3 オペラ・映像 録音の感想

2019年4月30日 (火)

オペラの映像

10連休の真っ只中、いかがお過ごしですか?

VHSのビデオテープを「見て→捨てる」という作業をしたいと常々思っているのですが、なかなか実行できません。この連休の機会に、いくつかビデオを見ました。

まず《スペードの女王》を見ました。2005年6月、パリ・オペラ座の公演。
《スペードの女王》は10年以上前、ひょっとして20年くらい前?映像で1度見たことがあり、それ以来でした。
ストーリーはすっかり忘れていたのですが、もう本当に意味不明でしたね。今回見た映像では、場面設定が「病院の中」で、主人公が冒頭から精神を病んでいるんです。またヘンテコな読み替え演出かと思ったら、べつに歌詞と違うことをしているというわけではなく、セリフに合ったことをしているだけに見える。つまり元の話が変なんです。全員がずっと「狂乱の場」を歌っているみたいな雰囲気。
主役のガルージンは強靭な喉を聞かせていて、すごいんですけれど、長い髪の毛が汗に濡れて乱れていて、狂った演技がホラーチック。怖い。
チャイコフスキー作曲のロシア物なので、当然ロシア語で歌われるのですが、婆さんが若い頃を思い出して昔フランス社交界で歌った歌をフランス語で歌う場面があった。パリ・オペラ座の客には、そういう場面が楽しいのかもしれない。
ヨーロッパの貴族は国を越えて交流があり、母国語以外に必須言語があったそうですね。どの言語が必須なのか、地域によって当然違ってくるでしょうけれど。ロシア語の歌とフランス語の歌、気を付けていないと切り替わったことを知らぬまま過ぎてしまいそう。

そして《ラ・ボエーム》の映像を2本見たんです。片方はBSの録画、もう片方はCSの録画でしたが、字幕はほとんど同じでした。
第1幕のミミの登場シーンで、ロドルフォが「ウナ ドンナ Una donna!」と言います。この部分の字幕は「女だ!」では感じが悪いし、「女性だ!」では不自然ですし、「女の人だ!」と訳されることが多いのですが、「女の子だ!」じゃ駄目なのでしょうか?
第4幕で、ミミが死んでいることに気付いたショナールが「エ スピラータ è spirata...」と言います。「死んでるぜ」では感じが悪いし、「息を引き取ってるぜ」と訳されることが多いのですが、「息してないぜ」でどうでしょう?(他にも何か洒落た字幕を見たことがある気もしますが・・・)
「ブドウ酒」とか「腕輪」などの言葉、今どきの字幕でも使っているのでしょうかねえ。(私は嫌いじゃないけれど)

シコフとコトルバシュが主演したコヴェントガーデンの《ラ・ボエーム》を見たのですが、さすがイギリスは演劇の国だなあと思いました。第4幕でムゼッタが部屋に飛び込んで来るところ、ムゼッタとマルチェッロが一瞬だけ目を合わす場面があって、2人の「会っていなかった時間」みたいなものが凝縮されているように感じたのです。
このロイヤルオペラの映像は全体的に良かったですね。


イギリスって、何でイギリスって言うのかなと思ったのです。イギリスのことをイギリスと呼ぶのは日本くらいじゃないかと思って。
ウィキペディアによれば、ポルトガル語の「イングレス」が語源なんだそうな。なぜポルトガル経由なのかと不思議に思いますが、ポルトガルはキリスト教の布教に熱心だったから、アジア地域にいち早く西欧の事物を運んだのかもしれない。

2018年7月 8日 (日)

テアトロ・レアルの《カルメン》

《カルメン》の最後のほうでホセが「あんなに愛し合っていたじゃないか、あの時を思い出してくれ」みたいなことを言うと思うんですけれども、ホセとカルメンがアツアツだった時期って、一体どこの場面のことなのだろう?

そして、劇中では「ホセ」ではなく「ジョゼ」と発音されていると思うのですが、なぜ日本では「ホセ」というのだろう?カルメンを見ていると、いつも不思議に思う。

先日、テアトロ・レアルで上演された《カルメン》の舞台映像を見て来ました。新国立劇場で無料で上映されたのです。(事前申し込み制)
プロダクションとしては、パリ・オペラ座で上演されたものと同じ演出だったらしい。
あまり予算がない感じだったのと、とにかく下品だったのが印象的でした。
まあ、もともと上品な話ではないわけですが、舞台上でホセがズボンのチャックを下ろして、そのまま●●●●を始めそうな勢いでしたから(っていうか、してた?)

オペラの照明って、綺麗じゃないことが多いですね・・・。

《カルメン》は、それほど好きな演目というわけではないのですが、ときどきすごく興奮することがありますよ。ウィーン国立歌劇場でクライバーが振ったゼッフィレッリ演出の舞台映像なんて、見ていてゾクゾクしますね。「良き時代のオペラ」という感じがします。しかし、カルメン役を歌ったオブラスツォワが、リーリャス・パスティアの酒場の場面で、音程もテンポも外しているのが残念です。太っているし、踊れるわけでもないし、なぜ選ばれたのだろう?
あの演出がそのまま見られるなら、ウィーンに行きたいくらいだなあ。

2018年6月12日 (火)

東敦子の蝶々夫人

東敦子(あずま・あつこ)さんが1973年に東京文化会館で演じた蝶々夫人の映像を見ました。奇跡的に発見された映像だそうで、昨年末にDVD化されたものです。
「世界一の蝶々さん」という触れ込みだったのですが、まあ宣伝文句に違わぬ見事な蝶々さんでした。振袖の袂の扱い、お引きずりの裾さばき、扇や煙管の扱い、これだけの演技ができる日本人ソプラノはもう存在しない。
私がオペラを見始めて20年、日本人ソプラノが歌う蝶々さんも何回か見ましたが、年を経るにつれてどんどん演技が下手になっています。特に、歩き方や、こわばった指先の形が不自然。下手さの形式が誰も似ていると思う。同じ人から教わるからなのでしょうか?外国人の演技とさして変わらない感じです。日本人ソプラノの下手な蝶々さんを見ていると「日本人のくせに」と思ってしまうので、むしろ外国人の蝶々さんのほうが良いと思うこともあります。

八千草薫さんの演じる素晴らしい蝶々夫人の映画も見たことがありますが(声は別の歌手のもの)、あれは映画的な演技でした。東さんの演技はもっと誇張された舞台用の演技で、前もって計算され尽した名人芸という印象でした。愛の勝利を叫んで泣くところなんて、まるで新派みたい。こんな演技ができるソプラノがかつて存在したんだなあと新鮮でした。
現在の日本文化の土壌を考えると、もう今後このような蝶々さんが現れることはないでしょう。ある特殊な時代に一時的に現れて永遠に失われた伝説の蝶々さん。

でも蝶々さんの衣裳は私の好みではなかった。これまで蝶々模様の打掛が美しかった試しがない。
歌舞伎の衣裳でも、白玉の俎板帯の蝶々は全然綺麗と思わない。でも八ツ橋の蝶々は綺麗。五郎の蝶々もいいなと思う。蝶々の着物は難しいんですね。
第2幕の蝶々さんは、どうしてみんな濃い紫の着物を着るのだろう?まだ18才のはずなのに、おばさんっぽくなりません?

脇役の歌唱がかなり低水準な感じでした。昔の日本のオペラ公演はこんなだったんですかね・・・。

東さんは、目がキョロキョロする点だけちょっと気になりますね・・・。

奇跡的に発見された映像ということなのですが、これだけの映像がなぜ眠っていたのか、そしてなぜ発見されたのか、興味深いところです。

国立劇場の倉庫は、何がどこに保存されているのか誰にも分からない、まさに死蔵。新国立劇場ができて国立劇場の予算が大幅に削られる時、真っ先に削られたのが調査養成部門の事業でした。

早稲田大学の演劇博物館は、自らの所蔵作品をインターネットで検索できるようにデータベース化し、活用されていて素晴らしいと思います。

2014年4月29日 (火)

八千草薫『蝶々夫人』

八千草薫主演のオペラ映画『蝶々夫人』を見てきました~。以前から存在は知っていたのですが、初めて見ました。いや~、素晴らしかった!
オペラの演奏が始まる前に、長崎の遊廓の様子を描いた短い場面があり、蝶々さんとピンカートンの馴れ初めが描かれていました。ピンカートンはイタリア語で、蝶々さんは日本語で喋っていたかな・・・。
オペラの演奏が始まると、そこから八千草さんはずっとイタリア語の口パク。セリフが入ったりはしません。知らない歌手の録音でしたが、演奏もなかなかのものでした。(映像は八千草薫、声はオペラ歌手)
着物を着た演技というものが、脇役までビシッと美しくて、こんな映像はもう2度と作れない。芸者の踊り1つ取っても、「すでに失われた日本の美」という感じでした。
蝶々さんが婚礼のために行列を作って日本庭園を下りてくる場面は、あまりの美しさに涙が出ました。
ちょっと不可思議な音楽のカットが入っており、その点だけが残念でした。愛の2重唱の一部とか、「物乞いになるくらいなら死ぬわ」と歌う場面がカットされていました。どうしてそんな少しばかりカットをするのやら・・・。戦後のことで、いろいろ制約があったのでしょうか。(1955年公開映画)
全編ローマで撮影したそうですが、よくこんなセットを作れたなあ・・・。
外国の方々にも、この映画を広く見てもらって、《蝶々夫人》の美の規範としてほしい。真似できないだろうけど・・・。

2008年7月10日 (木)

バルトリのコンサートDVD

●バルトリのコンサートDVD(「マリア~バルセロナ・コンサート2007」)を見よう…と思ったら、何と日本語字幕が付いていないではありませんか!2枚目のドキュメンタリーDVDには付いているのに。どういうことなのでしょうか…。付属のブックレットに対訳が載っていますが、映像を見ながらなんて読んでいられませんよね。字幕を入れるのって、そんなにコストがかかるものなのでしょうかねえ。日本語字幕を入れないなら、輸入盤とさして変わらないのでは?意図が分からない。

●取りあえず、何曲か聞いてみました。《チェネレントラ》、《オテロ》、《夢遊病の娘》、「ラタプラン」、《計算ずくの詩人》。最高に素晴らしい。

●《チェネレントラ》のアリアは、前回の来日コンサートでも歌いましたが、あの時はわりと、サラッと歌い流していた印象でした。この映像では、とても表現豊かに歌っています。シャイー指揮の全曲CDより更に深くなったように思います。私は幸運にも、昨年の大晦日、チューリッヒ歌劇場でバルトリのチェネレントラを見ることができましたが、この映像とだいたい同じような歌唱だったと思います。ただし、チューリッヒでは最後の高音にトリルは付けていませんでした(この映像では付けています)。バルトリのトリルって、いつも不思議なのですが、ちゃんとトリルになっているのでしょうか…。

●《夢遊病の娘》のアリアは、もう少し前のレチタティーヴォの部分から歌ってほしいところなのですが(歌詞が素晴らしいので好き)、この映像では、ああ信じられないAh! non credea mirartiから歌っています。カヴァティーナとカバレッタの繋ぎ方も、ちょっと不自然な感じがします。しかし、バルトリの表現力、技巧の冴えがたっぷり楽しめました。いま歌っているのが、悲しい内容なのか、楽しい内容なのかさえ分からないような歌手も多い中、バルトリは声の色だけでもそれが伝わってきます。ソプラノが歌う時のような超高音は出てこないわけなので、高音フェチの私にはちょっと物足りないかも、なんて心配もありましたが、出すべき高音は出していますし、逆に低音の装飾音に格別な味わいがあり、聞いていて興奮しますね。必聴だと思います。

●オーケストラには指揮者がいない形。珍しいですね。メリハリがあって、盛り上がっています。会場のカタルーニャ音楽堂も美しい。こんなのが見られるなんて、ちょっとスペインが羨ましいです。

2008年6月20日 (金)

日本ロッシーニ協会 例会

日本ロッシーニ協会 例会

映像鑑賞《エルミオーネ》

虎ノ門・オカモト屋ビル4階会議室

2008年6月15日(日)13時30分

講師:千代田晶弘

●今年の夏、ペーザロのロッシーニ・オペラ・フェスティバルで上演される《エルミオーネ》の予習会でした(私はペーザロには行きませんが…)。映像素材は1988年にマドリッドで上演されたもの。主な配役は、

エルミオーネ:モンセラ・カバリエ

アンドロマカ:マルガリータ・ツィンマーマン

ピッロ:クリス・メリット

オレステ:ダルマシオ・ゴンザレス

指揮:アルベルト・ゼッダ

演出:フーゴ・デ・アナ

とにかく、「予習でこんなすごい映像を見ちゃっていいの?」というくらいの名演でした。特にメリットが素晴らしかった。彼の全盛期の映像らしいです。

●ロッシーニの作品は、台本が納得しづらいものも多いのですが、ラシーヌの悲劇を原作としているだけあって《エルミオーネ》は、なかなか良さそうな感じでした(日本語字幕のない映像だったので、何とも言えませんが…)。ラシーヌの原作『アンドロマック』では、登場人物それぞれに見せ場が用意されていますけれども、ロッシーニの《エルミオーネ》は、エルミオーネとピッロにフォーカスしているようですね。

●ラシーヌの『アンドロマック』は以前読んだことがありますが、とても面白い戯曲でした。ロッシーニ《エルミオーネ》の台本は、ほとんどラシーヌに準拠しているらしい(?)ので、ぜひお読みになると良いでしょう。

●《エルミオーネ》は、片思いの連鎖の物語です。

オレステはエルミオーネが好き

  ↓

エルミオーネはピッロが好き

  ↓

ピッロはアンドロマカが好き

  ↓

アンドロマカはエットレ(故人)が好き

そして、アンドロマカにはアスティアナッテという幼い息子がいるのでした(亡きエットレの忘れ形見)。で、エルミオーネとピッロは婚約しているのでした。みんな、叶わぬ恋に苦しむのでした。それでもってエルミオーネは、「本当に私のことを好きなら、ピッロを殺してきて!」とか、「何で殺したのよ!あの時は気が動転していただけよ!それくらい分かりなさいよ!」とかってオレステに言うのでした。

●オレステはアガメムノンの息子なのですが、この世代まで来るともうギリシャ神話とは言わないのかな…。よく分からない。一応、ギリシャ神話くらいは一通り知っておくべきかな~とはいつも思うのですが。

●これは前にも書きましたが、好きな人が自分に好きになってくれないことを、マイナスの感情に転化させてはいけません。それでは本末転倒と言うものです。仕方のないことなのです。むしろ、そのほうが普通、と思っていてもいいくらいです。これだけ大勢の人がいて、私を好きになって当然、と思う理由がありません。「誰を好きになるのか」という感情は、自分の理性で決められるものではありませんが、しかし「それで、どうするのか」という行動は、自分で決められます。人間たるもの、常に誇りを持って、見苦しくないようにしなくてはいけません。

●ギリシャ神話やギリシャ悲劇なんかは、人間のマイナスの感情を倍増させて表現したりなんかしていて、あけすけなんですけれども、まあ芝居の中では何をしようと勝手ですし、激しくないと劇にならないですからね。そういう極端なものを見る楽しみというのも、あるのではないでしょうか。普通のことは舞台にのせても仕方ありません。

●先日、日本語字幕つきの《エルミオーネ》のビデオを借りることができたので、今度見てみるつもり。面白い詩章だと良いのだけれど。

2008年5月24日 (土)

《連隊の娘》METライブビューイング

ドニゼッティ《連隊の娘》METライブビューイング

2008年5月11日(日)18時30分 品川プリンスシネマ

●《連隊の娘》は、それほど好きな作品でもないのですが、大好きなデセイとフローレスの共演ですから見逃すわけにいきません。METライブビューイングは初めてでしたけれども、ちゃんとした映画館で画面・音響・客席配置が揃っていれば、3500円でも納得できます。品川プリンスシネマは見やすくて良かった。

●最近、《夢遊病の女》→《夢遊病の娘》とか、《アルジェのイタリア女》→《アルジェのイタリア娘》などと、古来のタイトルを変更して表記する場合があります。場合があるって言うか、それをするのは藤原歌劇団だけですけど…。しかし、申すまでもありませんが「女」と「娘」は同じ意味ではありません。《連隊の娘》を《連隊の女》にしたら、どうでしょうか?マリーが回されてしまいます。そういうわけで、《アルジェのイタリア娘》は別におかしくありませんが、《夢遊病の娘》にはとても違和感があります。日常会話で「娘」という言葉を「若い女」という意味で使うことはまずありません。LA SONNAMBULAは《夢遊病の女》で良いのです。もし《夢遊病の女》というタイトルに何か冷たさ、無機的な響きを感じてイヤだというのなら、私であれば《夢遊病の彼女》とでも訳すかな。《夢遊病の娘》じゃ絶対イヤ。ダサいんだもの。

●以前、スカラ座の《連隊の娘》の映像を見たことがあります。デヴィーアが真面目に歌っていて、少しも面白くなかった。で、スカラ座の《連隊の娘》がつまらないのをゼッフィレッリのせいにしている人が少なからずいますが、スカラ座の《連隊の娘》はゼッフィレッリの演出ではありません。ゼッフィレッリが担当したのは舞台装置と衣装であり、演出はフィリッポ・クリヴェッリという別の人です。そして舞台装置だけに関して言えば、今回のMETよりスカラ座のほうが良くできていたと私は思います。METの舞台美術は変化に欠けるし、引きの画面になると上空が寂しい感じでした。

●この作品の中で1番有名なアリアはテノールの「友よ!今日は何て楽しい日」でしょう。ハイC(高いドの音)が9回も出てくるので有名です。しかし私は、自分が普通にハイCを出せるものですから、取り立ててすごいアリアだとは思わないんですよね~。皆様にお聞かせできないのが残念ですが、2点E(ミの音)くらいまで普通に出ます。Fも出るかも。そういう人、日本人には大勢いると思います。ポップス歌手でも、高い音域で歌ってる人いっぱいいますよ。また清元でも常磐津でも、高音はバンバン出てきます。何か、そういう高音部は、山台の端っこに座った「実力は未だしでも高音だけは得意な若手」が担当する決まりになってるみたいですけど…。例えば常磐津の「関の扉〔せきのと〕」でも、「二人が夜もすがら」なんてところは、とても高い音で語られます。前編のクライマックスですから、私なら若造に任せたりせずに自分で語ります(笑)。

●日本人は背の低い人が多いですけれど、背が低い=小柄ということは声帯も短いということであり、高音が得意な人、いっぱいいると思います。しかし、そのような高音の出る人が、オペラ歌手に憧れる可能性は低い。子どもの頃にオペラ歌手に憧れる人が増えれば、日本はテノール天国になると思うのですが…。(テノール天国、なんて素晴らしい天国なのでしょう…。)

●しかし、残念ですが普通の日本人は子どもの頃にオペラ歌手に憧れたりはしません。ここはひとつ、オペラ好きな親御さんたちに頑張っていただいて、お子さんをオペラ歌手へと導いていただきたい(笑)。ものにならなかったとしても、それはそれで別の楽しい人生が開けるのではないかと思うのですが、どうでしょう?

●高音部はつまりクライマックスってことでもありますが、「友よ!」のアリアは高音続きなので、かえって盛り上がりに欠けるきらいがあるように思います。私はむしろ第2幕のアリア「マリーのそばにいるために」のほうが好きかな。フローレスは時間が止まりそうなくらいたっぷり歌っていて最高でした。

●マリーは実家に連れ戻されて、淑女たる訓練を受ける。すっかり身につける。しかし、それがイヤでたまらない。「淑女」と「連隊の娘」という全く異なる2つのキャラクターを行ったり来たりする、それがこの作品の1番面白いところだと思うのです。2つの身分を行ったり来たりする役は、オペラの中によく出てきます。しかし、それを演じられる歌手は現在ほとんどいません。サザランドは見事に演じていました。サザランド主演の《連隊の娘》の映像は実に面白かった。今回のデセイは期待していたほどではありませんでした。「連隊の娘」のお転婆キャラはいきいきと演じていたけれど、「淑女」のキャラはぼんやりしていた。期待しすぎていたのかも。

●演出を現代っぽくすると、人々の身分差が消え去り、みんな同じ地平に立っているような印象になってしまう。貴婦人たちが「マリーは連隊の娘」と聞いて蔑むのも、現代だと「何が悪いの?」って感じです。

●しかしデセイは本当に元気いっぱいに魅力的に演じていました。声の透明度が落ちていくのが気にかかるけれど、歌う女優だから仕方ありません。

2008年5月12日 (月)

《ルチア》ミラノ・スカラ座

オペラ・映像の感想

《ルチア》ミラノ・スカラ座

1992年・ライヴ収録

指揮:ステファノ・ランザーニ

演出:ピエラッリ

演奏:ミラノ・スカラ座管弦楽団

合唱:ミラノ・スカラ座合唱団

エンリーコ(ルチアの兄):レナート・ブルゾン

ルチア:マリエッラ・デヴィーア

エドガルド:ヴィンチェンツォ・ラ・スコーラ

アルトゥーロ(ルチアの婚約者):マルコ・ベルティ

ライモンド(牧師):カルロ・コロンバーラ

アリーザ(ルチアの侍女):フロリアーナ・ソヴィッラ

ノルマンノ(エンリーコの腹心):エルネスト・ガヴァッツィ

●よく分からないのだけれど、かなり歌とオーケストラがずれているんですよね~。特にブルゾン。スカラ座はリハーサル期間を充分に取っている劇場というイメージがあったのですが、そうでもないのかな…?合唱も、それほどレベルが高いとは感じられませんでした。

●通常はカットされることが多いルチアとライモンド(牧師)の二重唱や、嵐の場も上演されていました。カラス・ファンの私には馴染みの薄い場面…。ストーリー上は重要かもしれませんが、音楽的にはやはり一段劣る印象。他の場面があまりに素晴らしいから、ダレ場と感じてしまうのかも。生で見たらそれなりに面白いのかな。(ラ ヴォーチェ公演のとき、自分が見た日は上演されたのか覚えていない…!)

●デヴィーアは、始終冷静なところがあまり好きになれない。狂乱の演技もイマイチですね…。ラ ヴォーチェ公演のときはすごく感動したのですが。

●アルトゥーロ役がマルコ・ベルティ!この役、意外と良いテノールが歌うことが多いですね。将来有望なテノールが歌う役なんでしょうね。

●演出はイマイチ。と言いますか、《ルチア》の演出に満足することって少ない気がします。

●新郎新婦が初夜の床入りの時間に、別室で知り合いが踊ってるのって、どうなんでしょうねぇ…。

●この作品、最初は「あたりは沈黙に閉ざされ」と「狂乱の場」ばかり何度も聞いていたのですが、だんだん第1幕の二重唱が好きになり、エドガルドの指輪取りの場面が好きになり…と、好きな場面が増えてきました。そしていま私は、なんか蛇足っぽいと思っていた「我が先祖の墓」にすっかり夢中。スコーラ程度の歌でもボロ泣き。(一番好きなのはジュゼッペ・ディ・ステファノかな。死に方がうまい。)こんな大規模なテノールのアリア、他にあまりないのではないでしょうか。もう歌詞が美しくてねぇ。剣を突き立ててからのチェロの演奏なんかも最高。歌いながら死んでいく、とっても演劇的なアリアですね。

●そのアリアの最中にライモンド(牧師)が、「神よ、彼をお許しください」って言っていることに、今回初めて気がつきました。つまりエドガルドは、キリスト教で禁止されている自殺をした、罪人なのですね。キリスト教が自殺を禁じているのは、自分を殺すのは他人を殺すのと同じ、自分の命は自分のものではない、自分は生かされている、ってことなのかな…。いえ、よく知らないのですが。ルチアもエドガルドも罪人で、天国には行けないのだろうか、でもエドガルドは「神様が天国で二人を結びつけてくださるだろう」って何度も何度も言っていて、私はボロ泣きしてしまいました。2人はもう充分この世で苦しんだのですから、どうか天国で結ばせてあげてください。

2007年12月 2日 (日)

ナクソス島のアリアドネ

●ついに私は見た、R.シュトラウス作曲《ナクソス島のアリアドネ》の映像を。今まで1度も見たことなかったんですね。歌舞伎だと、有名演目はもうたいてい見ちゃったんですけども、オペラは見ていない作品が山と残っていて、先々楽しみ。「初めて見る楽しみ」は1回しかないですからね(当たり前)。

●まず、グルベローヴァ主演のスタジオ収録版を見て、次にデセイ主演のザルツブルク音楽祭ライヴを見てみました。素晴らしい…。こんなすごい作品だったなんて感激。もっと早く知っていれば良かった…とは言わないことにしよう。こういうのは巡り合わせだから。

●「私たちは偶然島に居合わせた陽気なグループ」っていうセリフに心酔。もう台本作家の才能に惚れ込みました。台本が良いオペラは最高ですね。

●グルベローヴァが自ら1番好きな役と言うだけあって、歌も演技も唖然とするほど、神がかり的な名演。イタリア物より合っているのでしょうね。スタジオ収録なので口パクなのですが、本当に歌ってるみたいに見えるし。それに比べてアリアドネ役のヤノヴィッツはバレバレのリップシンク。ヤノヴィッツが歌い始めると眠くなる…。

●「偉大なる王女様」のアリアだけ何度も聞いたことがあったのですが、これまで意味がさっぱり分からなかった。グルベローヴァのコンサート映像でも見たことがあります。すごく良かったけれど、意味が分からなかった。意味の分からないアリアなのだと思っていた。こんなアリアだったなんて…。同じ言葉が歌われているのに、こんな意味だったなんて…。ホフマンスタール、すごすぎ。

●ザルツブルクの映像は、時代設定を現代に移し変えた「読み替え演出」ってやつでした。前半はツェルビネッタの描き方とか結構面白かったんですけど、後半になったら俄然つまらなくなった。前半と同じセット。楽屋裏と舞台上と変わりばえがしないって、どういうことなんだろう…。読み替え演出って、そういうの多いですね。

●それで、読み替え演出の話ですけれども。セリフと違うことをやってますでしょう。「洞穴」「王女」「魔女」などは、比喩として受け止められるんですけれども、アリアドネとバッカスの最後のやり取りで、神がどうしたとか歌い始めるともう駄目で、「二人狂乱」っていう新趣向だろうか?などと思ったことでした。やっぱり現代演出は私の好みじゃないのかも。デセイの「偉大なる王女様」にも感動できませんでした。グルベローヴァ主演の映像の方が断然面白かったです。

2007年10月22日 (月)

《フィガロの結婚》ザルツブルク音楽祭

オペラ・映像の感想

モーツァルト《フィガロの結婚》

ザルツブルク音楽祭 2006年

フィガロ:イルデブランド・ダルカンジェロ

スザンナ:アンナ・ネトレプコ

伯爵夫人:ドロテア・レーシュマン

アルマヴィーヴァ伯爵:ボー・スコウフス

ケルビーノ:クリスティーネ・シェーファー

マルチェッリーナ:マリー・マクローリン

バルトロ:フランツ=ヨーゼフ・ゼーリヒ

ドン・バジリオ:パトリック・ヘンケンス

バルバリーナ:エヴァ・リーバウ

ウィーン国立歌劇場合唱団

ウィーン・フィルハーモニー管弦楽団

指揮:ニコラウス・アーノンクール

演出:クラウス・グート

装置・衣装:クリスティアン・シュミット

収録:2006年7-8月、ザルツブルク モーツァルトハウス(ライヴ)

●2006年にザルツブルク音楽祭で上演された≪フィガロの結婚≫をDVDで見ました。(英語字幕だったので、レチタティーヴォの部分はチンプンカンプンでしたけど。)

●序曲が始まると、アーノンクールの指揮が遅いテンポで、私の好みではありませんでした。序曲(と言うか最初の数小節)で先が分かってしまうというのも寂しいものですが…。テンポって指揮者によって全く変わってくるわけですけど、どんなテンポでも楽しめる達人になれたらいいのに~。私は、ゆったりテンポが好きだと自分で思っていたのですが、モーツァルトやロッシーニは早い方が好きなのかも?何度も聞いていると感覚が変わってくることもありますけどね。

●楽器の音色とか、オケの規模なんかも公演によって違いますし、自分の好みの演奏を楽しめばいいかな、と思います。音楽って「優劣」ではなくて「好きずき」なんですよね。技術的な上手い下手はあるにしても。

●アーノンクールの指揮は、全体的には遅いテンポですが、場面によって早くなっている部分もあって不思議。スザンナの最後のアリアは、とっても良かった(好みだった)です。

●歌手は「見た目で選びました」って感じでしょうか。声楽的には、それほど高レベルとは思いませんでした。伯爵のアリア、音程が上ずってませんか?ケルビーノは、か細い声で淡々と歌い続けているし…。伯爵夫人はビブラートが細かくて肺活量ないし…。マルチェッリーナのアリア、あの歌唱ならカットした方が良かったのでは…。比べてみると、今回の新国の歌手も決して劣っていないなぁと思いました。

●装置や衣裳が現代風になっているせいか、身分差とかキャラクターの個性のようなものが消え去っているような気がしました。フィガロも伯爵夫人も普通の人っぽい。フィガロの愛想のなさとか、伯爵夫人の感情表現の大仰さとか…。

●アリアでは、歌手に振付がなされていて、ゆったり踊りながら歌ってました。最近の演出家は、とにかく画面を静止させないように腐心するようですね。振付があれば、どんな歌手でもそれなりに形になりますし、有効な手かもしれません。ミュージカルっぽくなりますけど。

●≪フィガロの結婚≫のアリアって、音域さえ合えば誰でも歌えそうじゃないですか。超高音も超低音も出てこないし、音符も細かくないし、あまり劇的でもないし。しかし、だからこそ面白く歌うのは難しいんだろうな~と思います。

●全体的に重い雰囲気の漂っていた公演ですが、ネトレプコは役に合っていてチャーミングでした。

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