つぶやき

2017年7月 1日 (土)

つぼやき

インターネット上の記事を見ていると、「続きを読む」「記事全文を読む」などのボタンがあって、何度もクリックしないと記事が読めない、ページが表示されるまで更に時間がかかってイライラ、ということがあるわけですが、あれは何のために何段階にも分けて表示しているのでしょうかねえ。一体どういう仕組みなのでしょう。

明日は都議選ですね。昨今の政治家の腐敗があまりに見苦しいので、何とかならないものかと常々思っているのですが、私が持つ力は一票の力だけ。
だ・れ・に・と・う・ひょ・う・し・よ・う・か・な~と思って候補者のポスターを見てみたのですが、ほとんどの人が政策や意思を書き込んでおらず、顔写真と名前と経歴くらいしか載っていない。政策が分からなくて、どうやって投票すればよいのだろう?
そうして「有名だけれど無能な声のでかい人」が選ばれ、石原慎太郎氏みたいな厚顔無恥の爺さんが出てくるわけだろうか。
電力にしても豊洲にしてもオリンピックにしても、日本ってこんなに駄目な国だったのね・・・と思い知らされる失策でありました。

2017年6月27日 (火)

悲しい美術館

先日、ある美術館に行ったのです。外国人客が多くて驚きました。ほんの数年前は、そんなことはなかったのです。まあ外国人客が増えるのは日本にとっておめでたいことなのかもしれませんが、内容が古筆の展示だったのですね。字が読めないのに古筆の展示を見てどうするのでしょう?字の読めない人が、料紙の美しさだけを見るために大勢訪れるなんて、書いた人も泉下でさぞ驚いていることでしょうね。赤ん坊が泣き叫び、子供が走り回り、悲しい感じの美術館でした・・・。

先日、ある能の公演を見に行ったのです。前半のクライマックスにさしかかり、有名な「ただ頼め」の有り難い尊詠の部分、静の体を借りて観音様がこの世に示現するかと思われたその時、うしろの席の婆さんが急にビニール袋をガサガサさせ始めたのでした。もう少しで中入りなのに、なぜ今なのか?観音様も怯えて飛び去って行くくらい私は怒りに震えた。
さらに数週間前、『道成寺』を拝見しておりましたところ、いよいよ乱拍子が始まるという瞬間に隣の席の婆さんが飴の包みをガサガサ破り始めて、私は直接注意してしまいました。飴くらいで目くじら立てなくても・・・と自分でも思ったのですが、なぜ今なのか?と思うと注意せずにいられません。
あとで友人にその話をしたところ、婆さんには「どこが山場なのか」が分からないのではないかという説が立てられ、私は納得した。
字の読めない人が古筆を眺めるように能を見ているんだと思うのです。

オペラで「作」と言えば、それは作曲者のことでしょう。
バレエで「作」と言えば、それは振付家のことでしょう。
日本の伝統芸能では、「作」と言えば作詞者や台本作家のことでしょう。
つまり日本の芸能は言葉が一番重要でしょう。
音楽は言葉の壁がないから誰にでも通じて最も優れている、というようなことを言う人がいますが、私はそうは思いません。私は言葉の芸術が好きだ。美しい言葉は最高に美しい。(音楽がついていればもっと美しいかもしれませんが・・・)

見所は飲食禁止だと明示されているのに、飲み食いする人が本当に多いですね。飴なら食べていい、ペットボトルでなら飲んでいいと思っているのかもしれませんが、それは勘違いだと思いますよ。
こんな少しの時間も飲まずにいられないとは、一体どうしたことでしょう?休憩時間だけでは、なぜ駄目なのか?人間が食べる量は決まっているけれど、飲む量は決まっていないので、毎日テレビのCMで飲め、飲め、飲め、飲めと洗脳されてしまっているんでしょうか?四六時中、飲まずにいられないなんて、おかしいと思わないのでしょうか?咳が出始めたら飲んでも許されると思っているのかもしれませんが、それも勘違いだと思いますよ。飲食する場所じゃないんです。

先日、ある能の会に行きましたら、最後の太鼓を打ち終わった途端に大勢の客が席を立って帰り始めて、びっくりしてしまいました。まだ演者が舞台に残っているのに・・・。
たとえばオペラでは、終わった途端に席を立つのは、「私はこの公演が気に入らなかった」という意思表示であるとされています。
その芸能ごとに、客に求められる作法、行儀というものがあるでしょう。
私は小言幸兵衛のようにずっと文句を言い続けますよ・・・。

2017年6月24日 (土)

つぶやき

●麻央さんのご冥福をお祈り申し上げます。
立派でした。

●10月に二期会が上演する《蝶々夫人》、大村博美さんの蝶々さんが楽しみですね。値段も破格に安いですし、初めて見る人にもいいんじゃないですかね~~。

●今日、歌舞伎座の昼の部を見てきたのですが、吉右衛門さんの弁慶が予想をはるかに上回る素晴らしさで圧倒されました。きっと後の世の人々は、生の二代目を見られなかったと地団駄踏んで口惜しがり、何度も見た私に嫉妬することでしょう。

2017年6月20日 (火)

声楽のレッスン

100歳まで現役で舞台に出ていた清元志寿太夫〔きよもとしずたゆう〕さんが、93歳くらいの頃、テレビで言っていたんです。(最近YouYubeで見たのですが)
「声ってね、出すようにすりゃあ出る」
「あたしはあんまりお稽古しませんけどね」
「お稽古すると、のど悪くなる」
「みんな消えちゃいますもん、覚えようとするより、取ろうとするより、消えちまうから駄目」
「お稽古って、つまり聞くってのは、それを取らなきゃいけないわけでしょ」

ここで志寿太夫さんが「取る」と言っているのは、「師匠の芸を聞いて覚える」ということでしょう。
清元は楽譜を見て歌うわけではありません。
まず複雑な節を聞いて覚えないといけない。
「自分で声を出す」のと、「取る」のとは、別のことなのでしょう。
自分で曲が思い描けないといけないんですね。

マリア・カラスは、こんなことを言っています。
「私たち歌手は常々、器楽奏者のように演奏できることを目指して努力していかなくてはならないのですが、人間の声そのものは楽器とは違い、疲労しやすいものです。ですから、声をなるべく疲労から護るという意味で、しばしば頭の中だけで練習をしなければなりません。たとえば、これらの3連符のフレーズは、自分の部屋でひとり静かに椅子に腰掛けながら練習に取り組むには、うってつけの材料です。頭の中で何回も何回も繰り返してさらうのです。その場合、もちろん音符をひとつひとつ考えながらするのですが、声はハミング以上のものを出してはいけません。そうしていれば、いずれこれらの音が記憶に刻まれ、どのようにこのフレーズを歌っていけばよいのかが、声を無闇に使わずに、おのずからわかってくるようになるでしょう」
「偉大な伝統を受け継いでいる偉大な舞台は、大いに尊ばれなくてはなりません。そのためにも、私たちは何もかもよく知っていなければなりません。たとえば、私たち歌手というものは、自分の声の元手に手をつけるのではなく、ただその利息分だけを使っていかなくてはならない、というようなことも含まれます。しかし、もし私たちが芸術に対して正しい態度で仕えさえするならば、必要なものはすべて自動的に向こうの方からやって来てくれるものです。そうして、あなたは偉大になり、それこそ富と名声を手にすることができるようになるでしょう。ただし、実際にやるべきことは初めも、途中も、そして終わったあとでさえも、決して容易なものではないということを忘れてはいけません」

『マリア・カラス オペラの歌い方』ジョン・アードイン:著、西原匡紀:訳

2017年6月16日 (金)

密やかな停電

あれは2か月ほど前の出来事でございました。
休日、歌舞伎座の昼の部を見ることになっていたのです。
朝起きて、シャワーを浴びて、さて髪を乾かそうと思ってドライヤーのスイッチを入れたら、動かないのです。
あれ?コンセント入れ忘れてた?と思って確認したら、ちゃんと入れてある。
あーあ、ついに壊れてしまった、もう20年近く使ってるから仕方ないな・・・、
と思ったらトイレの電気も点かない。むむーん?
何と!全ての電気が点かない!!でもブレーカーは落ちていない!!
停電か!!
停電なんて、東日本大震災の時しか経験がないぞ!!
この建物は築45年くらいだから、ひょっとして、どこか配線が切れたのだろうか・・・?
それとも、この付近一帯の停電なのだろうか・・・?
私はガラケー派なのでスマートに調べることも出来ず、
もう出かけなくては歌舞伎座に間に合わないので、
そのままにして家を出てしまった。
何かすごく面倒くさい事態にならなければいいけれど・・・と強い不安を感じつつ。
(冷蔵庫の中が腐るとか、修理に数日かかるとか)
近所のコンビニは開いていたし、電車は普通に動いていた。

歌舞伎座から帰ってきて電気を点けてみたら、点いた。
そして東京電力のホームページをチェックしてみたら、停電情報が出ていないんですよ。
何だったのだろう?
翌日、管理会社に電話して訊いてみたら、付近が1時間くらい停電していたと言う。原因は不明。
その後も、東電からは何のお知らせもなかった。
これが平日で、私が出勤している間の停電だったら、私は停電があったことにも気づかぬまま、知らぬうちに冷蔵庫が何時間も止まっている、なんていうことも今後あり得るわけでしょうか?

45年間生きてきて、「電気の使い過ぎでブレーカーが落ちた」という原因以外の停電は、東日本大震災の時だけだった。
それは幸せな時代だったのかもしれない。
思えば東日本大震災はもう6年も前のこと。
優秀な若者は、東電には就職しないだろう。
6年間、優秀な新人が入ってこなかったら、一体どうなってしまうのだろう?
優秀でない人には、何もできない。
何も。

原発事故のその後は、どうなっただろう?
最近あまり話題にもならないけれど。

2017年6月11日 (日)

日本の彫刻

海外の美術館に行きますと、彫刻の展示が大きな空間を占めていることが多い。
日本の美術館は、彫刻といえば仏像くらいでしょうか。あまり展示されていない気がしますね。
(企画展はほぼ全て絵画、美術イコール絵画といった趣き)

彫刻は、1つの作品を作るのに絵画よりも時間がかかるでしょうし、手がけている作家の人数も少ないでしょうから、展示数が少ないのは仕方のないことかもしれません。

私は2012年9月にイタリアへ旅行に行った際に、ベルニーニの彫刻をたくさん見たのです。私はもう夢中になった。特にローマのボルゲーゼ美術館に展示されている「プロセルピナの略奪」「アポロンとダフネ」「アエネアスとアンキセス」には度肝を抜かれました。「脳天をハンマーで叩かれたような」「雷を落とされたような」などという形容がぴたりと当てはまる美の衝撃だったのです。
そうミケランジェロが、自身さまざまな分野の芸術を手がけながら、その頂点を絵画ではなく彫刻と考えていたというのも分かる気がしたのです。(私が感動したのはミケランジェロの彫刻ではなくベルニーニの彫刻でしたが!)
造形芸術の頂点は彫刻・・・。
しかし、それらベルニーニの代表作は日本には絶対に来ない。移動させられないので。(移送中に壊れそうだもの)
日本では、あまり話題にならないですよねベルニーニ。
日本で彫刻といえば圧倒的にロダンです。
ロダンって彫刻なんですか?粘土細工じゃなくて?鋳造の原型は何で作ったのでしょう?
私はあまりロダンの作品に感動したことがないので分からないのですが・・・。

そのむかし、ジャポニズムなどといって、日本の美術がヨーロッパでもてはやされた時代がありました。工芸品や、複製芸術である浮世絵がその中心であり、日本美術の本丸である琳派や狩野派や等伯や雪舟や若冲のことは西洋人はあまり知らないのでしょう。それらの貴重な作品群は、日本で展示するのだって大変なのに、西洋にお貸し出しできないもの。

ロダンの場合はその逆で、複製芸術のロダンが日本の彫刻界を席捲したのじゃないかしらん?

日本の街を歩いておりますと、公園でも道端でも、ヘンテコな彫刻をよく見かけます。
全然美しくないんですけど何なんですかこれ?
というようなブロンズ像です。
ローマの街を歩いていて、角を曲がった時にパッと目に飛び込んでくる美しい彫刻、こんなに何でもないように美しいものが街中に散りばめられていていいね!って感じなのですが、そういうハッとするような美しさがないんですよね、日本のブロンズ像には。どうしてでしょうかね。むしろ「うへえ」「何じゃこりゃ」「なぜこんなものがここに?」って感じなんです。

ブロンズ像って彫刻なんですか?

2017年6月 8日 (木)

なごりのカール

関西圏以外にお住いの方は、明治のスナック菓子「カール」にそれぞれ別れを告げている頃と存じます。
私も先日カレーあじ、そして本日チーズあじの最後の一袋を食したところでございます。
まさかカールが消える日がくるなんて・・・。
安いわりにかさばって、輸送費が釣り合わなくなってしまったのでしょうか。
それほど大好きというわけではなく、長い間ほとんど食べることもなかったとは言え、いつでも食べられるものと思っておりました。疑いもせず。
盛者必滅、会者定離、
アデュー、カール。
次に会う時は神の御許で。
(なんつって大阪出張の時に夜のホテルで食べちゃったりして・・・)

職場の近くの大きめの文房具屋が、知らないうちに潰れてコンビニに入れ替わっていて驚いたのでございます。
文房具屋って、潰れるものだったのですね・・・。
日本の文房具屋の、
たくさん種類があった便箋だのファイルだのペンだの、
そういうものの種類が少しずつ減っていって、
「当店には色紙はこの1種類しかありません」、
そんな選ぶ余地のない時代がやってくるのかもしれません。

コンビニで、「この商品なかなかいいな」と思っていると、
ある日突然その商品が消えている。
そんなことはありませんか。

選ぶ余地のない時代。
同じ演目ばかりやっている時代。
縮小の時代。
これからの日本は美しく縮小してほしい、
それが私の願い。
優先順位を見誤らないで、美しく。

2017年6月 4日 (日)

はじ

前川さん超カッコイイ~~。
安倍さん超みっともない~~。あれ恥ずかしくないのかな?
自分の恥は自分で見えないとか・・・?

読売日響がメシアン作曲の歌劇《アッシジの聖フランチェスコ》を上演するという。
ずいぶん力の入った公演ですし、オペラファンとしては見ておかなくてはいけないかな?と思ったのですが、発売初日にチェックしたら端の席しかなかったので、やめておきました。
この公演情報の中に、「重い皮膚病を患う人」という登場人物がテノールとして記載されているのです。重い皮膚病を患う人が、どうやって自分の人生を肯定するのだろうか?その心の推移にとても興味があったのですが、ちょっと検索してみたところ、「フランチェスコが勇気を持って触れると皮膚病が完治する」という奇跡が起こるのだそうな・・・。
奇跡の起こらない多くの人は、どうやって生きていくのだろう?
端の席しかなかったので、やめておきました・・・。

2017年5月17日 (水)

つぶやき

玉三郎さんと鼓童の『幽玄』を見てきました~。
能テイストの新舞踊といった感じで、「羽衣」「道成寺」「石橋」から成る作品でしたが、「羽衣」が特にすごかったですね~。
横一列にずらっと並んだ太鼓の一糸乱れぬ長時間連打、準備にどれだけ時間をかけたのでしょう・・・。すごい。
「羽衣」という作品は、最後に天女が空に昇っていくわけですが、浮遊感が良く出ていました。

話が飛びますが、
このあいだ新国立劇場で《オテロ》を見たのです。
カルロ・ヴェントレのオテロがもう素晴らしかった。
デズデーモナのファルノッキアは、ちらしの顔写真はおばさんっぽく見えますが、舞台では若々しく、歌も良かったです。
若々しく見えない場合ですと、「私の手はまだ何の苦労も知りませんもの」という部分で、「百も千も苦労が刻まれているくせに」などと感じてしまうのです。
いつも私が思いますには、「アヴェ・マリア」の出だしのGesù. Prega per chi adorando a te si prostra,の部分は、ノンブレスで一息に歌われなくてはなりません。
途中でブレスをすると、「駄目だこりゃ」と思ってしまうのです。
歌手は常に試されているのです。
イアーゴは何だか声が弱々しい感じでした。かと言って、演技力に長けているわけでもなかった・・・。
この作品は、台本の完成度が高いとよく言われますが、合唱が出てくるたびに物語が中断する感じがしませんか・・・?
イアーゴ主導で酒を飲む場面の繰り返しの多さには「またか!」という印象が。
そしてベバベバの部分はバリトンには高音すぎる感じ・・・。ベバベバ。(それで歌える人が限られてしまうのでしょうか?)
オテロの怒りがいきなりフルスロットルでどん引きすることがありますが、妻の浮気を妄想するシーンがあったのがいいですね。
冒頭の嵐の場面で雷の効果音を使っていてすごい迫力だったのですが、オーケストラが音楽で嵐を表現しているところにスピーカーで効果音を混ぜるのは、いただけない感じでした。最初の音量の印象が強すぎて、全体のバランスが崩れる気がしました。

2017年5月14日 (日)

眠れる森の劇場

昨日、新国立劇場でバレエ《眠れる森の美女》を見て来ました。
大勢の女性が順番に少しずつ踊る、といった趣きでした。要するに、男性の存在感が薄い感じ・・・。

「バレエダンサーはバレエの奴隷」という言葉が示すように、ダンサーは毎日ずっとレッスンをし続けなければならないでしょう。
けれど踊れるのは成功した人でもせいぜい40歳くらいまで、その後バレエ教室を開くというのもなかなか険しい道ですし、バレエを志す男性は本当に希少ですね!

ピアニストは、物心のつかぬ幼少の頃から毎日1日6~10時間練習し続けないと舞台に立てませんし、牧野邦夫という画家は「1日12時間以上、毎日描かないと歴史に名を残す画家にはなれない」と師に言われて実践していたそうですが、ほとんどの人は牧野邦夫を知らない。
美しいものを作ろうと思ったら、いくら時間があっても足りませんね。
でも普通のサラリーマンだって(休日はあるにしても)1日最低8時間は働くわけですし、他の人より輝くためには、そのくらいはするんじゃないですか。

ところで、新国立劇場バレエのホームページは、上演演目ごとに特設サイトを設けているのでしょうか?衣裳だの照明だの裏方の顔写真まで載せて、すごいお金をかけてるんですね。公演収支が赤字なのに、どこからお金が湧いて出るのでしょう?それに比べて国立能楽堂ホームページの公演情報なんか、シテ1人の名前しか書かれていなくて、顔写真もなく、残りの配役はちらしの裏側(pdf)を見てくださいという粗末な形式。(しかもpdfのデータが荒くて美しくない)
どうせ完売する公演なのだから宣伝に費用をかける必要はない、ということを言う人がいるようですが、国立能楽堂の主催公演さえ完売すればそれで良いのでしょうか?国立能楽堂のホームページが粗末だと、能楽という芸能自体のイメージが軽く見られてしまいますよ。インターネット上で横並びに常に他の芸能と比べられているわけですから、能楽はバレエより粗末なものだと思われても仕方ないでしょう。それくらいのものしか発信できない芸能だというイメージが付いてしまうでしょうよ。
出演者の顔と名前を観客に覚えていただき、今度見るのはこの人なのねとか、このあいだ見たこの人は良かったねとか、こういう場面あったねとか、観劇の前にも後にも舞台のことを想起していただく、そういう素材を提供する任務が国立の劇場にはあるのではないでしょうか?
しかし、現在いる職員に追加でその仕事をしろというのは無理な話で、片手間の兼務ではなく、そのための担当を配置しないことには実現しないでしょう。
なぜ新国立劇場でやっていることが国立能楽堂で出来ないのでしょうか?
国立能楽堂で出来ないことを新国立劇場でやる必要があるのでしょうか?

観世能楽堂の支配人が「10年後に能が存在するか分からない」と言った。
今の市川猿之助さんが「100年後に歌舞伎が存在するとは思えない」と言った。
まあ完全に消えてしまうことはないにしても、現在と同じ水準のものを上演することは確実に不可能でしょう。後世の人たちがお気の毒ですね。

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