3 オペラあれこれ

2019年9月 9日 (月)

《ランスへの旅》あれこれ

《ランスへの旅》は、フランス国王シャルル10世の戴冠を祝うために作られたオペラで、最後の場面はシャルル10世への讃歌となるため、現代人とは何の関係もなく、演出に苦心するところである、というようなことが言われたりします。
しかし、ワーグナー作曲のオペラの中にも「ドイツ万歳」という結末を迎える作品がありますし、他にも「(キリスト教の)神を讃えましょう」というような、多くの日本人にとって何の関係もないオペラもいくつか存在します。
イタリアに行ってたくさんの絵画を見て回りますと、そのほとんどが「キリスト教」か「ギリシャ神話」を題材にしたもの、あるいは「貴人の肖像画」が多いのです。私の生活には関係のないものです。そして、誰もが美しいと感じるはずの花鳥画は実に少ない。しかし、私はキリスト教徒ではないのにもかかわらず、イタリア絵画を楽しむ能力を持ち合わせているのです。それはイタリア人からすれば不思議なことだろうと思います。一番肝心な点を抜きにして、でも充分に作品を楽しんでいるのです。

能楽、文楽、歌舞伎を見ておりますと、仏教を信仰する心がないと肝心のところは理解できないだろうと感じます。しかし、肝心のところが理解できていなくても、結構楽しめてしまうのです。日本人は結構楽しんでしまいます。

ヨーロッパ各国の貴族が集う物語を、日本人歌手だけで演じる不思議な公演《ランスへの旅》。むかしの日本のオペラ歌手は、西洋人を演じるために化粧、鬘などで必死に変装しようとし、「それが面白かった」とも言えますし、他方で「それがかえってもの寂しい雰囲気を醸していた」面も否めない。現代のオペラ歌手、歌手だけでなくストレートプレイの俳優も含めて、日本人はそういうことをあまり、しなくなった。そのまま舞台に出てきて普通に外国人を演じている。私はむかしの舞台を知らないので、よく分かりませんが、フランス人らしさ、ドイツ人らしさ、ロシア人らしさ、イギリス人らしさ、そういうものを表すのは主に「衣裳」の役割となったのでしょうか。

《ランスへの旅》では、大勢の歌手が出てきて歌唱を競うわけですが、最も難しい役はドン・プロフォンドではないかと私は思うのです。この人の歌うアリアは、まだランスへ行けると思っていた時間の高揚感が込められており、たいへん美しい歌ですが、前半は各国の特徴を早口で歌い分ける技巧的なものとなっています。蘇演にあたってこの役を再創唱したルッジェーロ・ライモンディの録音が残されていますが、よくぞこれだけ歌い分けたと深い感銘を覚えます。本当に信じられない名演です。歌唱の力だけで国を歌い分けるなんて。

教会が国王に冠を授けることを祝う特殊なオペラ《ランスへの旅》は、1825年、一時的に王政が復活した特殊な状況下のフランスで初演され、その後1984年まで上演されなかった。現在では、ヨーロッパ各国で上演されており、共産国であるロシアでさえも上演されているわけですが、劇中に参加していない国でも上演されているものなのでしょうか?推測ですが、イスラム教の国々ではまず上演されないと思うのです。中国でも上演されなさそうです。共産主義のロシア人は、このオペラの結末をどのような気持ちで鑑賞するのでしょうか。

日本人による《ランスへの旅》は、非常に珍しい花なのではないかと思ったのです。ヨーロッパ人が見たら、きっと驚くでしょう。

2019年8月16日 (金)

おおグローリア

プラシド・ドミンゴが「おお、我が栄光よ!」と歌う声が何度も聞こえて来る気がする今日この頃です。暑いですね。いかがお過ごしですか。

ドミンゴのセクハラのニュースが今月13日に出たわけですが、その記事はほんの数行でした。これではよく分からない。日本語のニュースでは、セクハラで告発されたということぐらいしか分からないですよね。
情報の発信元であるAP通信の記事では、かなり具体的に詳しく書かれています。でも英語では読めないのでござる。

被害を訴えた女性の1人は言う。ドミンゴとは2度セックスし、そのうちの1度はロサンジェルスのホテルだった。ドミンゴは先に立ち去る時、棚の上に10ドル置いて、こう言った。「僕は君に娼婦のようだと感じてほしくない。けれどまた、君に駐車料金を払わせるわけにもいかない」
※10ドル=約1,060円


君の運命を変えてあげよう


東京文化会館と新国立劇場とで制作した≪トゥーランドット≫は、びわ湖ホールでも上演されたのですが、その2日間公演の1日目に停電が起こったのだそうです。第2幕の謎解きの1問目だったそうです。そこから観客はロビーに出され、1時間以上が過ぎてから、舞台装置が動かぬまま再開されたそうな。そうして翌日の公演も舞台装置は止まったままで、トゥーランドットは第1幕には登場しなかった(!)そうですよ。
すぐに、「びわ湖ホールで停電、上演中のオペラが一時中断 原因は調査中」というニュースがインターネット上に出たのですが、その後の調査結果などがニュースにならない。まだ調査中なのでしょうか?

日本のニュースには知りたいことが書かれていないことが多い気がする。

2019年8月 4日 (日)

リューの死はトゥーランドットのせい

新国立劇場で《トゥーランドット》が上演されて、「もともと納得のいかない話だった」というような感想を書いている人が何人かいて、ビックリしました。取り分け、カラフのことを悪く書いている人が多かった。(多いと言ってもほんの数人であり、見た人の1%にも満たないと思いますが)
「リューを死なせたくせに」
「多くの人の命を危険にさらして」
「女なんて強引にすれば落とせると思っている」
など、「勝手なカラフ」という感想がいくつか見受けられました。
カラフのアリア「誰も寝てはならぬ」は、オペラ屈指の人気曲だと思っていたので、カラフのことが嫌いな人がいるのを知って驚きました。
私はカラフという役はもともと好きですけどね。
恋のために命を懸ける男という設定がロマンチックではありませんか。
多くの人の命を危険にさらしているのはトゥーランドットであり、リューが死ぬのもトゥーランドットのせいだと私は思っていましたけど。違うのでしょうか?
確かに、カラフが諦めれば誰も死なずにすんだのでしょうけれど、「誰も寝てはならぬ云々」と命じたのはあくまでもトゥーランドットですから。酷い女ですよあれは。氷のような女です。

カラフも初めはトゥーランドットのことを許せないと憤っていたのに、見たら好きになっちゃったんですよ。リューも一度微笑まれたらカラフのことを好きになっちゃったんです。そんなものでしょう。自分で考えて決めたのではない。別の人を好きになっていたら、楽な別の人生があったのに。

ユーミンの歌の中に「誰か不幸にしても 熱い気持ちは止められない」というフレーズがありました。(『紅雀』)
誰か不幸になるなら人は恋を諦めるでしょうか。
二つは選べない。

「カラフは嫌い」という人は少数派だと思いますけどね。って言うか、そういう人は《トゥーランドット》は見ないのでは?
カラフの恋が叶わない演出だと、「ざまあみろ」と思うわけですか?
よく分からない。

カラフは自分から謎を1つ出すわけですが、「自分が負けたら死にます」と言って、「勝ったらどうしろ」とは言っていない。(勝つのはすでに勝っています)

私は初めて《ラ・ボエーム》を見た時、「恋ってこんなに簡単に始まるんだなあ」と思って衝撃を受けました。
私は初めて《トゥーランドット》を見た時、「愛ってこんなに難しいんだなあ」と思って衝撃を受けました。
(両極端)

あなた、恋のために命を懸けますか。
それとも、命のために恋をやめておきますか。

「愛とは情熱ではなく関係のことである」ということを、むかし伊丹十三が本に書いていたのです。
恋とは一方的で、自分勝手なもの。
しかし、愛という特別な関係を築くために、その情熱は必要なものであるでしょう。

蝶々さんもカラフも、欲しい愛が手に入らなければ命はいらなかった。
欲しい愛が手に入らなくても、人生は生きる価値があるだろうか。

欲しい愛が手に入らなくても生きていく、というオペラがあったなら、私は見てみたい。

2019年5月 6日 (月)

オペラと拍手

オペラ《ラ・ボエーム》を見ておりますと、第1幕の最後の部分で、まだ音楽が続いているのに、拍手が入ってしまうことがよくあります。この部分の音楽は、冬のパリの月夜を感じさせる情緒豊かな美しい音色で、拍手で聞こえなくなってしまうことが大変残念なところです。
しかし、主役2人が去って行って、幕が下り始めたならば、拍手が起こってしまうのもまた無理からぬことです。

生で見ていて拍手が起こると、あの美しい音楽を聞けないのがもう本当に残念で、周りの観客を恨んでしまったりすることもありますね。
しかし、せっかく美しいものを見に来ているのに、そこでマイナスの感情を呼び起こしてしまうのは、全く馬鹿げたことです。

そこで演出家の取れる対策として、「音楽が終わるまで幕を下ろさず、第1幕は暗転で終了させる」「舞台上にプッチーニの亡霊役が現れて、観客に向かって『シーッ』というポーズを取る」などの方法が考えられます。

どの録音だったか、観客の中の1人が客席中に聞こえるように「シーッ」と言い放ち、鳴り始めた拍手をやめさせる録音を聞いたことがありますね。
「演出家が客席にそういう人を仕込んでおく」という手も考えられます。
※あまり美しくない

ところで先日、VHSビデオテープをもう捨てようと思って、英国の王立歌劇場の《ラ・ボエーム》を見ておりましたら、第1幕の幕切れに拍手が起こりませんでした。しかも、「冷たい手を」にも「私の名はミミ」にも、第3幕のミミの「さようなら」の後にも、すなわち劇中では1度も、全く拍手が起こらなかったのです!こんなのは初めて見ました。別に歌が悪かったわけではなく、《ラ・ボエーム》の映像としては極上の部類に入るものなのに。

そう言えば、こんな話を読んだことがあります。ドナルド・キーン氏が初めてマリア・カラスを生で見た時の話です。場所はロンドンの王立歌劇場。
自分の席にたどり着いて、最後まで観たのですが、観客の多くが熱狂する中で、私の隣の男の人は片手で自分のもう一方の腕をたたいているだけでした。私が「素晴らしいと思いませんか」と聞くと、その人は「いや、これは今まで観たオペラで一番よかったですな」と言うんです。典型的なイギリス紳士というのはこういうものかと思いましたね(笑)。
『マリア・カラス 世紀の歌姫のすべて』(1997年、共同通信社)よりp44

マリア・カラスに関する本で、カラスが「なぜ拍手が起こらなかったのかしら」と気にした、という記述をいくつか読んだことがあります。1952年の《ノルマ》の「清らかな女神よ」の後と、1964年の《トスカ》の「歌に生き、恋に生き」の後、どちらもロンドンでの公演の逸話でした。
(何の本に書かれていた逸話だったのか、パッと本が出てこないのですが、私はもう頭がボケているんですね・・・)
ロンドンの客はあまり拍手をしないのかなと思いました。

オペラでもバレエでも、ドラマの最中に拍手が入るのは不思議なものですよね。作品にもよるでしょうけれど。

《椿姫》の第1幕のアリア「そは彼の人か」の後に拍手が入ると、ドラマが途切れてしまいますよねえ。
拍手が入った場合の演技と、入らなかった場合の演技と、歌手は2種類の演技を準備しておく必要があるでしょうね。難しいものですね。

そういう拍手って、作品を知らない、初めて見る人がしてしまうわけでしょう。初めて見るくせに上演の最中に拍手をするのって、すごい度胸だよなと思う。

エディタ・グルベローヴァがサントリーホールのリサイタルで「偉大なる王女様」を歌った映像をよく見るのです。「偉大なる王女様」は、長い歌の終盤に高音を決めるところがあり、これでアリアが終わりなのかな?と思うのですが、グルベローヴァは「まだ終わりじゃないの」という「客に拍手をさせない演技」をして歌を続けています。そして本当に終わる瞬間にパッとお辞儀をして、客席は熱狂的な拍手。実に見事で、偉大な歌手は観客の拍手までコントロールできるのかなあと思いました。

拍手という習慣はむかしの日本にはなかったものであり、明治以降に日本でも取り入れられたのだそうです。
能楽や歌舞伎の公演で拍手が呆気ないのも、また風情があるものです。

2019年3月25日 (月)

あなただけよ

モーツァルトのオペラには、よく「恋愛の相手は誰でもいい」という柔軟な考えの人物が登場しますが、その一方で「この人でないと駄目」というような、意固地なキャラクターもオペラにはよく登場します。ウェルテルはその代表格。

新国の《ウェルテル》を見た人に感想を聞いたところ、「ウェルテルの気持ちが全く理解できない」という人がいました。「ソフィーのほうが可愛いのに」と言っていました。それを聞いて、きっとこの人は、「この人でないと駄目」という種類の恋をしたことがないのだろうと思いました。

別の人の感想では「シャルロットが許せない」というのがありました。「変に気を持たせるところが許せない」のだそうです。きっとこの人は、「この人でないと駄目」という種類の恋しかしたことがないのだろうと思いました。

シャルロットは、実はウェルテルのことが好きだったらしいけれど、現実には母親の決めた婚約者アルベールと結婚した。つまり「アルベールでないと駄目」というわけではなかった。母親が別の人を指定したら、別の人と結婚したのだろう。

結局、どちらが幸せなのだろう?

主人公の猛アタック

新国で《ウェルテル》を見ていて、主人公の押しの強さに改めて驚いたところです。
ほぼストーカーって言うのか・・・。
少しは相手のこと考えてるのかな?
すごく自分に自信がある感じですよね。
「彼女の母親が決めた婚約者さえいなければ」という設定でした?
(そんな話でしたっけ??)

先日、シアターオーブで「パリのアメリカ人」というミュージカルを見て来ました。
ジーン・ケリー主演の昔の同名映画とは、ずいぶん趣きの異なる内容でした。
パリに住んでいるアメリカ人の役を日本人が演じるという、なかなか想像力を必要とする作品。
しかし舞台というものは男が女を演じたり、女が男を演じたり、若者が老人を演じたり、要するに自分でない者の人生を生きるのが演技というもの。
でもパリらしさとかアメリカ人らしさは、今回の演技からはあまり感じられなかったですねえ。
アメリカ人らしさと言えば、主人公の押しの強さがアメリカを感じさせました。
好きな女性に猛アタック。
相手もその気があったからいいけれど、そうでなかったら大変ですね。
(そうでないことのほうが人生では多いのでは・・・)

「押しの強い主人公が、好きな女性に猛アタック」と言えば、「ニューヨーク・ニューヨーク」という映画がありました。
一応、ミュージカル映画に分類されるのでしょうか。
あまりの猛アタックに開いた口が塞がらない。
ところでこの映画、ライザ・ミネリの歌唱力が素晴らしいです。
私もいろいろなミュージカル映画を見ましたが、当然ながらオペラに比べるとだいぶ歌唱力が劣ります。
ミュージカルで「この歌手はすごい!」と私が思ったのは、ライザ・ミネリとネイサン・レインくらいですかね。
あとは「野郎どもと女たち」のマーロン・ブランドは総合的に上手いと思いました。
「ニューヨーク・ニューヨーク」は、とても切ない終わり方をするのですが、特典映像として「ハッピーエンド版」のテイクがDVDに収録されていました。「いやあ、この話でハッピーエンドはないだろう」と思いました。

私の好きなミュージカル映画に「スイート・チャリティ」というのがあるのですが、この作品はあんまり有名じゃないですね。
すごく悲しい結末なんですけど、このDVDもなぜか特典映像として「ハッピーエンド版」が入っているのです。
「そのハッピーエンドはあり得ないだろう」とツッコミを入れたくなるところですが、出資者を納得させるために撮影しなくちゃいけなかったんですかねえ?

2019年3月24日 (日)

老いたウェルテルの悩み

何だかもう、ウチのパソコンがそろそろ駄目みたい・・・。

先日、新国立劇場で《ウェルテル》を見てきたのです。
《ウェルテル》を見るのは3度目でした。
最初に見た時はとても小さな会場で、ピアノ伴奏形式でした。その公演の前後で原作小説も読みました。
2度目は新国で、ディミトリー・コルチャックがウェルテル役を歌った時です。こんな二枚目が叶わぬ恋で自殺をするのなら、世の不細工たちはどうやって生きていけばいいのだろうか、それを示すオペラこそが望まれているのではなかろうか・・・などと思いました。

拳銃で自殺する時に、胸を撃つ人って、いるものなのでしょうか?
拳銃で死ぬなら、やはり頭ではないでしょうか?苦しまずに死ねそうだもの。
死ぬことを決めてから、本当に死ぬまでの最短距離を狙うなら頭。胸ではない。
でも頭を撃ったらもう歌えない・・・。(オペラ的制約)

ウェルテルが胸を撃ってから死ぬまでの時間を計っていた人がいて、約15分だったそうです。
勘平さんだって、腹を切ってから死ぬまで長いじゃない?って言ったら、勘平は5分くらいだそうな。
塩谷判官でも10分くらいだって。
(切腹はなかなか死なないそうだから、別に不自然ではない)
ウェルテル長すぎじゃない?

しかもその間に「実は私も好きだったんです」みたいなハッピーエンド要素が盛り込まれていたりして・・・。
自殺はするけれど、神を否定はしない。
キリスト教では自殺は罪なのだそうですが、それは聖書に書かれているのでしょうか?
教会が勝手に言っているだけなのでしょうか?

日本では自殺は別に罪ではないでしょう。
お気の毒に、と思います。
でも死ぬ場所は選んでほしいですよね。

ウェルテルが死んだ本棚の部屋、あれはどこなのかと思ったら、ウェルテルの家の中らしい。
なぜ子供たちの歌声が聞こえてくるのだろう?

2019年3月 2日 (土)

AIロボットとオペラ

きのう、新国立劇場の記者会見に行ってきたのです。正面入口から入って、よくウェルカムフラワーとかクリスマスツリーが置いてあるあたりで行われました。
2020年の夏、オリンピックとパラリンピックの間の期間に、新国立劇場で「AIロボットが登場する新作オペラ」が上演されるのだそうです。100人くらいの子供合唱団が登場して、AIロボットと交信するというような内容で、台本はすでに出来上がっているとのことでした。でも内容は秘密だとかで、タイトルさえ発表されませんでした。
台本は、オペラを書くのは3作目だという島田雅彦さん。作曲は渋谷慶一郎さんだそうです。
渋谷さんは、初音ミクによるボーカロイドオペラ《THE END》を作曲した方です。《THE END》は、オーチャードホールやパリ・シャトレ座で上演されて話題になりましたが、私は見ませんでした。
新国の新作オペラに登場するAIロボットは、新国の新作オペラのために開発されたものではなく、別のプロジェクトですでに開発が進められていたもので、「オルタ3」という名前が付いています。(「オルタさん」ではなく「オルタスリー」です)
新国より先にオルタ3が登場する《Scary Beauty》というオペラがもう出来上がっていて、この3月にドイツで上演されるのだそうです。
きのうの記者会見では、《Scary Beauty》をごく短くアレンジした作品(?)が実演されました。中劇場へ向かう階段に、数十名のオーケストラが並び、渋谷慶一郎さんがピアノの演奏。そして、最前列中央にオルタ3がセットされていて、後ろを向いて指揮をするのです。オルタ3の指揮に合わせてオケが演奏を始めると、しばらくしてからオルタ3がこちら側を向き、指揮をしながら歌い始めたのでした。
近寄って見たわけではありませんが、オルタ3は台に固定されているので、前後左右には動きません。でも上下に体を揺すりながら、両手で指揮をしていました。そして、さまざまな色の照明が当たっていました。
新国の新作オペラは、まだ作曲されていないので、どんな作品になるのか分かりませんが、オルタ3が出演することは確定だそうです。
オルタ3は、いかにもロボットという風貌で、いかにもロボットという動きをして、いかにも電子音という声で歌いました。(「歌いました」と言っても、どこから音が出ているのかよく分かりませんでしたけれど)
私は、もっと人間に近いロボットが出てくるのかと予想していたのですが、逆に「ロボットらしさ」がないと、ロボットが登場する意味がないのかもしれません。わざとロボットらしく作ってあるようでした。
そして曲調はオペラというよりポップスという感じで、歌詞は全く聞き取れませんでした。

この手のロボットと言ってすぐ思い浮かぶのは、「米朝アインドロイド」です。上方落語の桂米朝の録音に合わせて、ロボットが動くというものでした。「どこまで米朝に似せられるか」という明確な方向性がありました。

「アンドロイド」と言うと「人間そっくり」、「ロボット」と言うと「そうとは限らない」という印象がありますが、どうなのでしょうか。

ユーミンの歌は、そのうちユーミンロボットが歌うようになるっていう話があるじゃないですか。旦那の松任谷正隆さんは、機械をプログラミングして何でも好きな音を出せるらしいですよ。楽器がなくても楽器の音が出せるし、楽器以外の音も作れちゃう。ユーミンの声はもともとSFっぽいと言うか、本当にロボットが歌う時代が来るんじゃないかと思う。本人より上手いかもしれない。そしてAIがユーミンの新曲を発表して、コンサートもロボットでやりそうな気がする。

AIロボットが歌うオペラと聞いて、私はオルタ3とは全く別なものを想像していたんです。映画『フィフス・エレメント』でインヴァ・ムーラが歌った、ルチアの変奏曲みたいなイメージです。よく知りませんが、あれは人間の声を電気的に細工しているのではありませんか。
音程を変えたり、音色を変えたり、機械で声を加工できる時代です。
つまりロボットには、「私はこの音は出せません」という声域の制約がないのでしょうから、ソプラノの音域からバスの音域まで1人で歌うことが出来るでしょう。そして、どんなに細かい音符でも、半音階スケールでも、3連符の連続でも、トリルでも、正確無比に歌い切ることが出来るでしょう。
そのような、人間には出来ない技術を持ったロボットに合わせて特別に作曲されたオペラなら、誰も聞いたことのないオペラが出来上がるでしょう。
そういうものを想像していたのですが、どうやら違うみたいでした・・・。

2019年2月25日 (月)

ダブル高田

新国立劇場の《紫苑物語》で主役を歌った髙田智宏さん。プロフィールを読んでいて、あれ?この人、新国のオペラ研修所出身だと思っていたのに、・・・違っていた。何でそんな思い違いをしたのだろう。

と不思議に思っていたら、同時期に上演されていた二期会の《金閣寺》に高田さんが出ていた。この人、《紫苑物語》と《金閣寺》に掛け持ち出演してた!?と驚いてよく見たら、高田智士さんという、似た名前の別の人だった。そして、こちらの方がオペラ研修所出身だった。

顔があまりに似ていて区別がつかない・・・。

(私は《金閣寺》は見ていません)

2019年2月18日 (月)

オペラ公演の男性率

新国立劇場で、日本製の新作オペラ《紫苑物語》が初演されました。
パラパラとプログラムをめくっていたら、スタッフの男性率がすごく高くて、ちょっと驚きました。歌手なら圧倒的にソプラノが多いはずなのに、オペラの世界って意外と男性社会なのかなと思いました。

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