つぶやき

2019年5月28日 (火)

私の心のリージョンコード

オペラのDVDも、あまり買わなくなりましたねえ。
「買ったのに見ていないDVD」が山積していますから、その上さらに購入するのは馬鹿の所業ですよね。
でもたまに買ってしまうことがあるんです・・・。うう~ん。

近年はタワレコのオペラコーナーが品薄ですし、ネットで購入することになるわけですが、その際は「日本語字幕が付いているか」ということを確認いたします。日本語字幕が付いていなくても楽しめる演目、すでに内容が頭に入っている演目、というのはその人のオペラマニア度によって違うと思いますけれども、私の場合それほど多くない。
っていうと「興味はあるけれど字幕が付いてないから諦める」ということもあります。

字幕なしでも楽しめる演目の場合、リージョンコードを確認いたします。買ったのに見られないんじゃ仕方がない。

そもそも、リージョンコードっていうのは、何なのでしょうかね?貿易障壁?
よく知りませんが、中国なんかですと「日本のアニメーションは国民に見せない」という政策になっているそうですよね。
他のアジア諸国では、子供が「ドラえもん」とか「一休さん」などの日本アニメを見て育つ国もあるそうですが、それだと自国の独自な文化が薄まっていくと言うか、感覚が日本と似てくると言うか、それではイヤだという国もあるでしょうね。

独自の文化をどのように守っていくか?別に守る必要はないのか?
日本は何も守らないですね。時代の流れに翻弄されて。

日本とヨーロッパは、同じリージョンコードですが、NTSCとPALで規格が違うからDVDが再生できない。規格の違いは単に商業上の覇権争いですよね?
日本とアメリカは、同じNTSC方式ですが、リージョンコードが違うから再生できない。
日本とアメリカのリージョンコードが違うのは、どうした理由によるものなのだろうか?
日本は敗戦国としてアメリカ文化に染まっているというのに、アメリカはこの上まだ日本に見せられない情報でもあるのだろうか。
「スターウォーズ」のDVDを買う時、安い輸入盤ではなく、高い国内盤を購入せよ、ということだろうか。
(「スターウォーズ」を字幕なしで楽しめる日本人はあまりいないと思われるので、その線はない)

インターネット上には、DVDのリージョンコードに相当するものはあるのだろうか。
中国は他国のネット情報を締め出しているという話も聞いたことがありますが、日本はどうなのでしょう。

海外からの情報は、どのように操作されているのだろう。その操作方法は知らされているのだろうか。

日本は現在のロシアの情報をちゃんと取得できているのでしょうか?
(規制されていなくても、解読できなければ同じことですが)

このあいだ新国立劇場でチェーホフの「かもめ」が上演されたのですが、イギリスの劇作家トム・ストッパードが書き直した台本で上演されて、あら、日本って英語経由でロシアを理解する国だったんだっけ?と驚いた。トム・ストッパードがやったような作業を日本人の視点から行う日本人
はいないわけなんですね?

アメリカで銃の乱射事件があると日本で大きなニュースになるけれど、無限にある世界のニュースの中から、なぜそれが選ばれて報道されるのか、よく分からない。

2019年5月26日 (日)

国立劇場のホームページ

国立劇場のホームページが酷いという話の続きです。
駄目なところはいろいろあるのですが、まず「出演者の顔写真が載っていない」というところが駄目だと思うのです。
歌舞伎で「特設サイト」を作った場合は顔写真が掲載されるのですが、そうでない場合は載らないんです。つまり基本的に載っていないんですね。

私が職場でそのような話をしますと、「ちらしのPDFが貼ってあるじゃないの」という展開になることが多いです。でも「ちらしのPDFが貼ってある」というのは、ウェブサイトの作り方として、かなり低級な情報提供ですよね。
時代の流れを考えれば、紙のちらしを作成することに力を注ぐよりも、ウェブを見やすくするほうが、宣伝効果が高いのではないかと思うのですが、どうでしょう?

ちらしに顔写真が出ていればまだ良いほうで、国立能楽堂なんて名前だけです。しかもホームページの公演情報ではシテ1人の名前しか出ていない。
私が職場でそのような話をしますと、「国立能楽堂の公演はいつも完売だから、宣伝にお金をかける必要はない」という展開になることが多いです。しかし「国立能楽堂の主催公演が完売ならそれでOK」というような考えでは駄目だと私は思うのです。能楽の公演はどんどん観客層が薄くなっていて、よそでは空席が目立ちます。能楽師はただでさえ面をつけていて顔を覚えにくいところがあるのですから、公演の機会にちゃんと顔写真を出して、観客に覚えておいてもらわないと困ります。他の能楽堂がやっていなくても、国立能楽堂が率先して出演者の顔写真やプロフィールをホームページに掲載すべきだと思うわけなのです。
新国立劇場なんて、研修発表公演でさえも出演者の顔写真を載せています。
そういう部分のお金を惜しむのはおかしいと思うのです。

私が職場でそのような話をしますと、「新国立劇場は寄付を集めてやっているのだから、うちとはお金の使い方が違うのも当然だよ」という展開になることが多いです。
それは全ての費用を寄付でまかなっているのならば私も何も言いませんが、新国立劇場は舞台スタッフを全て税金でまかなっているでしょう。国立劇場よりも広範囲にわたって、国立劇場よりも多額の税金を投入しているのに、それは自己財源でやってるからと言われても、意味が分からないです。つまり国立劇場や国立能楽堂の現状に納得がいかないわけなのです。

新国立劇場の英語版ホームページは、イギリス人スタッフがデザインしているのだそうです。
国立劇場の英語版ホームページとの落差というものを、評価委員の方々はどのように考えているのでしょうか?


水商売

国立劇場・・・。
平成7年に就職したのですが、ずいぶん変わりましたねえ。外から見ているとあまり感じないかもしれませんが。

劇場の切符売場、場内案内の仕事は職員がやっていたのですが、私が就職してほどなく、外部委託となりました。
(職員にもいろいろな身分がありましたけど)

ここ数年、高齢者採用も増えました。
よその職場で60歳定年で退職した方を採用して、65歳まで働く形。
特任事務員も増えました。
1年契約で、最長3年まで更新できる形。
要するに、退職金を払わなくていい雇用形態ですね。
同じ仕事をしているのに、ずいぶんな待遇だなあと思うのです。

しかし、職員である私も、将来ちゃんと退職金がもらえるんだか?ちゃんともらえない気配が濃厚となってきましたから、さして待遇は変わらないのかもしれません。

3年間働いて、職場を去って行った特任事務員の方が、よそで3年働いて、また戻ってくる・・・という例も見るようになってきました。

人事を担当する部署は、人事労務課と言います。むかしは人事課と言っていたのですが、途中から人事労務課に変わりました。どう違うのか分からない。福利係と言っていたのが福利なんとか係になったり、部署の名前がどんどん長くなっていって、しかも途中で変わるので、どうせまた変わるんだろうと思って、名前を覚える気もしない。

いま人事の人は大変みたい。任期満了にせよ、途中にせよ、大勢の人がやめていきますし、そのぶんまた雇わなければいけない。募集したり面接したり本当に大変。給与も新たに計算しないといけないわけでしょう。

こういう流動的な雇用形態って、アメリカから来ているんですかねえ?

私の場合、2~3年に1度の周期で人事異動があって、いま10箇所目の職場で働いています。異動があって新しい職場へ行くと、これまでと全く違う仕事をすることになり、転職を繰り返しているのとあまり変わらないんじゃないかなあと感じます。
そして、あまり専門的な仕事は出来ないのではないかと思います。
具体的に言いますと、ずっと編集の仕事をするのだと思えば、Photoshopを覚えようとかInDesignを習おうかとか考えるでしょうけれど、3年しかいないのに出来ない。
(もっとも編集の仕事をやり始めたらそんな時間は取れないと思いますが・・・)
先の予定が立たないですよね。

私が就職する前くらいまでは、あまり異動もなかったのだそうです。ずっと同じ部署で働いている人が多かった。

なんでこんなにくるくる異動があるのかと考えますと、「やってられない」と思う人が多いのではないかと推測されます。「もうこんな部署では働いていられない」という人がいると、人事異動があって、その人の気持ちが新たになり、辞めずにすむ。
「もうこんな部署では働いていられない」と人が思う部署は、いつも同じ部署。変えられない。

そして、聞いた話では、うちの監督官庁である文化庁がさらに人事異動が激しいのだそうです。1~2年で別の部署らしいです。

「ゆく河の流れは絶えずして、しかももとの水にあらず」などという言葉が思い浮かびます。

日本にはいろいろな芸能があって、1つの分野だけでも、有名な演目を見るのに数年はかかります。2年間で何が出来るのかなあ?と思います。

2019年5月23日 (木)

国立劇場のホームページが酷い

国立劇場のホームページは酷いと思うのです。
職員同士でも、よく話題になります。「酷いよね」って。
でも「酷い」と思っている職員には変える権限がなく、変える権力を持っている人は現状で満足しているみたい。
評議員とか一体何を評議しているんでしょうかね?劇場の顔とも言うべきホームページをあの酷い状態のまま20年近く放置しておいて、一体何を評議しているのでしょうか?

国立劇場のホームページのどこが酷いかと言いますと、ひと言で言えば「ゴチャゴチャしている」ということなんです。1つのページに情報を盛り込み過ぎている。あれも目立たせたい、これも目立たせたいと思って、詰め込みすぎて、全てが目立たなくなっている。
情報の種別や軽重や順序を整理せずに、全てを均等に扱って、無秩序な状態になっている。
つまりデザインされていないのです。デザイナーを置いていないのですから当然ですけれども。
悪いウェブページの見本として授業に使えそうなくらい酷いです。

まず劇場を1つ選択しますでしょう。そうしたら、次に公演情報、交通案内、等級別の座席表、チケット購入。それだけあれば、一応の用事は済んでしまいます。それが根幹であり、他のことはあくまで枝葉ですね。肉付けと言ってもいいです。
1度「国立劇場」を選んだら、その後はもう「国立演芸場」とか「国立能楽堂」とか全く出てこなくていいんです。調べたければ1度ホームへ戻ればいいんですから。1度に出ている情報が多すぎるんです。字が細かくて見る気力が削がれます。字が小さくて潰れていて拡大表示しても読み取れないです。

英語版のホームページは更に酷いです。外国人対応が、インバウンドの取り込みがと声高に言うわりに、最も重要な英語版ホームページがあまりに酷くて、計画も点検もないものだと思います。もう20年近くあの酷い状態のまま放置されています。
「歌舞伎」「文楽」「能楽」など、芸能の紹介はトップページになくていいと思うんです。確かに興味はあるでしょうけれど、それを調べに来たんじゃないんですから。

とにもかくにも、「担当部署が存在しない」「誰も全体を考えていない」ということが問題の根源だと思います。


2019年5月21日 (火)

国立劇場のチケット売場

国立劇場のチケット売場は良くないと思うんです。

まず、出入口のガラスにベタベタとたくさん貼り紙があって見苦しいでしょう。表示が汚いです。
出入口が2か所あるのですが、入口と出口が別になっていて、こちらが入口っていう大きな表示が何枚も貼ってある。
出入口が混み合うわけでもないのに、なぜ入口と出口を無理に分ける必要があるのでしょうか?

私は発券機を使うだけなのに、発券機から遠いほうの入口から入らねばならず、そして入ったらいきなりパーテーションが迷路みたいに並べてあって、なかなか発券機までたどり着けない。

客が並んで待たなければいけないほど混雑しているところを一度も見たことがないのですが、あのパーテーションは何のために出しているのでしょうか?売り出し日だけ並べるというのでは駄目なのでしょうか?

チケット売場なのにチケットと関係のない質問をしてくる人がいっぱいいるのだとは思いますが、質問できる場所はあそこしかないのですから、総合案内のような役割も兼ねていると思うのです。

たとえば歌舞伎座であれば、開場時には「分からないことは私に何でも聞いてください!」っていう感じの係員が2~3人走り回っています。

国立劇場でも、カウンターの手前で「どういったご用件でしょうか?」と対応する係員がいてもいいくらいだと思うのです。

国立劇場のチケット売場は全く良くないと思うんです。

2019年5月17日 (金)

スマホは脳のエスカレーター

あれっ?えーっと、何て名前だっけ?出てこない。
うーん、この名前が出てこないはずがないのに。ついこの間まで覚えていたはずなのに。
どうでもいい名前は出てこなくても仕方がないけれど、この名前が出てこないのはヤバいのでは?
47歳で、もうボケてしまったのだろうか?
だって悲しい記憶の数ばかり飽和の量より増えたなら忘れるよりほかないじゃありませんか。
いやいや、こういう時に諦めないで、じっくり思い出せばいいんだよな。
みんなすぐスマホで検索しちゃったりするわけじゃない?
使わないと脳が退化するんだよね。
エスカレーターにばかり頼っていると足腰が弱くなって、どんどん歩けなくなっていくのと同じ。
スマホに頼っていると脳の足腰が弱っていく。
思い出そうとすれば、結構思い出せるものなんだよね。
検索は最終手段ね、最終手段。

(数時間後)
あれっ?何を検索しようとしてたんだっけ?

2019年5月13日 (月)

鬼薊

きのう、浪曲の『祐天吉松〔ゆうてんきちまつ〕』を聞いてきたのですが、重要な部分で「般若湯〔はんにゃとう〕」という言葉が出てきました。私は歌舞伎が好きなので般若湯は知っているのですが、聞いている人はみんな分かったんですかねえ?

能は見る前に予習をしないとつまらないと思いますが、浪曲は事前に何も知らないほうが、意外性があって楽しめると思うのです。能と違って、そんなに難しい言葉は出てきませんしね。でも若い人は意外と聞き取れないのかもね。

『祐天吉松』の中に、お坊さんが出てくる場面がありました。そこで「鬼薊〔おにあざみ〕」という言葉が出てきました。
坊主に鬼薊と言えば、歌舞伎が好きな人には『小袖曽我薊色縫〔こそでそがあざみのいろぬい〕』という演目が思い浮かぶと思います。
主人公は鬼薊清吉〔おにあざみせいきち〕という元・坊主。
でも鬼薊は清吉のことだけを表す言葉ではなかった。
薊というのは、「葱坊主」と同じように、その形状から「坊主頭」のことを表しているということが、きのう分かったのでした。
そしてそれは、普通の坊主ではない。


2019年5月12日 (日)

ネットで検索

YAHOO!で何かを検索しようとすると、「キーワード入力補助」というのが検索語を予測してくれるのですが、「京鹿子娘道成寺」を入れようとしたら、「京鹿野子娘道成寺」とか「京鹿子娘道明寺」とか、ちょっと違うものが勝手に出てくるのです。(試しにやってみてください)
この「キーワード入力補助」は、検索の実績が多い言葉が自動的に出てくる仕組みなのでしょうか?「娘道明寺」とは一体どうしたことでしょう。
(そして正確なキーワードは表示されないのでした)
使っている人のレベルが低いのでしょうか?

そして、検索しても、広告とウィキペディアと辞書くらいしか出てこなくなった。
以前は、もう少し面白い記事が引っかかったような気がするのだけれど。

一体YAHOO!のニュースは、誰が編集しているのでしょうかね?
どういう基準で記事を選んでいるのでしょうか?
内容が馬鹿すぎでは?

そしてまた、各記事に3つだけ付くコメントが輪をかけて馬鹿すぎる・・・。

もう少し洒落たポータルサイトが登場しても良さそうなものなのに。

私は前から不思議なのですが、なぜ「インターネット上にウイルスをばらまく犯罪者を特定して厳罰に処す」ということが実施されないのでしょうか?いい加減、そのくらいの技術が開発されても良さそうなものなのに。

いつになったらAIが勝手に仕事をしてくれる時代が来るのかな~。

2019年5月 9日 (木)

駅の発車サイン音

近年、電車の発車サイン音を変更する駅が増えていますね。むかしはベルやブザーといった、けたたましい警報が使われていましたが、この頃は何か有名な楽曲から引用した短いメロディーが多くなりました。

JR上野駅の発車メロディーが、オペラ《トゥーランドット》のアリア「誰も寝てはならぬ」になったのをご存じでしたか?聞いた時は、上野と何の関係があるのかと思ってビックリしたのですが、今年の夏に東京文化会館で上演される《トゥーランドット》を盛り上げるために、期間限定で採択されたのだそうです。
短い期間でメロディーを変えるのは珍しいのではないでしょうか?

国立劇場の最寄り駅である半蔵門駅も、昨年、発車サイン音を変更しました。候補の段階では、『越天楽』『春の海』なども挙がっていましたが、結局は文楽と歌舞伎から1曲ずつになりました。(文楽の『寿式三番叟』と、歌舞伎の黒御簾音楽から「てんつつ」)
慣れてくると、なかなかいいメロディなのではないかと思います。
「柝の音」なんていう候補も出ていましたねえ。「柝の音」は、柝を打たないと柝の音にならないんじゃないかと思いましたケド・・・。

新国立劇場の最寄り駅である初台駅は、オペラ《アイーダ》とバレエ《くるみ割り人形》を使っていますね。発車サイン音ではなく到着サイン音かな?

やっぱり陽気で洒落た曲がいいとなると、曲選びも大変ですよねえ。
むかし、JR八王子駅で「夕焼け小焼けで日が暮れて」のメロディーが使われているのを聞きました。この曲を朝や昼に聞くのは嫌だなと思いました。
JR豊田駅で「垣根の垣根の曲がり角、焚き火だ焚き火だ落ち葉焚き」のメロディーを聞いた時は、夏もこの曲を使っているのかなと思ってゾッとしました。
私が以前住んでいたJR武蔵小金井駅では、一年中「さくらさくら」が流れていて、とても嫌な感じでした。
季節や時間が合っていない曲は、嫌な感じがするものです。

たとえば能舞台の鏡板に描かれた松のように、季節と関係なく、それでいて誰が見ても納得するような、そんな松に匹敵する普遍性を持った日本のメロディーって、実はそれほど存在しないのではないかという気がする。

ところで、劇場の開演5分前のブザーって、どうしてブザーを使うんですかね?(東京文化会館はチャイムの音を使っていますが)
ブザーの音って、綺麗じゃないですよね?開演を告げる音が綺麗じゃないのって、おかしいことですよね?
柝の音や、お調べや、寄席囃子。芸能の分野ごとに、素敵な開演の合図があるのに、昭和に作った開演告知の合図が味気ないブザー音。
このあいだ行った劇場の開演ブザーは、開演5分前と開演直前と計2回も鳴って、耳からウンコ食わされているようだった。

劇場の開演の合図も、綺麗な音に変えてくれればいいのに。

2019年5月 7日 (火)

勉強し直して

物を捨てたい、けれど捨てられない。
捨てた後に「あっ、やっぱり捨てなければよかった」と後悔することもある。

買ったままになっていた「CDつきマガジン 落語 昭和の名人」創刊号「五代目古今亭志ん生」(小学館)を、パラパラと読んでいたのです。演芸評論家の矢野誠一さんが、志ん生について語っているのですが、その聞き書きの中に、志ん生の盟友として八代目桂文楽の話題が出てきました。
文楽は昭和46年夏、「東横落語会」で『大仏餅』を口演中に”神谷幸右衛門”の名が出てこず、絶句。以来、高座に復帰することはありませんでした。

いやいや、桂文楽の最後の高座は、国立劇場小劇場における「落語研究会」でしょう。「東横落語会」はその1日前ですね。そんな間違え方があるものなのでしょうか?

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