5 2006年ヨーロッパの旅

2013年6月29日 (土)

歌劇場と私

2006年にヨーロッパに行ったときの写真です。

↓ ウィーン国立歌劇場

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↓ パリ・オペラ座(バスティーユ)

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↓ パリ・オペラ座(ガルニエ宮)

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↓ ベルリン州立歌劇場

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2006年11月10日 (金)

旅行記・落穂拾い

9月の末に行ったヨーロッパ旅行。今回は、オペラの感想ではなく、劇場ごとの印象などを少し書いてみたいと思います。(注:私の席は全て「1階前方」でした。ガルニエ宮ではオペラは観ませんでした。)

・ウィーン国立歌劇場

・パリ・オペラ座(バスティーユ)

・パリ・オペラ座(ガルニエ宮)

・ベルリン・ドイツ・オペラ

・ベルリン州立歌劇場

■音響

音響は、ベルリン州立歌劇場が圧倒的に良かったと思います。少し響きすぎる気もしましたが、音に包み込まれるような感覚でした。良くないと感じたのはウィーン国立歌劇場。オケピットが浅くなっていて、1列目のお客さんは「楽団員とコンバンワ」という感じ。オケの音が手前、歌手の声が奥、というように、音がかなり分離している印象でした。まあオケピットの深さは、演目ごとに違うのかもしれませんが(?)。あとの3つの歌劇場は「普通の音響」。でもパリ・オペラ座は、空調の音がかなり聞こえました(ガルニエ宮、バスティーユ両方とも)。

つくづく、新国立劇場の音響は素晴らしいと思いました。音響だけは確実に世界に誇れます。

■観客

ウィーンのお客さんは、全体的に年齢層が高く、ご夫婦連れが多かったようです。服装は男性も女性もほとんどの人が黒。あまりお洒落している感じではなく、みんな同じような服装でした。上演中の客席は大変に静かでした。

パリのお客さんは、老若男女入り乱れ、服装も思い思い。お洒落な感じでした。

ベルリン・ドイツ・オペラは、観客の雰囲気が日本と似ている気がしました。わりと庶民的な感じですね。一番気合いが入っていたのはベルリン州立歌劇場。プレミエ公演だったことも関係あると思いますが、金のスパンコールのジャケットを召したご婦人や、ロイヤルアスコットにでも行くのか?というような帽子を着けたご婦人、胸に白いカーネーションを挿した紳士、など、目を見張る気合いの入れよう(もちろん全員ではありませんが)。しかし、ドイツの客席はうるさかったです。ほとんどの人は静かなのですが、確実に一定の割合で「雑音を出す人」が混ざっている。日本と同じですね…。

■字幕

ウィーンは、前の座席の背中に個人用の字幕装置がついています(フィガロ・システムという名前)。いかにも「あとからくっつけました」という感じの簡素な装置でしたが、ドイツ語と英語の字幕が出て、見たくない人には全く見えないので、用は足りています。

バスティーユは、舞台の上部にフランス語の字幕が出ていました。ドイツの2つの歌劇場も同様にドイツ語が。私はかなり前の方の席だったので、あまり目に入りませんでした。

■劇場

ウィーン国立歌劇場は、写真で見るよりも地味な印象。あまり華美なものを望まない国民性のようなものもあるのでは、と思いました。でもまあ綺麗でしたけどね。

バスティーユは、モダン建築でありながら、ちゃんと美しかった!ビックリしました。写真で見るよりも美しい。日本の新しい劇場って、たいてい全然美しくないですよね?私はオーチャードホールとか大宮ソニックシティとかが大の苦手。そこにいると、陰々滅々とした気分になってきます。「何で舞台のカーテンがグレーなの?」とかって思うじゃありませんか?黒、グレー、黒、グレー。気が変になります。で、バスティーユのカーテンは黒だったのですが、驚いたことに、この黒が綺麗だったのです。ビロード地かな。ああ、黒だからダメ、グレーだからダメというのではなかった、美しい黒、美しいグレーだってあるのだ、と痛感しました。フランスの黒やグレーは美しかった。…しかし日本のモダン建築も、デザインした人は「それがベスト」と思っていらっしゃるのでしょうし、支持している人も多いのですから、私個人が、日本の美意識よりもフランスの美意識を好む、ということなのでしょう。

ガルニエ宮は、私の憧れの劇場。「世界一美しい劇場」と信じています。しかしショックなことがありました。カーテンが書割だったのです!!本物の布ではなく、何かに書いてあった。そういえば昔、ガルニエ宮の舞台映像(演目は忘れました)を観たとき、ちょっと変だなと感じたような気がします。でも、まさかあのガルニエ宮のカーテンが書割なはずはない、と強く強く否定して、頭の中から消してしまっていたのでした。ああ、ガルニエ宮のカーテンは書割だった…。あの美しいカーテンが真ん中からカパーと左右に割れて上にあがっていくのをずっと夢見ていたのに…。それから、これもショックでしたが、ガルニエ宮のお手洗いは嫌な感じでした。

ベルリン・ドイツ・オペラは地味な感じの劇場。別に綺麗ではありません。日本の○○市民会館などと大差ない感じでした。

ベルリン州立歌劇場は、「ヨーロッパの、平均的な、美しい歌劇場」という印象でした。

■ちらし・ポスター

ちらしやポスターは、日本の方が断然美しい。特にドイツは、ちらしやポスターを作ることに何の力も注いでいない感じでした。集客の方法が違うのかもしれません。フランスは、印刷・デザイン自体は取り立てて優れているとは思いませんでしたが、ポスターの貼り方が美しかった。羨ましい。

■その他

ウィーン国立歌劇場のプログラムには、後ろの方に日本語のあらすじページがありました。また、パリ・オペラ座バスティーユでは、上演前に日本語で「携帯の電源は切ってください」という旨のアナウンスがありました(流れたのはフランス語・英語・日本語の3つだけでした)。これにはビックリしました。日本人観光客のパワーを感じてしまいました。

2006年10月14日 (土)

《マリア・ストゥアルダ》

ヨーロッパ旅行記

ドニゼッティ《マリア・ストゥアルダ》ベルリン州立歌劇場

2006年9月29日19時

プレミエ

エリザベッタ:カタリーナ・カルネウス

マリア・ストゥアルダ:エレーナ・モシュク

ロベルト(レスター伯):ホセ・ブロス

ジョルジョ・タルボ:Christof Fischesser

指揮:Alain Altinoglu

演出:Karsten Wiegand

●旅行前に、予習として、日本語字幕がついている唯一の映像を何度か観ておきました。マリア・ストゥアルダがカルメラ・レミージョ、エリザベッタがソニア・ガナッシ、ロベルト(レスター伯)がジョセフ・カレヤのものですね。正直なところ、傑作とは思いませんでした。しかし、滅多に観られない演目ですから、とにかく事前に何度も聴いておこうと思って、旅先でCDを聴いていました。そうしたら、このCDの演奏が素晴らしいのです。比べてみると、レミージョの映像は全然良くなかった(と私は思う)。この演目に興味を持った人が、まず最初にこのレミージョの映像を観て「つまらない」と感じるんじゃないかと思って、非常に残念です。他の映像が日本語字幕つきで出てくることを切望します。

●それで、旅行の間にどんどんこの作品が気に入ってきて、旅程中最後の演目でもありましたし、いやがうえにも高まる期待。ところが!演出がもう最低だったのです。ただ奇抜さだけを狙ったもの。登場人物が、ダーツを競いながら歌ったり、食事をしながら歌ったり。マリア・ストゥアルダが車椅子生活だったり(最後に自力で立ち上がった…)、挙げればキリがありませんが、全然関係ないことをしている。マリア・ストゥアルダがエリザベッタを罵ったあとは、首を絞めたり蹴っ飛ばしたりの大ゲンカ。幕切れにはエリザベッタが、十字架の形をしたナイフで、マリア・ストゥアルダの首を掻き切って幕が閉じました(2人とも花嫁衣裳を着ていたなぁ…)。

●ドイツではこういう演出が好まれるんだろうか…と思っていたら、第1幕の終了時&終演時に大ブーイング。特に終演時、演出家が出てきた時には、劇場中がブーイングの嵐(本当に「嵐」という言葉がぴったりでした)。あんなに凄いブーイングは生まれて初めて聞きました。新国こけら落とし《建-TAKERU-》で出たブーイングなんて、屁のようなもの。

●やっぱりみんなイヤだったんだ、と胸を撫で下ろしたりして。しかし、歌手とオケ・合唱は非常に高水準だっただけに、演出のせいで何も感動できなくて残念でした。音だけ聴いたら感動できたのかな…?(観客も、歌手に対しては温かく拍手していました。)

●マリア・ストゥアルダ役のエレーナ・モシュクは、私はたぶん初めて聴いたのですが、声が綺麗で技巧も優れていました。ヨーロッパでは、こういう人が「普通に」活躍しているんですよねぇ。

●ロベルト(レスター伯)役のホセ・ブロスは、最近映像で観る機会が増えてきている歌手ですね。でも《清教徒》《夢遊病の女》では高音が辛そうでしたし、《ランスへの旅》では技巧的に少し厳しい面があったかも。ちょっと「ヘナチョコ・テノール」の印象があったのですが、実際に聴いてみたら、意外なことに素晴らしいテノールでした。役が合っていたのかもしれませんね。堂々たる「ベルカント歌手」。

●2幕の開演前に、スーツ姿の女性が出てきて何かアナウンスしていましたが、ドイツ語で何も分かりませんでした。何を言っていたのか、すごく気になったのですが…。海外の場合、こういうのが困りますね。

●この劇場では、リハーサル時に撮影した舞台写真を販売していました。劇場のホームページでも公開しています。

●それにしても、観客から支持されない人が演出の実権を握ってしまうというのは、どういう仕組みなんだろうかと不思議に思いました。「支持されない人が権力を握る」というのは、演出に限らず、わりと身近にいくらも例があったりするのですが…。本人が強く望むと権力が手に入るものなのか、それとも別の作用が働いているのか…?

●過去にあったものと同じような演出をした場合、その演出家の名前は何も記憶に残らなかったりするのでしょうが、ただ目立つというだけで内容のない演出をして名前を残すよりも、よほど尊いと思います。

●この演出では、歌手が、歌の内容と関係ない演技をし続けなければならないので、大変だろうなぁと思いました。歌手の演技について、いろいろ考えさせられる公演でした。

《夢遊病の女》

ヨーロッパ旅行記

ベッリーニ《夢遊病の女》ベルリン・ドイツ・オペラ

2006年9月28日19時30分

ロドルフォ伯爵:アルチュン・コチニアン

テレーザ:Susanne Kreusch

アミーナ:アニク・マシス

エルヴィーノ:ファン・ディエゴ・フローレス

リーザ:Ditte Andersen

指揮:ダニエル・オーレン

演出:John Dew

●幕が開くと、舞台の中が更に額縁状態になっていて、その奥は雪の斜面(人は乗れません)。雪の斜面には、緑の木々が植わっている。大きな額縁みたいな形状の装置(この下部で演技をする)は、黒く塗ってあって、白い牛の切り絵が何枚も貼られている(イメージできますか?)。客席からは笑い声が漏れました。ああ馬鹿らしい、また変な演出を見せられるのだろうか…と思ったら、奇抜なのは舞台装置だけで、演出はわりとオーソドックスなものでした。

●「《夢遊病の女》の演出がオーソドックス」とはどういうことか、少し例を挙げてみますと…、

「エルヴィーノは花嫁に何を贈りますか?」と訊かれて、エルヴィーノが「畑、家、名前、僕の持っている全てを」と答えている間、アミーナと母親は「まぁ困ったわ、私たちには贈り物が何もない」と、視線だけで会話をしている。嬉しそうなエルヴィーノとは裏腹に、舞台の雰囲気が少しだけ沈む。「アミーナは?」と訊かれて、別に深刻というほどでもないけれど、仕方がないからという感じでアミーナが「私が差し上げられるのは心だけ」と言うと、エルヴィーノが「それこそ僕の全て!」と優しく情熱的に言い、一気に舞台が幸せに包まれる。

「花よ、お前がこんなに(以下略)」のあと、夢遊病から覚めたアミーナは、とても怯えている。ほとんど「パニック」と言っていい感じ。つまり、前回、夢遊病から覚めたときに、自分の知らないことで悲しい目にあって、今回も大勢の人に囲まれていて、同じようなことが起きるのではないかと思っている。そこでエルヴィーノが「ほら、君の夫だよ」と言うので、一気に喜びが炸裂する。

…というように、役柄の感情が適切に視覚化されていて、芝居のうねりを作り出していました。コンチェルタートの最後に、エルヴィーノが証書を細かく破り捨てて、それを見たアミーナが悲鳴のように高音を張る、なんていう場面も印象的でした。

●「オーソドックス」と書きましたが、私がそのような演出を見るのは初めてでした。でも、きっと《夢遊病の女》を上演するときには、そのような演出って頻繁に行われているのだと思います。「オーソドックス」と言うよりも「スタンダード」と言った方がよいかもしれません。

●「1つの音から次の音へ移るときの繋ぎ方」には多くの種類がありますが、基本は「レガート=切れ目なく滑らかに」ですね。しかし、歌い手によってレガートもいろいろであると感じます。ロッシーニですと、細かい音符をスタッカート気味に歌う人も多い。それはそれで効果があるかと思いますが、やはりベッリーニは美しいレガートが重要でしょう。アニク・マシスは良いレガートを持っています。音符が細かくなっても、音の中心に正確にアタックしながら、明確に次の音符に滑っていく能力。それほど声量があるわけではないので、マリア・カラスのようにドカンと盛り上げることはできませんが、優れたベルカント歌手であると思います。フローレスについては、いまさら申し上げるまでもありません。この2人の二重唱の素晴らしさ。劇場中が固唾を呑んで2人を見守っている。「眠っている時にも私のことを思い出して。さようなら!」という場面のピアニッシモ。舞台上にこの世の天国が出現した!!と思いました。だって2人は最高に幸せなんです。手を握って、おでことおでこをくっつけてイチャイチャしたり、見つめ合ったまま少しずつ後ずさりしたり、…いいですねぇ。

●第1幕のコンチェルタートの繰り返しはカットしていました。他はわりと丁寧に上演していたと思います。

●夢遊病のアミーナが高いところに登ってしまう場面では、オケピットの「へり」の部分を歩いて来ました。「へり」と言ってもわりと幅があり、ヅカで言う「銀橋」みたいな感じ(…?)。4列目で見ていた私の目の前で、横向きのままピタリと立ち止まり、レチタディーヴォ(?)を歌う。「神様、私の涙を見ないでください、もういいんです、私はどんなに辛くてもいい、彼を幸せにしてあげてください、それが私の最後の願いです」、それを聴くと、何て健気な…と思って、もう私は泣く。マシスは素晴らしかった。

●オペラの一番最後の音は、フローレスは歌わず、マシスだけが長く長く引っ張って幕。ソプラノに花を持たせたのでしょうか。フローレスって、紳士なんですね…。

●今回のヨーロッパ旅行で観た公演のうち、カーテンコールが一番盛り上がったのは《夢遊病の女》でした。《ロベルト・デヴリュー》のときは、熱心なグルベローヴァ・ファンが何度も何度もカーテンコールをしていましたが、人数は少なかったです。パリのお客は、終演直後はすごい熱気でしたが、客電が点くとアッサリ帰ってしまいました。

●オーレンの指揮は平凡。オケと合唱は、リズムが合わなくて大変でした。水準が低いのだと思います。オーレンが首を振るのは「OK」の合図なのか「ダメ」の合図なのか、それとも何も意味はないのか、いつも不思議。

●この作品は一応「ハッピーエンドのオペラ・セリア」ということになっているようですが、わりと滑稽な場面も盛り込まれています。特にロドルフォ伯爵とリーザは「お笑い担当」の要素が強いのではないでしょうか。今回の公演でも、そのように演じられていました。悲劇・喜劇とか真面目・滑稽とかでは割り切れない、いろいろな要素が絡んだ作品ですね。主人公のアミーナにしても、喜びと悲しみの起伏が大きく、変化に富んでいます。夢遊病から目覚めた後に、大きな悲しみと喜びを待たせてある対比が面白い。あらすじだけ読むと非常に馬鹿馬鹿しいですが、詞や構成が優れていると思いますね。

●終演後にサインをもらいに行きました。マシスは1人1人に話しかけていました。英語力のない私が、ええっと、何て言えばいいんだろうかと考えながら一言だけ「とても感動しました」と言うと(言ったつもり…)、何とか通じたようで、「それこそが私の喜びです」と応えて笑ってくれました。去りかける私に「ここまで観に来てくれてありがとう」とまで言ってくださって感激。フローレスは、他の人と話しながら機械的にサインしてくれました…。でも嬉しい。テヘ。

2006年10月 9日 (月)

ノイマイヤー《椿姫》

ヨーロッパ旅行記

ジョン・ノイマイヤー振付《椿姫》パリ・オペラ座ガルニエ宮

2006年9月27日19時30分

マルグリット・ゴーチェ:クレールマリ・オスタ

アルマン・デュヴァル:マチュー・ガニオ

アルマンの父:カデール・ベラルビ

マノン・レスコー:デルフィーヌ・ムッサン

デ・グリュー:ジャン=ギヨーム・バール

指揮:ミヒャエル・シュミッツドルフ

舞台美術:ユルゲン・ローゼ

照明:ロルフ・ヴァルター

音楽:フレデリック・ショパン

●ガルニエ宮の中は、日本人だらけでした。ふくきちも歩けば日本人に当たる、というくらいに。特に、母と娘という感じの2人連れが多かった気がします。おそらく、熱心なバレエ・ファンの大半が、この時期「パリで《椿姫》を観たい!」と思ったに違いありません。しかし、熱心なオペラ・ファンの大半がこの時期「ベルリンで《夢遊病の女》を観たい!」と思うわけではありませんね…。

●ガルニエ宮の屋上でオペラ座の従業員が作っているというハチミツは、売り切れでした。売店の女性は、「ハチミツ」という日本語を覚えていました。きっと何百回も訊かれたのだろうと思います。どうやって訊かれたのか知りませんが…。

●上演中に、ケータイが2回ほど鳴り、フラッシュが4回くらい光りました。絶対に日本人ではない、と思う。

●アルマン役は、今を時めくマチュー・ガニオ(何で「マシュー」じゃなくて「マチュー」なの…?)。写真で見るよりも舞台の方が断然二枚目だと思いました。マルグリットへの当てつけに、わざと他の女と付き合ってみせるときの投げやりな表情が印象的でした。マルグリット役のオスタは、小柄で可愛らしい感じ。

●私はあまりバレエを観ていないせいか、個々のダンサーよりも、作品そのものの素晴らしさに強く惹きつけられました。開演前から幕が開いていて、マルグリット死後のオークション会場になっている。セットは最小限。左右からサーッと幕(劇場の赤いカーテン)が引かれてきて劇中劇《マノン・レスコー》の開演前になったり、場面転換は一瞬のうちに行われる。下手のオケピット脇のスペースが、ずっと「オークション会場を象徴している」みたいになっていて、ときどきアルマンがやってきて、過去と現在を行き来する。上手のオケピット脇のスペースは、アルマンが1人で物思いに耽ったり、日記を読んだりするので、マチュー・ファンは上手寄りの席が良かったかも。

●映画版(?)の映像(マリシア・ハイデ主演)で予習して行ったので、「舞台ではどうなるのか」ということに興味があったのですが、まず、舞台美術がシンプルで華やかで美しいことに大変感動しました。とても重要なので、もう一度書きます、「シンプルで華やかで美しい」。最近の新国のオペラが「シンプルで地味で陰気」なのと引き比べて愕然としました。先ごろNBSの「世界バレエフェスティバル」を観たときにも少し感じたのですが、やっぱりバレエの舞台美術はシンプルでも美しい。特に今回は「ノイマイヤーの美意識」が強く出ているのを感じました。ホリゾントの照明が、ストーリーの展開に合わせて刻々と色を変えていく。ホリゾントの上と下で色が違う、そのグラデーションの具合や、照明と衣裳の色の溶け具合の見事さ。シャンデリアが下ろしてある場面があったのですが、このシャンデリアが最高に美しい。舞台上で、こんなに美しいシャンデリアを見たことがない。それだけで(他の道具がなくても)その場面が「特別」になる。豪華にするべきポイントを心得ているのです。オペラの「シンプル」は美しさを怠けていると感じる。

●このホームページで舞台写真を見ることができます。

http://www.forum-dansomanie.net/forum/viewtopic.php?t=1459&start=107

でも、この舞台写真は、実際と全然違います。写真ですから、どうしても人物が明るく、背景が暗くなっていますが、実際はもっと背景が美しいのです。衣裳の色も印象が違う。

●このバレエは「過去の回想」という形になっていますが、全てが「アルマンの回想」ではなくて、途中「アルマンの父の回想」になったり、最後は「マルグリットの回想」になりますね。「マルグリットの回想」は、日記を通じて、アルマンの頭の中で展開するわけですが、この日記が時空を越えてアルマンに届く(!)。登場人物が、時間や場所や、人の心の中を、自由に飛び越えて行き来してしまう衝撃。なぜ、こんなに自由なの…?幕切れに、マルグリットが暗い舞台の奥から、白い光に包まれて、両手を差し伸べながら前に歩いてくる、目にはアルマンが映っている(ように見える)、そして少し微笑むとガクリとくずおれて、その場に果ててしまう。マルグリットの照明がフッと消える、すぐ右隣には、あっアルマンが立っていた、その悲しみの顔を残して幕が閉じた…のでした(文章で書いても全然わかりませんね)。とにかく、ダンサーの動きを考えるという「振付」の見事さだけでなく、舞台の「構成・演出」の素晴らしいこと。人の心の中が時間や場所に縛られないのと同じように、舞台の上で何でも出来てしまう。一瞬で全てが変わって、舞台が繋がっていく。信じられない。

●女・男・男、あるいは女・女・男の3人の組み合わせで踊ったときの形、何であんなスゴイ形を考えつくのでしょうね。マクミランの影響もあるのでしょうかね。たしか《マノン》の中にも、3人で踊る場面がありました。私はマクミランも好きです。しかし、ノイマイヤーは現役で活躍しているのだ!!こんな天才が現役だなんて、そう考えただけでドキドキしてしまう。何もないところから《椿姫》を創り上げた、彼は「神様」なのですよ。同じ天才であっても、カラスのそれではなく、ヴェルディのそれ。ああ、一目お会いしてみたい…。こんな天才を今まで知らなかったことが悔やまれる、なぜ私は去年のハンブルグ・バレエ来日公演を観てないのだろう…。

●予習として映像を観たときも泣きましたが、この公演でも泣きました。病気でやつれた顔に化粧をするところ。アルマンと人違いして、別の人に近づいていくところ。もう絶対泣きますよねぇ。私が、あんまり頻繁に「泣いた、泣いた」とブログに書くもので、「本当に泣いてるの?」と訊かれることがあるのですが、「泣いた」と書いたときは本当に泣いています。比喩や誇張ではありません。もちろん、ひと口に「泣いた」といっても、「ホロリと一粒、涙がこぼれた」というときもあれば、「嗚咽をこらえて、横隔膜がヒクヒクするほど泣いた」というときもあり、さまざまですけど…。この《椿姫》では、もう滂沱の涙を流しました。いいんです、ふくきちの涙を見たとは誰にも言わせませんから。

2006年10月 8日 (日)

録音失敗

昨日の《ルチア》の放送、録音できませんでしたね。しょぼん…。

エドガルドがどうやって死んだのか、もう憶えてないんです。思い出せない、どんどん忘れていく。自分の記憶の曖昧さを痛感する今日この頃です。DVDで出ませんかねぇ。歴史的名演だと思うんですけどねぇ…。

2006年10月 7日 (土)

美術館めぐり

ヨーロッパ旅行記

旅行中、夜はひたすら劇場通いでしたが、昼は主に美術館めぐりをしていました。

■ウィーン

・シシィ博物館&宮廷銀器コレクション

・アルベルティーナ(常設展、企画展=ピカソ)

・シアター美術館(?)

・王宮宝物殿

・ウィーン国立歌劇場付属美術館

■パリ

・プティ・パレ=パリ市立美術館

・マルモッタン美術館

・オルセー美術館

・オランジュリー美術館

■ベルリン

・絵画館(常設展、企画展=レンブラント)

・新ナショナルギャラリー(企画展=ベルリン-東京)

●ウィーンの美術館でピカソの企画展。なぜウィーンでピカソを見なくてはいけないのか…と思いつつ入ってビックリ。ヨーロッパの企画展はスゴイです。何がって、展示作品の数が半端じゃない。そして、これが重要なのですが、混んでいないのです。ベルリンのレンブラント展も然り。やっぱり、出来れば、絵画も向こうまで見に行ってしまった方がいいですね。

●美術館めぐりをしていて、しみじみ思ったのは「絵画を見るのにも予習が重要である」ということです。たぶん私は、素晴らしい絵をボケーっと流して見てしまったと思う。オルセー美術館には、ミレーの『落穂拾い』がありました。それを「美しいか、美しくないか」というだけの視点で見たら、「別に美しいとは思わない」で通り過ぎてしまう。でも、その絵の歴史的な価値を知っていたら、また見方が変わってくるわけですよね。そこまで有名でない絵にも、1枚1枚に「楽しみ方のポイント」のようなものがあるのだろうと思いました。そして、私は何も準備していなかったのです。

●「予備知識がなければ楽しめないものなんて、価値がない」ということを、本気で主張する人がいるのですが(実際そういう人に会ったことがあります)、私はそうは思わないんです。「知っていれば楽しめる」というものは、世の中にたくさんあります。

●私が「オーケストラのコンサートにあまり興味がない」というのも、公演の前に予習をしないからだと思うのです。1つの交響曲を初めて聴いて、その1回目に大感動する、というのは、なかなか難しいこと。何回も聴いているうちに、その曲の中に好きな部分を見つけていく、そういうものではないでしょうか。6年ほど前、インバルがマーラーの5番を振るというので、気合いを入れて公演前の数日ずっと聴きっぱなしにしたら、当日めちゃくちゃ感動しました。しばらくマラ5熱に浮かされ、いまでも、寝るときにアダージェットをエンドレスでかけたりしています。「モンローはシャネルの5番、ふくきちはマーラーの5番」というくらいに(何じゃそりゃ…)。

●いろいろなことを知っていて、さまざまな美を楽しめる。そういう教養が私は欲しい、でも、それには時間と努力が必要で、自分は怠け者だなぁとよく反省します。

●文楽の人形遣い・吉田簑助師匠のお言葉で、強く印象に残っているのですが→「芸は見て盗むもの。それも本人の技量分しか盗めませんが、とにかく見ることが基本です。」…本人の技量分しか盗めない、それは芸だけでなくて、世の中のもの全てが、自分の「技量分」しか受け取れないのだろうと思います。

●私は、洋画では、モネとゴッホとターナーが好きです。まあ印象派が好きなわけですが、セザンヌの良さはよく分かりません。人物画にはあまり興味がないので、ルノワールもそれほど…。今回の旅では、とにかくモネの『印象、日の出』をどうしても見たかった。それで行ってきましたマルモッタン美術館。持っていったガイドブックの地図では絶対に辿り着けない…、でもなぜか奇跡的に到着。とにかく、来場者が少ないことに驚きました。「広い展示室に、いま3人しかいない」なんて瞬間もあったほどです。人が来た!と思うと、大半は日本人。どうなっているのやら…。

●他の絵は剥き出しでしたが、『印象、日の出』だけはアクリル板に覆われていました(ちょっと残念)。もう、信じられないくらい美しい。近づいても離れても美しい。見る距離によって全く異なるその面影。絵の具がキラキラ光っている。印刷では再現できない、本物の美しさ(印刷は本当に全然違う)。この絵を、いま見ているのは私だけ。ずーっと、何分間も私だけ。他の絵を見て、戻ってきても私だけ。絵の前の椅子に座って、眺めてみる。圧倒的な感銘を受けている。1つの絵画に、こんなにも感動している、そのことが、ただ有り難くて有り難くて、ずっとずっと眺めていた。

2006年10月 6日 (金)

パリ・オペラ座管弦楽団

ヨーロッパ旅行記

パリ・オペラ座管弦楽団コンサート パリ・オペラ座ガルニエ宮

2006年9月26日20時

モーツァルト

・ヴァイオリンとヴィオラのための協奏交響曲 K.364

・コンサート・アリア" Ch'io mi scordi di te ? ... Non temer, amato bene " K.505

・ピアノ協奏曲第22番 K.582

・コンサート・アリア " Bella mia flamma addio - Resta, oh cara " K.528

・交響曲第41番「ジュピター」K.551.

指揮:シルヴァン・カンブルラン

ソプラノ:クリスティーネ・シェーファー

ピアノ:ティル・フェルナー

ヴァイオリン:フレデリック・ラロック

ヴィオラ:ピエール・ルネール

●この日はオーケストラの公演。盛りだくさんプログラム。上演時間もかなり長めでした。ヴァイオリン・ヴィオラとの協奏曲では、楽器の音色の違いを楽しみました。シェーファーは声量がなくて一本調子、オケも遠慮ぎみ、私には今ひとつでした。

●ワタクシ、オペラは大好きなのですが、オーケストラの公演にはあまり興味がないのです。仕事をするようになってから、ひところ、立て続けに行ってみたことがあるのですが、寝そうになってしまって…。自分はわりと寝ない方だと自負しているのですが…(寝るのはもったいない、たとえつまらなくても絶対に観ていたい、という強い欲求があるので)。しかし、世の中にはたくさんの楽しみがあり、その全てに感動することはできませんし、またその必要もないでしょう。(もちろん、オーケストラで大好きな曲も、いくつかありますけどね。)

●落語に『あくび指南』というネタがあります。あくびの稽古をするという、馬鹿馬鹿しくも洒落たネタ。つまらない人がやるとつまらないけれど、面白い人がやるとメチャクチャ面白い(このネタに限ったことではありませんが)。私は、五街道雲助師匠で『あくび指南』を聞いて大笑いしました。「これ、もう飽きちゃった、アーア」というお稽古なんですね。「こんなに風流なことにさえ、ちょっと退屈している私」「飽きるという形によって、更に一つ上の贅沢を体験している私」その象徴としてのあくびを、シュチュエーションごとに稽古していく(意味わかります?)。私は、このネタのオチをこよなく愛しております。

●それで、ガルニエ宮でパリ・オペラ座管弦楽団の演奏を聴きながら、私はちょっと退屈していた。「私が最も好きな、世界一美しい劇場で」「モーツァルト・イヤーにモーツァルトを」「シャンデリアが落ちてきたら頭に直撃する=最良のポジションの席で」聴いていたにもかかわらず、少し眠気に襲われて、あくびが出かかっている私。ああ何て贅沢なんだろう、まるで『あくび指南』のようだ、と思ったのでした。

●今回の旅行中に行った公演の中で、唯一、何の予習もしていなかったんですけどね。モーツァルトの『ジュピター』なら、超有名だから多少は知っているだろうと思っていました。ところが何も知らなかった。1フレーズも知らなかったんです。ああ何て自分は青い、全然「飽きた」なんて言える境地じゃないなと思ったら、何だか少しホッとして、夢から醒めたように劇場を後にしたのでした。(←相変わらず変な文章だなぁ…。)

2006年10月 5日 (木)

《ルチア》

ヨーロッパ旅行記

ドニゼッティ《ルチア》パリ・オペラ座バスティーユ

2006年9月25日19時30分

ルチア:ナタリー・デセイ

エドガルド:マシュー・ポレンザーニ

エンリーコ(ルチアの兄):リュドヴィク・テジエ

アルトゥーロ(ルチアの花婿):サルヴァトーレ・コルデッラ

ライモンド(牧師&ルチアの家庭教師):Kwangchul Youn

アリーサ(ルチアの侍女):Marie-Therese Keller

指揮:エヴェリーノ・ピド

演出:Andrei Serban

●今回、この時期にヨーロッパ旅行をしようと思い立ったのは、そもそもデセイの《ルチア》を絶対に観たい!というのがきっかけでした。デセイが好きなんです。テヘ。そういう訳で、なるべく詳しく感想を書いてみたいと思います。ちょっと記憶違いのところもあるかもしれませんが。

●幕が開きますと、舞台上に大勢の人がいて、しかも動きまくっていることにビックリ。曲芸のような器械体操をしている筋骨隆々の男性が数人。バケツ持参で雑巾掛けをしている女性が数人、など。見ればそれは合唱の人ではなく、演技専門の俳優たちらしい。歌っている合唱の人たちは後ろの方で、あまり動いていませんでした。はっきり住み分けさせているんですね。とにかく、舞台上の動きが止まってしまわないように、常に誰かが何かをしている状態。しかし、その動きは《ルチア》という作品の内容と全く関係なくて、「ああ、また変な演出を見せられるのだろうか」と心配になりました。

●ところが意外なことに、主役級の演技は、作品の内容を掘り下げた納得のいくものでした。多少エキセントリックな部分もありましたが、まあ、「感情を→歌にする」という時点でリアリズムとは何の関係もないわけですし、かえって面白く感じました。その、「動き専門の俳優たち」が意味もなく使っていた大道具だの小道具だのを、主役が「意味のあるもの」として使っていく。例えば、雑巾掛けに使っていた水道の蛇口が、ルチアの怖がる泉の代わりになったりとか。

●舞台装置は、半円形の部屋で、打ちっぱなしのコンクリートに囲まれていました。どういう設定なのか分からない架空の場所。私はコンクリートの打ちっぱなしが大の苦手なのですが、この装置では薄い青緑色とかが混ぜてあって、コンクリートなのに美しい。威圧感を出しつつも美しい。何て素晴らしいんだろう…。折りたたんだ大きな梯子が2つ(…?)、自動で動いて舞台上でクロスする。そして、ちゃんとその梯子を、芝居の中で効果的に使っていました。

●デセイのルチアがもう素晴らしかった。「私、歌いながらこんなことも出来ちゃうんですシリーズ」で限界まで挑戦!といった感じ。平行棒に座って、あるいはシーソーの上に立って(端をエドガルドとかが押さえてますが)、また梯子を登ったり降りたり、それも普通の降り方じゃない、ああ危ない!みたいな。しかも、動きがちゃんと役柄の感情の流れとシンクロしていることに衝撃を受けました。エドガルドが来るのを待っているときの、恋をしている幸福感、高揚感。「あたりは沈黙に閉ざされ」の後半、カバレッタの部分を、ブランコに乗りながら歌っていました。ブランコをこぐとオケピットの上まで飛び出してきて、私の目の前だったこともあってワクワク。

●前日にウィーンで《ロベルト・デヴリュー》を観たときは、グルベローヴァだけが傑出していて、脇になるにつれて実力が下がっていく印象だったのですが、パリの《ルチア》は出演者全員が高水準でした。花婿・アルトゥーロを歌ったコルデッラなんて、エドガルドも歌えちゃうんじゃないかと思うほど良かったのです。歌だけでなく、みんな演技も立派でした。恐るべし、パリ。

Arton114 ●私にとって最も興味の薄い声域=バリトン。ほとんど刺身のツマ、最近ちょっとターフェルとかホロストフスキーなんかに関心が出てきたかな…、という程度。ところが、今回エンリーコを歌ったテジエには参った、参りました。声が綺麗で演技力があって容姿が優れている。追い詰められるルチア、追い詰めるエンリーコ、このやりとりの緊迫感といったらありません。他の役でも観てみたい、もうファンになった完璧に。来年3月の「東京のオペラの森」で来日するそうですね。完全イタオペ野郎の私としてはワーグナーは未開の地、行こうかどうしようか激しく迷う今日この頃。(テツィエールとかテツィエとか、いろいろ表記されていますが、「東京のオペラの森」では「テジエ」で来日するので、このブログでも従ってみました。)

●有名な六重唱、いつも「6人って誰と誰だっけ?」みたいな感じだったのですが、今回ははっきりと1人1人の声が聴こえて、それらが1つにまとまっていく音楽的な美しさ、…ああ信じられない。6人の立ち位置の配分も絶妙。

●嵐の場面はナシ。休憩は六重唱のあとに1回(30分)だけ。

●新婚の初床は、白っぽいテントが吊ってありました。そこからスローモーションの動きで逃げてきて、再び連れ戻されるルチア。テントがぺしゃんこになり、しばらくすると、血まみれのルチアが這い出してきて「狂乱の場」へ突入。

●舞台下手に、運動場の水飲み場みたいな蛇口が3つ(だったかな?)あって、水が出てました。私は1階の4列目で見ていたのですが、水の音がしないのです。そして、必要なときだけ水の撥ねる音がする(!)。どうなってるの…。狂乱したルチアがバシャバシャ水を浴びたりしていました。

●「狂乱の場」では、2回ともEs(3点変ホ音)を出していました(当然です)。1回目のEsの直後に、斧をガッと振り下ろして、声を立てて狂気の笑い。2回目のEsのあとに、声を出さずに笑いながら、クルクル回ってました。舞台の真ん中で、立ったまま自分でクルクル。まあデセイが動く動く。

●こんなに素晴らしい「狂乱の場」の後にエドガルドのアリア。どうするんだろう?いっそ、もうここで終わりにしちゃった方がいいんじゃないの?などと思ったのですが、エドガルド役のポレンザーニは、そのような条件の中でも立派に歌いきりました。情熱的に声を張るというのではありませんでしたが、感情のこもったピアニッシモを聴かせていて、とても感動しました。このエドガルドのアリアが、「狂乱の場」と2曲で1対の構成になっていることが分かった、頭では前から理解していましたが、心で初めて分かりました。「天上で待っています」「いま君のところへ行くよ」っていう2人の繋がりが見えたんですね。アリアの後半で、死んだルチアが出てきたんです(アリアの歌いだしでは、まだ生きていました)。下手に麦わらが、いえ本物ではなくファンタジックな麦わらが積んであって、その中からバッ!と死んだルチアが出てきた。さっきまで血まみれの花嫁衣裳だったのが、いまは純白に変わっている。エドガルドと付かず離れず絡んだかと思うと、下手に行って踊りを踊りだす、天上の踊りを、ゆったりと両手を上げてヒラヒラ、いや、とても文章では表現できません、単純で短くて印象的な踊り。エドガルドが死んでしまうと、ルチアは下手の壁(舞台のプロセニアム部分)にもたれて笑っている、エドガルドが「こちらに来る」ことを喜んでいるような悲しんでいるような何とも形容のつかない不思議な笑いを、声を立てずに、かなり強いアクセントをつけて笑っている。そして幕が下りてきた、最後のアリアを歌ったのはエドガルド、でも主役はやっぱりルチア、だってプリマドンナ・オペラなんですから。

●「我が先祖の墓よ」というアリアを聴くとき、いつも、エドガルドの気持ちになって聴いていたのですが、「天上で待っているルチアの気持ち」をポーンと提示されて、ポロポロ泣いてしまいました。《ルチア》を観て泣いたのは初めてでした。無言で舞台に立って持ちこたえる演技力、…素晴らしかった。(もちろん、エドガルドも良かったのです。)

●私が思い描いている《ルチア》とは全く異なる《ルチア》だったのですが、何の不満もありませんでした。カラス信奉者の私にとって、「《ルチア》の上演に何の不満もない」ということが、どれだけ奇跡的であることか。デヴィーアが日本で歌ったとき、とても感動しましたが、エドガルド役のアルバレスと様式が噛み合わない気がして、完璧とはいきませんでした。今回、ニュー・プロダクションではなかったのに、まるでデセイのために創られたかのように全てが揃った、フランスの奇跡。日本の奇跡を見慣れた目に、新鮮な衝撃でした。

●そう、「狂乱の場」では、グラス・ハーモニカが使われていました。確かに幻想的でしたが、小回りが利かないといいますか、細かい音符は追いかけられません。カデンツァではほとんど役に立っていなかったと思います。それからカバレッタ「苦い涙をそそいで」では、普通にフルートで演奏していました(ちょっとグラス・ハーモニカが重なっているという感じだったと思います)。

2006年10月 4日 (水)

《ロベルト・デヴリュー》

ヨーロッパ旅行記

ドニゼッティ《ロベルト・デヴリュー》ウィーン国立歌劇場

2006年9月24日19時

エリザベッタ:エディタ・グルベローヴァ

ノッティンガム侯爵:ロベルト・フロンターリ

サラ:ソニア・ガナッシ

ロベルト・デヴリュー:ジョセフ・カレヤ

指揮:フリードリヒ・ハイダー

演出:Silviu Purcarete

●てっきり、時代設定を現代に移し変えた演出でやるのだと思い込んでいたのですが(なぜそう思い込んだのかは不明)、時代物として上演していました。もう何度も上演していて、実際に観た方がインターネットでいろいろ書いていらっしゃるようです。舞台写真を載せているホームページもありました。幕が開くと、舞台上も客席になっている。見回せば360度ぐるっとボックス席、といった趣き(別にウィーン国立歌劇場の客席を模しているわけではありませんが)。合唱は「観客」として出たり入ったり。ロイヤルボックスには王冠の飾りが付いています。「ボックス席=palco=処刑台」というマニアックな洒落か?と思いましたが、いやいや、グルベローヴァは「この劇場の」女王である、という意味なのでしょう。

●ワタクシ、歌舞伎では掛け声って掛けたことがないのですが、オペラではブラボーを叫んだことがあります。歌舞伎の大向うの場合は、芝居の進行中に掛けることになるので、何だか下手な掛け声で邪魔しては畏れ多いと思って掛けません。オペラでは、他の人の声援に紛れて、どさくさに掛けちゃったことが何度か…。そして、私が一番初めにブラボーを掛けたのが、1998年・新国の《セビリアの理髪師》でフィガロを歌ったロベルト・フロンターリ。《セビリア》を生で観たのは、確かあの時が初めてだったのではないかと思います。それまで、「私は町の何でも屋」の良さってよく分からない、「フィガロフィガロフィガロ」って何だよ!などと思っていたのですが、フロンターリが出てきたら、「このアリアはスターが歌うアリアである」ということがスッと納得できて、一気にハマってしまいました。登場した瞬間に、何か「スターの華やかさ」を感じたんですよねぇ。で、今回私が観た《ロベルト・デヴリュー》では、フロンターリがノッティンガム侯爵を歌う予定で、ああ久しぶりに彼の歌が聴けると思って楽しみにしていました。彼がノッティンガム侯爵を歌っているCDが発売されていまして、それは聴かないようにしていたのですが、付属のブックレットに掲載されたフロンターリの舞台写真が素晴らしい。「女王陛下が親友サラのために選んだ男」、何か憂愁の貴公子という感じで、私は「理想のノッティンガム像」をこの写真に見ていました。で、今回の公演を観てみますと、これがまあ、フロンターリが全然良くない。「なぜ私はこの人にブラボーを掛けたのだろうか?」と疑問に思うほど精彩がありません。ヴィジュアル的にも「あの写真と違う~!!」という不満がありました。フロンターリって、写真ごとに顔が違う気がしませんか?あなた本当にフロンターリなの?みたいな。

●ジョセフ・カレヤ(カレハ)は、一応いま売り出し中のテノールってことになるのでしょうか。私は、彼の歌は、あまり好きになれません。録音に残っている歴代のロベルト歌いと比較すると、かなり聴き劣りがします。ひと声で「あ、カレヤだ」と分かる声、それは良いことだと思いますが、しかし周期の細かい、不規則なビブラートが入っている。そして一本調子。何より決定的なことに、オケと合わせず勝手に歌っている場面があったのです。一幕の女王陛下との二重唱、私の大好きな場面が、カレヤのせいでグズグズになってしまいました。カレヤは早いテンポで歌いたがり、指揮はゆったり。彼はオケを置いてけぼりにするほど偉い歌手なのか…?テンポに関しては、最終的には歌手が折れなくてはいけないと思います。その場面だけのことだったのですが、女王との二重唱でそんな勝手なことをするなんて、信じられませんでした。

●サラ役を歌ったガナッシは、一瞬「あれ、太った?」と思いましたが、ずっと見ていたら「いや、前からこんな感じだったかも」という気がしてきました。たいへん美声で、メゾとしては高い音域をガンガン出していて、この役には良かったと思います。

●観る前から分かっていましたが、とにかくこれは「グルベローヴァのための舞台」でした。第1幕の「早く来てロベルト」という内容のアリアの超絶技巧には口あんぐり。緩急・強弱の自在さ、コロラトゥーラという言葉の意味が改めてはっきりと分かるようなものでした。これが、これこそがコロラトゥーラ。1本の絹糸のような、濁りのない伸びやかな声、もう奇跡としか言いようがない、しかし、その奇跡もあと何年続くのだろうかと思うとき、このエリザベッタという役柄と「グルベローヴァの現在」が妙にオーバーラップして、木から落ちる寸前の爛熟の果実を味わうような、格別の陶酔がありました。とにかく今、生で聴いておかなくてはいけない歌手。今さら言うまでもありません。声量もありましたし、この作品らしく、かなり強い演劇的なアクセントをつけた発声もしていました。そして最後のアリアは、終結部を合唱なしで一人で歌いきり(確かそうだったと思います)、最後の高音を長々と引っ張って幕。貫禄。

●オーケストラは、グルベローヴァの声にネットリと絡み付いていく感じ。婦唱夫随ですか。

●私は本当にこの《ロベルト・デヴリュー》という作品が好きになってしまいまして、もっと上演されればいいのに、ああ「ロベルト・デヴリュー普及委員会」の会長にでもなろうか、というくらいの勢いなのですが、でもやっぱり、特別なソプラノだけ、プリマドンナだけに歌ってほしい、とも思います。グルベローヴァは日本で《ロベルト・デヴリュー》を歌う予定がありますよね。それを契機に、《ロベルト・デヴリュー》フィーバーが起きると良いのですが(って、一体どんなフィーバーなんだか…)。

●ドニゼッティの「女王三部作」は、イギリスで上演されることもあるのでしょうかね。特に、コヴェントガーデンで上演されたことがあるのかどうか知りたい(あるわけないか?)。うう《ロベルト・デヴリュー》の上演年表とか手に入らないかな。歌舞伎なら演目ごとの上演記録も手に入るのに。歴代の配役とか分かったら楽しいだろうなぁ…。

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