さんは、藤沢市民オペラの芸術監督に就任し、任期中に《蝶々夫人》《トスカ》という人気作品と、《セミラーミデ》というレア作品を上演するのだそうな。
※《蝶々夫人》はすでに終了

ロッシーニ作曲《セミラーミデ》は、世界的に見てもあまり上演されない作品で、映像や録音も少ない。
でも私は好きな作品です。
どんなキャスティングになるのか期待していたのですが、タイトルロールのセミラーミデは安藤赴美子さんとのこと。
安藤さんって、ロッシーニを歌ったことがあったっけ・・・?
そういう声質ではなかったような気が・・・?
と思ったのですが、この配役は園田さんのご希望だそうで、
なんでも園田さんご本人のお話では、
セミラーミデのアリア「麗しい光が」はソプラノがよく歌う、
オーディションなどでこの曲を選ぶソプラノが多い、
なので指揮者は聞く機会が多い、
声の細いソプラノが得意としがちな曲であるト。
しかし園田さんの尊敬する指揮者アルベルト・ゼッダは、セミラーミデは太い声のソプラノが歌う役だという理想を持っていて、この曲を聞くたびに「あなたの声はセミラーミデ向きではない」と指摘しているのを側で見ていたト。
自分もセミラーミデは太い声のソプラノによって歌われるべきだと思うので、響きの豊かな安藤さんを選んだト。
でも、どういうふうになるのかまだ分からないト。(安藤さんに賭けたのだそうです)

細い声のソプラノが歌うセミラーミデの代表は、エディタ・グルベローヴァでしょうかねえ。私はグルベローヴァの全曲CDを持っています。私はグルベローヴァが大好きでして、握手してもらったこともありますよ。グルベローヴァの「麗しい光が」はすごいんです。もう人間技とは思えない。一体どうなってるの~~って感じです。しかし、正統派じゃないみたいなんですよね~。ほかでも批判的な意見を聞いたことがあります。でも私は変わった人間なので、世間的な評価なんて全然気にしませんけどね・・・。
太い声、重い声の「麗しい光が」というと、誰の録音があるのだろう?
バルトリ?カラス??どちらも好きな歌手ですが、「麗しい光が」はピンと来ないですね~。
グルベローヴァは東京で「麗しい光が」を歌ったことがあり、それを生で聞いた人々が心底羨ましい。う・ら・や・ま・し・い。

今度の藤沢市民オペラで、《セミラーミデ》が真の魅力を発揮するのでしょうか?

2016年5月10日 (火)

興味深い話?

イタリアオペラを得意とする指揮者・園田隆一郎さんのお話を聞いてきたわけなのですが~。
園田さんは、アルベルト・ゼッダを尊敬しているそうですが、いつも機嫌の良いゼッダに激怒された経験があるそうです。それは、「4時間の予定だった稽古を、順調だったので3時間で切り上げた時」だったそうです。「お前のキャリアはここで終了、もう2度と一緒に仕事しない」と言われたそうな・・・。

「日本人オペラ歌手は、なぜあんなに歌が下手で、あんなに演技が下手なのか」という話題になった時、
「イタリア人歌手にも下手な人はいるが、日本人の観客はそれを見る機会がない」と園田さんは仰っていました。下手な人は日本に呼ばれませんからね・・・。(なるほど!)
私も、イタリアの小さな教会で歌うオペラ歌手がすごく下手だったのを見たことがございます。
下手な人がたくさんいてこそ、一握りの上手い人がいる。どんな芸能でも、裾野が大事なのですね・・・。

より以前の記事一覧

2017年9月
          1 2
3 4 5 6 7 8 9
10 11 12 13 14 15 16
17 18 19 20 21 22 23
24 25 26 27 28 29 30
無料ブログはココログ