鐘に恨みは
先日、能の『道成寺』を見てきました。私がこれまで一番多く見ている能は、断然『道成寺』だと思います。かなり上演頻度が高い作品ですよね。
隣の席の爺さんが、ガサガサと謡本をめくりながら『道成寺』を見ていて、ダサい爺さんだなあと思いました。そんなに年を取っているのに、まだ『道成寺』を見ながら謡本が必要なのかと不思議に思いました。
私も、能を見始めた初期の頃は、詞章のコピーを膝に広げながら舞台を見ていたこともありましたが、すぐにそれはやめました。詞章は事前に読んでおき、見る時は舞台に集中したい。ガサガサ音がするのは本当にダサいことですし、年を取ってダサいのは本当に惨めです。
以前、タブレットに謡本を映して詞章をチェックしながら舞台を見ている人がいて、能の客席は変な人が多いなあと思いました。
能『道成寺』は、安珍清姫伝説に基づいていますが、あくまでも後日譚であり、伝説そのものではありませんよね。文楽の『日高川入相花王』や、組踊の『執心鐘入』のほうが、まだしも伝説に近い形を残しています。文楽『日高川入相花王』は、川を渡る場面しか現在では上演されません。清姫が蛇に変わるところが最も劇的な場面であり、浄瑠璃化しやすかったのでしょう。逆に言うと、鐘の場面は芝居として描きにくかったのではないでしょうか。
能の『道成寺』のあらすじを説明するのは難しいと思います。「物語」と言うほどの何かが起こるわけではない。物語が起こったのは過去のことであり、「思へばこの鐘うらめしや」と女は言うけれど、いま鐘の中に安珍はいないのです。安珍がいないのに、鐘だけを恨み続けるのは、おかしなことだと思いませんか。それは「物語」ではなく「詩」であると思う。しかも、言葉で表す詩ではなく、舞で表わす詩であって、説明できない。
『松風』を見ていても、すでに死んでいる行平をまだ待ち続けていることへの不思議さを感じるものです。死ぬとそこで時が止まり、ずっと同じ気持ちのままで苦しみ続けなければならないのですね。止まった時をもう一度流れさせる鐘の供養によって、苦しみが消えるかと思ったのに。
歌舞伎の『京鹿子娘道成寺』は、能の『道成寺』とは別の理由で鐘を恨んでいると思います。
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