ペーザロ旅行記
ロッシーニ・オペラ・フェスティバル(ROF)
《オテッロ》
2007年8月14日(火)20時 Adriatic Arena Teatro1
オテッロ:グレゴリー・クンデ
デズデーモナ:オルガ・ペレチャツコ(?)
エルミーロ:ミルコ・パラッツィ
ロドリーゴ:フアン・ディエゴ・フローレス
イアーゴ:ホセ・マヌエル・ザパタ
指揮:レナート・パルンボ
ボローニャ歌劇場管弦楽団
演出:ジャンカルロ・デル・モナコ
●オペラが目的の海外旅行は、今回で6回目。これまでは、もちろん演目によって当たり外れはあったけれど、目当てだった演目が外れだったことはありません。期待以上に感動・興奮して帰ってくるのが常でした。もう「打ちのめされた」「人生観が変わっちゃう」くらいの感動だったわけです。ところが今回のペーザロ旅行は、どの演目も期待ほどじゃなくって、これならフローレスが出演するヨーロッパの歌劇場に行った方が、ちゃんとしたプロダクションをまとめて見てこられるなぁ…、なんて思っていたのです。(今回はオペラ以外に、ペーザロならではの楽しみもありましたけれど、それについては別に書きます。)
●ところが、そんな私のペーザロ旅行に救い主が現れた!それがグレゴリー・クンデ様でございます。休演したフィリアノーティの代わりにオテッロを歌ったのですが、これがまあ最高のオテッロでして、太い声なのによく転がり、高音までパーンと駆け上がる、天晴れ武者ぶり。ヴィジュアル的にも、この役にふさわしい凛々しさを備え、演技も堂々としたもの。11日に見たときは、オテッロ役のボートマーが出てくるたびに気分が盛り下がる(=水を差される、とも言う)感じだったのが、この日は嘘みたいに興奮が連鎖してゆく。この作品って、登場人物が入れ替わりに歌っていくような、いわゆる「番号オペラ」だと思うんですけど、歌手が揃うと、次の場面へちゃんと興奮がつながっていくんです。「ロッシーニのオペラは、優れた歌手によって真の価値をこの世に出現させる」ってことを、今回のペーザロ旅行で目の当たりにいたしました。いかに作品そのものが素晴らしくても、感動は上演次第。いえ、何の作品でもそうなのでしょうけれども、特にロッシーニ、ましてや《オテッロ》。オテッロ、ロドリーゴ、イアーゴ、3人ものテノールがビシッと揃うなんて、この世の奇跡?ペーザロの奇跡?と思って、救い主クンデ様に感謝を捧げました。
●グレゴリー・クンデ様は、2000年、《ドン・ジョヴァンニ》のオッターヴィオ役で新国に出演しています。見たはずですけど、記憶にない。ペーザロの町で売っていたクンデ様のロッシーニ・アリア集CDを買ってみたのですが、意外と声が荒れています(オテッロでは、そんなことはなかったのですが…)。高音を無理して出しているような部分も感じられました。しかし、強弱・緩急、また装飾音などによって、曲想に変化を持たせようという意図があり、なかなか私の好みのテノールです。聞いていて、とても面白い。ただ、《ラ・チェネレントラ》のドン・ラミーロ王子のような優男系の役を演じるには、声が太すぎるように思いました。やはり勇士の役、そうオテッロを歌うために生まれてきたのでは?というくらい、今回の公演では輝いていたのです。
●ロッシーニの《オテッロ》は、ロドリーゴの比重がとても大きいところが特色です。オテッロと対照的な役柄として、対等のポジションを与えられています。それだけに、最高の聞きどころは、2人の対決の二重唱でしょう。クンデとフローレスの二重唱はもう最高に盛り上がりました。声の音色の対比も素晴らしかった!(フローレスは、この二重唱をカサロヴァと一緒に歌った録音がありますが、比較になりません。やはりオテッロ役はテノールのものだと思います。)
●この作品の合唱に動きをつけるのは、非常に難しいものだと思う。今回は、演奏会形式に毛の生えたような演出でした。この作品の合唱が生き生きと動くさまを是非見てみたい。
●デズデーモナが歌う「柳の歌」には、「狂乱の場」の萌芽を感じる。それはルチアの「狂乱の場」のような激しいものではないけれど、突然「イザウラ、イザウラ!」と言い出すデズデーモナには、もう周りが見えていない。エミーリアがいることは分かっているにしても、外界をシャットアウトして、ただ自分の心の中の風景を綴っている。
●私は子どものころ空想癖が強くて、よく「目を開いているのに何も見ていない」という状態になった。友達に注意されたりした…。『めぞん一刻』の五代君みたいな感じ(分かります?)。
●狂乱の演技、「目を開いているのに何も見ていない」という演技は、歌舞伎俳優はみんな出来ます。巧拙はあるにせよ、これが出来ないと「保名〔やすな〕」が踊れません。それほど難しくないと思う。ところがオペラ歌手は、ほとんどの人が出来ないんです。突飛なことをするのが狂乱、などと思っているんじゃないですか。歌舞伎では演技法が共有されているのだけれど、オペラだと個人の技量だのみになってしまう。今回デズデーモナを歌ったオルガ・ペレチャツコは、「やろうとして失敗」という印象でした。ただウロウロしているだけになってしまって…。
●「柳の歌」のripetevaの部分の音形は、柳の枝が風に揺れているさまを表していると思う。「柳の歌」は4節形式になっている。形を変えながら4回歌われる。2節目のripetevaの部分は、1節目の音形に少し装飾音を付けて歌う。しかし3節目の同じ箇所de’miei lamentiは、2節目のripetevaの装飾音を更に発展させて歌っちゃ駄目なんです。その直前にne piu ripeta(もう繰り返さないで)と歌っているからです。柳の枝を、装飾音で揺らしちゃ駄目なのね。カバリエの録音なんか上手く歌っていると思う。楽譜にどう書かれているか知りませんが、歌手や指揮者の感性が問われる部分だと思います。今回のパルンボは全然駄目でした。
●今回の公演と関係ありませんが、「柳の歌」はカバリエの録音が最高です。このアリア、つい「終わり方があっけない~」なんて思ってしまいますが、カバリエはピアニッシモを引っ張って決めています。すごいです。(もう手に入らないアリア集かもしれませんが…。)
●この作品は台本に不思議なところがあって、「オテッロとロドリーゴの決闘は、どうなっちゃったの?」「イアーゴは誰が成敗したの?愛の神って何のこと?」「なぜエルミーロは突然オテッロを許すの?」など、終盤に疑問が噴出します。でも、いいんです。どうでもいい場面は、いちいち説明しなくていいの。
●ロッシーニの《オテッロ》の主題といいますと、「この人は私のことを好きなのか、好きでないのか?…疑いだしたら答えは分からない」「他人の考えていることは結局分からない」ってことだと思う。ちょっと哲学チックです。ヴェルディの《オテッロ》はまた趣きが違う。「栄光と挫折」とか、「苦悩する英雄」とか、「嫉妬」とかですね。
●「この人は私のことを好きなのか嫌いなのか」ということは、人間関係の最も基本となる情報であり、何となく伝わってしまう、分かる、などと言います。子どもなんかは、親から愛されているかどうか、敏感に察知するものではないでしょうか。しかし、本当のところは分からないものだと思う。人間は嘘がつけるから。嘘がつける言葉で、一体何を伝え合おうというのか?
●むかし聞いた話で、いい加減な記憶ですけれども、養子を取ると、その子がわざと悪いことをするようになるのだそうです。まれに、そういうことが起こるらしいです。わざと悪いことをして、養父母がどこまで自分のことを愛しているのか試そうとする。1度許すと、次はもっとエスカレートした悪さをするようになる。
●オテッロは、なぜデズデーモナの言うことではなくイアーゴの言うことを信じてしまうのか。当時はケータイもメールもありませんし、気持ちを伝える手段が限られていた、ということも勿論あるでしょう。しかしデズデーモナは、何度かハッキリと自分の気持ちをオテッロに伝えています(E ver: giurai…やSono innocente.)。もっと何度も何度も言えば伝わったのでしょうか?
●ヴェルディの《オテッロ》では2人は完全なる夫婦なのですが、ロッシーニの《オテッロ》では自分たちで誓い合っただけで、親が許しているわけではありません。これは1つ大きなポイントだと思います。オテッロは、初めから「自分じゃ駄目なのかも」と感じていました。(登場のアリアにも、そういう気持ちが出ていますね。)
●最後の寝室の場面で、デズデーモナがAmato ben!(愛しいあなた)と言ったとき、オテッロは、彼女が寝ているのか起きているのかを気にします。そして寝顔を見て、今の言葉は嘘で言ったのではない、と分かる(寝ていると嘘はつけないから)。しかし、ロドリーゴに向けて言ったのだ、と勘違いしてしまう。…勘違い?
●同じ言葉を真ん中にして、言う側と聞く側、考えていることは別々です。聞く側は、「自分はこう思う」という形で聞く。その人だけの考えなんです。言った人の考えとは別。だから、「言葉があれば伝わる」ってわけではないんです。
●「この人は私のことを愛しているのだろうか?」という、考えても分からないものより、「私はこの人のことを愛しているか?」という基準で生きていくのが、いいのではないかと思います。そもそもオテッロはデズデーモナのことを愛していたのだろうか?好きだったのは間違いないだろうけれど…。
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